プロが教えるわが家の防犯対策術!

昨年67歳という若さで母が他界してから、なんとなく生きることへの意味とか、漠然と考えはじめました。
鬱とかそういう状態ではありません。

母の死から、なんだか全てのことが取るに足らないことのように思え、変な気分です。

ちなみに、母は人格障害で、私の人生はかなり母にコントロールされ、母に対する慕情などはありません。ただ、人生を楽しもうとすると嫌がらせ、邪魔をされ続けてきたので、40歳という年齢になり、なんだか虚しさだけが募ります。子供もいないし、結婚もしていません。(パートナーはいます)

たとえば、ジュエリーにも興味があったのに、どうせ遺産として子供にいつか譲る、ということもないのに、と思うと、購入意欲がなくなる、というよりも「無駄」と思ってしまいます。
家も、「どうせあと30年ほどで死ぬのに、ローンを組んでアクセク…子供がいるわけでもないのに」と思ってしまいます。賃貸で後に残さない方が、残された側のいざこざもないし、特に残してあげたいと思う親戚がいるわけでもない。

それどころか、最近では食器、道具、日用品に至るまで「どうせ死ぬんだから」と思ってしまうようになりました。でも、100円ショップでいいや、とも思えないのです。

いいものを少しずつ持ちたい、と思っていましたが、その少しずつのいいものでさえ「どうせ死ぬ」という気持ちが働き、日常生活が楽しくありません。

残るは、旅行や趣味など、後に残さず思い出や自分の内部に留まるものだけ、となります。

同じような気持ちになったこと、ありますか?
物を買うとき、こういう気分になることはありませんか?

A 回答 (14件中1~10件)

なるほど、確かに深く考えてしまうことはありますね。


人間ならば誰しもが死について考えると思います。
私もいつもではありませんが、どうせ死ぬのに何やってんだろーと思うことはありますよ。
例えば仕事。
「生きるためになんで死に物狂いで仕事しなきゃいけないんだろ」とか、「仕事をするために生まれてきたのかよ」とか…。
たぶんあなたの心理は、死というものが大きすぎて他のものがちっぽけに思えてるんですね。
私も人間そのものの行動がちっぽけに思えてしまうことがあります。
人と人が接するとか、人が歩くのを高台から見下ろしてる時とか…なぜかそんな当たり前のことですら不思議に思います。
その人間のシステム?っていうんですかね、それがくだらねーとか思ったりします。
でも、それが人間なんですよね。

あなたは今、上の空なのかもしれません。
疲れてる時や現実から逃げたい時なんか、宙に浮きやすいと思います。
でもそれって当たり前だと思いますよ。
生きることや死ぬことを考えるのは、人間だからなんです。
まぁ、今を生きてないというのはあるかもしれません。
けれど、時には立ち止まることも必要なのです。
いつも前ばかり向いていては、疲れてしまいます。
今のあなたには休息が必要なのかもしれませんね。
いや、休む時期なんです。
今までずっと歩き続けて、疲れてしまったんですね。
だからこそ、何をするにしても意欲がない。

私も服やジュエリーが大好きで一時的はそればかり考えてましたが、ある時どうでもよくなりました。
やはりそれは、精神的の波に影響されるからだと思います。
今でも服なんかどうでもいいやとか、化粧なんかしなくていいやと思います。
それがずっと続くわけじゃありませんが、そういう時期なんです。
なので、ムリに前を見る必要はないと思いますよ。
そういう時期があると、そういう自分がいると受け入れてあげてください。
今は楽しいとか楽しくないとかは考えず、自分の落ち着く時間を過ごしてみましょう。
ちなみに私は、ひとりでいる時間が一番落ち着きます。
とくに何をするわけではないけれど、そういう時間は大切だと思います。
とにかく今は、ゆっくりと心休まる時を過ごし、自分をいたわってあげてましょうね。
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この回答へのお礼

ああ、すごく理解してもらえてる気がします。それに、私が感じてる部分が同じだ、とかなり共感してます。

そうですね。今まで、母親のご機嫌ばかりが優先されて、自分の人生をちゃんと生きて来なかったんだとおもいます。
それに遅ればせながら気づいて、もう、どうにでもなれ、遅いんだ、と思ってる自分もいます。
でも、ある意味楽になれた気もしています。

