No.9ベストアンサー
- 回答日時:
「下に」は「下に居れ」を略したものです。
江戸時代の「下に居る」とは、すわる、しゃがむ事を言います。
角川「古語辞典」
行列の邪魔になるから、路の脇にすわって通過を待ちなさい
との意味です。
すわる、しゃがむ理由は藩主の安全上でしょう。
駅伝の応援のように、脇に立っていれば、いきなり抜刀し、
駕籠に切付ける事が出来ますが、しゃがんでいるとそうは
いきません。
将軍家康の行列の先触れが群衆をしゃがませるため
「下に、下に」と、かけ声をしたのではないでしょうか。
家康が人の上に立つ威厳を見せるためと、安全上のため
でしょう。
大名行列のうち、江戸市中(御府内)で「下に、下に」
と言えるのは、将軍家と御三家だけでした。
一般の大名行列は静かに行進し、路が混雑した時は
「寄れ、寄れ」(脇へ寄れ)とかけ声をかけました。
江戸市中の浮世絵では大名行列の脇を庶民が歩いて
います。(しゃがんでいる人もいますが)
御府内、将軍のおひざ元を離れれば、はばかることなく
「下に、下に」をいいました。
道中は人通りの少ない農地では勿論かけ声はかけません。
町屋(宿場)内を通るときは必要に応じかけます。
街道も混雑する時は同様です。
問題は領内では「下に、下に」ですが、他藩内でのかけ声
はそう言えたかどうかわかりません。
その藩の家格が上だと「下に」をはばかり「寄れ」にした
かもしれません。
ところで「下に」ですが十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には
大名行列のかけ声は「下ぁに、下ぁに」と書かれています。
よく言われる「下にぃ、下にぃ」とどちらが正しいか、それとも
藩によりどちらも使われたか?です。
これを見ても一般の大名も「下に、下に」を使ったのは確かです。
(御府内を除き)
供先切の話ですが街道の十字路に差しかかった時、横断道路
に婚礼行列が来るのを見て、大名行列を中断し婚礼行列が
通過したのちうしろの半分の行列が発進した例があります。
葬送の列も矢張り先行させたようです。
庶民に充分に配慮しています。
威張ってばかりいるのはドラマの上の話ですね。
但し行列に対し、あまりにもひどい無礼が、あった場合の無礼討
はありました。
御府内の場合もありましたが、幕府のお咎めは無かったといい
ます。
ご回答ありがとうございます。
「下に」は「下に居れ」を略したものですか!
なるほど、理屈に合っています。納得です。
<行列の邪魔になるから、路の脇にすわって通過を待ちなさい>ということですね。
納得しました。
「下に」のかけ声は「下ぁに、下ぁに」が正解でしょうね。
「したあ~」と伸ばす方が発声しやすいですし、
何より、十返舎一九は、その声を聞いているはずですから。
No.11
- 回答日時:
再度、失礼致します。
>「路頭礼」という作法があったのですね。
「例えば『故事類苑(礼式部2)』「路頭礼」の〔五街道取締書〕の記録などでも、」
と私の表現が拙かった事とURL省略の為、誤解を生じたままでは心苦しいので、
改めまして訂正(肝心の書籍名を誤記、誤:故→正:古/3セットの不適切表現)の
お詫びを申し上げますとともに修正させていただきますm(_"_)m
『古事類苑 礼式部2/神宮司庁古事類苑出版事務所編/神宮司庁/明29-大3』
「古事類苑 禮式部三 路頭禮」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897799/2
上記のとおり「路頭礼」は書籍の目次題目上の表現に過ぎず、
またその中で「馬上禮」「車上禮」…などに目次題目が細分化されていて、
その中の「遇徳川三家以下諸侯幕吏」<22~28/91>(187頁最終行~198頁)項目のうちの
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897799/25
<25/91>(192頁18行目~)
例えば「〔五街道取締書〕御朱印其外行逢節(節)之心得又は及<=>不敬<->候者之事
文政九年戌九月相馬長門守問合」の位置付けとなります。
なおNo.10投稿時「下馬、下座、冠物について3セットで言及されていますから、」
とのカキコミをさせていただきましたが、改めて読み返してみますと
上記〔五街道取締書〕中では
「徒士以下帶刀之者、百姓町人、右之者其、口付有<L>之馬にても行逢候ば、
