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Wikiによると、江戸時代に
「日本の宮廷において節会と呼ばれる宴会が開かれた。年間にわたり様々な節句が存在しており、そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めた。それが人日の節句、上巳の節句、端午の節句、七夕の節句、重陽の節句の五節句である。」
 とあります。

 1月1日、年初としての元旦の行事が多すぎ、1月の節句として1月7日の人日の節句に代えたとするなら、その後の節句は、3月3日・5月5日・7月7日・9月9日となっているので、自然に思えます。

 そこで質問です。

 公式な節句としては定められていないものの、11月11日を節句として祭る習慣が、一部ではあった可能性があるのではと思うのですが、実際のところはどうなのでしょうか。
 
 平安時代の慣習に詳しい方、宜しくお願いします。
 また、日本にはなくても、~時代・王朝の中国では、11月11日を祭ったというような事例があれば教えてください。

A 回答 (3件)

追記ばかりで申し訳ありません。


さて、11月の行事についてですが、旧暦ではほぼ11月に冬至はあるのですが、平安時代は冬至の日をあまり重要視していませんでした。それは、冬至に関する行事が新嘗祭の中に入っていたからだと言われています。前記した中に、新嘗祭の中で、天皇が衾に臥すと書きましたが、この行為が冬至と関連しているとされます。冬至で太陽の力が弱まり、天皇の力も弱まると考えられ、衾に臥す=天皇の死を意味し、天皇は一度死んで再生し、新たなそして力強い霊力を持って、復活するとされます(天孫降臨の天鳥船との関連も言われています)。この新嘗祭の天皇の行動が日本における冬至に関連する行事とされています。
ただ、冬至に関して2点。一つは、中国の古代では冬至=元旦とされた時期があったこと。また、天における正月とされ、暦の起点ともなっていました。
二点目は、11月1日(1日=朔日)に冬至が来た場合は、朔旦冬至と言って、特別に祝いました。これは、旧暦では冬至の日が一定しませんが(場合により10月のこともあります)、旧暦の構成上ほぼ定期的に閏月を置きますが、そのために19年ごとに11月1日に冬至が来るのが原則とされ、19年ごとに正確に朔旦冬至が来ることは暦が正確に作られていること、それは政治が正しく行われていることと考えられ、11月1日に冬至が来ることを朔旦冬至として、特別に祝いました。
五節句(節供)について平安時代の年中行事としてわかることを以下にあげます。なお、節会に関してはその後に宴を伴うのが一般的ですが、宴の多くは直会(なおらい)の性格を持ち、本来は神にささげた供物を儀式終了後に参加者で食することにより、神と人が共食し、さらに神と人が親近し、神が人を守るという趣旨でした。神事の中心的な行事はこの直会にあったともされています。
人日(1月7日)
七草(七種)粥を食べることから七種の節句とも呼びます。この日は、宮中では他に、白馬(有職読みで「あおうま」と読みます)の節会が行われ、天皇が青馬(実際は白馬)を御覧になる行事もありました。この白馬の節会も青い馬を見ると一年間の邪気が祓われるという中国の故事に由来しています。
上巳の節句(3月3日)
桃(中国では古来霊力を持つ植物とされ、実は不老長寿の果物とされます)の節句とも言われます。日本ではこの時期に古来穢れを払う行事があったとされ、それがこの日に身体の穢れを人形(ひとがた)につけ、川に流す習慣になりました。それが、流し雛や雛人形飾になって行ったとされます。また、中国から曲水の宴の行事が伝わり、宮中でも行われました。
さらに、鶏合(とりあわせ)と呼ばれる闘鶏も宮中で行われる日でもありました。これも中国から伝わった行事とされます。神意等を占う手段として、古事記等にも記載された日本の行事であり、中国と共通する行事で、3月3日に中国で闘鶏の由来(唐の玄宗皇帝の古事かと思いますが、記憶が曖昧です)があり、日にちが3月3日になったものと言われます。
端午の節句(5月5日)
額田王の「茜さす紫野ゆき標野ゆき・・・」の歌(詞書に「薬猟」とあります)にある「薬猟(くすりがり)」が行われましたが、平安時代の宮中行事では、邪気を払うとされる菖蒲の葉を髪に刺して、宮中に入り、天皇から薬玉(くすだま-薬草を錦の袋に入れ、その袋に花飾りなどをつけたもの)を賜る儀式がありました。また、粽を食べる習慣もあり、いずれも中国伝来の行事でした。さらにこの日は、宮中でははじめ騎射、その後駒競(こまくらべ)の節会とか、競馬(きそいうま)の節会と呼ばれる競馬が行われました。
七夕(7月7日)
平安時代には七夕というよりも乞巧奠(きっこうでん・きこうでん)と呼ばれる行事でした。これは織姫・彦星(牽牛)の中国説話に関連すると言われ、針仕事の上達を祈る行事でした。宮中では、天皇が清涼殿の庭に出御され、織星と牽牛が出会うことを祈ったとされます。庭には机(民間では棚のことも)が設置され、その上に供物を並べ、葉に7本の針を刺し、その針の穴に糸(五色)を通した物を置きます。一晩中香と明かりを絶やさないようにしました。
時期により移動しますが、この日に相撲の節会が開かれました。これは、豊作の祈念と、秋の作柄を占う意味があったとされ、日本古来の習慣でもありました。相撲は、祖霊に豊作を祈念する古来の祭りと関連すると言われ、その後仏教行事と融合して盂蘭盆会になったとされます。ともかく、この時期は収穫を目前に控え、台風や旱害などの危険がある時期であり、豊作の祈念は切実だったと思います。
鶏合、駒競、相撲共に神意を占う行事であり、神聖な行事でしたが、平安時代でも賭博性・射幸性が強まっていきます。
重陽(9月9日)
菊の節句とも呼ばれますが、「菊」という漢字は音があっても、訓が基本的には無い漢字で、菊には中国伝来という気分があります。重陽も中国からの行事をそのまま取り入れたところがあり、邪気を払い、長寿の薬効があるとされる菊を観賞し、菊酒(菊を浮かべた酒)を飲みながら漢詩を作る節会です。ただ、この日に吉野の国栖(くず)地方の人々による国栖舞(国栖奏-すずそう)と言われる舞が行われたところが日本的だとは思いますが、重陽の日に国栖舞がなぜ結びついてかはわかりません。

