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『気さくな』という言葉の意味は辞書で調べると「人柄や態度がさっぱりして明るく、物事にこだわらないこと」「親しみやすいさま」という意味が書かれています。

使い方として《社会的地位のある人(ノーベル賞受賞者、総理大臣、天皇など)》が《一般の人(若い学生など)》に接する態度について「(社会的地位のある人は)気さくな人だ」という使い方をする場合はあると思います。

その逆はあるのでしょうか? つまり、《一般の人(若い学生など)》が《社会的地位のある人(ノーベル賞受賞者、総理大臣、天皇など)》に接する態度を「(一般の人は)気さくな人だ」という使い方をする場合はあるでしょうか?

私は「ない」と思います。そういう場合は「ものおじしない」とか、下手すると「礼儀知らず」という表現になると思うのですが、私の解釈は間違っているでしょうか?

A 回答 (4件)

「気さく」という形容動詞には、そのような格別の「待遇表現」が籠もっているわけではなく、ほぼ「気楽」「磊落」「気安げ」「心安げ」に近い響きがあります。



ただし、「気位が高くなくて、だれにでもすぐ親しめる様子。」(「新明解国語辞典 第3版」三省堂)と、「気位の高さ」での比較から見た形では、いわば「お高くとまっている」「高慢である」という雰囲気を感じさせない、特にそういう意味での「気楽」「磊落」「気安げ」「心安げ」といえるでしょう。

社会的地位にありながらフランクな人に対しては、単に「~な人」ではなく「気さくな(お)方」で「いらっしゃる」という、言葉全体を敬語表現に包むように用います。
単に「気さく」だけなら、同僚に対して「俺とお前は気さくな間柄だ」とか、若い御嬢さんを評して「彼女はずいぶん気さくな娘だねえ」といえるでしょう。

19世紀初めの式亭三馬「浮世風呂」でも、おばあさん同士の会話で、70歳の方が60歳に向かって「おめへはいつも気さくで能(いい)よ。白髪になっても気は若いヨ。」とややを入れています。

この気さくも、江戸期には「気作」などと当て字されたり、明治期以降もかなりの幅広い意味合いを各自が持たせた形で意味遣いに「揺れ」が生じながら今日に至っているという面では、今となっては若い世代にとっては、目上への好評価表現くらいでしか出て来ない趣はあるのかもしれませんが。

「庄太郎は元来 閑人の上に、すこぶる 気作 ( きさく ) な男だから、」(夏目漱石「夢十夜 第一夜」)
「些細の事にも其歯を 露出 にして 淡白 ( きさく ) らしく笑ふ。」(石川啄木「鳥影」)
「やがて 快活 ( きさく ) な調子になって、 「ハハハハハハ。」 と笑い出した。」(幸田露伴「太郎坊」)
「気爽(きさく)らしい叔母はちょッと垢脱(あかぬ)けのした女であった。」(徳田秋声「新世帯」)
「いつも 気剖 ( きさく ) な快川長老はこんな冗談を云いながら」(国枝史郎「神州纐纈城」)
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人柄、気性がさっぱりとしていて、気取りがなく、親しみやすいさま、とありますね。

これを、社会的地位のある人が一般の人に向かって言う、簡単な例で言えば、社長が平社員に向かって言うことなどはありませんね。
上の者が下の者に対し、気取りがないといえば礼儀知らず、言いたいことばかり言う、となりますし。

係長が新入社員に対して、「おまえは気さくな奴だな」なんて言えば、嫌味になりますね。「相棒」の杉下右京なら、新しい相棒に対して、「あなたは全くもって、気さくですねぇ」なんて言いそう?

この回答への補足

みなさん、ありがとうございます。どうして、こういう質問をしたのか、その理由を少し説明します。

実績のある人(ウォークマン、VHSビデオ、青色発光ダイオード、たまごっちなど、社会現象を起こしたと言える商品の開発を担当した50歳前後の部長)が、特に実績もない20歳代の社長(ワンマン社長)の娘に対して『気さくな人』という表現をしたのです。

そこで「『気さくな人』という言葉は目上の人に使うもので、そんなに媚を売る必要はないのでは?」と言うと、その部長は「あなたは言葉の意味を間違って理解している」と言ったのです。

大きな実績のある50歳前後の部長が、特に実績もない(特に会社の業績にも貢献していない)20歳代の社長の娘に対して『気さくな』という言葉を使うのはやはり少しおかしいですよね。

『フランクな』という言葉なら、こういう場合でも使えるのかも知れませんね。和英辞典で調べると「気さくな=frank,openhearted」と出てきましたが、日本語の『フランクな』は少しニュアンスが違う様に思います。

補足日時:2012/10/26 08:01
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No.1回答者cxe28284さんが言われるとおり、質問者visitor777さんの感覚はまっとうだと思います。


ただ、語感の問題ではなくて、視点や評価のポイントの問題だと思います。
 
社会的地位のある人が若い普通の人に接する態度を見た場合、社会的地位のある人がその社会的関係に見合った態度や言い方をしていれば、特別の論評をしないのだと思います。それが、社会的地位のある人が、対等に近い関係であるかのような態度や言い方をした場合に、《それを評して》「気さく」と表現するのでしょう。
対等に近い関係であるかのような態度や言い方を、夫婦や親友が互いにしても、それは当たり前なので、それを評しても「気さく」とは言いません。
生徒が教師、弟子が師匠、平の社員が部長や社長に、対等に近い関係であるかのような態度や言い方をした場合には、《それを評する視点》は、生徒、弟子、平社員の心得違いを問題にすることになるので、「気さく」とは表現することはないです。【評価が違うから,その評価を表現する適切な表現になるのです】
 
カジュアルな服装で本人と似合っていても、近所を散歩しているときと、葬儀に参列するときとでは、《評する視点やポイントが異なるので》、同じ評語が使用されることはないのと同様です。
 
《「気さく」が「礼儀知らず」という表現に変わる》のではなく、評価が変わるのだと思います。
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質問者さんの語感は間違っていないと思います。


目上のひと、もしくは対等の立場の人が自分に接してくれる時の態度にたいして使われると思います。、
目上の人が打ち解けて気軽に接してくれたばあい、
「先輩は気さくな人で、いろいろ教えてくれて助かった。
「天皇陛下は被災者を見舞い気さくに話しかけておられた。」
友達が自分の知っている別の友達を紹介してくれたとき、
「気さくな奴だから気を使うことはないよ」
とか使われると思います。

目上の人には相手を立てて、へりくだった態度で接するのが無難でしょう。

物おじしないと目上の人が言ってくれればいい方で、でかい態度とか、
立場をわきまえない、礼儀知らず、生意気とか言われかねません。

質問者さんの解釈は正しいと思います。
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