出産前後の痔にはご注意!

どなたか詳しい人がいらっしゃいましたら、教えてください

般若心経の中にある一節 「無苦集滅道」の箇所についてなのですが、
これは一体どのように解釈すれば良いのでしょうか?

苦集滅道が無いということは、苦しみから逃れる方法などないと言っているように思えるのですが、
それだと仏教の基本理念?に反するように思います

悟りの境地に達したならば、そのようなことはどうでも良くなるとかそういう意味かな?

解釈の仕方はひとつではないのかもしれませんが、基本的に仏教ではこの点について、
どういう風に解釈されているのか知りたいです
人それぞれ好きなように解釈すれば良いなどといったあいまいな感じではなく、
できるだけはっきりした返答が聞きたいです

自分の宗派、あるいは自分個人としてはこのように考えているというので、もちろんOKです
他の宗派や他人の意見は気にせず、回答者御自身の意見として述べてください
なるべく自信を持ってズバっとお答えしていただけるとありがたいです
仏教について無知な私ですが、どうかご教示くださいませ
よろしくお願いいたします

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A 回答 (23件中1~10件)

仏教の根底は『一切皆苦』です。

意識地獄と言う意味があると思います。今現代にもそういう人達が沢山存在しています。一つは『恐怖症です。』ノイローゼです。不安神経症や予期不安やパニック障害等もその類にはいると思います。

対人恐怖症なども当然含まれると思います。広い意味では『心を病む』事も『自律神経失調症や過敏性腸症候群』等も含まれていると感じます。

その理由は『悟り』とその後の人間性の変化に在るからです。さらにもう少し詳しく書くなら、悟りに到る道筋から話が始まると思います。

悟る場合ではその前段階に『意識の停滞=意識地獄』=『原罪や業』に苦しむという通過点が存在していると感じます。宗教の根本には皆同じ目的があります、それは魂の救いです。その観点から述べると分かり易いこともあるかもしれませんので、少しキリスト教の聖書から、『人間が如何して苦しむ事になったのか?を』説明したいと思います。

人間が苦しむ世界を『失楽園』と表現しています。そうして人間に苦しみがない世界を『天国』と表現していると思います。そうして人間界で一番天国に近い存在を『幼子』としています。

聖書においては人間の脳の活動を知っていて書かれたたフシがあります、その理由を説明します。

人間(生きとし生きるもの=生命を持っている全ての存在)には、その固体では及びも付かない何か?(力)が働いていることです。

例えば人間を例にした場合では、自我意識には出来ない筈の、生命の誕生時における、秩序正しい細胞分裂です。細胞分裂をする順序を『知り抜いて働いている』機能です。自我意識にはわからないにしても、産まれた以上『自分の中にはそのような機能がすでに備わっていたはずです。

そうでないなら、自分はこの世に存在していない筈だからです。自分の内部には『命を働かせている、在る者が存在していたと推測出来ます。』

更にその者は、未熟な赤ん坊が何も知らない筈なのに『怖い事や安心する事』を知っていて『自我意識たる自分に知らせています。

高い所に上がった場合の感覚や、狭い所に入った感覚などと言う情報で『自我意識たる自分に』教えてくれています。

更にその者は、激しい運動時等では、呼吸方法や血流なども最適に保つ機能を働いています。是は身体機能を司っている者としての機能です。

更に急ブレーキが必要な場合では『自我意識たる自分を抜きで』勝手に身体も心も支配しています。瞬きをする場合などが良い例です。自我意識が意思の力や、意識して瞬きをする場合では、かなりの時間が必要です。ですが目にゴミが入る場合では、その何倍ものスピードで瞬きが済んでいます。

このように人間の脳内では『自我意識単独で生きている』訳ではないにも拘らず、自我意識単独で『身体の機能』や『行動の自由』や『心の自由』が出来る者と勘違いする場合があります。

こういった勘違いをする事がない事から『天国』に一番近い存在が幼子としています。

人間の脳の機能の違いを簡単にウイキペデアの記事から載せてみます。


『”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』

左脳と右脳の機能分化が完成に近くなる場合を失楽園の契機としています。その理由は『幼子には心が、未だ一つのものとして働いているからです。』その印が、自分の裸を見られても恥ずかしいとさえ思わないことです。是は『心が未分化の為に』見ている自分しか脳内に存在していないからです。