結局、バリバリ働くのも、今の生活を支えるためで、やり甲斐とか社会に役立ってるとか、かなり意識できる仕事ならまだいいと思うんですが、休みに映画を観にいったり、ジュエリー買ったり、バッグ買ったり。20代、30代は家がすごく欲しくて、そのために働いて貯金するんだ!って気持ちもあったけれど、今は所詮ただの空間、としかおもえません。
自分の家と言えど、借金払えなくなったら売らなきゃいけないし、マンションなら一生管理費、修繕積立金、固定資産税だのかかり、年取ったら賃貸に住まわせてもらえない、とか周りに煽られるけど、子供いないのに、死んだらほとんど会わない親戚のものになるんだな、とか、へたに色々持っていると面倒なこと増えるな、とか思ってしまいます。

そう考えると、禅僧のような生活になってしまいますね。

私も、一人でいる時、とっても落ち着きます。
でも、孤独を感じることもあります。
でも、人間家族がいても、子供がいても、所詮は一人だと思っています。

でも、あなたの言葉に救われたような気がしました。
ありがとう。

お礼日時:2013/03/11 00:14

こんにちは。



30代半ばの女性です。
私も、質問者さまと少し同じように感じているかもしれません。

>いいものを少しずつ持ちたい、と思っていましたが、その少しずつのいいものでさえ「どうせ死ぬ」という気持ちが働き、

20代の頃は、客観的に見て価値のあるものも、欲しいと思ったら購入していました。
しかし30代の今は、客観的に見て価値のあるものは、手放したくないものでも手放すように(価値のわかる人に譲るように)しています。また、はじめから購入しないようにしています。
このような意識になったのは、この年齢になって、自分の人生の終わりが、見えてきたように感じているからかもしれません。
自分がいつ死んでも、客観的に見て価値のあるものは、この世に受け継がれていってほしい、受け継がれるように準備しなければならないという義務感を感じているのかもしれません。

>日常生活が楽しくありません。

私も、そう感じるようになったかもしれません。
しかし同時に、気分が楽になった部分もあるようであり、何事も余裕を持てるようになったような気がします。
例えるなら、入学したての高校生と、卒業間近の高校生の、気分の違いでしょうか。。

>残るは、旅行や趣味など、後に残さず思い出や自分の内部に留まるものだけ、となります。

以前は、出かけるのも面倒くさい・・と思ったりしましたが、最近は、体験できるものはできるだけ体験しておこうという気持ちです。
また、思いでなどは、できるだけ写真に残すように、と考えるようになりました。

回答者さまの求めている回答でなかったらすみません。
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この回答へのお礼

ああ、私と同じような方がいて、そんなに珍しい感情でもないんだな、と思いました。

私も、20代は仕事もプライベートも突っ走っていて、時計、ジュエリー、バッグ、海外旅行、と次から次へと欲しいと思ったら手にいれて来ました。
人間に寿命があるように、物にも寿命がある、と思い始めちゃったんですね。
一生ものと思って背伸びをして手に入れた時計もバッグも、今にして思えば取るに足らないものに思えます。一生ものなんて、この世には存在しない、と気がついたというか。

あれ程お金に執着していた母も、67歳になってもなお、お金にしがみついていたのはなぜだろうと…
私のような心境にはならなかったのだろうか、と…
もうこの世にはいないので本人に聞けませんが。

私も、価値のあるもの、受け継いでいってもらいたいものは、年齢や自分の体調などをみながら、わかる人に譲っていこうと思います。


もう、極力、こんな風に思わないように、身軽に生きて行きたいです。

お礼日時:2013/02/23 15:29

#3です。



>とすると、必要最低限のものしか買わない、ということでしょうか?
>とくにモノに対してコダワリも持たない方ですか?
>
そうですね。必要と思うものしか買わないですね。
ただ、自分にとって必要なものなので、他の人から見たら
そんなのいらないよ~!と思うものもたくさんあるでしょう。

ものに対してのこだわりは、あるものとないものがあります。
服とか車とか見えるものについては、自分はどう見られたいか?
というところでこだわりは持ってますね。

「どうせ生きてるんだから、楽しく生きたい」ってのが、自分
の思うところかな。
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この回答へのお礼

質問にお答えいただいて、ありがとうございます。
なるほど!と思いました。
私は、車は動けばいい、というレベルでこだわり全くなし、服は完全に自分が着たいもの、好きと思えるもので、他人の意識を気にしていませんでした。ということに気がついたのが発見です。

お礼日時:2013/02/23 15:20

>>鬱とかそういう状態ではありません。



と書かれてますが、「うつ状態」だと僕は思います。

治る見込み無ければお早めに病院に!

