No.7ベストアンサー
- 回答日時:
こんばんはです。
~~~~~~
ところで、擬人法を使わずに
神やキリストの表現は可能だと思いますか?
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う~ん、難しい問題ですね。
自然に神々が内在し、滲透している。そして、その存在を実感できる、という日本人的心性ならば、可能なのかもしれませんが、おそらく不可能でしょう。これでは普遍的な世界宗教にはなりえないのではないでしょうか。特に、復讐の神としての一面も合わせ持つヤーウェは、擬人的に表現せざるをえないと思います。
イエスは、人間です(あるいは、神と人間の両面性を持つ)ので、人間として描かれなければ、生きた言葉として心に響かないのではないでしょうか。人間として喘ぐ、苦しむ、悩む。イエスのこの姿がなければ、わたしは、新約聖書を読む気にまったくなりません。
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひしか)
イエスのこの言葉のない聖書なぞ、僕にとっては、何の価値もない。
22:41そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、 22:42「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。 22:43そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。 22:44イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。
(ルカによる福音書)
これが読みたいんですよ。イエスをして「この杯をわたしから取りのぞいてください」と言わせる何か、この正体を知りたいんですよ。
なんか、収拾のつかない文章になってしまいましたが、わたしの考えは伝わったのかな。
☆☆☆☆☆☆
ところで、仏陀の三十二相や八十種好を調べたんですか。
ゴータマ・ブッダは、「水掻き」あったでしょう。
河童なんですよ、ゴータマ・ブッダ。
河童、河童。
頭のテッペンの盛り上がりは、僕が考えるに、河童のお皿を髪の毛で隠していると思うのよ。
で、ブッダの体は刀で切りつけてもけっして傷つかないというのは、亀のように、河童の甲羅に手足をすべてひっこめているからだと思うのよ。
どう思う?
回答ありがとうございます。
人間が表現されているのが特徴なんだから、
それを否定しても問題があったかも・・・。
キリストの比喩を探したほうが良かったかもしれません。
ゴータマが河童というのは、
まあ水掻きがありますからね。
インドに妖怪の河童がいるのかわかりませんが・・・。
河童が悟った。河童の集団。
水神が起源という説もあるんですね。
No.20
- 回答日時:
No.18を承けます。
★(No.18お礼欄) 弥勒の話と、人間が天使になる思想は どう思いますか?
☆ まづ 弥勒についてですが 天使の問題も 同じくすでに触れた次の原則にもとづきます。
☆☆(回答No.18) ~~~~~
要するに 《経験世界と非経験の場との区別》をはっきりさせて欲しいと思うことが一つです。
《非経験の場》を 一般に神(ないし 無い神)と呼ぶという共通の定義を持ちたいということが ひとつ。
この広義の神は どう名づけようとそれは――そのように名から来る概念的な構成が違っていても大きく類型としては 同じなのであり―― ひとつであるということ。全体という意味での《ひとつの神》 つまりいわゆる一元論 であるということ。
~~~~~~~~
すなわち
1. 弥勒菩薩とは 神か? です。《非経験の場》として規定できるものか?
2. もしそうなら 名前は どうでもよくて 神を言い換えたに過ぎないとまづ捉えます。
3. もし経験世界における人間としてひとりのブッダのことなら そういう存在が未来に現われるのかなぁと思う。それだけです。つまり 一緒に縁起共生の世界を生きる。というだけのことです。
4. もし神のことなら けっきょくのぞみを持ちなさいと言っているという意味に採ります。それだけです。
★ 人間が天使になる思想
☆ これはですね。
ほんとうを言えば 《どうでもよい》という答えですけれど まづ ほんとうに《人間が天使に成る》ということでしたっけ?
つまり 復活したら人間は天使のようになるから 結婚はもうしない。とイエスが言ったのではなかったですか?
つまり 復活した姿は 結婚はなくなっているが なお男と女とには分かれている。と言ったことになると考えます。つまり 男女という性差についてはおそらく否定していないのでしょう。
となると その話においては 《結婚はしないかたちであるが 復活した人間も 男と女とに分かれてある》と言ったのですから 必ずしも《天使》に成ったというわけではない。
こう考えます。
でも 天使になるという思想もあるのかも知れないですね。
でもけっきょくは 簡単に言ってしまうだけになりますが 天使は 神の使いです。観世音菩薩のようなものです。これは 翻訳がまちがっているかも知れないそうですが 要するに世界の情報を 必要に応じて 神はその使いをつうじてわれわれにおしえてくれる。ということではないでしょうか?
いろんな天使がいて それぞれに物語があってというようなことは わたしはお呼びでないです。どういう意味があるか 分からないからです。
神の物語につけ添えられたただのおまけであるように認識しています。
あしからず。
★★ キリストをどう表現するか?