下馬可<L>致義と相心得可<L>然哉、但下馬いたし候節(節)、冠物取可<L>申哉」などと
「下馬」「冠物」だけで「下座」には触れられていませんので
「3セットで言及」は明らかに不適切表現で私の勇み足、謹んでお詫び申し上げます。
(『膝栗毛』による予断と「路頭禮」等の全体を読む中で「下座」を含めてしまった次第で、
…どこかで見たような気もしますがハッキリしません…
口付の有無での差異に注目してしまった為に〔五街道取締書〕だけが頭に残り、
このような不適切表現に至り誠に申し訳ありませんでした)
>『考証東海道五十三次/綿谷雪/秋田書店/1974』
>市立図書館に蔵書検索するとありました。
>これは読まねばなりません。
何よりですね^^
実は私も蔵書検索を試みましたが、予想どおり地元図書館には無く、
勝手知ったる某政令指定都市の中央図書館にも無く(これは結構ショック)、
横断検索でも予想外に所蔵図書館が少ない様子で、
年内の読破を予定していましたが、遠のきそうです(><)
当初、Yahoo知恵袋などで「下に」一声・二声・三声の情報は見つけましたが、
何しろ情報源が無いカキコミばかりなので半信半疑でいましたところ、
何とか綿谷雪氏までは辿り着いた次第です。
著名な時代考証家とは言え過剰な期待は禁物かもしれませんが、
仮に典拠が明らかになれば、それを突破口に当時の実態に迫れるかもしれませんね。
幸運を祈ります^^
単なる歴史ファンの思いつきの質問に、こんなに詳しく調べ直して下さって誠にありがとうございます。
『古事類苑』から該当する箇所を抜き出すなんてことは、並大抵の労力ではできるものではありませんから、質問者としては、将にもったいない気持ちでいっぱいです。
明治の文章はなかなか読みにくいですからね。
私は、なんとか「五街道取締書」だけは読みましたが、疲れました。
お陰さまでよく分かりました。
私は、「下にぃ~」の全文を知りたくて質問しましたので、#5と#9の回答で納得しました。
No.10
- 回答日時:
なるほどと頷ける点が多いNo.9の Pinhole-09 様の素晴らしい御回答の後で、
重複する内容を含むため気が引けるのでありますが、
当初よりこの御質問に注目し検索・裏付作業を試みておりますところ、
残念ながら知識不足&時間不足により肝心の裏付作業が遅々として進まないため、
気になっている幾つかの点についてカキコミさせていただきますので、
中途半端な投稿になる御無礼をお許し下さいm(_"_)m
『東海道中膝栗毛(1805-1814)』に関しまして、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/879113/25
…
ト其より二人は錢を拂へ此所を立出行く向よりお大名の行列先拂の
男六十位の爺一人は十四五のやつこ何れも宿の人足なり
先拂「下アに\/冠り物を取ませうぞ
北八「かけ落者は下座をしねへでも宜いと見へる
彌次「なぜ
北八「冠り物は通りませうぞと云うは
先拂「馬士(まご)馬の口を取りませうぞ
北八「馬の口も取はづしが出來るかのハ・・
先拂「後の人脊(せい)が高へぞ
…
滑稽本である以上は当然創作も含むでしょうから、
割引は必要かもしれませんが…気になる点が…
参勤交代強制から百年以上経過した後に生まれた
十返舎一九(1765-1831)においてさえ
「下アに下アに」続けて「冠り物を取ませうぞ」
「馬士(まご)馬の口を取りませうぞ」と表現しているところを見ますと、
(この箇所は後に続く洒落の為に欠かせないフレーズゆえに、
単なる創作の可能性も有り得ますが)
例えば『故事類苑(礼式部2)』「路頭礼」の〔五街道取締書〕の記録などでも、
下馬、下座、冠物について3セットで言及されていますから、
単に「下アに下アに」だけではなく「冠り物を取ませうぞ」などの
口上も発せられていた可能性があるように思います。
あと、先拂は「何れも宿の人足なり」。
時代が下がるとともに変化した結果でしょうから、
果たして当初の本来の口上となると定かではありませんが、
前例を踏襲とも言えるかもしれませんが、注意喚起が目的とすれば、
口上は手短にならざる得ない結果、時代を越えてもさほど変化はなく、
また「宿人足」か藩の先払が発するかの違いもないように思います。
またGoogleBookなどを漁っていますと、
『江戸川柳散策/興津要/時事通信社/1989』には、
「下に下にで田舎者かしこまり」「脇寄れに何の事だとそっと言い」
