出産前後の痔にはご注意!

大河ドラマ「八重の桜」を楽しんで観ています。
ドラマの松平容保は、家臣思いで、聡明な殿様として描かれています。
ドラマが真実だと思っているわけではありませんが・・・。

松平容保は、なぜ恭順和睦の条件に自らの命を代償にしなかったのでしょうか?
戦国時代の敗戦処理では、城主の切腹が和睦の条件だったりしますよね。
会津藩は重臣のひとりが城主の肩代わりで死んでいます。

容保の会津戦争後の行動を調べると、戦争責任は感じているように思えるのですが・・・。
どなたか教えていただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。

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A 回答 (10件)

 戦国時代と江戸時代の倫理観を同一に論じるのはどうかと思いますよ…。



 まあ、戦国時代でも大名級の者が家臣の命を救う為に開城後に切腹するなんて、小田原城(北条氏直が自身が切腹するからと申し出て、実際には氏政・氏照が切腹)ぐらいしか思いつかないですし…。
 (清水宗治を初め、家臣の命を救う為に自害したのは、大名で無く城主や城代クラス。)

 信長さんみたいに、開城したのに約束破って皆殺しなんて例も多いですしね…。


 なお、江戸時代だと儒教の影響が強くなりすぎるので、大名クラスの対応は全く異なってきます。
 (家臣に無駄な犠牲を出したくなったら、大名は絶対に自ら死んでは成らない。)

 つまり、江戸時代の儒教の精神を元すると、自らの主が敵に殺されたら、その家臣は何がなんでもその敵を討たなければならないという思想です。
 (赤穂四十七士の忠臣蔵が典型的ですね。)

 ちなみに、幕末の桜田門外の変では、彦根藩主・井伊直弼を守れなかったとの理由で、死亡者の家には跡目相続が認められたが、重傷者は減知の上で幽閉。軽症者や無傷の者は処刑との厳しいさたが下りました。←主君が死んだのにその家臣がおめおと生き残るのは許されない風潮があった…。
 (無傷で逃れた者は親族まで罪に問われた。)

 とは言え、実際に主君の敵を取るなど殆ど困難ですから、遺臣達は世間から主君の敵すら取れない不忠者として肩身の狭い思いをしなければなりません。
 (極端な例だと、岡林直之みたいに「義挙に加わらなかったのは何事か、桜井松平家の恥さらし」と罵られた上で、無理やり切腹させられた。)

 敵対者の側にしても、大名を殺して恨みを買うよりも、適当な家臣に腹を切らせた上で「主君を身を挺して守るという立派な家臣をお持ちなのですから、当然その主も優れた方なのでしょう。機会があれば御家再興も考慮しましょう」などと含みを持たす事で、報復の連鎖を未然に防ぐ意図もあったのでしょう。
 (もちろん罪を背負った家臣の遺族には特別の配慮がされる。)

 あと、松平容保は別に死ぬのを恐れていた訳でなく、死覚悟の上で降伏したのですが敵方の桐野利秋や前原一誠らが、減刑嘆願の活動をしたから許されただけです。
 (戊辰戦争で大名自身が処刑された事例は確か無かった筈。大名自身が脱藩して新政府に反逆した林忠崇ですら一命だけは取り留めている。)
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この回答へのお礼

>なお、江戸時代だと儒教の影響が強くなりすぎるので、大名クラスの対応は全く異なってきます。
 (家臣に無駄な犠牲を出したくなったら、大名は絶対に自ら死んでは成らない。)

なるほど。江戸自体の倫理感では容保公が切腹したら、主だった家臣も切腹しないと格好がつきません。
確かに無駄に犠牲を増やすだけです。儒教が普及したから戦国時代とは倫理観が異なるんですね。

赤穂浪士の事件にもそういう倫理観が背景にあったと考えると腑に落ちます。
私は吉良様をお気の毒に思っていました。吉良様は地元の殿様で地元では名君と言われています。
小学校で社会科の教科書とは別に「赤い馬」という読本が配られ、吉良様は赤い馬に乗って
領地を見回り、領民にも気さくに声をかけた心優しい殿様であると記されています。
かなり地元目線の内容ではありますが(笑)

解りやすいご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/25 10:01

>松平容保はなぜ自らの命を引換にしなかったのですか?



戦国期・幕末動乱期の双方を比較可能な現代人としては、当然持つであろう疑問ではあるのですが、一方明確に法人化した徳川中期以降の大名家に於いて、藩主の委託を受けた家老以下が政務を代行し、その責任の全てを負うというのは、極めて明快な論理でありました。

学問・歴史的素養他、恐らく容保公は平均以上の殿様ではあったのでしょう、但し彼とて世の慣習の埒外では在り得なかった、即ち藩を代表しての自刃という選択肢が、そもそも容保公のそして会津藩士の頭の片隅にすら無かった、そう考えるのが妥当な推論かと思われます。

一方何れの歴史書にも明確に記されてはおりませんが、私個人が捉える幕末の動乱とは、或る意味朱子学を基調とする佐幕派と、陽明学の流れを汲む薩長尊皇派の争い、無論その他の要因も加味されるのでしょうが・・。

つまり徳川家康が天下を取った後、荒々しい戦国の気風を残す大名諸侯の思想的な去勢を目論み、林羅山らを重用して、武家政治の基礎理念として幕府の正学に定められたのが、建武の新政以降長らく市井に埋もれてはいたが、忠孝を一義的に説く朱子学。
(但しこの朱子学から派生した尊皇攘夷思想が、討幕運動の引き鉄となったのは或る意味歴史の皮肉ではありますが・・。)

一方に於いて、陽明学に傾倒した(と思われる)吉田松陰の系譜を引く長州藩に於いては、暴発前後の段階では藩主の存在など殆んど無視、最早藩主・藩すらどうなっても良いとの兆候すら窺える。
他方薩摩藩は、西郷隆盛一派と島津久光系の藩至上主義という二頭立ての馬車であり、陽明学と戦国群雄割拠意識の混成部隊。

