
どなたか詳しい人がいらっしゃいましたら、教えてください
般若心経の中にある一節 「無苦集滅道」の箇所についてなのですが、
これは一体どのように解釈すれば良いのでしょうか?
苦集滅道が無いということは、苦しみから逃れる方法などないと言っているように思えるのですが、
それだと仏教の基本理念?に反するように思います
悟りの境地に達したならば、そのようなことはどうでも良くなるとかそういう意味かな?
解釈の仕方はひとつではないのかもしれませんが、基本的に仏教ではこの点について、
どういう風に解釈されているのか知りたいです
人それぞれ好きなように解釈すれば良いなどといったあいまいな感じではなく、
できるだけはっきりした返答が聞きたいです
自分の宗派、あるいは自分個人としてはこのように考えているというので、もちろんOKです
他の宗派や他人の意見は気にせず、回答者御自身の意見として述べてください
なるべく自信を持ってズバっとお答えしていただけるとありがたいです
仏教について無知な私ですが、どうかご教示くださいませ
よろしくお願いいたします

No.13
- 回答日時:
こんばんはです。
☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
「無苦集滅道」に目がいっていましたが、「無無明尽」や「亦無老死尽」も理解できてないです
~~~~~~
煩瑣哲学(アビダルマ)になるので、あまり踏み込みたくないのですけれども、
仏教の存在の分類法には、
五つの集まり(五蘊):色~識蘊の五つ
十二の認識の門(十二処):眼・耳・鼻・舌・身・意(根)の感覚器官とその対象である色・声・香・味・触(接触)・法(概念的認識の対象になるもの全て)
十八の類(十八界):十二の認識の門と、眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界
というのがあるんですよ。
で、《般若心経》は、
《無無明》の前で、
それらは全て《空》であると、その存在性を否定しています。
つまり、認識の対象、認識の器官、認識する心(の作用)の全てを否定しているわけで、だから、概念的認識を含めて、あらゆる認識は起こらない、起こり得ない、となります。
そして、
認識が成立し得ないのだから、認識や思考などによって得られる《明(知)》(ただしい知識や智慧)もない。
《明(知)》がないのだから、その否定概念である《無明(知)》もない。《無無明》だ!!
このような論理構成になっています。
そして、さらに言えば、輪廻は《無明》によってもたらされるのですけれども、《無明》がないのだから、輪廻もない。生死もない。生死が尽きることもない。
輪廻がないのだから、輪廻からの解脱の方法である《苦集滅道》の《四諦》もない。《無苦集滅道》となります。
☆☆☆☆☆☆
なお、《無苦集滅道》に対応するサンスクリット原文は、
na《無》 duhkha《苦(諦)》-samudaya《集(諦)》-nirodha《滅(諦)》-marga《道(諦)》
です。
なので、《無苦集滅道》は、サンスクリット原文をそのまま中国語に翻訳していることが分かります。
そして、この部分の意味は、「《苦集滅道》の《四諦》は《無い》」となります。
この回答への補足
つまり苦しみなんてのは気のせいなんだから気にしなきゃいい、ということになるんですよね?
でもやっぱりつらいものはつらいし、苦しいものは苦しいと思うんですよ
それも運命としてすべて受け入れよ、ってことになるわけですよね
ほんとにこの教えで救われる人がいるのでしょうか?
なんとなくですけど、歯の神経抜いてしまえば虫歯になっても痛くないから問題なし
って言ってるような気がする
いくら本人が気にしないようにつとめても、やせがまんにしかならないような...
ただこうして般若心経について考えてるうちにふと思い出したのは、以前仲良くなったモルモン教の宣教師の人から聞いた話です
それは死んで地獄に行く人なんてひとりもいないという話です
どんな極悪人だろうが犯罪者だろうが、死ねば皆その人が思い描いた理想の世界に行くのだと
つつましい生活を送っている人と悪人では思い描いてる理想がちがうから、ちがう世界に行くだけのことだと
その場合それぞれの人にとって天国であっても、他の人の行く先は地獄に見えるかもしれません
自分たちは自分たちの思い描く天国にみんなで一緒に行きたいから、みんなで同じ教義を守って生活しているのだと
べつに我慢してつらい生活をしているのでなく、そうしたいからしているだけのことで、すごく幸せだと言っていました
般若心経と関係あるかな?