などがありますから「下に下に」「脇寄れ」などは代表例なのでしょうが、
あと断片情報に過ぎませんが気になるフレーズがあります。
残念ながら、原本すら見ておりませんので、典拠までは?です。
読んでみたいものの如何せん
大規模図書館・書店に行く時間的余裕がありません(><)
「下に」の回数による区別があることと、
「下に」一声には「そのほか(は)国持大名」も含むニュアンス。
大名行列とは限らず、また御府内限定なのか定かではありませんが
『考証東海道五十三次/綿谷雪/秋田書店/1974』
…二声は御三家、御三卿、「下に」一声は老中、若年寄ら幕閣大官連である。
そのほかは国持大名ども、
すくなくとも江戸府内においては「下に下に下に」三声は将軍の行列に限る。
「下に下に」かけるように思っている人が多いが、それは誤りである。
地方道中での…
ほか、御質問の趣旨とは外れるかもしれませんが、
コーヒーブレイクに下記URLなどは如何でしょうか?
『日本建築学会近畿支部研究報告集 計画系(47)/2007-05-22』(805-808頁)
「上位身分通行時の町奉行所触書(建築史・建築意匠・建築論)/丸山俊明」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007052728
以上 中途半端なカキコミで申し訳ありませんが、
気になる点の現状報告とさせていただきます^^
再度のご回答ありがとうございます。
<お大名の行列 先拂の男六十位の爺 一人は十四五のやつこ何れも宿の人足なり>
費用は節減したいが格式だけは表面上保ちたいということで、人足を雇うことは知識としては知っていましたが、こうして江戸時代の読み物で読むと、行列の状況が浮かんできます。
『東海道中膝栗毛』は、読んでみる価値がありそうです。
「下アに下アに」続けて、「冠り物を取ませうぞ」と言うこともあるってことは間違いないと思います。
多くの方から頂いた回答を全部合わせると、注意を喚起するために、いろんな口上があって当然だと思うようになりました。
>例えば『故事類苑(礼式部2)』「路頭礼」の〔五街道取締書〕の記録などでも、
下馬、下座、冠物について3セットで言及されていますから…
私の知識では、いったい何のことかさっぱり分かりませんが、「路頭礼」という作法があったのですね。
ここまで詳しく調べて下さってありがとうございます。
『考証東海道五十三次/綿谷雪/秋田書店/1974』
市立図書館に蔵書検索するとありました。
これは読まねばなりません。
数々の参考資料を教えて下さって感謝の気持ちでいっぱいです。
No.8
- 回答日時:
#6です。
補足です。>>後期高齢者は、75歳以上です。自公政権時代、それまで60歳以上を高齢者と呼んでいたのに、75歳で区切って「後期」を付けました。医療保険が高くなります。当時は、いやなネーミングと悪評高かったです。
おかげさまで僕も同じネーミングに入っていたことが分かりました。善い質問をなさるので、#3さんの優れたご回答とともに、いつも勉強させていただいています。今後ともよろしくお願いいたします。
私の質問はともかく、よい質問に出合うとその着眼点の素晴らしさに感服しますね。
私も、よい質問をするように心がけたいですが、今のところ「愚問賢答」続きです。
今後ともよろしくお願いします。
No.7
- 回答日時:
#6です。
補足です。>>殿様みな同じことを言っていたのか、ホント分かりません。
これはおっしゃる通りです。
「お立ちぃ~」と一言叫んでから「下にぃ~」と続けたのかもしれません。
これもおっしゃる通りです。その前に「○○様」あるいは「○○州の○○様」(播州とか紀州というあれ)が入ってご威光のほどを誇示した可能性は大きいと思います。
これは余談ですが「後期高齢者」と言うのはどこから先なのですか、僕は在米なのでおよろしければ教えてください。
これも余談ですが、初めて京都に市電が走ったころ「危なうございますよ」という意味の言葉を発しながら、夜分には提灯を持って前を走った人がいたそうです。
「下にぃ~」には、こういった行列には騎馬の侍などが居て、人ごみに慣れない馬などに近づくと「危ない」という、社会的な身分差だけではなく、実際的な警報の役目もしたのではないかと思います。
再度のご回答ありがとうございます。
>その前に「○○様」あるいは「○○州の○○様」が入ってご威光のほどを誇示した可能性は大きいと思います。
なるほど!!