人間に知恵が付いたために『神に背くようになった』と言う意味は、脳の機能分化の完成によって『心が二つの機能として別々に働くようになった』と言う意味です。

『心が見ている自分と見られている自分』と言う風に分裂した事によって、自分の裸を他人に見せる事が出来なくなった、と言う意味になります。

もっと具体的に書くなら『今までは自我意識と自分の生命維持装置たる右脳の意識は』共に一つのものとして、『何も疑う事無く協調出来ていましたが』思春期頃の脳の機能分化の完成によって『自分自身でさえ疑いの目を向けるようになった。』と言う言い方も出来るように思います。

その結果『自分は何者か、そうして自分は何処から来て何処に行くのか?』と、幼子とは全く違い思考をするようになります。

自分自身の生命維持機能を仏教では『仏性』キリスト教では『神』と形容しています。

神に背くと言う意味は『自分自身の生命維持機能に疑いを持つ』と言う意味があります。

生命維持機能には基本的に少し分けて説明する事が出来ます。ですが『大元は左脳VS右脳』の機能の違いのための仲違いですので、自我意識に掛かっている圧迫感『昔では原罪や業』と言う『漠然とした、何処から押し寄せているのか分からない、意識の根底からの不安感』はどの道感じられています。そうして区分けする内容も重なる部分が多々ある事を意味します。

只その仲違いや『意識同士の落差』によって『意識地獄の』強弱はあると思います。

命そのものを働かせている機能は『心に考えや感情を湧き上がらせています。』この者と仲違いする場合に『心を病む』と表現しています。

命そのものを働かせている機能は『身体全てに機能しています。』この者を疑う場合では、その疑った部分が、『機能障害を起したのではないのか』と言う疑いです。ですが脳も身体も検査した場合には異常が見つけられない場合が大部分です。機能的には正常と言う意味ですが、『意識地獄』の状態によって、自分の働きが発揮出来ないでいます。

命そのものを働かせている機能は『行動する分野においても機能しています。』この機能を働かせている者を疑う場合では『自分自身の行動に制限が掛かってしまいます。』自分で自分に行動制限を掛ける場合です。是が神経症の基本形です。吃音や書けいから、対人恐怖や社会不安障害等やパニック障害等です。

自分自身の生命の源との戦いを『意識の根底=脳梁の中』で感じていますので『一切皆苦』の状態を『意識がある時にはいつも感じている』と表現出来ます。

こういった障害の完治が悟りの効用です。悟っている最中の話を語っている動画を載せてみます。今までは『脳梁の中で戦っていましたので』心の中は大変にぎやかでしたが、意識の根底で出会う体験ですので、『新しい回路が構成されますので』二度と相争う事が無くなります。

出番争いをする必要が無くなった事から、脳内での争いに終止符が打たれた事を意味します。この心同士が争うことが無くなった状態を『涅槃』と形容しています。

キリスト教的な言い方をするなら、『神に会って和解する』です。その結果脳細胞に新しい回路構成が完成する事によって、『自我』が一方的にでしゃばる事が無くなる状態になります。それが『神の僕となる』です。

魂の救いとは、現実を幼子のように素直に受止めてゆく事を意味します。それは困難を肯定することでもあります。究極的な事は『死に対する受容です。』素直に受け入れる事が出来た時には『笑いながら死に行くことが出来ます。』

魂の救いとは『人生には救いなどなかった事』を受容する事です。受容れるまでの間『意識地獄』になっています。この動画でも同じです。自分の人生を諦めた瞬間から『右脳が自分を支配しています。』

全ての障害が完治する瞬間は『治す必要が無かった事を』受容(認めた)場合です。

URL:

この回答への補足

ジル・ボルト・テイラー博士すごいですね!動画見て驚きました
こんなことが医学的にありえるなんて
動画の中でもたしかに涅槃(Nirvana)と言っていますね
観自在菩薩が言っていたのは、まさにこのことだったのでしょうか?

>自分の人生を諦めた瞬間から『右脳が自分を支配しています。』
たしかにそのようですが、これはどう解釈すべきなのでしょうか?
まるで左脳が悪さをしているようにも受け取れるのですが、しかし右脳だけではおそらく生きてはいけないですよね?