以上、参考まで。
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この回答へのお礼

 大変詳しい回答をありがとうございました。
 

お礼日時:2013/04/23 14:33

平安時代の前後の時代の11月の大きな年中行事は新嘗祭(天皇即位の最初の新嘗は大嘗祭と呼ばれる)です。

宮中行事の中でも格段の位置を占めますし、悠紀の節会・主基の節会・新嘗祭・豊明の節会と一連の行事が卯・辰・巳・午の日の4日行われます。本来は収穫祭や、復活儀礼に由来すると言われますが、天皇一人の秘儀の部分(神との共食・衾に臥すなど)もあり、未だ詳しく解明されているわけではありませんが、その規模、天皇即位に関連することから、最大の年中行事の一つとも言えます。この新嘗が終わると新米を食するようになるとの風習が古来よりあったとされます。、宮中だけでなく、本来は各地でその土地の新穀を神にささげ、共に食し、収穫に感謝する祭りであったものが新嘗祭に昇華したと考えられ、農業に立脚した日本の原点のような行事です。
なお、11月11日の件ですが、9を超えるとまた元に戻るので、11は1であり、陽の気は弱くなると考えられたので、節句は重陽までということになります。また、人日を1月1日とNO1で書きましたが、1月7日の間違いです。お詫びします。
NO1でも回答しましたが、平安時代と言えども中国の行事を全て取り入れたわけではありません。仲秋についても一部の漢詩文に造詣の深い詩人が、中国の風習をまねて詩作中心の観月会を開いた記録が散見されるだけです。また、上記したように日本の古来の伝統に立脚する行事もあります。また、重陽も天武天皇の崩御日が9月9日だったために、天武系の天皇が在位した奈良時代では、重陽の節句は日本では行われなかったとされています。日本古来の行事、中国伝来の行事などをうまく取り入れて行きながら行事は形成されたのでしょうが、重陽のように政治に左右された行事もあり、逆に節句などのように宮中行事から民間に流れた行事もあり、地域に根差した行事もあり、それらが相まって、長い年月の中で取捨選択され、今の年中行事が成立わけです。現在の日本では、年中行事も多くが廃れて行っていることを思うとさびしいものがあります。
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中国では1・3.5.7.9の奇数を「陽」の数で、2・4・6・8の偶数は「陰」の数とされています。

1月1日のように陽の数が重なる月日は、陽の気が強く、不吉であると古くはされており、不吉の気を払うための行事として節句が行われています。その後不吉とされていたものが、陽の気が重なることにより吉祥と考えられるように変化し、祝祭としての性格を持つようになります。その習慣が、日本にも取り入れられ、1/1の人日、3/3の上巳、5/5の端午、7/7の七夕、9/9の重陽の節句・節会として定着します。
このうち、重陽は中国では元々「陽」の数字の最も極みと認識されていて、9月9日は陽の極みの9が重なり、陽の極みの極みとされていました。重陽が極みなので、中国でも日本でも節句は9月9日が節句の最終でした。ですから、11月11日の節句はありません。

重陽
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E9%99%BD

参考になるかどうかは分かりませんが、8月15日の仲秋の名月の月見ですが、中国伝来の行事ですが、平安・鎌倉までは日本では一般的な行事ではありませんでした。仏教行事の八幡放生会が同日に行われ、平安後期から鎌倉時代には非常に盛んでした。行事にも流行り廃りがあります。

以上、参考まで。
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