尚以下は余談ですが、徳川中期以降完全に法人化した大名家に於いて、藩主はおろか閨閥家老ですら御飾りと成し、一部の例外を除き実質的な決定機関は、現代企業の役員会・常務会に相当する「衆議」でしょう。

そしてその傾向は明治維新以降も明確に引き継がれ、一体全体あの日米開戦のスイッチを誰が押したのかすら今以って判然としない、即ち責任の所在が誠に持って不明確な日本型政治の一典型となり、未曾有の敗戦に依り、殆んど全ての諸制度が形骸化した戦後社会すら生き延びて、今に至ります。
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この回答へのお礼

>法人化した徳川中期以降の大名家に於いて、藩主の委託を受けた家老以下が政務を代行し、その責任の全てを負うというのは、極めて明快な論理でありました。

現代憲法が規定する天皇の権限に少し似ていますね。
(国民は選挙権を行使して自分たちの代表(議員)を選ぶ。多数を占めた議員の集団(与党)が
総理大臣を選ぶ。天皇は総理大臣を形のみ任命するものの、天皇の国事行為は全て内閣の決定に従って
行われる。天皇は実質的な権限は全くないかわり政治責任も負わない)。

>日米開戦のスイッチを誰が押したのかすら今以って判然としない、即ち責任の所在が誠に持って不明確な日本型政治の一典型となり、未曾有の敗戦に依り、殆んど全ての諸制度が形骸化した戦後社会すら生き延びて、今に至ります。

大日本帝国憲法ではそうだったかもしれませんが、議会制民主主義を明確に定義づけて現代憲法では、
今後万一戦争が起きても(ないとは思いますが)、戦争責任は内閣(もしくは議会制民主主義に
基づく選挙で内閣総理大臣を選んだ議員集団=与党を選んだ国民全体)にあるのではいでしょうか。

>法人化した大名家に於いて、藩主はおろか閨閥家老ですら御飾りと成し、一部の例外を除き実質的な決定機関は、現代企業の役員会・常務会に相当する「衆議」でしょう。

容保公の頃の会津藩では、世襲制家老が力を持っていて、門閥以外の実力派の意見が取り入れられにくく、
保守傾向が強かったため、軍制の改革が遅れたとの説もありますね。
その点、薩摩藩・長州藩はある意味、実力主義だったのでしょうか?
攘夷思想は海外と密貿易をして富を得ていた薩摩藩では醸成されにくかったかもしれませんね。
(外国の実力を早くから知っていた?)

>学問・歴史的素養他、恐らく容保公は平均以上の殿様ではあったのでしょう、但し彼とて世の慣習の埒外では在り得なかった、即ち藩を代表しての自刃という選択肢が、そもそも容保公のそして会津藩士の頭の片隅にすら無かった、そう考えるのが妥当な推論かと思われます。

みなさまのご意見を伺って、そうかもしれないと思うようになりました。もう少し自分でも勉強してみます。
詳しいご回答をありがとうございました。

お礼日時:2013/07/27 06:26

No.3です。



秩父宮妃と高松宮妃(容保の孫娘、慶喜の孫娘)は、とても仲が良く、二人で皇居を抜け出して、東京見物を

よくしておられたそうです。

はとバスに乗って楽しんでおられたそうですよ。

民間人から出られた美智子皇后を相当虐められたそうですが

清子内親王はとても可愛がっておられたそうです。


せっかく「八重の桜」を見らておられるのですから

早乙女貢著「会津志魂」を読んで見られたらどうでしょうか?

10巻?くらいありますが、当時の会津が何故、京都守護職につかなければならなかったのが

慶喜の裏切りに苦しんだ容保公のことなど詳しく、分かりやすく書かれています。

この本を読むと、八重の桜も数倍楽しく見ることができます。

ただ、薩長による会津藩士へのいたぶり方は、半端なく

山口県民、鹿児島県民を嫌いになってしまいますが、、(笑)


何故、西郷隆盛に人気があるのか理解に苦しみます。

会津藩士を痛ぶったぶん、西郷も殺されてしまいますが、、。

自業自得ですかね。
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この回答へのお礼

>民間人から出られた美智子皇后を相当虐められたそうですが
>清子内親王はとても可愛がっておられたそうです。

皇室はやはり特別な存在なんですね。私が中学生の時、社会科のテストで「明治天皇は○○○と呼ばれた」
「○○○を漢字三文字で埋めなさい」という出題がありました。正解は「現人神」なんですが、
なんと「非国民」と回答した強者がいて、教師が「予想外の回答が出た」と話題にしていました。
回答した子に不敬の念はなく、解らない時は何でもいいから書けという受験セオリーに従っただけの
ようでしたが、それにしてもねぇ・・・。

>早乙女貢著「会津志魂」を読んで見られたらどうでしょうか?

読んでみます。会津戦争についてはテレビドラマくらいの知識しかなく、こうやって頓珍漢な質問を
させていただいているような有り様ですので。

>ただ、薩長による会津藩士へのいたぶり方は、半端なく山口県民、鹿児島県民を嫌いになってしまいますが、、(笑)

そんな回答者様に大河ドラマ「獅子の時代」(山田太一脚本)をお勧めします(ご存じでしたらごめんなさい)。
加藤剛(薩摩藩士)、菅原文太(会津藩士)ダブル主演で、双方の視点から明治維新を描いています。
会津の悲哀も、薩摩の動乱も描かれていますので、どちらにもシンパシーを感じられます。
西南戦争のシーンで西郷隆盛も少し出てきますが、容貌が激似のキャスティングにある意味笑えますよ。
番組後半で加藤剛(薩摩)に菅原文太(会津)の妹=大竹しのぶ(会津戦争で祖母と母が自害、薩摩を
敵視している)が嫁ぎ和解の象徴になりますが、その後、悲劇が・・・ネタバレはここまでにします。
全編DVD化されており、レンタルでも借りられます。私のお薦め大河です。

再度のご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/25 14:18

>江戸時代では基本的は大名(=城主)が責任を取らずに、家老が責任をとる制度になっていた。



そうなんですね。不勉強で知りませんでした。家名存続の手段だったのでしょうか?


