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少し調べたところ、単純に言ってしまえば
「利益は善、正に先立つ」ということですよね?
つまり、いくら不正でも結果的に社会の利益が大になればokってことですよね?
善、正は棚においといて、まずは快楽と利益から考えが進んで結果的に社会の利益が大になればokってことですよね?

素人ですのでたぶん間違ってるとは思いますがよろしくお願いします

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A 回答 (7件)

「単純に言ってしまえば」


そういうのはよくないです。その単純化は適切になされているか? 夏目漱石の著作「それから」を単純に要約した文を読めば、「それから」という著作を理解したことになるのか?
単純化は理解からあまりにも遠い。

「利益は善、正に先立つということですよね?」
正に先立つという話からなぜ「いくら不正でも」となるのか分かりません。かりに功利主義では利益が正に先立つとしても、それは正を無視することではない。なぜなら、公正を重視する人間はいわば利益より公正を選好するわけですから、この選好(ある行為や規則ができるだけ公正であってほしい)を実現することは、功利主義でも重要です。

「いくら不正でも結果的に社会の利益が大になればokってことですよね?」
ある行為の結果が、その行為に関わるすべての存在者の選好充足や快を最大化するとき、その行為を善いとする。これが行為功利主義の基本です。また、利益という観点ばかりではなく、損失や損害も重視します。ある政策が「社会」にもたらす利益が5であり、損失は0だとします。別の政策では利益が7であり損失が4だとします。5対3ですので前者の政策が功利主義的に善い政策です。
利益が大きければ善いという考え方は功利主義に対する誤解を招く最大の要因です。

黒人より白人が多い社会があり、その社会で私が白人であるとき、私は自分が属する白人というグループのことだけを考えればよいのではありません。私が白人であり、白人の利益しか考えないなら、ある社会で白人が多数だからといってそれは公正ではないですよね。そもそも白人のなかにも黒人の利益を重視する人間はいるでしょう。

かりにこの社会にそういう人間がいないとしましょう。つまり、この社会(国あるいは地域)に属するすべての白人が、黒人差別主義者であるような状況。この状況では、黒人の利益を白人の利益より重視したり、同じようには扱わない。
白人が多数を占めるこの社会で、黒人税なんて法案が成立したとします。すべての黒人は黒人であるがゆえに白人より余計な税金を払わなければならないというような法案です。この法案は黒人に損失をもたらしますが白人に損失をもたらさず、さらに経済的な効用も見込まれます。黒人が反発したなら武力弾圧する。
この社会で白人はたしかに「数的」優位にあります。しかしこの法案によってもたらされる黒人の不利益(納税の苦難、反発に対する弾圧)の「総量」は、黒人が数的不利であるがゆえに白人の利益の総量より大きいと一概に言い切れるでしょうか。
数だけでなく量も功利主義では問題になります。そこでまず一人に対する五人の集団リンチを考えます。リンチされている一人の人間は、リンチしている五人の人間に対して数的不利です。ではそれゆえに、リンチによって内臓が破裂したり骨や歯が折れるような苦痛に対して、リンチ行為によってリンチする集団の嗜虐嗜好が満たされるという利益が「量的に」優るでしょうか。たしかにこのリンチによって苦痛を感じるのは一人であり、快を感じるのは五人です。快楽と苦痛を感じる個人の個数で言えばリンチによって快を感じる人間のほうが多い。しかしその快の快の「量」と苦痛の「量」は、数の問題と別なことはわかるでしょう。デコピンとパンチではパンチのほうが明らかに痛い。