No.12
- 回答日時:
無苦集滅道とは「苦を集め滅する道はない」とお読みになるのが正しいと考えます。
苦を含めて一切が空であると説いているのです。存在もしない苦を集めたり滅することは不可能です。苦しみも存在せず、苦しんだ私も存在せず、苦しみの痕跡も残ることはないのだとお考え下さい。
同様の論理は「無無明、亦無無明尽」にも認められますね。
この回答への補足
つまり悟りの境地に達すれば苦しみは無くなるから、苦集滅道も必要なくなるという意味ですよね
しかしそうなると疑問に思うのは、ほんとにそんなことあるのかなあ?ということと、
なぜわざわざこんなことを言うのかという意図についてなんですよね

No.11
- 回答日時:
おはようございます。
☆☆☆☆☆☆
No9さんのご意見、すなわち、
《無苦集滅道》の後に、《無苦集滅道尽》が省略されているのではないか、
について、この前後の部分のサンスクリット原文を調べてみました。
結論から言えば、サンスクリット原文を見るかぎり、
《無苦集滅道尽》というフレーズはありませんね。
なので、テキスト的には、省略はないということになります。
なのですが、これ以前の
「無無明 亦無無明尽。」
の部分に省略があることが判明しました。
サンスクリット原文、
「na vidya na avidya na vidya-ksayo na avidya-ksayo」
「明(知)も無い 明(知)のない(無明)も無い 明(知)が滅することも無い 無明がつきることも無い」
つまり、玄奘訳では「明(知)が無い」と「明(知)が滅することも無い」の部分が省略されています。
省略された理由は、《na vidya》を中国語に翻訳すると《無明(知)》、《na vidya-ksayo》は《無明(知)滅》となり、中国語に翻訳された部分はサンスクリット原文と意味が変わってしまい、誤解される恐れがあるからなのでしょう。
とはいえ、玄奘訳の《般若心経》は正確無比です。
むしろサンスクリットから現代の日本語に翻訳されたものの方が、不正確であったり、訳者の考えが混入していたりするほどですから。
有名なところですと、中村元・紀野一義訳《般若心経》の現代語訳は、チョッと××××という声がありますね~。結構、この訳に噛みつく人がいます。
☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
しかしわざわざ無苦集滅道と語る意図がいまいちわからない
悟りの境地に達してしまえば、もうつらい修行はしなくていいんですよ、
だからそれまでの辛抱ですよっていう、励ましの意味合いがあるのかな
~~~~~~
《無苦集滅道》の一文は、確かに悩ましいですよね~。
これをどう解釈するか、非常に悩ましいです。
《苦集滅道》は声聞の教え。《無・苦集滅道》で、大乗の教えは、声聞の教え・小乗の教えより上であることを表明している
僕は、こうした考え方、嫌いですけれども、
このように解釈している専門家や日本の宗教家の人、結構、います。
確かに、他の大乗仏典には、こうした考え方を裏付ける記述や記載は、数多くあるのですけれども。。。。。。
質問者のおっしゃるように、「途中で修行にめげないために」みたいなことを、書いたお経も、僕の記憶によるとあるんですよ(例えば、八千頌(じゅ)般若経)。
「菩薩(大乗の修行者)が途中で大乗の修行を諦めないために、そのためにも、《空》を説くんだ」みたいなことが書いてあったりする。。。。。。
さらに進んで、大乗思想の大成者(?)とされる龍樹のように、
《煩悩即菩提》(煩悩がそのまま悟りなのよ)、
あるいは、
《生死即涅槃》(生死、すなわち、輪廻を繰り返すことが、そのまま涅槃なのよ)
と考えることも可能なのかもしれません。
(空だっけね~、輪廻、生死、菩提に涅槃も。《空》や《縁起》、《相依性》という観点からすると、このいずれも差別・区別はないということになるので)
僕が思うに、頭でいくら《無苦集滅道》の意味を考えても、分からないと思いますよ。
《般若》の智慧というのは、概念的思考から一切離れたところで得られる、成立する《智慧》なので。そして、《般若》は、より完全な《お布施》をするために、必要なもの。そのために身につけるもの!!
この《お布施》は、お寺さんやお坊さんにお金や何かを寄付することではないです。
自分が身につけた《教え》や《知識》を人に授けたり、困った人に食べ物などの物質的な援助をする、世のため人のために橋などを架けたりすることなどです。
そして、その前提になるのが、《空》の教えで~す。
難しいんですよ、《般若(心)経》!!
この回答への補足
>(空だっけね~、輪廻、生死、菩提に涅槃も。《空》や《縁起》、《相依性》という観点からすると、このいずれも差別・区別はないということになるので)
ロジックとしてはそういうことになりそうなものですが、なんだか思考停止というか、あきらめの境地な気が...
「無苦集滅道」に目がいっていましたが、「無無明尽」や「亦無老死尽」も理解できてないです
No.9
- 回答日時:
読み方についてですが・・・
この言葉が出てくる前に
空の中においては 老死も無く、老死が尽きることも無い
と書かれています。
無苦集滅道の後にも、無苦集滅道尽
と書かれているはずですが、省略されているのだと思います。
苦とその解決も無く、苦とその解決が尽きることも無い
と、さらに深く読まれてはいかがでしょう。
空の中において、という体験的前提の基にです。
矛盾した表現を用いたのは、空の概念性の否定だと思います。
これ以上は矛盾した表現を用いる必要はない、ということから省略されたのでしょう。
般若智の体験内容の描写の一部と受け止めていいと思います。
No.7
- 回答日時:
NO.3です。
苦しみには必ず原因が存在し、必ず滅する方法もある。苦しんでいる最中だったり、あまりに煩悩が深いと、なかなかそうは思えなかったりするけれど、迷いが深ければ、それだけ悟りも大きくなるとも言われています。
気の持ちようで解決する簡単な問題もあれば、存在としての人間や、心の本質まで見極めなければ解決しない難題もありますよ。何にせよ、涅槃は生きている間に到達するものです。ってか、死後に涅槃に至った所で、何の救いにもなりませんし。
No.6
- 回答日時:
こんにちは。
▼ (般若心経) 照見五薀皆空
☆ と言うのですから この《空》について解説しているはずです。
またすでに さとりにかんするものとして苦集滅道の四諦という説も出されています。
では 空とは何か?
ここで問題は 言葉で規定したなら その何らかの概念によって内容が定まるというところにあるかと考えます。
《空》と規定したなら その空という意味内容がつきまといます。
シューナターつまり空っぽだとかゼロだとか言うのですから では 色・心(受想行識)は もはやゼロかというツッコミが入ります。
《苦集滅道》と規定したなら この苦なり集なりの概念についてそれぞれいちいち内容が定まります。
さとりの方程式が 無明から明知への逆観としてさだまったなら それでよいのか? と。
いやいや 《空》とは そんなものではない。
▲ 無苦集滅道
☆ だと言った。のだと考えられます。
言いかえると さとりの中身は変わらなくて ことばによる表現の問題に帰着するものと思われます。
色即是空と言ったあと 空即是色とも言いかえているのも 同じく表現のもんだいだと見られます。
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