☆ これについて 《ことば・光・いのち》がありましたが あるいはわたしは《経験世界の因果関係などから自由な地点》としての《特異点》だとも言ってみましたが さらにはやはり
▼ (ヨハネ福音14:6) わたしは道であり、真理であり、命である。
☆ これが いいように思います。
経験世界と非経験の場 あるいは 相対世界と絶対 有限と無限 有無と有無を超えたところ 善悪と善悪の彼岸 これらのそれぞれのあいだには 絶対的な断絶があると考えられます。
しかもこのへだたりは 超えられると言っているのが 《道》です。海を介した彼岸(向こう岸)ではないわけです。道がついているのですから。
絶対・無限などなどは 経験世界の事実や真実ではなく あたかもそれらを超えて覆う《真理》だと言っています。
ここにおいて ひとは《涸れない泉》と成る。そういう《いのち》があたえられる。すでにそなわっているが それが現われる。と。
回答ありがとうございます。
弥勒菩薩がミトラ神なら神でしょうね。
神でありながら菩薩であって。
そのうち成仏もする。
そういえば弥勒菩薩は人間なのかな。
観世音菩薩あるいは観自在菩薩の起源も気になりますね。
なんだかヨハネによる福音書は
キリストを何かにたとえるのが多いですね。
No.19
- 回答日時:
こんばんはです。
そして、No17のお礼、感謝です。
で、お礼にある質問について、少し調べてみました。
☆☆☆☆☆☆
仏教のメシア(弥勒)思想とキリスト教などのメシア思想には、決定的な違いがあるわ、あるわ。
《転輪聖王獅子吼経》によると、
人間は堕落し、世は大いに乱れるのよ。暴力、殺人、泥棒、嘘などの悪が世にはびこり、末法のような状況になる。
ここまでは、キリスト教などのメシア思想と同じ。でも、ここからがまったく違う!!
で、人々の寿命が十歳にまでなった時(女性の婚姻年齢は何と五歳!!)、人々は殺戮や略奪行為の愚かさにみずから気づき(ここがポイントよ。《自ら気付く》のよ!!)、改心。こんなことではいけないと、人々の間から自然発生的に、自発的に自らを縛る(《自律》よ、《他律》ではない!! ここがポイント)法律というかオキテのようなものができてくるのよ。で、寿命が伸びる。自らの善行の福徳の果で、さらに寿命が伸び、人々の寿命が何と約八万歳までになる。もう、この世界には争いや貧困などは存在しないよ。普遍的人類愛が満ちあふれている天国のような人間世界が成立している。
このような世界が地上に現れてから、弥勒菩薩(弥勒仏)がこの世に人間として誕生する。ゴータマと同じように修行をし、悟りを得る。で、悟りを得た弥勒仏が、人々の間にわずかに残ったヨゴレを除去し(人々みずからが弥勒仏の教えを聞き、そして修行をしてヨゴレを落とすのよ。)、万人救済が完了する。
堕落するのは同じなのだけれど、堕落後のシナリオがまったく違う。
弥勒メシア思想では、人々は直面する困難に己れ自身の力でこれを克服し、地上に楽園・パラダイスを作るんだわ。
やっぱ、仏教だね~。人間や生命を絶対視しているね~。人間を、心底、信用し、信頼しているんだわ。
さて、質問!!
人々に残った僅かなヨゴレ・不浄・《患(わずら)い》とは何だと思う? 三つあるんだけれど。
正解は、
飲食と大小便などの排泄、老い(とその結果である死)の三つ。
人々の寿命がいくら八万歳にまで伸びたと言っても、所詮は生き物。この三つは、生き物であるかぎり、避けられない、といったところでしょうか。
でも、人間がみずからの手で楽園・パラダイスを作っているのだから、「弥勒仏の下生は余計なお世話」という気持ちが、すこし、しないわけでもない。
ここんとこ、ど~思う?
全文漢字で書かれた《仏説弥勒下生経》や《仏説弥勒下生成仏経》もざっと目を通したのだけれど、全文漢文だっけね~、眠り猫の能力を越えている(笑い)。
ざっと読んだところ(正直、教義的には大したことが書かれていない!!)、
いわゆる《小乗仏典》だわさ。
(小乗仏典であることは、ずっと前から知っていたのだけれど、確信がもてず、確認のために斜め読みしたのだった。)
小乗の《(肉体の)不浄観》や《無常観》、《空観》などを修し、阿羅漢果を獲得するってことだわさ。
(《仏果》じゃねえのが気に入らね~!!)