白人至上主義社会における黒人税に戻ります。黒人税によって利益を得る白人の「人数」は黒人の「人数」より多い。しかしだからといって、黒人税が社会の成員すべての利益の「量」を最大化するとは限らない。
そして功利主義では、ある存在者が快と苦を感じることが重要なのであり、人種によってその快苦にあらかじめ優劣をつけるような差別主義はとらない。功利主義にはじめて体系をもたらしたベンサムは、動物の利益が重視されるような社会が来るのではないかと予想していましたが、この予想は的中しました。動物の権利の世界宣言がなされ、オーストリアなどのヨーロッパ諸国では実際に法案が可決されたりしています。ジョン・スチュアート・ミルが著した「女性の開放」は、当時の多くの人がミルを変人扱いすることをもたらしましたが、現代の自由主義的な観点ではこうした考えをもつ人が変人扱いされるなんてことはありません。
相対主義を安易にニヒリズムに結びつける人がいますが、相対主義は複数の考えをまったく同列に扱うような平等主義ではありません。ある行為よりも善い行為、ある考えよりも優れた考え、こうした相対評価が、なぜニヒリズムに繋がるのか私にはわからないんです。
また、ニヒリストと呼ばれるニーチェが功利主義を非難していた事実だけでも、功利主義がニヒリズムとは異なるのではないかとあらためて考えるために十分です。

量と数の違いがついていないように思われましたので、とりあえずその違いを意識できるような回答をしてみました。また、功利主義という理論の骨子である、快と苦を感じる存在者という現実的な観点が損なわれているように思われたので、そこも加味して書きました。
私が思うにこの回答の批判的な疑問としては次のようなものがあります。参考までにどうぞ。
デコピンとパンチではたしかにパンチのほうが痛いけど政策における利益や損失をどのように計算するのか。ある行為に関わるすべての存在者と言うがどこまでが「すべて」なのか、どの範囲まで考慮すればよいのか(ある国が黒人税を導入するさい、それによって複数の他国から非難されたりして外交関係が悪化するなら、黒人税はその国の白人にとっても損失を招くだろう)。
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この回答へのお礼

あなたはとても賢いようだ。
しかしあまりに賢いがゆえに大きな過ちを犯している。
人間はそこまで深くは考えないということだ。
そして人間は答えの宙吊り状態には耐えられない。
わかりやすい方に流れてしまう。

君は相対主義は平等主義にはならないと言うが、果たして相対と言われた人々が周りと優劣を計ろうなどとするだろうか?相対主義の世界で誰も評価してくれない相対評価など誰が喜ぶのだろうか?

利益や幸福の質など時と場、その人の心情や価値観でころころ変わってしまう。
しかしそれに比べ、量は非常にはっきりしている。
そのため人間は質に力を与えることが出来なかった。
ゆえに功利主義は机上の空論に過ぎなかったのだ。

その上、功利主義には意思が介在していない。
それゆえ皆が、量と言う発泡スチロールの神の信託のままにしか生きられず、
人々が考えることを止め、快楽と欲望のままにしか生きられない、
マイノリティに厳しすぎる社会が確立されてしまう。(まるで今の日本のようだ)
この功利主義の行き着く先はニヒリズムと言う破滅の世界しか待っていない。

動物の利益が重視されるような社会?
君は今の飲食業界がどのような状況になっているのかをちゃんと知るべきだ。

お礼日時:2013/04/28 04:25

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こんばんは。

私はしろうとなので、しろうとの考えを
述べさせていただきます。

功利主義が何であるかは、申せませんので、功利主義の
弊害について申し上げます。

ひとつの事案として、
日本では、原発を推進してきました。そして、経済活動の
機械化に伴う、使用電力の増大は、広く容認されました。
これにより、技術革新は加速され、私たちは、電気的に
豊かな生活を手に入れました。

相対して、クリーンエネルギーの開発は、遅れてしまいました。
クリーンエネルギーの普及を待たずに、すぐに使える
便利さだけが、国民ウケしたからではないでしょうか。

この事案では、中立な判断者の意見が、無視された可能性
が、なきにしもあらずです。

私はしろうとなので、これ以上は申しませんのであしからず。
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結構調べましたが、それでも単純に言ってしまえば




「善には利益を与えることが正しい」ってことです。



宗教が世界を支配していた暗黒時代においては、この思考が
そもそも無かったんです。

なんで?というと、そもそも「幸福になる」ということを
どう捕らえるかの違いがあります。たとえば、とある宗教の考え方では
「生きている間に苦労をすれば、死後に幸福になる」と
対価が死後に設定されています。ここから、生きている間の快楽は
人を堕落させると設定して、結果的には、生きているうちの
不幸を積極的に肯定していたわけです。