大名&その家来という属人的な集団から、○○家中というような組織存続を目的とする集団に変容した事が大きな流れかと思います。
江戸時代初期には、主君を見限って浪人になるというのがかなりあります。大名取り潰しもある一方で新規取り立てなどもありましたので、江戸時代初期は、解雇も多ければ新規採用も多い時代だったという背景もあります。
中期くらいからは、主君押込などが進みます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E5%90%9B% …

またお家騒動が
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%AE%B6% …
17世紀には頻発しているのに対して、18世紀には件数が減るのは大名自体の藩政に対する指導力がなくなった≒責任がなくなったとも読み取れます

>戦国時代の敗戦処理において、城主が切腹するというのは戦国時代でもかなり終盤、天正時代も最後の方です

なるほど。信長、秀吉時代のイメージが強かったので、そう思い込んでいました。
ご教示ありがとうございました。

http://www.m-network.com/sengoku/sen-08.html
資料としての強さはありませんが、TOP3のすべてが秀吉関連であるのは、彼の性向かもしれません。
同時代の魚津城の戦いでは、講和ではなく落城によって主な武将が自刃しています。
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この回答へのお礼

>大名&その家来という属人的な集団から、○○家中というような組織存続を目的とする集団に変容した事が大きな流れかと思います。

強力なリーダーに心酔する(利害関係も込みで)集団から、お家大事の組織に移行した感じでしょうか。

>資料としての強さはありませんが、TOP3のすべてが秀吉関連であるのは、彼の性向かもしれません。

教えていただいたURLの城主の方々がまさに私のイメージを形成していました。
若いころの秀吉公は人殺しを嫌ったイメージもあるのですが、そうでもなかったのか、はたまた
そういう時代だったんでしょうか。いずれにせよ、江戸時代の殿様とは立ち位置が違ったんですね。
再度のご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/24 21:04

故人の内心など行動からしか類推することはできませんが、はっきり言えば家臣より自分の立場を重視した人間と私には見受けられます。



そもそも京都守護職などという無茶な役割をなぜ引き受けたのでしょうか?
常識的に考えて、京都の警備は畿内近くの藩の役割でしょう。
越前松平や桑名あたりです。
まあだからこそ春嶽侯におしつけられたわけですが、このような無茶な命令普通なら引き受けません。
なぜに引き受けたかというと、西郷頼母に指摘された通り(史実かどうか知りません)容保が養子で藩内に基盤がなかったからです。だからこそ幕府の覚えをめでたくすることにより、藩主としての基盤を確立したかったわけです。
どう考えても守護職を引き受けることが会津藩のためとはなりえません。

京都守護職として、彼は新撰組を使い志士を問答無用で切りまくってます。
それまでの当時の慣習では、たとえ役職を負ってても京都守護職の一存で他国の武士(どころか農民でさえ)斬る権限などありえません。幕府であってもそうです。
もし浮浪に見える何某かが例えば土佐藩藩士名乗ったら、京都守護職にできることはそのものを捕え土佐藩に身分照会をし、もし罪に問うような行いがあれば土佐藩の手で切腹をさせる、そこまでです。
問答無用でいきなり切るなど他藩から見ればただの虐殺行為で、越権行為の暴走以外の何物でもありません。

この辺の行動を見ると、容保は自分の政治的地盤や功を確保することに焦った人間で、あまり会津藩や会津藩士のために自分が腹を切るようなタイプの人間ではないように思います。
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この回答へのお礼

回答者様のお考えに近い感想を、実は私も持っていました。
しかしそれは、先の回答者様へのお礼に書かせていただいたように「現代感覚」なのかとも思いました。

>自分の政治的地盤や功を確保することに焦った人間で、あまり会津藩や会津藩士のために自分が腹を切るようなタイプの人間ではないように思います。

政治地盤や功を確保するというより、容保公の「若さ」が原因なのかと私は思っていました。
「遺訓に絡め捕られたこと」「天皇のお言葉に感激し、その後の道を誤ったこと」などが若さゆえの
ある意味、過ちだったのではないかと。新選組も正直「ちょっとどうかな?」と思ったりするので。
浅学な私がこんなことを言うのはおこがましいのは承知していますが。

ここで、いろいろな方のご教示を受け、さらに勉強してみたいと思います。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/24 20:58

会津戊辰戦争ほど日本史上における過酷な戦争は無い、基本的な起こりの要因は何処から始まったか知っていますか?それは水戸藩士(一人薩摩藩士含む)が桜田門外で大老・井伊直弼を殺害した事に端を発し、実質ここから約10年にも及ぶ国内戦争は始まる、この時点で会津中将松平容保は、まさか!わが会津藩が幕府の盾に成ろうとは知る由も無かった、孝明天皇からの絶大なる信頼があった容保公は孝明帝より名誉ある御しんかんを享け賜る(天皇から歴代将軍が御しんかんの名誉を享けた者は誰もいない)、しかし孝明天皇は突然の崩御!(死因は天然痘とされるが実際は岩倉具視による毒殺説の可能性大)、失意のどん底に叩き落された容保公は気を取り直して職務(実質国務)に励むが、更に勢力を増した郎党過激連合(薩長土肥安芸連合)の謀略に巻き込まれてゆく、そして愚かな徳川慶喜公は将軍職を投げ出してサッサと隠遁生活に入る(これほどブザマな将軍は足利幕府以来だろう!)、足蹴にされた容保公は会津に戻り戦争に備えるが、怒涛のごとく調子づいた郎党連合は強姦・略奪・放火の限りを尽くし、会津藩を完膚なまでに叩きのめす!徳川宗家に尽くし自らの国許を守り抜こうとした容保公に責任は無い!100%完全なる戦争責任があるのは(薩長土肥安芸連合)の桂・大久保・西郷どもだろう、そして幕府海軍司令官・榎本武揚にも責任はある、どうして品川沖で艦砲射撃を行わなかったのか?どうして彰義隊を見殺しにしたのか?どうして勝を殺さなかったのか?この男への三大不思議だ、最後まで慶喜公の尻拭いをした会津中将松平容保は正にお釈迦様である、正しい史実のドラマ制作をしないNHKの罪も深い、オッと!面白い歴史フィクション小説をお教えする(大逆説!戊辰戦争、上下巻/著者・志茂田景樹)。