時系列的には《転輪聖王獅子吼経》の成立が、たぶん先だね。そして、いわゆる《弥勒下生経》が、その記述を受けて、内容を拡大し、成立した、
ってところでしょうか。
このあたりのことは、お勉強したことがないので、よく知らないのだけれど、仏教の弥勒信仰は、結構、古いらしいよ~。ゴータマ・ブッダ滅後、百年か二百年後には既に成立していたのではないかしら。
《転輪聖王獅子吼経》は、仏教の非正統とされる人たちによって作成されたそうだから、弥勒信仰もそうなんでしょう。上座部ではなく、大衆部あたりから生まれた思想、信仰なんではないでしょうか。《自性清浄心》的な発想がないと、人間万歳といった楽天的メシア思想は生まれない、と思います。
☆☆☆☆☆☆
ところで、ところで、
弥勒菩薩の仏像と言えば、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像だよね。
あの御姿を見ると、心が洗われる~。
でも、この菩薩像の姿は、ちょっとおかしい。何か変。
菩薩像というのは、ネックレスなどのヒカリモノを身につけているのが常識、当たり前なのよ。
お地蔵さんはちょっと横に置いといてもらって(それでも、お地蔵さんは杖みたいなモノを持っている。起源は不明だが、赤ちゃんの赤いヨダレ掛けまで必須アイテムとして持っている!!)、
なのに、広隆寺の弥勒菩薩像は、一切、ヒカリモノを身につけていない。
仏教美術的に、おかしいんだわ、広隆寺や法隆寺の弥勒菩薩像のあの姿。
なので、あの弥勒菩薩像は、実は、弥勒菩薩ではないんじゃないか、なんて話もある。
ゴータマの修行時代、もしくは、成道前の姿なのではないか、という話もある。
菩薩というのは、そもそもは修行時代(前世も含むよ)のゴータマに対する尊称。
ど~なんだろうね、本当のところは。。。。
また、寝た子を起こすようなアブナイことを口にしまったかな~。
自分は「いまだグッスリと眠っている」というのに、スヤスヤ(笑い)。
☆☆☆☆☆☆☆
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人間が天使になるという思想があるというのは
面白いですよね。
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イエスは、サドカイ派(復活を信じないユダヤ教の一派)の質問に対して、「復活後、人間の体は、天の御使いのようになるんだ」と言っているでげしょ。
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他の天使も元は人間だったりして。
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けっこう上の位だったアゼザルって天使は、人間の女性に恋をして、契りを結んだために、天界から追放されて、堕天使(悪魔だね)になった、という話があるよ。(天使の自由意志による《堕天使》説)
キリスト教のこの堕天使説によると、人間が天使になる時、堕天使も元の姿を取り戻して天使に戻れるんだってさ。
堕天使について、もっとぶっ飛んだ説を紹介すると、
創造主である神さまによる人間の締め付け支配に対して、《人間は自由であるべきだ》と神に叛旗をひるがえした天使たちがいて、神さま、それで怒っちゃって、その反乱分子である天使たちを天界から追放した。その(元)天使たちが堕天使である
というのもあるよ。
回答ありがとうございます。
今回は、難問ですね。
>でも、人間がみずからの手で楽園・パラダイスを作っているのだから、「弥勒仏の下生は余計なお世話」という気持ちが、すこし、しないわけでもない。
ここんとこ、ど~思う?
これは、弥勒信仰は外部からやってきた思想だから、
それまでの仏教の思想とは異なっていた。
だから、両方をまとめても弥勒の役割が中途半端になってしまった
のではないでしょうか。
弥勒は具体的に人類をどう救うかわかりませんね。
阿弥陀仏なら他力の思想があるんでしょうけど…。
仏教美術には詳しくないので
弥勒菩薩半跏思惟像のなぞは今後の課題ということで…。
聖書に出てくる、人間が天使になる思想についても今後の課題かな…。
成仏でもないだろうし、生まれ変わりでもないだろうし…。
No.18
- 回答日時:
お早うございます。
★(No.12お礼欄) ~~~~
ユダヤ教の律法つまり
トーラーというダルマが
人間となったのが、キリスト
…というのはどうでしょうか。
~~~~~~~~~~~
☆ トーラーを成文法・不文法のいかんを問わず言葉で表わされた倫理規範 つまりその意味での律法と取れば その律法ではなく そうではなく 神の法――つまり 人定法一般の淵源としての自然法のそのまた原理である神の永久法――のことであれば そうなるはずです。
・自然法は言う:ひとはひとをころさない。他人(ひと)をもおのれをも。
・人定法のばあい:殺人を禁止しているというジョウシキの形成にも寄与するが 一般に人殺しが起きたとき その事件を法律の規定にしたがって取り扱う。つまりその規定を問題としている。
・倫理規範としての律法は言う:なんぢ ころすなかれ。
・神の法は?
★(No.13お礼欄)~~~~
洗礼者ヨハネの弟子だったイエス
その程度の存在だったのかもね。
人間のイエス。
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☆ 人間の貌として 結婚していようがいまいがマグダラのマリアであれどうであれ イエスがキリストとして全生涯をもって《神を指し示した》ことに変わりない。と見るのでしょうね。
人間イエスは 大食漢で大酒のみだったそうですね。
★(No.15お礼欄) ~~~
ブラジュロンヌさんは福音書の内容は
基本的に全部、小説だと考えているんですか?