でも、よくよく考えると、ちょっとおかしい。
死んだ後に対価が来たら受け取れないですよね。

こういう当たり前の、1000年以上封印されていたツッコミを、
功利主義者達は主張したわけです。
死んだ後には何も受け取れない。では、人間はいつ、幸福になるべきなのか。
功利主義者の回答を極端に単純に言ってしまうと



「今でしょ」


ってことなんです。
死後じゃなく生きているうちに評価されるほうがいい。
人間の不幸を肯定してしまっては改善しない。
生きている間の幸福は、決して堕落などではない。
架空の死後の幸福にじゃなく、現実に存在する生者にこそ、
幸福を与えるべき。

こうして宗教によって奪われていた、当たり前の考え方を取り戻した人類は
宗教を破却し、爆発的に発展することとなったわけです。




ところで中世という社会の運営において、宗教の規範は
「○○が正しい。正しくないと言うやつは人間じゃない。」という設定をしました。
これは社会の運営においては楽チンですよね。
正しくない、ってやつを火あぶりにしちゃえばいいわけですから、
反対者がいなくなります。



こうした蛮族の風習は功利主義者達によって論理的に否定されていきましたが、
じゃあ社会をどういう風に運営したらいいの?ということになったわけです。
そこで示された基準が、学校でも習ったかと思いますが、
「最大多数の最大幸福」であったり、「夜警国家」であったりします。



どういう考え方かというと、生きているうちに幸福を、といっても
好き放題教会が考えを設定しても文句を言えない死者と違って
現実に話すことができる生者は人それぞれ考え方が違うのですから、
そもそも幸福というのは、宗教のように一律に決めてはならないですよね。
とすると、各人に判断してもらうのが一番だよね、ということになります。


そこで、○○はイイネ!××はダメ!、合計した△△はいい効果が大きいね、と
こういう計算を各人にしてもらって、最終的には社会の運営者は計算の結果を
他人に強制するわけではなく、後押しするのにとどめよう、としたわけです。


ですから、最大多数の最大幸福、は社会の利益に従え!という発想を否定するための
発想なんです。つまるところ、旧来の宗教のような、絶対的な社会を想定したままだと、
真逆の誤解をしてしまうんじゃないかなぁ、と思います。
功利主義は社会(旧世界においては神)じゃなく、人間の方に主体を置いているわけです。
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その問いは、行為功利主義か、規則功利主義かという議論と同じようです。




wikipediaより

『両者は功利原理(利益=善)の対象が異なる。前者は行為が利益をもたらすか(「それをすれば利益があるか?」)を基準にし、後者は「規則」(「皆がそれに従えば利益があるか?」)を基準にする。

例えば、行為功利主義では「貧しい人が子供のために食べ物を盗む」のは子供が助かるからかまわないとし、規則功利主義では「子供のためなら食べ物を盗んでもよい」という規則があれば窃盗が横行して治安が悪くなるからいけない、とする。』


ということで、功利主義にもいろいろ派生した思想がありますので、一概のどうとは言えないようです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9F%E5%88%A9% …
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功利主義というのは、ヒュームやホッブスの思想を基にベンサムが体系化した考え方です。


その特徴は、「功利」をタダの個人に帰せるのではなく社会という公の場に適用したところにあります。
その最もたるのが、「最大多数の最大幸福」という言葉です。

これは、できるだけ多くの人が幸福になるように行為する事が善であるという思想です。
つまり、功利主義でいう「利益」というのは、個人が得られる「利益」だけではなく、公共社会の「利益」で無ければなりません。
では、「共同体の利益」とは何か?
それは、「共同体を構成する人々の功利の総和」であるとします。

「総和」というのは、足し算ってことなので、「功利」は数値化できるとしました。
それをベンサムは「快楽計算」と呼び、次のような原則を適用しました。
快楽と苦痛とをそれぞれプラスとマイナスで表し、(1)強度(2)持続性(3)確実性(4)遠近性(5)生産性(その他の諸快楽ないし諸苦痛をもとなう可能性)(6)純粋性(反対の種類の感覚を伴わない可能性)(7)延長性(それがおよび人数)という快苦測定のための7つの尺度によって数量化しながら、それを差引計算して、あらゆる行為や存在の、個人にとっての価値(功利)を判断することができる、としました。

>つまり、いくら不正でも結果的に社会の利益が大になればokってことですよね?