そうなるとどうなのでしょうか?
涅槃状態をキープしたまま生活することというのは、現実的に可能なのでしょうか?

補足日時:2012/12/19 12:59
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お釈迦様が法を説いたのは、人間の永劫の苦からの解放を目的としています。


人間が我に執着しているから、その勢いのまま人は輪廻し永劫の苦の中にある。
この苦から解放されるためには、因縁を見通し、我は無いことを体得し、輪廻から離れる(解脱)しかないと言うのが仏教です。
これを般若心経では「照見五蘊皆空度一切苦厄」と言っているのです。

輪廻する主体は霊魂ではないかというのが疑問なのでしょうが、それに対しては答えないというのも一つの態度です。
今ひとつの考え方は、それは相互依存関係の中にある我がそれまでの勢い(業)で転がっているだけだというものです。

この回答への補足

うーん、難しい...

補足日時:2012/12/26 12:55
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>そうすると自分のことを自分と認識しているものは一体何なのでしょうか?



それは我です。しかしながら我はそれ自体で存在しているのではなく、万象と関係することによって存在しているのです(万象きたって我を証す)。「我思う故に我在り」ではなく、「万象あるが故に我在り」です。しかも「我在るが故に万象在り」なのです。この関係を否定、否定の形で記述しようとしているのが竜樹の中論であり、般若心経でしょう。
仏教の最も基本的な考えは、何の依存関係もなくそれ自体で存在するものはない(因縁)、というものです。
永遠不滅の霊魂が在るとすれば、その霊魂が過去の業を負ったまま輪廻することになり、苦が永劫のものとなってしまいます。

この回答への補足

>永遠不滅の霊魂が在るとすれば、その霊魂が過去の業を負ったまま輪廻することになり、
>苦が永劫のものとなってしまいます。

それが仏教の考え方だと思ってたけど違うのかな?
霊魂(のようなもの?)はあるにはあるけど、変化するから永遠不滅とは言えないという意味なのでしょうか?

補足日時:2012/12/25 09:13
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一つ書き漏らしました。



般若心経の立場は、全ての存在は相互依存関係により発現する、したがって本質的な存在はない、永遠不滅の霊魂は存在しない、というものです。

この回答への補足

>「万象きたって我を証す」
ググってみました
「我が心が一点もない、雑念が塵一つない状態、そういう状態で生きていくと、すべてのものが自分である、という感覚になってくる。あらゆるものが自分の存在を検証してくれる。」
という解説がありました

しかし霊魂も存在しないのですか?
そうすると自分のことを自分と認識しているものは一体何なのでしょうか?

補足日時:2012/12/24 09:39
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>>空については否定する形で説明しています


>つまりあいまいでむなしいものという意味で使われているという意味ですね?
>しかし照見五薀皆空することができれば、度一切苦厄は可能であると

空を説明するのになぜ否定形で説明するかと言えば、肯定する形で説明すると、その肯定されたものが本質であるかのように理解されてしまうからです。
空は「あいまいでむなしいもの」ではありません。全ての存在は相互依存関係により発現する(したがって本質的な存在はない)という直覚的な理解、認識です。しかもそのような空の理解にもこだわってはいけないというのが、般若心経に説かれているところです。
そのため逆説的に「万象きたって我を証す」(正法眼蔵・道元)と、全肯定として全存在を受入れ、一切の苦を超越することができるのであろうと思います。


>>存在は関係性(相互依存性=因縁=空)のなかでしか発現しない
>つまり「悟りの境地」は「苦」の対極にあるものではないということですね

「苦」がなくなって「悟りの境地」となるものではないので、その意味では正しいのでしょう。
「悟りの境地」があるわけではなく、仏道を行するとき=般若般羅密の実践そのものが、「照見五薀皆空度一切苦厄」なのです。
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眠り猫ニャさんも言ってますが、空=悟りの境地ではありません。



般若心経の最初に「觀自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五薀皆空度一切苦厄」とあるように
般若波羅蜜多を「行ずる時」に一切の存在を空と見通して、一切の苦から超越すると言うのです。

