痔になりやすい生活習慣とは?

日本の律令制においては、租以外は自分で都まで運搬しなければならなかったようですが、では租はどうやって都まで運ばれたのでしょうか。
里長が集め、郷に集約し、それを国司が人を使役して馬に乗せて駅から駅へと運んだのでしょうか。逆に、もしそうならば、なぜ調・庸もそうしなかったのでしょうか。

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A 回答 (5件)

田租ですよね?収穫の3~5%しか課されませんので、もともとは国家自体の運営費とはされずに、今でいう地方自治財源として扱われますよね。


具体的には出挙という「種もみ」貸し付けの、種もみとして使われたり、中央との連絡などの経費に充てられたりしていたようです。
ですから、もともとは中央に運ぶことを前提としていませんでした。

ただ、時代がくだるにしたがい、この制度もほころびが見えてくるんですね。
実は集まった田租は、国衙の正倉という場所に集積されて、まずは地方自治財源にあて、残りは倉に残してゆきます。そして、その倉が満杯になったら、NO,2さんがご指摘されておられる不動穀という扱いになり、正倉に鑰(かぎ)をかけて封印して、そのかぎの管理は中央官庁(太政官)にて管理されます。なぜそのようなことをするのかと言えば、飢饉などの危機管理体制下、太政官の命令のもと、不動穀を放出する救済措置を取るためなんです。
少し話が長くなりそうなので端折りますが、実態として不動穀という制度に問題点が表れながら、その厳しい規定が緩和されます。そうこうしているうちに、政府は「不動穀がある程度自由に使えるならば…」と考え始め、不動穀を山積される国内問題の財源にしようと考え始めます。

ここで初めて、正税は中央に運ばれるんですね。
このような経緯の中で、中央に運ばれる米自体の性格にも変貌が見られ、田租であったものが、庸物として扱われ始めます。そうなるとどの様に運んだのか?は想像がつくと思います。
ちなみに最初から庸として扱われる米も存在していたのですが、今回の回答では、「租の運搬」ということだったので、上記のような回答になってしまいました。

最後にまとめます
・租は基本的に中央には運ばない
・中央に運ばれる米の中には庸物という性格を帯びて運ばれるものもあった
・後年には政府の財政が逼迫する中、危機管理のために集積された租が中央に運ばれるケースもあった。

一応、これらが知識のアウトラインになるのではないかと思い、お話させていただきました。
もちろん、上記が全てではありません。その他にも様々なバージョンが存在するのですが、とりあえず今回はこのへんで<m(__)m>
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この回答へのお礼

大変詳しくよく分かりました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/12/01 16:57

NO2です。

追記をさせてください。
租の納めておく倉(正倉)は律令制初期には郡衙に設置され、その後管理運営が旧国に移ると国衙に設置されるようになります。ですから初期については里(郷)から集められた租は、郡衙にある正倉に運ばれたことになります。郡の範囲はそれほど広くなく、現在の郡もしくは大き目の市の範囲と同じ程度ですから、一日で往復可能です。
ただし、郡衙だけではなく、郷(里)にも正倉が分置された例がありますので、このような場合農民が直接正倉におさめたこともあると思います。
なお、税を直接取り立てるのは里長の役割りでした。また、正倉には動用倉と不動倉の二種類があり、動用倉は通常の旧国(歴史用語では令制国)の運営財源や非常時の救済費用などに充てる倉を言います。これに対して不動倉は動用倉が満杯になり、使われないまま年月が経った場合、国司の判断で封印した倉を言います。不動倉はあくまでも長期の余剰があった場合の処置で、通常・非常の場合の使用などの目的を持っていません。そのため、倉の開閉のための鑰は中央の太政官が保管する(地方の判断では使用させない)制度で、長期に開閉をしないために、倉の中の穀物が使い物にならなくなり、入れ替えを命じたりしています。不動倉は使用されない・開閉されない(監査を受けない)ために不正があり、郡司達が不動倉の中の穀物(不動穀)を勝手に流用し、返せなくなり、不動倉に放火し(神火と称しています)、証拠隠滅を図ることが頻発します(動用倉でも他の公的な施設でも起こりますし、政争などの原因もあります)。
横道にそれましたが、租は農民(公民)から里長が取り立て、郡衙にある正倉に運んだと考えられます。その場合の運び手は農民と考えられますし、運送方法も運脚の例からも馬などを使用したり、駅から駅への継ぎ立てなどではなく、農民が直接担ぐなどして運送したものだと思います。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%9F%E5%BA%B8% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%94%A8% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%91%E7%B5%A6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%81%AB
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この回答へのお礼

すごい所まで話が発展して、古代史の税を巡る諸々に詳しく?なりました。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/12/01 17:12

