No.4
- 回答日時:
あると思いますよ。
というかあるとしたほうが自然ですよね。5世紀頃の大王(天皇)具体的には雄略天皇あたりから、東国支配を活発化させますから。
というのも5世紀頃の大王って一族の間での混乱が頻発しますし、ひいてはそれらが西国における大王の軍事的ないし経済的基盤をも揺るがす結果となり、大王の地位を安定的な物にしようと思えば、すでに開かれている西国より東国の方がそれらを新たに設けるといった面で都合がよかったんですね。
一応、簡単に経済的あるいは軍事的基盤とよばれるものが、西国から東国に移されたと表現しましたが、ようは当該地域において農民集団を組織します。これらを「部」と言い、そこから兵隊を挑発したり税のようなものも取り立てて、その地域における支配がなされるわけですね。大王(天皇)においては名代・子代(なしろ・こしろ)と呼ばれるものです。それら大王直属の農民集団のある地域が西国から東国に移っていったのが5世紀ごろということなんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E4%BB%A3
そして問題の蘇我氏なんですが、大王が東国に名代などを設けてゆく5世紀段階においては、中央豪族では葛城氏という氏族が活躍していたとされるのですが、葛城氏は東国に葛城部(かつらぎべ)といった支配地域を設けていなかったんですね。余談ですが千葉県の葛城町は昭和にできた地名だそうです。
話を戻します。では葛城氏の次に中枢を担ったとされる平群氏(へぐり)はどうか?安房国に平群郡という地名があります。こちらは平群氏の部があったとは断定できませんが、少なからず関係がありそうですよね。つまり大王の支配の拡大の後を追って、雄族とよばれる古代豪族たちも東国経営に乗り出してゆくんです。そして平群氏の次に政権の中枢を担う蘇我氏なのですが、蘇我氏の組織する農民集団である「蘇我部」は古代史料には散見されます。大王の名代からおよそ100年後の6世紀には、時の権力者・蘇我氏も東国経営に乗り出していたと考えることもでき、その一つがご指摘の「蘇我」という地名として今に生き続けていると考えた方が自然だと思いますし、その他にも蘇我入鹿は50人ほどのボディーガードを常に連れ歩いていたとされており、そのボディーガードを「東方の儐従者」(あずまのしとべ)と呼んだとされますから、東国と蘇我氏は強いつながりがあったと想像できます。
その様な中、ご指摘の「蘇我」という地名は、6世紀頃に蘇我氏が支配した農民集団がいた地域だと考えてもなんら不自然ではないと僕は思いますが。
この回答へのお礼
お礼日時:2012/11/10 03:06
当時の状況が生き生きとイメージできるお話でした。no1さんの町村合併に関する経緯にしても最終的に蘇我が選ばれたことも何か根拠があるのかもしれないと思いました。ご教示感謝いたします。
No.3
- 回答日時:
追記。
驚くべきことに、鎌取も鎌足と関係あるのかもしれません。木更津に鎌足と言う地名があり、そこは藤原鎌足由来の地と言うことになっています。
近くにある高倉観音の縁起に記されているようです。
http://www12.ocn.ne.jp/~kouzouji/yuisyo.html
No.2
- 回答日時:
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