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この回答へのお礼

宸翰は容保公にとって非常に名誉な事だったんでしょうね。死ぬまで手放さなかったと聞いています。
でも・・・ただの紙(ごめんなさい)より、家臣の命、領地の民の安寧の方が大事なんじゃ・・・と
思ってしまう私は平和ボケした現代人なんでしょうね。その時代に生きていたら容保公の生き方も
すんなり理解できたかもしれません。教えていただいた小説、是非読んでみたいと思います。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/24 20:50

松平容保は、なぜ恭順和睦の条件に自らの命を代償にしなかったのでしょうか?


戦国時代の敗戦処理では、城主の切腹が和睦の条件だったりしますよね。
会津藩は重臣のひとりが城主の肩代わりで死んでいます。


戦国時代と江戸時代を経過しあとの幕末では「制度」が違ったから。

終戦の制度
戦国時代の敗戦処理において、城主が切腹するというのは戦国時代でもかなり終盤、天正時代も最後の方です
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3
上記URLでの「天正期に起きた出来事」でも


だいたい天正時代を通じて制度化された。

江戸時代では基本的は大名(=城主)が責任を取らずに、家老が責任をとる制度になっていた。

幕末の他の例でも
安政の大獄では、大名は隠居謹慎。
長州征伐でも、毛利の殿様は腹を切っておりません。切ったのは家老。切腹した家老の数では長州征伐の時のほうが多い。
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この回答へのお礼

>江戸時代では基本的は大名(=城主)が責任を取らずに、家老が責任をとる制度になっていた。

そうなんですね。不勉強で知りませんでした。家名存続の手段だったのでしょうか?

>戦国時代の敗戦処理において、城主が切腹するというのは戦国時代でもかなり終盤、天正時代も最後の方です

なるほど。信長、秀吉時代のイメージが強かったので、そう思い込んでいました。
ご教示ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/24 05:08

私も、No.2さんと同意です。



べつに、逆賊ではなかったので、容保公が切腹する必要はありません。

会津は「売られた喧嘩は買った」だけのことです。

売られた喧嘩を買ったら、最後まで戦うことが会津武士の誇りだったのです。

が、それも、力尽きてしまいました。



後に、容保公は、日光東照宮の宮司になりますが、亡くなるまで戦いで亡くなっていった

家臣の菩提を弔い続けたそうです。

が、歴史の流れって凄いですね。

容保公の孫娘が皇室に入って昭和天皇の弟宮の秩父宮の妃になるのですから。

その下の弟宮 高松宮の妃には、徳川慶喜公の孫娘が皇室に入られましたね。


21日の「八重の桜」での、尚之介が「ここに女がいる」と言ったシーンには

胸がジーンときましたね。

謡曲が流れてきてきて、自分達の祝言(結婚式)のときに詠ってもらった!と八重が尚之介に語りかける。

身なりは、男の格好をしてるが、やはり八重は女だったのですね。

男は、ああいう時に、「祝言」なんて思い出しもしませんから。

尚之介の、八重への精一杯の愛情なんですね。

尚之介の気持ちを思ったら泣けてきました。
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この回答へのお礼

>容保公の孫娘が皇室に入って昭和天皇の弟宮の秩父宮の妃になるのですから。
>その下の弟宮 高松宮の妃には、徳川慶喜公の孫娘が皇室に入られましたね。

政治的和睦の象徴だったんでしょうね。
嫁いだご本人はどう思われたのか、お幸せだったのか気になります。

>尚之介の、八重への精一杯の愛情なんですね。

ドラマでは好感度の高い美男美女が演じていますから、余計ジーンと来ますね。
「女がいる」と言ったのが、尚之介だったという事実は確認できていないようですが、
ドラマ的には良いシーンだと思いました。

写真の八重さんや晩年の借金癖のエピソードを知ると、ちょっとだけガッカリしますね(笑)
先駆的な女性だった事は間違いないので、これからも綾瀬はるかさんに脳内変換して
ドラマを楽しもうと思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/24 05:06

別に会津藩が好きこのんで戦争を吹っ掛けたわけではなく、


一橋慶喜さんに、対攘夷派との抗争の駒として良いように使われ
あげくに江戸無血開城の代償としての会津戦争だから
藩主が首を差し出さなければならない理由は最初から無い

徳川さんは、当主の慶喜さんが隠居の上で蟄居して家禄を減じる事で納まった
会津も同様に、容保さんが隠居して当主の座を降りて謹慎するので、徳川家と同様の処遇にして欲しいと願ったのに、何故か戦を仕掛けられた

売られた喧嘩を買わなければ、武士の沽券に関わるので受けて立った

デモまぁ多勢に無勢という事で、精一杯の抵抗を示した上で降服した

さて、容保さんに戦争責任がそもそもあるのだろうか?
他のどこの藩に対しても行われなかった、藩主の首を差し出せという命令に『了解しました!』と応諾するなんてことがあるんだろうか?