以下はこの空についての説明であり、
最後に般若般若波羅蜜多を行ずるための呪(ギャーテー)があるという構成だろうと考えます。

般若波羅蜜多を行ずる時=(曹洞宗的に言えば)座禅

空については否定する形で説明しています。このあたりについては竜樹の中論での論理展開そのものと変わらないような気がします。
つまり、存在は関係性(相互依存性=因縁=空)のなかでしか発現しないので、一定の本質などはない(色即是空、空即是色)という認識です。
この理解を思弁的にではなく、体験的に行なう(行深般若波羅蜜多)のが仏道修行なのだろうと思います。

全てが関係性(空)の中にあれば、悟りの境地などという固定的な立場はないのだからという意味で、苦集滅道も無いと言っているのでしょう。

この回答への補足

この「空(くう)」というものが難しいんですよね

いろいろググって調べてみたのですが、「無」と同じととらえている人が多いようですね
しかし空とは「からの状態」をさす言葉であって、無と同じに考えてはいけないと書かれているサイトもありました
他のサイトでは、「空」などと言うから意味がわからなくなるのであって、霊的なもの(物質的なものではなく)ととらえるべきと書かれていました

>空については否定する形で説明しています
つまりあいまいでむなしいものという意味で使われているという意味ですね?
しかし照見五薀皆空することができれば、度一切苦厄は可能であると

>存在は関係性(相互依存性=因縁=空)のなかでしか発現しない
つまり「悟りの境地」は「苦」の対極にあるものではないということですね

しかし難しい
竜樹という人についても調べてみないといけないようです

補足日時:2012/12/23 13:01
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>円寂=涅槃=原初=根本生命という解釈でよいのでしょうか?



お大師さまの語られたこの一節は、文章構成からみれば
上の言葉と、下の言葉が一対になっていると思います。

「行々として円寂に至り」の円寂とは、円寂相というものだと思います。
欠けたところが無い、という意味で、宇宙の実相の全てを指していると思います。
三界と呼ばれる全宇宙・法界のすべてを観た、という事になりますが
これだけでも大変な事を言っているわけです。

「去々として原初に帰る」の原初は、上記の反対の意味で
全てにおける根源的なもの(?)を指しているようです。
その表現は様々で、阿とも、吽とも、六大一実とも、空とも、無我とも、本不生とも、法身とも、宇宙の実在とも、根本生命とも言われているようです。
厳密なところは密教書を参考にしてみてください。

行々として、 そして、 去々として、と言われたあたりに体験的感触があると思います。
客舎とか、本居という言い方にも実感が伴っていると思います。

円寂の相を観た、ということは、常に変わりゆく縁起の世界の実相を観た、ということだと思いますので
大悟を得る前の仏陀の瞑想の内容と等しい感じのように思えます。

原初に帰る、ということは、法身という宇宙の実在に帰入する、といったことだと思いますので
それは、生きながらにして涅槃の境地を体験したことを指しているのだと思います。

円寂=宇宙の実相=法界=三界の全て=縁起・輪廻の全て
原初=宇宙の実在=法身=真理そのもの

原初に帰る=涅槃に入る=成仏、だと思いますが
帰る、入る、成るという言葉が示しているように、それらは全て体験である事を意味しています。
禅定という瞑想体験における、という事になります。

宇宙の実在とか、真理そのもの、とか言うと、対象として捉えられうるといった感じになってしまいますが
それらは智慧の深まりという覚性と共にある真実を意味しているようです。
行深般若というように、より深い智慧に到達すれば、真理と事象は別ではないというような世界が開けてくるのだと思います。

同じものを見ても、人によって、また智慧の深さによって全く違って見えてしまいます。
そのへんのところも、お大師さまは顕教と密教の違いに通じることとして語られています。

私のような生かじりの者には上手く説明できませんので、詳しくは密教書を参考にされる事をお勧めいたします。
ご参考にしてください。

この回答への補足

>円寂=宇宙の実相=法界=三界の全て=縁起・輪廻の全て
>原初=宇宙の実在=法身=真理そのもの

難しい...
とても密教書など自分が見ても理解できないと思います

しかしabout72をはじめたくさんの方から回答をいただいて調べていくうちに、
般若心経の意味については理解できたように思います
といっても実感できるものは何もないのですが...