間違いなく、そう言ったでしょう。
いきなり「お立ちぃ~」も「下にぃ~」はないでしょう。
>こういった行列には騎馬の侍などが居て、人ごみに慣れない馬などに近づくと「危ない」という、社会的な身分差だけではなく、実際的な警報の役目もしたのではないかと思います。
京都の市電の話は、そう言えば私も思い出しました。
確かに、つまらぬことで手間取ってはいけませんから、注意を喚起する意味もあったでしょうね。
「下にぃ~」でこんなに盛り上がって嬉しいです。
後期高齢者は、75歳以上です。自公政権時代、それまで60歳以上を高齢者と呼んでいたのに、75歳で区切って「後期」を付けました。
医療保険が高くなります。
当時は、いやなネーミングと悪評高かったです。
No.6
- 回答日時:
場所が分かれば答えも自然です。
僕は「おうかん(往還)」とか「とんさんみち(殿様道)」という島原の殿様が通ったという「道」を見たことがありますが、今の感覚では非常に低く(風よけ?)、狭い(もちろん舗装も無い)筋でした。
この「低い」(言い換えれば両側の畑が高い)ことから、領地の農民が殿様を見「下ろす」ことにならないよう、下に「居ろ」とか下に「降りて来なさい」という意味があったのではないかと思います。
小さい時に「御神輿は二階から見るものではない」と言われたことがありますが、高貴なものを上から見てはいけない、という考えが重なっているのかも知れません。
1。「下にぃ~」と言えるのは、将軍家と御三家だけですか。
殿様一般だと思います。
2。 宿場の手前に来たとき、宿場に知らせるために「下にぃ~」と言っていたのですか。
行列が通過するなら「下にぃ~」、停まるなら「お着きぃ~」でしょう。
3。宿場を出るときも言っていたのですか。
出る時は「お立ちぃ~」だと思います。
ご回答ありがとうございます。
なるほど、「往還」とか「殿様道」の話は説得力がありますね。
「高貴なものを上から見てはいけない」という話も、そのとおりだと思います。
二階建ては制限されたり、二階の窓は開けるなとされる場合もあったとか、聞いています。
>行列が通過するなら「下にぃ~」、停まるなら「お着きぃ~」でしょう。
>出る時は「お立ちぃ~」だと思います。
そうですよね。
理屈に合ってますよね。
しかし、慣例にうるさかった時代ですからね。
殿様みな同じことを言っていたのか、ホント分かりません。
「お立ちぃ~」と一言叫んでから「下にぃ~」と続けたのかもしれません。
No.4
- 回答日時:
こんばんわ。
bungetsuです。
>>「下に~」とは「何を下に」せよ、と言っているのか、初めて聞いた領民はさっぱり分からなかったはずで、おそらく最初の頃は領民に向かって「○○を下にせよ」と言っていたのかな、と思って質問しました。
あるいは、行列の何かの持ち物を「下に向けよ」と、指示しているのかな、と思っていました。
そうですねぇ。誰(どの大名か家来)が考え出したかは解りませんが、おそらく最初の頃は、先頭の者が「下に~、下に~」と言い、籠の警護の武士たちが、近くにいる庶民に「道をあけよ、道を」「頭を下げよ、頭を・・・」などと注意を促したのではないでしょうか。
そして、それが繰り返されることにより、庶民にも浸透したのではないでしょうか。
いつ、どこで、誰が言い出したかは、今では全く「不明」の状態です。
>>国境では、藩によっては関所があったと思いますが、そこでも「先払い」するのですね。
その理由が分かりません。
関所では、多くの庶民が通過の許可待ち、つまり、行列が通り過ぎるまで待たされていましたので、一種の「見せつける」意味合いもあったと思います。
「お殿さまは、偉いんだぞ~」というような意味合いで・・・。