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☆ 人間の自己表現は すべて芸術であると基本的に見ています。
実数+虚数=複素数
これが 現実であり それはおのおの――たとえ約束事があってもそれに縛られずまた制約などいっさいないというところから繰り出すおのが心の自己表出である――芸術としての自己表現であると見ます。
(虚数とは たとえば アース役や引き籠もりの状態が考えられます)。
芸術を小説と言いかえれば それが 現実である。つまり
現実=事実+真実(虚構つまりウソで表わすことさえある)
言いかえると 現実におこなわれる人間の表現のすべては――事実認識としての自然科学をふくめて―― 言ってみれば《小説》であると言ってもよいかと考えます。
ただし聖書という小説は この《現実》のすべてを超えたところの何ものかをイエスが指し示したということを伝えようとしている。この一点に集中している。こういう解釈です。
○ ブッダ 過去七仏 転輪聖王 ブラフマン
☆ の場合はですね 要するに 《経験世界と非経験の場との区別》をはっきりさせて欲しいと思うことが一つです。
《非経験の場》を 一般に神(ないし 無い神)と呼ぶという共通の定義を持ちたいということが ひとつ。
この広義の神は どう名づけようとそれは――そのように名から来る概念的な構成が違っていても大きく類型としては 同じなのであり―― ひとつであるということ。全体という意味での《ひとつの神》 つまりいわゆる一元論 であるということ。
けっきょく神や如来蔵と言った意味でのブッダ(ブッダター=仏性)は 人間のただしくも持ち得たウソです。したがって これを概念としてただしく整理し 共通の定義を持って ものごとの大前提をやはり――互いに差異を相い容れ合いつつ――明らかにして行くこと。
こういったのぞみを持ちます。
あと クリスチアニズムつまりいわゆるキリスト教 これは オシエとして聖書つまりイエスのメッセージを受け取ったという立ち場です。このオシエという枠組みがありますから 哲学としての探究では この枠組みじたいについて まづは学問としてのウタガイを持ち 互いに検証して行かなければ何にもならない。こう考えます。
◆(回答No.16) 理法より、和語の「ことわり」の方が、ロゴスにピッタリかもしれませんね(笑い)
☆ なるほど。事割りだと思われ 事は言として受け取られ 事の端つまり言葉となる。ですかね。
No.17
- 回答日時:
No16のお礼、感謝です。
~~~~~~
転輪聖王これずっと気になってました。
メシアに近いのはこっちかも。
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今まで思いつきもしなかったけれども、
たしかに、ブッダよりは転輪聖王の方がメシアに近いですね。
でも、やっぱ、仏教のメシア思想と言えば、
《弥勒信仰》でしょう。
《弥勒菩薩》とゾロアスター教の《ミスラ》神や《ミトラ(ス)》神。
その近親性は、何かと話題になっていますよね。
日本で言えば、弘法大師空海。
弥勒仏がこの世に現れる時、弘法大師空海は、長い滅尽定の眠りから醒め(復活だわな)、その救済活動のお手伝いをするそうですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92% …
ヒンズー教では、カルキ神の伝説。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB% …
キリスト教がローマ帝国で正式な国教となる以前に、ローマではミトラス教が大ブーム。
似ているんですよ、ミトラス教とキリスト教。
ミトラス教がローマ帝国内でブームにならなければ、キリスト教は辺境地帯の地域宗教で終わり、決して世界宗教になれなかったと言われる位に。
そして、キリスト教の教義には、明らかにミトラス教の影響があるなど。。。。
ちょっと危険な香りのする話をしてしまったかな、オレ。。。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88% …
http://kojiki.imawamukashi.com/06siryo/06mithras …
さらに言えば、ユダヤ教(?)で、小ヤーウェとも言われるメタトロンとの関係性なども。。。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF% …
回答ありがとうございます。
弥勒信仰っていつ頃から
仏教に入っているんでしょうね?
