電子書籍の厳選無料作品が豊富!

どなたか詳しい人がいらっしゃいましたら、教えてください

般若心経の中にある一節 「無苦集滅道」の箇所についてなのですが、
これは一体どのように解釈すれば良いのでしょうか?

苦集滅道が無いということは、苦しみから逃れる方法などないと言っているように思えるのですが、
それだと仏教の基本理念?に反するように思います

悟りの境地に達したならば、そのようなことはどうでも良くなるとかそういう意味かな?

解釈の仕方はひとつではないのかもしれませんが、基本的に仏教ではこの点について、
どういう風に解釈されているのか知りたいです
人それぞれ好きなように解釈すれば良いなどといったあいまいな感じではなく、
できるだけはっきりした返答が聞きたいです

自分の宗派、あるいは自分個人としてはこのように考えているというので、もちろんOKです
他の宗派や他人の意見は気にせず、回答者御自身の意見として述べてください
なるべく自信を持ってズバっとお答えしていただけるとありがたいです
仏教について無知な私ですが、どうかご教示くださいませ
よろしくお願いいたします

A 回答 (23件中21~23件)

これは「法空(ほっくう)」についての教えです。

要するに、苦集滅道(四諦)という真理ですら、苦を因にして成り立つものであって、法にもまた実体は無いという事です。とは言え、こういう話だけでは、まず理解できっこ無いので、例を挙げて説明する事にします。

例えば、嫌いな人が側にいると、いやーな気持ちになりますよね?これは仏教で言う四苦八苦の一つ「怨憎会苦」と呼ばれる苦しみですけど、これが自分の思い込みや先入観が原因で生じたものである場合は、誤解が解ければ「怨憎会苦」からは開放されます。

相手は何も変ってないのに、自分の心の在り方一つで、苦しんだり、楽になったりする。それは相手に「苦」という実体が備わっている訳では無いからです。

苦は苦として独立単体で存在している訳ではなく、飽くまでも因縁によって生じる実体無きものと悟れば、苦しみからは救われる。そもそも苦が認識されなければ集滅道もまた成り立たない訳ですから、四諦という仏法真理にも実体は無いという事になります。これを「法空」と言っている訳です。

真の悟りの境地である「涅槃」の立場からしてみれば、人だろうが法だろうが、全ては縁起して成り立つ実体の無いものに映る。まあ、人無我・法無我なんて言ったりもするんですけど、大体こんなもんだと思って頂ければ、それで十分です。

この回答への補足

「涅槃」というのは、生きながらにして到達しうるものなのでしょうか?
それとも死後の世界の話なのかな?

現実的には、苦しみというのは気の持ちようではどうにもならないように思うんですよね
考え方を変えてみるというのも大事だとは思うんですけど

補足日時:2012/12/13 13:51
    • good
    • 0

こんばんはです。


般若心経ですか。僕が考えるに、般若心経は、もっとも難解かつ、もっとも奥深い経典です。なので、できることならば、この経典にはかかわりたくないというのが、本音です。



般若心経を読み解くキーワードは、最初に出てくる《五蘊皆空》という言葉です。
五蘊とは、色蘊(物質の集まり)、受蘊(感受作用の集まり)、想蘊(表象作用の集まり)、行蘊(潜在意識の形成作用or意志作用の集まり)、識蘊(判断の集まり)です。
なので、《五蘊皆空》は、
色蘊を物質や肉体、受蘊~識蘊を心(の作用)とすれば、
肉体と心は《空》である、肉体と心には実体と呼べるものはなく、因(直接原因)と縁(間接原因)で作られたもの、仮(かり)の存在だという意味になります。

輪廻の主体である《我・アートマン?》を構成するものは、肉体と心以外に考えられず、その構成要素である肉体と心が空なのだから、《我》も《空》である。《我・アートマン》も《空》である。つまり、《無我》!!
輪廻の主体である《我》に実体がないのだから、救済されるべき《我》はない。《我》がないのだから、空という観点からすると、解脱もありえない(解脱する《我》がそもそもないのだから)。四諦・苦集滅道(諦)も成立しない。《無苦集滅道》だ!!

このような論理構成です。

なのですが、これは《悟り》《般若波羅蜜》の境地に立ってはじめて体感できる真理の世界の話です。わたしたちが住む現象の世界の認識においては成立しません。わたしたちの住む世界では、因と縁があれば、事象は起こります、現象は成立します。肉体もあれば、心もあります。迷いや欲望、苦しみもあります。生死も起きます。
般若心経には、《色即是空》とともに《空即是色》と書いてあるでしょう。これはその意味です。

なので、当然、この世に《苦集道滅》の《四諦》はありま~す。
大乗仏教といえども、四諦を頼りに修行し、解脱を目指すということにおいては、ゴータマ仏教と何ら変わりはありません。
しかし、悟ってしまえば、その境地では苦は存在し得ず、苦集滅道の四諦はもはや成立しない。苦集滅道は、その人には成立しない、当てはまらない。《無苦集滅道》!!
また、苦は因と縁で縁起されたもの、つまり《空》だから、因と縁を断つことによって苦は起こり得ず、悟ることができるという図式も成立します。

まっ、こんな感じです。

この回答への補足

やはり悟った後のことになるのですね
しかしわざわざ無苦集滅道と語る意図がいまいちわからない
悟りの境地に達してしまえば、もうつらい修行はしなくていいんですよ、
だからそれまでの辛抱ですよっていう、励ましの意味合いがあるのかな

補足日時:2012/12/13 13:45
    • good
    • 0

悟りの境地に達したならば、そのようなことはどうでも良くなるとかそういう意味かな?


○そうですよ。
四諦八正道は般若の知恵を得るための修行方法なのです。四諦つまり「苦集滅道」は般若の知恵を得た状態、如来の大悟の状態では、必要がないことです。「卒業しました。」と言う意味ですよ。

この回答への補足

なるほど、やはりそういう意味でしたか
でも文脈?としてはややわかりづらいと思うんですよね

補足日時:2012/12/13 13:25
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!