また、関所のない国境では、「今、殿さまが通過中ですよ」と言うような一種の権威付けだったのではないでしょうか。
歴史作家として「ふがいない」回答ですが、どのような史料をあさっても、その事についての詳細は出てきませんでした。
ごめんなさい。
再度のご回答ありがとうございます。
<ごめんなさい>なんて、とんでもございません。
私の独り言のような質問に早速応えて下さって恐縮しています。
国境で他藩の領民に向かって「下に~」と叫ぶのは、どうも合点がいきませんが、
しかし、将軍家と御三家なら許されたのでしょう。
いつも、へ理屈ばかり言ってごめんなさい。
No.3
- 回答日時:
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
>>「下にぃ~」の全文を教えてください。
一般的には「下に~、下に~」で終わりますが、
中には「下に~、下に~。お通り~、お通り~」
と言った藩もありました。
また、面白いところでは、
「片寄れ~、片寄れ~」又は「よけろ~、よけろ~」
などを連発した藩もありました。
>>宿場の手前に来たとき、宿場に知らせるために「下にぃ~」と言っていたのですか。宿場を出るときも言っていたのですか。
「先払い」をしたのは、国元の城下と国境、その日の宿のある宿場へ入る時、出る時。そして、江戸へ入る時だけでした。
江戸の街に入ると、御三家などに遠慮をして先払いはなく、静かに行進しました。
「下に~、下に~」の掛け声を「先払い」といいました。これはもちろん先を歩く者が大声を発して「路を空けよ」ということを表しました。街道筋では通行人が道の端によけて頭(こうべ)を垂れて見送りました。
良くTVなどのような土下座はしませんでした。TVの中の「大うそ」です。
しかし、江戸の街でこの「先払い」をしたのは将軍家か御三家、御三卿だけでした。
(よもやま話)
1.大名行列はいいかげんだった?
道具、打物、挟箱、先頭警護の武士、お籠、後尻警護の武士の順で行列は進みましたが、道中では隊列をくずし、雑談をしたり、景色の良いところでは立ち止まって見物したりしました。
2.大名行列も道の端へ
大名行列よりも格が上だったのが「御茶壷道中」。これは、毎年将軍家が飲用する新茶を京都の宇治から運ぶ行列のことで、この御茶壷道中の往復に出くわしたら、さあ大変。大名行列とすれ違ったりした時は、どんなに偉ぶっていた大名も籠から出て腰を深々と折って、敬意を表しました。
3.大名行列も回り道
江戸市中で大名行列同士が行き違うことはしばしばであった。この時は、お互いが籠を開けて双方が目礼をした。しかし、籠を止めることは絶対にしなかった。また、相手が御三家や格式が上位の場合は籠を降りなければならなかったので、ややっこしい、めんどうくさい。そこで、御三家などとわかると下級の大名行列は、あわてて、横道へ逃げ回った。
4.参勤交代
慶長7年(1602)、加賀の前田利長が人質として江戸で暮らしていた母芳春院を訪ねて江戸へ出てきて、将軍家へ「挨拶」をしたのが始まりでした。しかし、当時は「統制」がきかず、大名も「我先に」と競ったため、3代将軍家光が寛永12年(1635)に「武家諸法度」19ケ条を定め、その第2条に「参勤交代」の制度を明確にしました。
5.参勤交代の時期
「夏四月中」と書かれてあり、現代の「太陽暦」に直すと、おおよそ5月で、入梅以前に参勤するように定めてあります。その後、西国の譜代大名は2月、関東と東海の譜代大名は9月、外様大名は4月、というように時期をずらせました。これに、譜代大名をして外様大名を監視させていたからです。
6.参勤交代は一斉におこなわれたの?
