【大喜利】【投稿~9/18】 おとぎ話『桃太郎』の知られざるエピソード

ダジャレの一種でしょうが、ダジャレが面白いというのはどういうことでしょうか。また蜂蜜を888と書くのもダジャレでしょうか。

A 回答 (6件)

だじゃれって面白いですよね。

なぜ面白みがわくのか?というご質問ですね。
言葉遊びという面がありますね。瘤取り爺さんを小太り爺さんというのは 書き言葉のだじゃれでしょうが、お伽話の笑われ役が小太りした平凡なじいさんだった(かもしれない)というとっぴょうしもない連想の妙から面白みが涌いてくるのでしょうか。>蜂蜜を888と書くのもダジャレでしょうか。
だじゃれだといえるでしょう。はちみっつですからちょっとずれた感じからくる意外性でしょう。だじゃれというのはある言葉からあっと驚くような関連性を示すことでナンセンスな驚きを人に与え、テンションを急に緩めるーカックン、とか、どっとよろめく、笑いの本質である気の緩みを見せるギャグと同等のおあそびなのですね。

ご参考になれば。
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この回答へのお礼

本質的なご教示だと思いました。ご教示ありがとうございました。

お礼日時:2013/03/09 05:26

言葉というのは物事を概念に換えて表わす物ですよね。


言葉というのは常に「意味」と不可分と思われて、意味を表わしたり、自分や誰かの意思や考えを表わす道具だと思われています。

しかし言葉というのは発せられてしまったら発した者の意志に関わらず存在する「物」にもなってしまいます。

私たちは普段は意味に縛られて「言わんとすることは何か」というような読み方・聞き方を強いられています。
しかし、シャレ・駄ジャレは同じ音の並びで全くかけ離れた物を瞬時にくっつけて見せます。それによって関連性で見てこなかった概念がぶつかり合い・同居してしまうのを楽しむわけです。
これは実際の物質と違って簡単にそういうことをやってのけられるという言葉という物ならではの特質を活かしている芸当なわけです。
写真のように図像や絵の世界でも関連性を持たない物をくっつけて生じる「無意味」や意外性を鑑賞する技術はあります。(モンタージュ、コラージュなど)
これに快感を感じるというのは普段の(既成の)意味性だけに縛られた言葉の世界に何か窮屈や不自由さを感じているからでしょう。心の中に言葉というのはもっとなんでも表現できるのではないかという願望のようなものがあるのではないでしょうか。
駄洒落は言葉が音声であったり文字であったりという「物」としての独立性を持っていることを思い出させてくれ、それによって言葉は単に観念ではなくて形を変えた「物」であることも意識させてくれるのでしょう。
先に人間の中に言いたいことがあるだけではなくて言葉にしてみることで何か人間が捉えにくい大きな物事の、ある本質がわかってくる、そういう性質も言葉にはあると思います。

短歌の掛け詞のようにその違う意味を意識的に関連付ける場合もありますが、そういう解釈をしないでナマな形で投げ出してしまうのが駄洒落だと思うのです。
掛け詞のような使い方は一旦投げ出した物をまた意味の世界で解決をするというような操作を含む複雑な物ですが、着地点を作っている分予定調和的というか俗な物になりやすい欠点も持っていると思います。そういう意味では予想のできる頻出駄洒落とそんなに変わらないのだと思います。
自説に過ぎませんが俗な物になるかならないかは駄洒落か複雑な物かとは無関係という意見です。
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この回答へのお礼

大変為になるお話でした。言葉が持つ意味というのが、いわば偶然であるというような感じがしてきました。この偶然性が基盤にある言葉の世界の成り立ちがはやはり偶然とすれば何か重大なことが分かってきたように思いました。個人が有する言葉の世界はいわば自分そのものだということです。

お礼日時:2013/03/09 17:24

 物語の展開からみれば「瘤取り」ではあっても「小太り(小肥り)」とはならない。

だとすれば「何を茶化しているのか」がわからない、との話になります。
 元関取の舞の海氏には、入門時の身体検査をクリアするために頭頂部にシリコンで瘤を作ったとの逸話(嘘か真かは知りませんが)もあって、その瘤を取ったら本当の小肥りおじさんになってしまうと話していたとの伝え話を聞いたことはあります 爆!
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この回答へのお礼

ご関心を持っていただきありがとうございます。

お礼日時:2013/03/09 05:30

わたしたちは、それが正しいか否かはさておき、一定の価値観に基づいて生きているでしょう。


重要視していた価値観(権威・事実・常識、なんでも当てはまると思いますが)が、あまりに簡単に転換(崩壊)してしまうことによる、ギャップの大きさが笑いに通じるのではないか、という気がします。
わたしたちは、(表面的にはどう見えるにせよ)基本的に必死に生きているわけですが、その必死さも、所詮、脆弱な基盤に立っているにすぎないのだ、といったようなことを気づかせるのが駄洒落なのかもしれません。
必死さを嘲笑うことが本来の目的とも言えるわけなので、すべったりして失敗すると、侮蔑の目がそそがれる危険性も常に伴うことになるでしょう。

こういった意味で、ある言葉の意味を別の意味に置き換えて表現するのが駄洒落だと思うのですが、
「蜂蜜を888」は「888」という言葉自体に当初の意味は見出しづらいので駄洒落と言えるのかどうか・・・、といった印象を持ちます。
逆に、現実社会で「888」などという、たとえば部屋番号などがあった場合、それを「蜂蜜」と読ませるのは駄洒落になると思います。
この場合、「888」には部屋番号という意味が予め付与されているからです。
  
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この回答へのお礼

息抜きなどと共通するところがあるのでしょうね。興味深いご見解を聞かせていただきました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2013/03/09 05:28

 これは駄洒落ではありませんね、単なる誤解に基づく単純な表記ミスです。


「耳から入る言葉」と「文字に記された言葉」の違いを理解できず、幼児と変わらない「幼児化した大人(関西のお笑いに多い)」症状で、貧困な言語生活しか営むことのできていない方々の病気ともいえます。全く困ったものですね。
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この回答へのお礼

ダジャレはくだらないというご意見ですね。ご教示感謝いたします。

お礼日時:2013/03/09 05:24

こぶをとったのは鬼なんでこぶ取られ爺さんと言ったほうが正しいと思うけどね


月亭 八光という芸名はダジャレでもなんでもないと思う
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この回答へのお礼

なるほどと思いました。ご教示感謝いたします。

お礼日時:2013/03/09 05:23

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