とりあえず12/30に回答の受付を締め切ろうと思います

補足日時:2012/12/22 22:49
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感想を付け加えてみます。



般若心経は瞑想の体験の描写だと言われていますが
その表現は余りにも分かりずらい感じがします。
矛盾した表現が多く、しかも最後の部分は真言という解説不可能なものまで登場してくるからです。
不翻といって、解説してはいけないとまでされているようです。
こうなってくると、もう仏の智慧の世界であるから、下手な解釈はしない方がよい、といった感じさえしてきます。

改めて、真言行者の体験的言葉あたりを参考にした方がいいのではないか、とも思えてきます。
実修上における空、無我の境地においては、時間、方向、遠近、寒暖の感覚は無いそうです。
また、相互に断絶の無い世界を知るともされています。
行が深まってくると、無相の世界(境地)入っていくようです。
そこからまた有相の世界を観る、といった感じのようです。

般若心経の解説書として名高い、般若心経秘鍵は入門書どころではない超高度な代物という気がしますが
ここでも体験的言葉が出てきます。
「行々として円寂に至り、去々として原初に帰る」
「三界は客舎の如し、一心は是れ本居なり」

「無苦集滅道」を「一心は是れ本居なり」と重ね合わせてみてはいかがでしょう。
「三界は客舎の如し」を加えれば、
全てを見終わって、根本生命に立ち帰る・・・となるような気がします。

「無苦集滅道」、とは、根本生命に立ち帰る、という解釈ができると思います。
お大師さまが語られた、真言は不思議なり・・・から始まる一節は、正に真言行者の体験的言葉だと思います。
私もこの一節だけは忘れることができないものです。

無苦集滅道という根本生命に立ち帰ったところから、再び苦集滅道の世界に戻ってくるというような
利他行の実践の世界が、その先にあるのでしょう。
そこには根本生命のもつ大慈悲心の働きがあるのだと思います。

苦しみの無い世界とは、根本生命の大悲に照らされた世界であるような気がします。

この回答への補足

う~ん難しいですねぇ

>実修上における空、無我の境地においては、時間、方向、遠近、寒暖の感覚は無いそうです。
>また、相互に断絶の無い世界を知るともされています。
このあたりは脳科学者ジルボルト・テイラー博士の講演内容とも一致しますね

>「行々として円寂に至り、去々として原初に帰る」
>「三界は客舎の如し、
> 一心は是れ本居なり」
まったく意味がわからなかったので、かなり時間をかけてググってみました
「行き行きて悟りの彼岸にたどり着き、迷いのこの此岸を去って"空"の悟りの故郷に帰っていく」
「生死が流転する迷いの世界である三界(欲界・色界・無色界)は仮の宿である、
 "空"を本当に悟った心こそ永遠にして不滅である」
との訳を見つけました

円寂=涅槃=原初=根本生命という解釈でよいのでしょうか?

補足日時:2012/12/22 19:34
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ANo.12,ANo.14です。

【無苦集滅道とは「苦を集め滅する道はない」とお読みになるのが正しいと考えます。】とお答えしました。さらに補足が必要のようです。
質問者様は「苦をどのように無くすか・正しく解消できるための方法を得たい」とお望みのようですが、それはふさわしくないようです。そのご努力で苦を滅することは不可能だとの経文です。「苦を無くす道を探したり修行するのは無駄なこと。これこれのことを苦しむ私のどこが間違っているのか?」を追求し、その間違いに気付きさえすれば苦は直ちに解消されるのだとの力強い励ましの言葉だとお考え下さい。「無無明、亦無無明侭」においても同様の論理だとお考え下さい。
うまくお悩みが解消されるといいですね。

この回答への補足

>うまくお悩みが解消されるといいですね。
ありがとうございます

けっきょく般若心経に期待しすぎってことなのかな

補足日時:2012/12/18 12:24
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ANo.12です。

【無苦集滅道とは「苦を集め滅する道はない」とお読みになるのが正しいと考えます。】とお答えしました。少し補足が必要のようです。
「苦はない」ので「苦を滅する正しい手続きもない」のです。「苦はない」ことに気付けばそれだけで「苦がなくなる」のです。どんな手続きも儀式もなしに苦がなくなるのだとご理解ください。「無老死、亦無老死侭」「無無明、亦無無明侭」においても同様の論理だとお考え下さい。

この回答への補足

でもやっぱりこんなことを言う意図が理解できないんですよねえ
あとこれだと感情を押し殺すことになるではないでしょうか?