いえいえ、隣接する藩が相談して、隔年に行われました。例えば、「豊前」と「豊後」の藩主たちを見ると、
中津、杵築、府内・・・の3藩が譜代大名。
日出(ひじ)、臼杵、佐伯、岡、森・・・の5藩が外様大名。
子、寅、辰、午、申、戌年には中津奥平氏、杵築松平氏、臼杵稲葉氏、佐伯毛利氏が江戸へ。
丑、卯、巳、未、酉、亥年には府内松平氏、日出木下氏、岡中川氏、森久留島氏が江戸へ。
このように、交代で参勤しています。これを「御在所交代(ございしょこうたい)」と呼び、全ての大名が江戸へ集結することはありませんでした。
7.他家の領地を通る
江戸に隣接した大名はともかくとして、ほとんどの大名は他家(他藩)の領内を通るわけですが、「前触れ」と称して、使いをたてて「何日ころ通過します」と「礼」をつくし、通行される藩でも、橋の修繕や道路の整備をして、お互いが気を遣いました。しかし、友人だからとか親戚だからと言って、藩主同士が会うことは許されませんでした。これには、藩主同士が結託して幕府転覆などを話し合われては困る、という意味がありました。
8.大名行列は行軍
参勤交代のための「大名行列」は、事前に「道中奉行」が任命されて、行列よりも先回りして、宿の手配などをしました。そして、大名が泊まる宿を「本陣」と呼び、家来たちの泊まる宿を「脇本陣」とよびました。また、宿に入るにも規則があり、夜五ツ(午後8時)までに到着できなければ宿側も断ることができ、そういう時には「野宿」をしました。もっとも、大名行列は行軍とみなされていましたので、陣幕はもちろん、料理の材料、鍋、釜、風呂桶、そして、殿様用の便器などなどを全て持って行きました。さらに、宿に宿泊しても、宿の料理人が食事を作るのではなく、宿の台所を借りて、家来の「御膳掛り」が食事を作りました。
9.通行中のトラブル
11代将軍家斉の頃、明石藩松平斉宣(なりのぶ=家斉の第53子!!)が、御三家筆頭の尾張藩を通行中に猟師の源内という者の子ども(3歳)が行列を横切ってしまった。家臣がその子を捕まえて本陣まで連れて行った。ただちに、名主や坊主、神主までもが本陣へ行き「許し」を乞うたが、斉宣は聞き入れず、その子を切り捨てにしてしまいました。尾張藩はこれをおおいに怒り、使者を遣わし「このような非道をするようであるなら、今より当家の領内を通らないでもらいたい」と伝えました。斉宣は、行軍を取りやめるわけにもいかず、まるで、町人か農民のようにコソコソと尾張領内をぬけました。さらに、数年後、猟師の源内は、斉宣が20歳になったのを期に、木曽路で得意の鉄砲で斉宣を射殺してしまいました。もちろん、源内は死罪となりましたが、子どもの恨みを晴らした、というわけです。
まだまだありますが・・・このへんで・・・。
ご回答ありがとうございます。
「下に~」とは「何を下に」せよ、と言っているのか、初めて聞いた領民はさっぱり分からなかったはずで、おそらく最初の頃は領民に向かって「○○を下にせよ」と言っていたのかな、と思って質問しました。
あるいは、行列の何かの持ち物を「下に向けよ」と、指示しているのかな、と思っていました。
「頭を垂れておけ」という意味みたいですね。
そして、それが意味するところが「路を空けよ」と言うことなのですね。
国境では、藩によっては関所があったと思いますが、そこでも「先払い」するのですね。
その理由が分かりません。
いつも詳しく回答して下さって感謝しています。
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