容保さんは、不条理さを感じながらも表だった反論をせずに、孝明天皇から下された御宸翰と御製と共にその後半生を過ごしたと言われている

戦国時代の合戦は、双方で領地の奪い合いや支配体制の確立の為に行われ戦闘行動だから、性質がちがう
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この回答へのお礼

>何故か戦を仕掛けられた
>他のどこの藩に対しても行われなかった、藩主の首を差し出せという命令

これは私も疑問に思っています。
江戸城は無血開城で慶喜公は首を差し出せとは言われていないのに。

>さて、容保さんに戦争責任がそもそもあるのだろうか?

戦争責任という言い方が不適切だったかもしれません。
多くの家臣やその家族を犠牲にしてしまったことへの責任という意味でした。

>戦国時代の合戦は、双方で領地の奪い合いや支配体制の確立の為に行われ戦闘行動だから、性質がちがう

なるほど。納得です。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/24 04:58

ええっとごめんなさい、意味がよく分からないのですが、松平容保は降伏後、嫡男が華族(貴族)として取り立てられているので「切腹しなかったゆえに家名を汚した」ということはありません。

つまり、彼が切腹して責任をとらないと収まらなかった事情というのはなかったと思いますがどうでしょうか。

代わりに重臣が切腹していますが、上司(会社)を守るために部下が腹を切る(自殺する)ってのは現代日本でもよくある話です。
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この回答へのお礼

容保公が家臣思いの殿様なら、家名を汚した事実はなくても、
家臣に責任を負わせるのは、不思議な気がしたので、家臣思い云々はドラマの創作かな?と
思って質問させていただきました。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/24 04:52

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Q幕末の会津藩

歴史に詳しくない私は、単純に判官びいきで会津藩が好きでした。
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会津藩は幕末の最後の段階で政策を誤り、不義不忠?をして京都守護職のときの栄光を自ら汚した。
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戦後、新政府、特に薩摩は会津に同情的で、改易することなく減封・転封処分で済ませた。また、会津藩の優秀な人材は新政府が重く用いた。普通なら会津藩がしてきたことは、藩主切腹、お家断絶、藩は取り潰しが当たり前だったのに。
これが本当なら、けっして会津藩が全て正しわけではなく、むしろ薩長のほうに分があることになります。
う~ん!ちょっと私には難しすぎるので、誰か解説してください。

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Aベストアンサー

幕末の各藩の動きは大変複雑です、私の個人的主観を述べさせて
もらいます

(幕末の最後の段階~)
京都守護職をした松平容保(以降容保)は天下の情勢を充分に察知する
立場にあり、なおかつ慶喜が大政奉還をして新政府ができているのに
まだ無駄な抵抗で若者を殺した責任は重大である、幕府が江戸城開場
をして後は新政府に協力することも「義」をはたすことになると
思われます
(薩長士のような広い~)
藩士は充分な情報収集、分析ができないものが多く、容保についていく
しかなかったようですので、若者を死なせ自分は白旗をふり生き延びた容保の責任は重大です
(長年領民に対して~)
もともと会津藩は昔からの蒲生一派とあとからきた容保一派の対立
があり一枚岩でなく、特に農民は蒲生派が多く会津戦争ご農民一揆がおこり長年の不満が噴出した、鶴ヶ城をまくらに藩民がイッチ団結し
討ち死にという話も後世作られたものとおもわれます

(遺体処理)
遺体よりものを盗むのを防ぐため、新政府は会津兵 政府兵に触れないよう平等に命令をだした
(白虎隊について)
なにもわからない若者が盲目的に参加したもので、後世に美談として
伝わったが彼らを死なせない方法はいくつもあった

結論として戦争に善 悪は無く容保がうまく立ち回っていれば会津戦争は起き無かったと思われますが、沈みゆく泥舟に最後まで残るという考えも当時の武士の中にはあった思いかもしれません

参考になれば幸いです

(参考サイト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E4%B8%96%E7%9B%B4%E3%81%97%E4%B8%80%E6%8F%86

幕末の各藩の動きは大変複雑です、私の個人的主観を述べさせて
もらいます

(幕末の最後の段階~)
京都守護職をした松平容保(以降容保)は天下の情勢を充分に察知する
立場にあり、なおかつ慶喜が大政奉還をして新政府ができているのに
まだ無駄な抵抗で若者を殺した責任は重大である、幕府が江戸城開場
をして後は新政府に協力することも「義」をはたすことになると
思われます
(薩長士のような広い~)
藩士は充分な情報収集、分析ができないものが多く、容保についていく
しかなかったようです...続きを読む

Q徳川慶喜はなぜ処刑されなかったの?

官軍にとって、徳川慶喜を処刑することは、江戸時代の終わりをアピールするうえで効果的だったと思うのですが、なぜそうしなかったのですか?

Aベストアンサー

関ヶ原のあと、徳川は島津と毛利の首までは要求しませんでした。
徳川慶喜は、大政奉還をしています。
大阪から江戸に逃げた慶喜は、引きこもって従順の意を示してます。
戊辰戦争では、徳川慶喜も含めて幕府の首脳陣は参戦していません。
徳川慶喜を処刑するような恐怖支配は、かえって多くの大名や武士たち
 の反感をかう恐れがあります。
天皇がトップの政権ができたことにより、江戸時代(江戸幕府)の
 終わりは十分アピールされてます。

と、まぁいくらでも挙げられますが、
本当のところ何人かは徳川慶喜らの処刑を考えていたらしいですよ。
しかし、当時の空気としては、天皇制の復活により江戸幕府の再興は
ありえないし、そんな気もおきないという雰囲気だったので
徳川慶喜を処刑する意義は、あまり無かったのでしょう。

フランスやロシア革命で王が処刑されたのは、市民革命であり
貴族や王支持の人間が大挙して国外に逃げたたため、王を生かして
おくことは危険だと考えられた面があります。
明治維新とは異なります。