病院いくことさえ、意味のないことのように既に感じてしまう状態だったり・・・・
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この回答へのお礼

かつて鬱だったこともあり、鬱がどういう気分になるか、身を持って知っています。
今、鬱の苦しみは全くないし、定期的に行く医師のカウンセリングでも、病気は認められていません。

お礼日時:2013/02/22 22:34

質問者さんと同じような気持ちになったことあります。



なんとなくわかる気がします。
私の場合は、旅行や趣味でさえも、自分にそんな思い出や経験を増やしたって何になるの?
と思っていた気がします。
友達付き合いさえも意味のないものに思えたことも。

そんな時は、そのままでいいと思います。
きっとご自分を初期化したいんだと思います。
一度、そぎ落とせるものはそぎ落としてみては如何でしょうか。
それでも残るものを見てみると、質問者さんの人間性が現れるかもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「死」をつきつめると、宗教に走ってしまうのでしょうね。
答えがないものだから、私は宗教をもっていませんが。

たしかに、時間に身をゆだねるときなのかも知れません。

ただ、ひとつ気になるのは、私はいい意味で好奇心旺盛、悪い意味で欲が深い人間なのでは、ということです。というのは、今の職場でも、後輩は「趣味なし、こだわりなし」を公言していて、そのことに退屈してもおらず、毎日淡々と暮らしていて大満足なのだそうです。

私は、そういう生活ができません。
毎日淡々と暮らしてはいるのですが、焦る気持ち、退屈な気持ちがぷくぷくと湧きあがってきます。

同じ趣味を持つ仲間を持って、友情という貯金をしたいです。

お礼日時:2013/02/22 16:11

他の回答者さんへのお礼文を読み感じたことです。


あなたが悩んでしまうのは無駄な物欲があるからではないかと。
身近な人の死をきっかけに、シンプルな生き方にシフトチェンジする人もいるかと存じます。
私の場合、病になり死を意識したことでそうなりました。
でもそれにまつわる悩みはないんですよ。
こういう境地になるのは自然の流れだと思うからです。
私の父は買い物依存症でした。
退職後自己破産に追い込まれてもなお、物欲は旺盛でした。
亡くなった後遺品を整理をしていたら、新品の状態の物が押入れから沢山出てきました。
どれもこれも高価でした。
どうして使いもしない物を買い続けたのか。
私の想像ですが、お客さんだとお店の人にチヤホヤされるじゃないですか。
それが嬉しくて不要な物を買っていたのだと思っています。
あなたもそうじゃないですか?
100均じゃあ店員さんはチヤホヤしてくれませんものね。

自己肯定感を持てないまま大人になってしまったのではないですか?
お母さんにひどい仕打ちをされても何も感じない振りをしつつ、ずっと自分の感情を押し殺してきたツケが、今になって心身に影響を及ぼしているんですよ。
お母さんとは共依存関係だったのです。
私からのアドバイスですが、一度カウンセリングを受けてみて下さい。
誰かに吐き出した方が良いと思いますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
実は、2年前から家族関係専門のカウンセリングを受け、色々な葛藤と気づきを経て、今にいたります。担当の人には「そろそろ卒業だね」と言われています。
カウンセリングを経た今の自分での境地です。

お客さんとしてチヤホヤされるのが嬉しいというのは私の場合はありません。
なぜなら買い物のほぼすべてが、ネットだからです。
買い物依存症に言われる、買ったあとの後悔、というのはありません。だけど、買い物をしているとき、買いたいものを探しているとき、私はすごく満たされています。その意味で、買い物依存症もしくは予備軍なのかもしれません。

<自己肯定感を持てないまま大人になってしまったのではないですか?
お母さんにひどい仕打ちをされても何も感じない振りをしつつ、ずっと自分の感情を押し殺してきたツケが、今になって心身に影響を及ぼしているんですよ。

そうです。まさにその通り。
少しずつカウンセリングと本などで、「気づき」の作業を進めています。

中流階級の、躾に厳しく「良家の女子」に仕上げた、と思っている親でした。私も、自分の家が虐待にまみれた家だなんて、思ってもみませんでした。それに気がついたとき、否定もしましたし、信じようとも思えませんでした。カウンセリングなんてアテにならない!と。