たしかゴータマが弥勒菩薩の成仏を予言しているわけでしょう。
かなり重要な存在だと思います。
あと、ミトラス教になぜかあまり関心が
なかったんですけど、
そのうち本格的に勉強する必要があるなあ
と思っています。
アルメニアがどうも関係しているとかいないとか…
なにやら犠牲にするのが牛なんですよね。
私はなぜかローマの国教になったキリスト教や
欧米のキリスト教にあまり関心が無いんですよね。
古代のまだ教義でもめてる混沌とした
弱小宗教だった頃に関心があります。
メタトロンが実はエノクが変身したもの
だったら。
人間が天使になるという思想があるというのは
面白いですよね。
他の天使も元は人間だったりして。
カルキはヴィシュヌのアヴァターラだそうですけど、
まあ、キリストみたいだとは思います。
No.16
- 回答日時:
No15の質問にお答えします。
~~~~~~~~
☆ これは 失礼しました。理法は 聞くには聞きますが 法身のようにさだまった定義があるかないか知らずに来てしまいました。
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《理法》の使い方は、結構、いい加減ですよ。
《理法》の英語訳は、law of natureのようですが、
《縁起の理法》と言った場合、《縁起の法則》と《縁起の教え》の意味も持ちえますから。ただ《法》という言葉よりは、真理に近いといった程度ですので。《理法》だと紛らわしいので、《理》の一文字で表すこともありますよ。むしろ、《理》の方が多いんじゃないですかね。《理》は「ことわり」ですので。
理法より、和語の「ことわり」の方が、ロゴスにピッタリかもしれませんね(笑い)
~~~~~~
つまり ゴータマ・ブッダは ブッダになった人たちの中のひとりという意味に捉えていました。その中でも えらいのだと言っておいたほうがよいのでしょうか。
~~~~~~
これは何とも微妙な問題を突きつけますね。
突き詰めると、阿弥陀さんとお釈迦さま、どっちがエラいかになりますよ、これは(笑い)
《変わらない》でしょう。
過去七仏は、同じ教えを説いたということになっているようなので。
エラさに違いがあったら、《法界》の平等性に反してしまう。
なのですが、
《スッタニパータ》や《ダンマパダ》を見る限りでは、ゴータマ・ブッダは、ブラフマナー、《梵天》より、神々の王とされる帝釈天よりエラくないはずですよ。
スッタニパータでは、
悟りを得たブッダのもとに、鬼みたいな神霊が寄ってきて、「オレの質問に答えられなかったら、ズタボロにして、てめぇ~、八つ裂きだ」みたいなことを言っていますし(笑い)。
ブッダは、輪廻から抜け出た偉大な人間、人や神々の偉大な先生、《道の人》程度で、インドの伝説上の帝王である転輪聖王と同格程度。仏の三十二相は、何のことはない、転輪聖王の特徴をブッダの特徴に借用しただけです。女人の五障で、「女は仏陀になれない。転輪聖王になれない」というのがあるでしょう。これなども、原始仏教時代において、ブッダが転輪聖王と同格視されていたことの一つの例証です。
ゴータマ・ブッダが《梵天》よりエラくなったのは、ゴータマ滅後、ず~っと後の時代。
僕はそれでも全然構わないのですけれども、嫌がりますね~、昔も今も、ブディストの皆さんは。
転輪聖王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E8%BC%AA% …
~~~~~~
あるいは逆に言えば いくらブッダに成ったからと言っても けっきょく人間はみな同じ。どんぐりの背比べであるという見方です。だれでも部分的にはブッダである。ゆえ。
~~~~~~
ゴータマは、ブッダになっても、あくまで人間。いろんな意味で、他の人間と同じですよ。
四無量心:慈(他人に楽を与える)・悲(他人の苦を取り除く)・喜(他人の楽をともに喜ぶ)・捨(苦楽・悲喜を越えて、心の平安を保つ)
こうした発想は、生命の平等観がなければ出てこないのではないでしょうか。
ブッダの弟子たちに向けての遺言の一つは、自灯明と法灯明。
最後の拠り所は、ゴータマ・ブッダの説いた《教え》ではなく、内なる《仏》である《自分》ということで。
☆☆☆☆☆☆
最後に、イエス論、おもしろかったです。
特に、
「なぜかいつも 敗北に終わるか終らないかの瀬戸際で むしろ悪魔のほうから逃げてゆく」
のところが。
まるで、ミルトンの「失楽園」のサタンみたい。
サタンは、かつて自分よりず~っと格下の天使であったウリエルなどの姿を目にすると、なぜか、そそくさと逃げてしまう(笑い)。
サタンは、イエスに神(の栄光)を見て恐くなって逃げ出したというところでしょうか。
そして、
「やっぱ、イエスは、《人にして神》であった」
と繋がるんでしょうね。
No.15
- 回答日時:
回答No.13を承けて投稿します。
◆(回答No.13) 単に《理法》といった場合は、普通、法身や法界、不可言説の究極的真理を意味すると思います。その意味では、キリスト教のヨハネ福音書にある《ロゴス》の概念に近いと思います。
☆ これは 失礼しました。理法は 聞くには聞きますが 法身のようにさだまった定義があるかないか知らずに来てしまいました。
◆ 一般的には釈迦仏は《応身》とされますけれど、修行の《報い》によってブッダになったということで、《報身》にも分類が可能です。
☆ これは 複雑!! 報身は せいぜい《知恵》くらいに受け取っていました。
法身が 絶対であり無限であり 《非経験の場》としての神である。その経験世界への現われが 応身であると。これまた単純に捉えていたかも知れません。
そう言えば 報身は 据わりがわるいですね。
《肉》ないし要するに《人間》という存在(存在者と言うべきなのでしょうか)ですね。これを ブッダに即してどう表わすか。
◆ ~~~
眠り猫的には、
成道後のゴータマブッダの肉体の《肉》は煩悩あるダルマ《有漏法》でいいと思います。ゴータマ・ブッダは、人間の体で生まれて、人間の体のままで死んだでいい、と思っています。
~~~~~
☆ あっ。これは 基本的にまったく一致しました。