中国で前王朝の王家が殺されてきたのは、王は唯我独尊で天子思想の
象徴であるためで、天皇のいる日本ではあまり考えられません。

関ヶ原のあと、徳川は島津と毛利の首までは要求しませんでした。
徳川慶喜は、大政奉還をしています。
大阪から江戸に逃げた慶喜は、引きこもって従順の意を示してます。
戊辰戦争では、徳川慶喜も含めて幕府の首脳陣は参戦していません。
徳川慶喜を処刑するような恐怖支配は、かえって多くの大名や武士たち
 の反感をかう恐れがあります。
天皇がトップの政権ができたことにより、江戸時代(江戸幕府)の
 終わりは十分アピールされてます。

と、まぁいくらでも挙げられますが、
本当のところ何人...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q徳川慶喜は何故政治をなげだしたのか。

徳川慶喜は、なかなかの切れ者でインテリだったと私は考えてます。

鳥居伏見の戦いで逃げ出した本当の理由は何だったのでしょうか。

また、本気で戦いを、望んでいたら当然勝てるはずでした。敗因はなんだったのか、勝っていれば日本はどうなっていたと思ういますか。


12代将軍徳川家康はなぜ後継ぎを決めず死去したのでしょうか。


歴史に詳しい方、ご意見お願いします。

Aベストアンサー

 徳川慶喜は水戸藩ですから尊皇派です。つまり彼が

将軍職につくということは彼も周囲の幕閣も幕府消滅は

織り込み済み。問題はどうスマートに幕を引くかでした。

例えば鳥羽伏見の戦い、慶喜は戦いたくはない、でも一戦を

交えなければ佐幕派が収まらないからガス抜きで戦わせ、自分は

初めからすぐに逃げる用意をしていた。

 ちなみに彼が描いていた新政府案は天皇を盟主に大名会議をおく。

徳川が大名会議の議長におさまる。彼の政治思想は尊皇開国です

から当初の薩長政府より進歩的だった。

 鳥羽伏見~五稜郭で幕府軍が勝つ可能性はあったのか?

答えはNo。理由の一は兵士の練度、薩長の官軍は欧米式兵制と訓練。

幕府軍も現代人が思う以上に欧米の兵制をとりいれているが多くの

兵は旧態依然の旗本・御家人たち。彼等は集団戦どころか行進も匍匐

もできない口は偉そうだけど実戦能力がない。理由の2幕府も諸藩も

財政的に倒産状態で戦をする資金がない。

(ちなみに僕が居住する市は西国の外様が攻め入るのを防ぐ任を負った

由緒ある譜代が治めていたのだけれど、お殿様は領内を通過する官軍

には藩士を全員城に集めて「軍勢の通過は知らなかった」ポーズ。そ

して対岸の官軍と幕府軍の戦闘にはお殿様の命で大砲をどちらにも当たら

ないように撃たせたそうです。つまりどちらが勝とうが自分は加勢したと

言い訳できる。政府はこの功績をみとめ明治初期、わが市は一市で一県

でした。)

 徳川慶喜公はできるだけ徳川の勢力を保持しながら新政府樹立させたい

と思い、また彼みずからは政治よりも趣味に関心が強く、晩年の彼は穏やかに

写真家として人生をまっとうします。

>本気で戦いを、望んでいたら当然勝てるはずでした。敗因はなんだったのか、勝っていれば日本はどうなっ ていたと思ういますか。

いいえ、勝つ見込みがなかったのです。敗因は近代化の遅れ、幕府を援助したフランスより薩長を援助した

イギリスが強かった。どちらが勝つというよりもこの戊辰戦争が長引けば英仏の植民地になりかねなかった。

だから勝海舟など心ある幕臣は戦いに消極的だった。

 徳川慶喜は水戸藩ですから尊皇派です。つまり彼が

将軍職につくということは彼も周囲の幕閣も幕府消滅は

織り込み済み。問題はどうスマートに幕を引くかでした。

例えば鳥羽伏見の戦い、慶喜は戦いたくはない、でも一戦を

交えなければ佐幕派が収まらないからガス抜きで戦わせ、自分は

初めからすぐに逃げる用意をしていた。

 ちなみに彼が描いていた新政府案は天皇を盟主に大名会議をおく。

徳川が大名会議の議長におさまる。彼の政治思想は尊皇開国です

から当初の薩長政府より進歩的だった。

 鳥...続きを読む

Q京都見廻組が人気がないのは?

幕末の歴史に興味をもっています。
ここ数年新撰組の人気が沸騰しています。
しかし、一方で同じように京都で警護の任務に当たっていた「京都見廻組」に対する人気はさっぱりです。
雑誌の記事にしても坂本竜馬の暗殺にからむものばかりです。

有名な人が出なかったのはなぜなんでしょうか?
新撰組よりも人数は多くいたはずです。
これといった仕事をしていないんでしょうか?

Aベストアンサー

戦後になって新選組が大ブレイクしたのは、新選組を取り上げた小説が世間で大評判になったからだと思います。見廻組は、たまたま昭和の作家が見廻組を題材にしたおもしろい小説を作ってくれなかったからでしょう。

私も見廻組のことを全然知りませんが、昭和の小説家たちが小説の題材にしなかったのは、見廻組には、新選組に比して、題材にするようなおもしろさがないと判断したからかもしれませんね。組の成り立ちや隊員一人ひとりの人物像に、イメージを膨らませることのできるエピソードがあまりないだとか。あるいは資料が乏しいだとか。

まあ他の方が回答していらっしゃるとおり、人気が出るか出ないかはメディアがどれだけ取り上げてくれるかどうか、ということです。どこかのテレビ会社が、あたかもアイドルを売り出すかのように見廻組のキャンペーンを張ってくれれば、あるいは見廻組を題材にした小説がベストセラーになったりすれば、人気は上がってくるというものです。