でも、時間をかけて自分に向き合い、それを認め、受け入れた時点で自分の人生が始まったような気がしました。母が死んだ後ですが。

自分の悩みや苦しみは、カウンセリングで吐き出しています。
吐きだして、吐き出して、苦しんでのたうちまわって、今、浄化されつつある自分がここにいます。

買い物依存症的な部分があったことは事実ですが、今回質問した「無駄な気持ち」というのは、なんだかちょっと違う気がします。前の方の回答に書いた母の逸話が、原因しているのかもしれません。

お礼日時:2013/02/22 14:37

40歳女性です。


持病で危篤になり、救急車で運ばれて
医者から余命1日と言われて
(一命を取り留め生きています。)
入院生活をして以来
生きて行くのに必要な物は思ったほどいらないんだ
と気づきいろんな物を処分しました。
生活するのに最低限なものだけになりました。
アクセサリー類も100均や安いものを買います。
若いときはアクセサリーをつけなくても
若さがアクセサリーなのでいいのですが
40歳になると老いが見えてきますのでつけるようにしています。

生活に潤いをもたらすのは家族と友人とペットです。
今充実した生活を送っていてとっても幸せです♪
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この回答へのお礼

母が白血病で死んだとき、
父の年金も母が全部管理し、母名義の貯金に移されていました。
銀行口座をいくつも作り、慣れない投資で大損していたことも知り、いくつもの証券会社の口座もあり、ものすごく後片付けが大変でした。

お金への執着がものすごく、お金のためなら父や私に何をしてもいい、という人でしたので、
私はそれに反発するように生きてきました。
でも、反発するがゆえに、お金のことを意識せざるを得ない人生だったような気がします。

父が先に逝くと誰もが思っていた矢先の発病で、父の遺産も、放棄してくれと中学生の私に泣いて頼んできたような母でした。父の口座にお金を残すと、遺産配分で私にわたってしまうと恐れたのでしょうか、綺麗に母の口座に移されてました。父もお金の面では虐げられた一人です。

しかし、母の死後、隠していた財産はすべて父の元に戻りました。
(もともと、父のものだったんですけど)

500円玉貯金やら、着物やら、器やら、色んなものが出てきました。

その時、「アホらし」と思ったんです。

どうせ死ぬんだから。死んだらお金なんかあの世に持っていけないんだから、って。
お金やモノにしがみつくと、母のような天罰がくだる、と思ってます。

お礼日時:2013/02/22 14:29

あなたは、理性的で、論理的なんですね。



理性的で、論理的ということは、生きていく上では
非常に大切なことだと思います。
しかし、これが行きすぎると、物事を損得勘定でしか
見なくなるので、それが問題だと思います。

>「どうせ死ぬんだから」

これを論理的に突き詰めていくと、
どうせ死ぬのに、生きてて意味があるのか?
今、死んだって一緒だ、みたいな話になっちゃうと
思うんです。

でも、感情論で考えると、いや、死にたくない、でも、
死が避けられないなら、せめて、自分の好きなように
生きたい、ってなるんじゃないでしょうか?

生きていくには、論理も必要だし、感情も必要です。

人は生きていく上で、何を求められているのか??

自分は神様じゃないのでわかりませんが、
自分は、自分を満たすために生きてる、生かされてるような
気がしています。

ただ、そう考えていくと、理性的な生き方からは、どんどん
離れていくんですよね。(笑)

大体、楽しいものって、くだらないものだったり、合理的じゃないもの
だったりするんですよ・・・。

だから、それはそれで、いいんじゃないの?って思ってます。

>ジュエリーにも興味があったのに、どうせ遺産として

損得で考えるからですよ。
損じゃないですよ。
買うことによって、あなたの心は満たされるのです。

>どうせあと30年ほどで死ぬのに、ローンを組んでアクセク

あなたが賃貸が好きなら別ですが、
一軒家で暮らしたいって思うなら、暮らした方がいいんですよ。
心が、満足しますから。

>最近では食器、道具、日用品に至るまで

欲しいものを買えばいいんですよ。
心が、満足しますから。

>残るは、旅行や趣味など、後に残さず思い出や自分の内部に留まるものだけ

旅行や趣味だって、どうせ死ぬのに、行く必要も、やる必要もなくないですか?
でも、違うでしょ?
行きたいし、やりたいでしょ?
なら、やればいいじゃないですか?
自分の気持ちが満たされるんですよ。

>物を買うとき、こういう気分になることはありませんか?