つまり ゴータマ・ブッダは ブッダになった人たちの中のひとりという意味に捉えていました。その中でも えらいのだと言っておいたほうがよいのでしょうか。
あるいは逆に言えば いくらブッダに成ったからと言っても けっきょく人間はみな同じ。どんぐりの背比べであるという見方です。だれでも部分的にはブッダである。ゆえ。
☆☆(回答No.12) ~~~~
つまりは (あ)の物語が言おうとするところは 完全に百パーセント凡夫であると同時に完全に百パーセント《ロゴス・ことば》とも呼ばれる神である。それが イエス・キリストである。となると思います。
~~~~~~~
☆ この《凡夫》も据わりがわるいですね。つまり やはりブディズムの或る種のかたちの体系の中におさまっている術語は 用いづらいかも分かりません。
理法は ロゴスや知恵やと並んで 使えるかも分かりません。
◆ 河童
☆ の談義はわたしは見守ることにして イエス・キリスト論がさいごに出されています。
◆ ~~~
( a ) ヨハネによるバプテスマ後に、イエス、サタンの誘惑にうち勝つでしょう、荒れ野の試しがあるじゃないですか。
( b ) 人間・イエスも荒れ野の試しによって、自らに宿る真の《神性》に気づき、《人間+神》になったで駄目ですか。
( c ) 最初から、イエスが《人+神》ならば、バプテスマ、受ける必要はなかったはずでは。
~~~~~~~
☆ そうですね。前回わたしはキリスト論についてえばって言っていましたが これについては 微妙ですね。
○(あ)の命題: 人間イエスは 人間であると同時に キリストと呼ばれる神である。
これを イエスは実際にはどのように自覚したか? でしょうか?
推理のようなことになりますが:
(お) ~~~~
もともとである。はじめからである。つまりイエスはものごころがついたときから 自覚していた。
ただし そのことを口に出して言ったかとなると 分からない。
活動――公生活――に入るところから 公言することをむやみに避けることはしない。と決めたでしょうね。
~~~~~~~~
☆ ぢゃあ バプテスマを受けたり 悪魔によって試練を受けたりもしている。それは どういうことだ? となるでしょうか。
そういう物語に仕上げたわけです。聖書記者たちは。
《人間》の観点から捉えて そういう小説を書きました。《人間の貌》の側面に沿って伝えようとしたのだと見ます。
つまり 《悪魔による試練》の話で説明できるのではないかと考えたのでしょうね。
ただし 洗礼者ヨハネからバプテスマを受けたというのは わたしの想像ですが ヨハネが《イエス・キリストという光》について証しをする役目をになっているからには・そしてヨハネが洗礼をほどこす儀式をおこなっているからには 敬意を表してその儀礼に従った。ということだと考えます。つまり 虚構と見るよりは 礼儀の問題として じっさいイエスはバプテスマを受けるかたちを取った。
これは のちのち では 神の国に入るには水による洗礼も必要であるというサクラメントの思想が現われ それの絶対化については困ったことになるのだと見ます。
割礼も要らなくなったのですから 洗礼も早晩要らなくなると思います。
( c )は たしかに《バプテスマを受ける必要はなかった》という考えにわたしも立ちます。
( b )は 基本的に言って イエスにあって或る日或る時気づいたというその中身というのは 自分は《人間であり同時に神である》存在として生きそして死ぬことになるのだということだったのでしょうね。
( a )は バプティストのヨハネに会う前から・公生活に入る前から 悪魔の誘惑が自分にはよく起こるということを知っており なぜかいつも 敗北に終わるか終らないかの瀬戸際で むしろ悪魔のほうから逃げてゆく。ということを経験していたであろうと見られます。
どういうわけか つねに 悪魔はええかげん難題を仕掛けて来たあと 自分からしりぞいて行く。といった経験を重ねて来ていたと見ます。
そういう意味では 聖書記者の書いた小説は まんざらでっち上げではない。と言ってよいのではないでしょうか。
どうでしょう?
No.14
- 回答日時:
No11のお礼欄の
《法がどうして人になる》
の質問に答えます。
《法》、サンスクリット語のダルマには、10程の意味があるんだそうです。
で、一般的に使われるのが、《教え》や《道徳・法律》、《真理》、そして現象界に存在する《モノ》の意味でです。
で、歴史的には、
極初期は《ダルマ・カーヤ》《法身》というのは、ブッダの教え《ダルマ》を身につけた身体《カーヤ》くらいの意味だったそうです。ブッダならば、ブッダの教え・《ダルマ》を身につけていなければならないはずだ。そして、その《ダルマ・カーヤ》を身につけたものがブッダである。
こんな感じ。
しかし、時代がくだるにつれて、この《ダルマ・カーヤ》に《真理を体にするもの》みたいな意味合いが出てきて、大乗的な《法身》が誕生したのであろう、と言われています。
で、「法がどうして人になる」という質問ですが、
法には最初に述べた通り、現象界に存在する《モノ》、物質という意味があります。なので、「法が人になる」は「物質が人間の肉体を構成する」と解釈することができます。
あるいは、「真理(たとえば縁起の理法)によって人が生まれる、生成される」と解釈することもできます。
さらに、大乗の本覚思想では、「人間を含む生きものすべては、もともと仏性(真理)を有している。悟る前から、悟っている(真理になっている)」となりますかね~。
仏教の《法》、多義ですからね~。
大乗経典などを読んでいると、《法》が《存在するモノ》の意味なのか、《ブッダの教え》の意味なのか、《究極の真理》なのか、判断がつかないときが結構ありますよ。
なお、アビダルマ哲学では、ダルマ・存在を75種に分類し、大乗の唯識では100種に分類しています。
No.13
- 回答日時:
かざみどりさん、bragelonneさん、こんばんはです。
で、かざみどりさん、また、この場を借りて、
bragelonneさんのNo12に質問に答えます。
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どうなんですか? 理法は 限りなく《教説》に近いものですか? それとも ダルマ・法身のことを言いますか?