今チョロっと「見廻組」で検索してみたら、かの黒鉄ヒロシ先生が見廻組に関する漫画を出しておられるようですね。見廻組のことについて知ってみたいなら、このような書物が参考になるかもしれませんね。私も買ってみますのでご一緒にどうでしょうか。なんて。

失礼しました。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569632890/250-4965226-3604229

戦後になって新選組が大ブレイクしたのは、新選組を取り上げた小説が世間で大評判になったからだと思います。見廻組は、たまたま昭和の作家が見廻組を題材にしたおもしろい小説を作ってくれなかったからでしょう。

私も見廻組のことを全然知りませんが、昭和の小説家たちが小説の題材にしなかったのは、見廻組には、新選組に比して、題材にするようなおもしろさがないと判断したからかもしれませんね。組の成り立ちや隊員一人ひとりの人物像に、イメージを膨らませることのできるエピソードがあまりないだとか...続きを読む

Q創価学会って実際、なんですか?(長文です)

婚約した途端、彼に家族全員創価学会だと告げられました。

隠されていた事がかなりショックでしたし、私は創価学会についてよく知りません。
でも、結婚するなら入信するよう、彼の家族は言っています。

私がショックで、彼が脱会してくれなければ、結婚をやめるというと、しょうがないね、と言われました。
彼は熱心な学会員ではないらしいのに、です。

私の家族は浄土真宗(一応)ですが、彼が創価学会ということについても何も反対していません。

ただ、友人知人が、もし私が入会するなら、私とはもうつき合えない、と言います。人に聞いてみても、創価学会に対して良い感情を持つ人はいないようです。

私自身、学会には色々矛盾を感じています。
でも、彼にそこを聞いても、世間の間違った思い込みだと言われます。

私は仏教には関心があるのですが、創価学会も仏教なんですよね?
それなのに、私には学会員が何を信仰して、何を目的としているのか
さっぱりわかりません。
学会員に聞いても、よくわかっていないようなのですが…
しかも仏教の教えについて批判さえしています。

それでは、創価学会とは一体なんなのでしょう?

そして、どうして非学会員のほとんどが学会を毛嫌いするのでしょう?

学会の方、非学会の方、両方の意見が聞きたいです…

婚約した途端、彼に家族全員創価学会だと告げられました。

隠されていた事がかなりショックでしたし、私は創価学会についてよく知りません。
でも、結婚するなら入信するよう、彼の家族は言っています。

私がショックで、彼が脱会してくれなければ、結婚をやめるというと、しょうがないね、と言われました。
彼は熱心な学会員ではないらしいのに、です。

私の家族は浄土真宗(一応)ですが、彼が創価学会ということについても何も反対していません。

ただ、友人知人が、もし私が入会するなら、私と...続きを読む

Aベストアンサー

困りましたね・・・
現在私は学会員ではありませんし、過去会員だったこともありません。そもそもが宗教自体に頼ろうとは思っていないので、将来も恐らく入信しようと思うことはないでしょう。
ただ、過去自分が担当していた仕事上のお付き合いから、中央のかなりの地位の方々や地方組織の然るべき方、また一般の会員の方々に至るまで、様々なお立場の方々を存じ上げておりましたので、投稿させていただきました。
仕事でしたので、かなり冷静に見つめてきたつもりです。
長くなりそうですが、お付き合いください。

創価学会は日蓮正宗各寺の信徒団体(各寺檀家の、寺をまたいだ横のつながり)だったものが、異様に大きく膨れたものです。本来の教義についてはNo.5様のおっしゃるとおり、オウムのような悪い考えではありません。どちらかというと、むしろ世界の平和を求めている宗教です(と、彼らは言っています)。
歴史的にはそもそも「日蓮」自体が排他的だったそうですし、「日蓮正宗(大石寺)」は「日蓮宗(身延山)」と袂を分かち日蓮の教えを正しく受け継いだはずですが、本来、日蓮正宗寺院の檀家であった創価学会は本山(大石寺)のご僧侶とも袂を分かち、もう10年位前に破門になっています(学会の仕切る葬儀には僧侶がいません)。
つまり、本来の日蓮正宗からも離れ、特定の個人崇拝になって、ますます排他的・独善的になっているということです。

私は仕事上のお付き合いでしたので、部外者の目で内部のことを見聞きする機会がとても多くありました。守秘義務がありますので、ここでその一つひとつを例示するわけには参りませんが、特定の個人とその周辺を中心にした組織の仕組みには、私個人としては首肯できないものがありました。No1様のおっしゃる「巨悪」が真実かどうかは存じませんが、さもありなんと思うところがあるのは確かです。

逆に、日常生活レベルではいいこともあります。
毎日朝晩、正座して背筋を伸ばして腹から声を出してお題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば、冬場に風邪を引きにくくなる程度のご利益はあるのではないでしょうか。まぁこれは冗談です。
学会では地域の会員達の集まり(各地の「会館」で行われるものと、もう少し狭い範囲の「地域の世話役」の自宅で行われるものとがあります)が頻繁に行われます。
組織も年齢、性別や職業(学生・主婦含む)で複合的になっていますので、複数の会合に出席することもあるようです。
昨今隣近所のお付き合いも減り、また、2世代3世代が一緒に暮らす大家族ではなくなりましたので、年寄りの知恵の伝承もなされず、例えば子育てをするヤングミセスにも苦労が多いと聞きますが、学会の地域での会合に出ることにより、フラストレーションが解消される、例えば子育ての先輩の知恵が伝承される、困った時に助け合える、何よりも同じ価値観を持つ仲間がいるなど、町内会やご近所付き合い的な効果により、彼らはとても明るい生活を送っています。

学会員は、それぞれ「仕事」と「家庭」の他に、地域社会でも熱中できる対象を持っているわけですから、それはそれで幸せなんだろうな、ちょっとうらやましい人生かもしれないな、などとふと思うことがあります。