租は米などの穀物ですから、多くの地域ではそれを地方の特産品や金銀などに交換して朝廷に運びます。


全国から朝廷に穀物を運ぶのでは非効率すぎますからね。
では京都で食べられる米は実際にどうしたかと言われると、加賀あたりの米を集め、船で敦賀に運び、賤ヶ岳のあたりまで北国街道を上り(登り)、琵琶湖から水路で京に運びました。
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この回答へのお礼

金銀への交換があったとは。
参考になりました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/12/01 16:55

租は基本的には旧国の運営費用、不動穀と言われる非常時の備蓄米、そして律令施行後しばらく経って公出挙の財源として旧国でつかわれました。

ですから、都まで運ばれるわけではありませんでした。
また、庸・調の運送については農民全てが運んだわけではなく、選ばれた運脚夫と呼ばれた農民が旧国の役人に率いられて運んでいます。このことから考えると、租についても里長が集めた後、里の農民の中から選ばれた農民が里長などに引率されて、郡衙を経て国衙などに運んだのではないかと思います。一部は郡衙にもある不動倉に直接運び込まれたかもしれませんが。


以上、参考まで。
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この回答へのお礼

参考になりました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/12/01 16:54

租は、荷役担当の農民に鞭を打って、さあ運べ、と^^




庸は、肉体労働をすることですから、運べません^^

調は、租以外の品目ですから租のように運びました。
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この回答へのお礼

本当ですか?
庸は、肉体労働代わりに布を納めることが多かったのでは?

お礼日時:2012/11/29 07:24

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Q奈良~平安時代 『租』について

律令制度の始まりに伴い、古代日本では6年ごとに戸籍が作られ、6歳以上の人間には口分田が与えられました。
そして、誰しもが納めなければならない税である、租があります。。
国衙の財源(今でいうと県の財源と同じ)になるということらしいのですが、租というのは米を納めるんですよね。

・ほぼ全ての人が米を作るとなると、米が余ってしまいませんか?
・私の認識ですと、この時代には貨幣があまり流通していないですし、
 基本的に大勢の農民は自給自足だと思っていますが、間違いないでしょうか?
・貨幣が流通していないということは、一部の弓や剣を作ったりしている人々の報酬はお米なのでしょうか?

ご回答お待ちしております。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

かつて歴史学者の故・網野善彦は、日本人の生業が米作ではないこと、
しかし歴史的に律令体制以来、米の生産=農民の存在を前提として
税制を中心とした治世観念が続いていることを指摘しました。
 質問者さんの「全ての人が米をつくる」というのは、
フィクションであることをまずご理解ください。
(例えば、当時の山村では農業は行えたのか?島ではどうだったのか?と言う問題がありますね)

次に「租」という税目の性格について。
そもそも「租」の原型は、秋に収穫があった際、そのうちの一部を豊作のお礼として神、のちには地域の有力者に捧げる初穂儀礼が前身だったと言われています。
律令を導入するに当たって、中国の税制の在り方によりながら「租」という税目がうまれましたが、
その時点でも初穂儀礼としての性格は存在したことは、税率としては低い(回答者1さんの指摘どおり)事からも指摘できます。
なお、国衙財政は、租ではなく出挙の利稲によって運用されていました。租は基本的に蓄積するだけのものだったようです。

また奈良・平安期における貨幣ですが、ご指摘のように和同開珎などの銭貨は畿内周辺しか流通していません。
現物紙幣として使われていたのは主に布。律令官人の給与は布が主体ですし、中央へ納められる調庸も特産品以外は布です。
律令国家の銭貨発行が958年を最後に終わると、以後は現物貨幣として、東国では米が、西国では布が使われていたことが土地売券等からわかっています。
ご質問の「弓や剣を作ったりしている人々の報酬」は、その人々が何処に拠点を置いているかで解答は変わるのでしょうが、京近辺ならば銭貨、地方ならば布などの現物貨幣であったと考えられます。

さて最後に「自給自足」の問題ですが、これは結構難しい問題です。この時期、他の集落・地域とつながらない生活が可能であったかというと、正直なところ違うのではないかと思います。
地方における市・交易の存在については、『日本霊異記』などの説話からおぼろげながら知ることができます。
そこでは物々交換に近い行為もあったようですから、当時の農民(というか様々な生業を持つ一般の人々)は、完全な自給自足ではなく、
何らかの交易をして生活していたと考えるのが妥当だと思います。

以上、長くなりましたが、お分かりいただけたでしょうか?

かつて歴史学者の故・網野善彦は、日本人の生業が米作ではないこと、
しかし歴史的に律令体制以来、米の生産=農民の存在を前提として
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フィクションであることをまずご理解ください。
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Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

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