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人によって解釈はわかれると思いますけれども、普通は、
《教説》 = 苦住滅道の四諦や大乗の教えetc
の意味ですよね。ブッダの教説は法界等流の法である、とか難しいことを言う人をいいますけれども、あくまで人間のことばで説かれたものです。したがって、真理そのものではない。
単に《理法》といった場合は、普通、法身や法界、不可言説の究極的真理を意味すると思います。その意味では、キリスト教のヨハネ福音書にある《ロゴス》の概念に近いと思います。
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《肉》は 応身か あるいはまた 仮りにわたしは《煩悩身》としました。《凡夫》でもよいのでしょうか?
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これは、応身をどう考えるかですよね~。
応身が、法界・法身から何かの縁でこの世に流失したとすれば、これは佛そのものです。形を変えた神さまと言ってもいいと思います。アヴァターみたいなものです。極論をすれば、ゴータマ・ブッダは、キリスト教の《仮現説》の幻のような存在になってしまいます。
しかし、人間として生まれて、その修行によって、ブッダとなったとみれば、応身仏に人間的色彩が強くなります。
また、
一般的には釈迦仏は《応身》とされますけれど、修行の《報い》によってブッダになったということで、《報身》にも分類が可能です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E8%BA%AB
阿弥陀さんは、法蔵菩薩が修行を積んだその《報い》でなった仏さまでしょう。
なので、わたしは、ゴータマ・ブッダは《応身》ではなく《報身》に分類されるべきだと思うのですが。。。。
ただし、正式な《報身》となるのは、ゴータマ・ブッダの入滅後ということになるのでしょうね。
なので、
眠り猫の考えでは、ゴータマ・ブッダは、仏身の《三身論》のドレにもあてはまらない存在なんです。仏身論的には、ゴータマ・ブッダは、いてはならない存在なんです。イエスと同じく、ひじょーに矛盾に満ちた存在!!
「そらぁ~、お前が仏身を差別的な見方で見ているからだ。おまえの話はすべて《戯論》。究極の真理からの見方をすれば。。。。」と言われれば、それはそうなのですけれども、
わたし、人間以上に無明の闇に深く覆われている《ネコ》なもので、差別的な見方しかできない。
応身・ゴータマ、絶対に嫌だ!!
法華経の如来寿量品に何と書いてあろうと、嫌なモノは、絶対に嫌だ。
ゴータマ・ブッダは、方便で死んで見せただけなんて、絶対に嫌だ。
眠り猫的には、
成道後のゴータマブッダの肉体の《肉》は煩悩あるダルマ《有漏法》でいいと思います。ゴータマ・ブッダは、人間の体で生まれて、人間の体のままで死んだでいい、と思っています。
なので、
刀で切りつければ血は出ますし、簡単に殺すことができます。現に、仏伝によれば、ゴータマ・ブッダを従弟の堤婆達多は毒殺しようとしています。マーガンディアの娘もそうでしょう。ゴータマ・ブッダの体が、金ピカで、しかも、体がダイアモンドみたいだったら、殺そうと思いませんって。そして、ゴータマ・ブッダは、信者が布施したものを食べて食中毒になって死んだりもしています(赤痢説もあり)。
さらに、五逆罪に、《阿羅漢を殺すこと》と《ブッダの体から血を流すこと》が入っているのですから、成道後のブッダの肉体が煩悩あるダルマ(物質)で構成されているのは、火を見るより明らか!!
理論的には、ブッダといえども、その肉体は前世の異熟果であって、変えられないはずなんです。
もっとも、時代がくだるにつれて、ブッダの超能力のパワーアップの速度はますます加速し、寿命もその超能力で永遠に近い時間まで伸ばすことが可能になったりしますけれども。体もチョ~巨大化させられたりもします。
だいたい、ブッダには、仏の三十二相、八十種好があるといったバカなことしてくれたから、ゴータマの人間の部分がすっぽりと欠落してしまうんだ。
まったく余計なことをしてくれたもんだ、大昔の仏伝作家たちは。
ゴータマ・ブッダを《河童》にしてしまうから、後の時代のオレが困ってしまんだ、プンプン!!