わかります。
いままで、そうでした。
理性的に、合理的に生きてきました。
正直、つまらなかったです。

車とかでも、ほんとに欲しい車があるのに、燃費がどうだとか、
コストパフォーマンスがどうだとかにこだわって、買ってはみたものの、
いまいち、満足感がない・・・・。

理性的、合理的がいいと思い込んでいたのです。

でも、自分も40歳を越え、死ぬんだってことが、実感として
感じられるようになりました。悲しいですけどね・・・。

でも、悲観的になるんじゃなくて、むしろ、ポジティブに
なりました。

どうせ死ぬんだからこそ、好きなもの食べて、好きなもの買って、
好きに生きる。

ようやく、気持ちの中で、割り切れたっていうかね。

だから、今までの人生より、今の方が楽しいです。

自分は結婚はしてますが、子はいませんし、作るつもりもないです。

なので、稼いだ金は全て自分で思うように使えます。

あっちには、持っていけませんので、好きなように使いきって
死にたいです。

死んだら、損も得もないですからね。

あなたも、感情的に生きてみたらどうでしょうか?

難しく考えないで。

きっと、毎日が楽しくなると思いますよ。(笑)
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この回答へのお礼

ああ。なんか今の私の心に一言一言が染み渡ります…

20代まで、私はむしろ感情的な人間でした。論理的思考なんてまるで持ち合わせていなかったし、そんな風に言われたこともありませんでした。むしろ感情がいつもむき出しになるような…

それから酸いも甘いも経験し、気が付いたら「あなたは論理的な人だ」と他人に言われるような人間になりました。自分ではそんなつもりはないんですが、実際にそうなんだと思います。

たしかに、面白おかしいことって、お金じゃなかったりくだらないものだったりしますよね。

自分が、好きって思えるものを直感だけでやってみる、っていう練習をしようと思います。

お礼日時:2013/02/22 14:22

そういう気持ちになることはないですが、気持ちはわかるような気がします。



ようは、残したいと思う相手がいないってことでしょうね。
それが特定の人であって、不特定の人であっても、人は誰かに何か残したいと思うものだと思います。
それが生きる意欲にも繋がりますし、生きる意味そのものにもなります。

ご質問者様の場合は、その相手がお母様だったのでしょう。
ただ、正確に言えば別にお母様のために何か残したかったわけではなく、何か残すことでお母様のそれまでの仕打ちに抗おうとしていただけなのでしょうけど。

ご質問者様にとっては、良いモノを買って、良い暮らしをして、そうやって自分の生活を充実させることが、締め付ける母親に対する当て付けだったのだと思います。
その母親がいなくなり、張り合いがなくなってしまったのでしょうね。
でもまあ、一時的なものであって、そのうち他に張り合える人が出てくると思いますよ。

ご参考まで。
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この回答へのお礼

<それが特定の人であって、不特定の人であっても、人は誰かに何か残したいと思うものだと思います。
それが生きる意欲にも繋がりますし、生きる意味そのものにもなります。

すみません、これは、今の私にはまだわかりません。

<良いモノを買って、良い暮らしをして、そうやって自分の生活を充実させることが、締め付ける母親に対する当て付けだったのだと思います。

深層心理ではそうなんでしょうか?ただ、次から次から、欲しいものが出てくる、といことはありましたが…モノがなくても充実した人生なら、そうならないはずですね。

お礼日時:2013/02/22 13:23

ありましたね。

引っ越しの度に思いました。

どーせ引っ越ししたら使わずにダンボールに入ったままだし。

って言う物が沢山あって処分して引っ越し。

今は最後の住処?に辿り着いたので増えていってますが・・。

趣味で人生満たされてると思ってますから自分が楽しめたら良いのでは。
それを売却しても良し、思い出として残す、財産として来世へ繋ぐのも良し。
私も40代、パートナーはいますが結婚はしていません。

物を買うときは自分が本当に欲しい物!しか考えてません・・・。
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この回答へのお礼

断捨離って流行ったとき、最低限の食器や必要なものだけ残して、すべて捨てる!みたいなことを先駆者の方が仰っていて、そんな生活ができたらどんなに楽だろう、と思う一方、
「どうせ死ぬのに」という思いがある裏側で、物欲は消えることはありません。

趣味で人生というか、人の輪が広がっていくことが、今の私には必要な気がします。

お礼日時:2013/02/22 13:21

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