補足日時:2012/12/17 10:20
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「諸行無常」と「諸法無我」の違いを教えてください。
自分なりに調べてみたのですが「諸行無常」と「諸法無我」の意味や違いが理解できません。できれば具体例をまじえながら説明していただければ幸いです。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるものにあまりこだわりを持つな、地上のものに執着を持つな、ということ。

・諸法無我

これも諸行無常と同じく、地上のものに執着を持つなという教えですが、これは、空間論です。
時間論で、「一切のものが変転していく」ことをとらえているとすれば、こちらは、「一切のものは実在ではない。すべてのものは夢幻の世界である」
という空間の教え、思想です。

この両者いずれも、この世的、3次元的な視点ではなく、あの世からこの世を見たときの視点です。なので、特に後者の思想は、悟りを得ないと解りにくいと思えます。
たとえていえば、この世は舞台劇であり、実在する建物と思っているのははりぼての舞台セット。
出演者はそれぞれの役柄を演じているが、舞台を降りたら(あの世に戻ったら)本来の自分に戻る。
だから、自分が舞台上の役で持っている地位や財産にあまり執着して生きるな、ということですね。
さらにいえば、舞台を降りたら(死んだら)すべてが無になるというのは誤りであり、役者の顔を脱ぎ去った、本来の自分が生きている「死後の世界」に戻っていくので、舞台上のことに執着するなということでもあります。

ちなみに、もうひとつ「涅槃寂静」があり、この3つを三宝印といって、仏教の教えの基本とされています。

・涅槃寂静

時間・空間、そのすべてにおいて、固定的なものは何もない、恒常なるものは何も無い。そのなかで、現にここに存在し、修行をしている私は、いったい何であろうか?という問いを追求し、そして永遠の実相なるものをつかみとってゆく、そこに涅槃寂静の境地が開けてくる・・・。

そして、これらの思想は、無我、空の悟りに通じていくものです。

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるもの...続きを読む

Q戦国時代に乗っていた馬

戦国時代に武将たちが乗っていた馬はテレビとかでみて知っている 大きなものではなく
ずっと体の小さな馬だったと聞いたことがあるのですが 本当ですか?

だとしたら 迫力なくてしょぼい気がしますが…

Aベストアンサー

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできません。実際問題、当時の宣教師が残したものには「ヨーロッパの騎士は戦闘になると馬に乗るが、日本の武士は戦闘になると馬から降りる」と書かれてあります。馬ってのは基本的にかなり「高級な乗り物」なんです。皮膚が弱いので衛生状態をよくして世話してやらないとすぐ皮膚病になるし、水をちゃんと飲ませてやらないと便秘になってフン詰まりで死んじゃう。はっきりいえば、人間より手間がかかるんです。

さて、その日本の馬のしょぼさが明治近代陸軍の最大の問題になります。馬が小さすぎて物資や大砲を引っ張る駄馬はもちろん、騎兵馬がどうにもならない。しかも日本の馬というのは当時去勢されてなかったそうで、優秀な軍馬を集めようと明治陸軍が馬を一堂に集めたら、牡馬が一斉に盛ってしまって収拾がつかない大混乱になったと記録に残っています。
そのため、日本の内国産馬の育成の奨励のため競馬が行われるようになりました。JRAは元々は優秀な軍馬を育てるために発足したのです。
日露戦争でも、コサック騎兵で有名なロシアの軍馬に比べると日本の馬はかなり見劣りしたそうです。そのせいか日露戦争では騎兵同士の会戦というのはほとんど行われていません。日本軍があえて回避したようです。遡って日清戦争のときは「騎兵がしょぼい」のが悩みだったようです。
なにしろ、幕末の日本馬でもポニークラスなのに、それよりやや時代が古いナポレオンの軍隊の騎兵馬ときたひにゃ体重が800キロくらい(ちなみに今のサラブレッドが500キロくらいです)、こんなに大きな馬は日本ではばんえい競馬くらいです。重さ800キロが時速40キロくらいで突っ込んでくるんですから、ほとんど軽自動車が突っ込んでくるようなもんですわ。それを肉体で受け止めるスコットランド歩兵もどうかと思います。ワーテルローのネイ将軍の突撃は、さぞや迫力があったと思いますよ。

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできませ...続きを読む


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