ヨハネによるバプテスマ後に、イエス、サタンの誘惑にうち勝つでしょう、荒れ野の試しがあるじゃないですか。
人間・イエスも荒れ野の試しによって、自らに宿る真の《神性》に気づき、《人間+神》になったで駄目ですか。
最初から、イエスが《人+神》ならば、バプテスマ、受ける必要はなかったはずでは。
No.12
- 回答日時:
ねむりねこさんの回答No.10を承けてですが。
ええっとですね。次のふたつを区別することが キリスト論においては 基本だと考えます。
(あ) イエスという存在は 一方でふつうの人間です。他方で――想定のかぎりで――神です。
完全に百パーセント人間であると同時に完全に百パーセント神である。です。
(い) われわれ人間は 神の霊(つまり聖霊なる神)がやどる神の宮である。
人間は一人ひとり 神を分有する。
完全に百パーセント人間ですが 完全に百パーセント神であるわけでなく 神によって霊において覆いつつまれている。
神のチカラが部分的にハタラキを発揮するように 神の霊によって触れられている。
部分的なチカラではあるが 人間としてその能力を最大限に発揮することにおいて すでに《涸れない泉》である。
☆ (あ)は イエス・キリストのみです。(い)は すべての人にあてはまります。
たぶん(あ)は ブディズムの理論にはないと思われます。
無理にでも当てはめようとすれば 次のように表現してみました。
☆☆(回答No.10) ~~~
(い) 《神の霊が 肉である人間たちに宿った》(つまり 一切衆生 悉有仏性)という程度のことではなく
(あ) 《神の子であり神である存在が そっくり人間となった》です。《人間であり神である》という想定です。(法身即応身といったかたちです。いえ 応身というよりは 人間ないし煩悩身でしょうか)。
~~~~~~~~~~~~
☆ (い)は 仏性を 如来蔵とするというご提案ですよね。ここには 問題はないと思います。清浄心でもいいはずです。
問題は (あ)のほうですよね。
◆(回答No.11) ~~~~
(う) 《人間であり神である》は、《凡夫即仏》でしょうね。あるいは《有情即仏》と言ったところか。
・(う―1) 凡夫は人間だけを意味するので、ケダモノである眠り猫的には、生きとし生けるものすべてを意味する《有情》を使って、《有情即仏》のほうが好きです。
・(う‐2) でも、迷い、苦悩の面を強調したいのならば、《凡夫即仏》がピッタリだと思います。
(え) 《言葉が肉となった》、《ことば》《ロゴス》をブッダの教説、《理法》と考えれば、ブッダの教説が肉体をまとったということで、《応身》になるんでしょうね、きっと。つまり、ゴータマ・ブッダ、その人。
~~~~~~~~~~~~
☆ (う)では――(あ)に対応する内容としては―― ブッダ(仏)が神であるか? によって決められるでしょうね。
《人間はその背面をしか見ることができないという〈非経験の場〉》であるかどうかだと思います。
(え)は 次の認識は 聖書学ないしキリスト論としては 違っていると考えます。
◆ 《ことば》《ロゴス》をブッダの教説、《理法》と考えれば
☆ これは 出来ません。なぜなら 表現こそ《ことば・ロゴス》と言っていますが あくまで《非経験の場》のことですから 《教説・理法》はむつかしいと考えます。
オシエは明らかに理性ないし思考の対象ですから 経験事物です。
《理法》は ロゴス・ことばと同じように 仮りの代理表現だとすれば分かりますが・そして《知恵》などというやはり代理表現も用いられますが あくまでその背面しか見ることの出来ないナゾの何ものかでなくてはなりません。
どうなんですか? 理法は 限りなく《教説》に近いものですか? それとも ダルマ・法身のことを言いますか? 法身なら ロゴス・ことばと対応するかも知れません。ただし ブディズムの教義としておさまっていますので そこから自由に《神》を表わす仮りの表現だとして扱いうるかどうか。ここにかかっていると思います。
《肉》は 応身か あるいはまた 仮りにわたしは《煩悩身》としました。《凡夫》でもよいのでしょうか?
つまりは (あ)の物語が言おうとするところは 完全に百パーセント凡夫であると同時に完全に百パーセント《ロゴス・ことば》とも呼ばれる神である。それが イエス・キリストである。となると思います。
ただし 物語によれば このような存在は イエス・キリストただひとりだということになっています。ひとり出ればじゅうぶんであり もうそれ以上は要らないからだという意味だと思います。
以上が これまでの神学を総合して もっとも妥当なキリスト論であると自負しています。どうでしょう?
回答ありがとうございます。
ねむりねこさんにお任せするとして
私のただの思いつき。
ユダヤ教の律法つまり
トーラーというダルマが
人間となったのが、キリスト
…というのはどうでしょうか。
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