いいえ、不正(=苦痛が増大する行為)を行った場合、功利の総和が減少するので、そもそも「社会の利益が大」になることはありません。
つまり、行為の善悪を決定付けるのは、その行為の内容ではなく、その行為の結果が功利を増大すれば善であり、逆なら悪ということです。
例えば、国の公共事業で道路を作る場合、それが社会の利益を増大すれば正しい政策であり、逆であれば正しくない政策ということです。

功利主義の最終目的は、あらゆる法律の目標でもあり社会制度の究極の基準です。
なので、功利主義における善悪・正、不正は時に一般的な倫理的道徳的な 価値判断と違ったりします。


以上が、主にベンサムの功利主義です。
ではでは、参考になれば幸いです。
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こんばんは、素人です。




(自由というのは)「他者に迷惑をかけない限りで、自由だ」というのが、J.S.ミルの「自由論」と思います。その上で、「「自由」が最大限に認められれば、「最大幸福」だ」というのが、功利主義なのでは。

「不正」は、他者に迷惑ですよね。
(1人の臓器をみんなで山分けすれば、みんなが幸福=「功利主義」てのは、論外・暴論)
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Q最大多数の最大幸福とは?

ベンサムの有名な言葉に「最大多数の最大幸福」がありますが具体的にはどういう意味でしょうか?

私は大学入試のセンター試験で倫理を選択していた時にこの言葉を知りました。
この言葉が意味するところは少数の人が不幸になろうとも、
その行いで大半の人が幸福になるのであればそれが社会的
に一番いいと言っているのでしょうか?
しかしこの意味だとあまり「教育的」でないので教科書には載りにくいような…。

本当のところどういった意味なのでしょうか?

Aベストアンサー

ベンサムは、人と人の間には利害の衝突があり、全ての人が幸福になることはありえないので、少数の犠牲があってもできるだけ多数の人が幸福になることが全体の幸福であると考えました。つまり、理想論としてではなく、現実問題としての幸福論を唱えたわけです。
しかし後に、少数者が多数者に抑圧される危険性や、少数者の犠牲者が被る不幸が大きい場合は全体の幸福が減少してしまうことに気付き、晩年になって定義をこのように変えました。

「その社会の成員の最大幸福。すなわち、出来ることならば彼ら全員の最大幸福。また、多数者のより大きな幸福のために少数者の幸福の一部を犠牲にすることが不可避であり、彼ら全員に等しい幸福を分け与えることが物理的に不可能な場合は、彼らのうちの最大多数の最大幸福。」

つまり、まず理想を掲げ、それが無理なら従来の「最大多数の最大幸福」がベターだよ、とすることで、より完全な定義にしたのです。

・・・という内容が、参考URLに書かれてありますので、詳しくはそちらをどうぞ。

参考URL:http://tcc.umin.ac.jp/~kodama/bentham/bentham12oct96.html

ベンサムは、人と人の間には利害の衝突があり、全ての人が幸福になることはありえないので、少数の犠牲があってもできるだけ多数の人が幸福になることが全体の幸福であると考えました。つまり、理想論としてではなく、現実問題としての幸福論を唱えたわけです。
しかし後に、少数者が多数者に抑圧される危険性や、少数者の犠牲者が被る不幸が大きい場合は全体の幸福が減少してしまうことに気付き、晩年になって定義をこのように変えました。

「その社会の成員の最大幸福。すなわち、出来ることならば彼ら全員...続きを読む


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