これを、「だまされている」というのは簡単です。でも、これが宗教なのです。
創価学会に限らず宗教は皆そうなのですが、信じない人から見れば全く理解できません。価値の尺度が異なるので、私たちの判断基準と合わないのです。
インチの物差し(学会)とセンチメートルの物差し(一般)ではゼロ以外に一致する個所はありません。
偶然2本の定規の線がそろう所もあります。そこが一般社会との窓口です。
ですが、ゼロからの長さは同じでもインチとセンチですから、お互いに相手の尺度で測らなければ、やっぱり何だかよくわからないのです。
お香典を全部持っていってしまうのも、インチの世界に入って見れば、地元組織として一種の互助会的に対応していると言い換えることも出来ます。

一般に毛嫌いされるのは、「あなたのため」と、学会の考えを強要するように感じさせるからです。実は彼ら一般会員は善意なのですが、センチの領域に入ってこようとしないからです。
これは最初に書いた日蓮自体の排他的な歴史の流れと、第二次大戦中の弾圧への反動もありますが、昭和40年代ごろの全国的に行われた強引な折伏(これにより大きな組織になった)が、「学会は・・・」という評価を定着させてしまったことが大きいでしょう。

試しにインチの世界に入って見れば(1~2ヶ月一緒に活動して見れば)ひょっとすると何か分かるかもしれません。
ただ、No1様ご指摘のような、裏と表までは見分けられないでしょうが・・・
いやなら戻ってこられるうちに戻ってくればいいのですが、おそらくその時は彼とはお別れしなければなりません。きっと「金縛り」から逃れる時のように、思い切った動きが必要でしょうから・・・。みんな良い人たちだし、結構楽しいし、このままでいいやと思えば、あなたには新しい世界が開ける代わりに、今のお友達とは縁遠くなる可能性があります。

今の状態のままで結婚なさっても、ご両親が熱心な学会員であればいつかは入信することになるか、さもなければ価値観の相違に耐えられなくなるかのいずれかのような気がします。

困りましたね・・・
現在私は学会員ではありませんし、過去会員だったこともありません。そもそもが宗教自体に頼ろうとは思っていないので、将来も恐らく入信しようと思うことはないでしょう。
ただ、過去自分が担当していた仕事上のお付き合いから、中央のかなりの地位の方々や地方組織の然るべき方、また一般の会員の方々に至るまで、様々なお立場の方々を存じ上げておりましたので、投稿させていただきました。
仕事でしたので、かなり冷静に見つめてきたつもりです。
長くなりそうですが、お付き合いくだ...続きを読む

Q四次元というのはどんな世界ですか?

そもそも我々の住んでいる世界は三次元ですか、四次元ですか?
三次元の世界とは縦横高さのある空間の世界だと思います。
これに時間の概念を足せば四次元になるのでしょうか?
我々の世界にも時間があるので、四次元といってもいいのでしょうか?
それとも四次元とは時間とは無関係の世界なのでしょうか?
あるいは時間と空間を自由に行き来できるのが四次元なのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>そもそも我々の住んでいる世界は三次元ですか、四次元ですか?

4次元であると考えると都合がいいというのが
現段階の結論です。

 100年ほど前、スイスのチューリッヒ工科大学
のミンコフスキー教授が物理学的な4次元の理論というのを
考えました。物理的な計算をするのに、縦、横、高さ
方向以外にもう1つ方向があるとして計算すると
うまく計算できることがあるというもので、
彼の教え子の一人が、4次元時空の理論と
して有名な相対性理論を完成させた、アルバート・
アインシュタインでした。
 彼は、リーマンという数学者が作った、
曲がった空間の幾何学(現在リーマン
幾何学と呼ばれています)を使い、4次元の
空間が歪むという状態と、重力や光の運動を
あわせて説明したんです。これが相対性理論。

>これに時間の概念を足せば四次元になるのでしょうか?

 物理学的にはそうです。

 相対性理論の話に関連付けて説明するとこんな感じです。
例えば、下敷きの板のような平面的なもの(数学的には
これを2次元空間と言ったりします)を曲げると
いう動作を考えてみて下さい。下敷きに絵が書いて
あったとして、曲げながらそれを真上から見て
いると、絵は歪んで見えます。平面的に見て
いても下敷きという2次元空間が歪んでいる
ことが感じ取れます。
 2次元的(縦と横しかない)な存在である下敷きが
歪むには、それ以外の方向(この場合だと高さ方向
ですが)が必要です。

 19世紀に、電気や磁気の研究をしていた学者たちが、
今は小学校でもやる砂鉄の実験(紙の上に砂鉄をばら撒いて
下から磁石をあてると、砂鉄が模様を描くというやつです)
を電磁石でやっていたときに、これは空間の歪みが
原因ではないかと直感したんです。
 電磁石の強さを変えると、砂鉄の模様が変化します。
これを砂鉄が動いたと考えず、砂鉄が存在して
いる空間の歪みが変化したのでは?と考えたんです。

 3次元の空間がもう1つ別な方向に曲がる。
その方向とは時間という方向だということを
証明したのが、相対性理論だったんです。


>あるいは時間と空間を自由に行き来できるのが四次元なのでしょうか?

 4つ目の方向である時間は、存在していても
その方向に、人間が自由には移動する方法は
現在ありません。時間方向を自由に動ける機械と
いうのは、タイムマシーンのことなんですが。

 日常生活を考えてみたとき、縦、横といった
方向は割りと自由に動けます。1時間ちょっと
歩けば4kmくらい楽に移動できますが、
道路の真中で、ここから高さ方向に
4km移動しろと言われたら、人力だけでは
まず無理でしょう。
 飛行機やロケットといった道具が必要と
なります。
 時間方向というのは、このように存在していても
現在のところ自由に移動できない方向なんです。

 例えば、人間がエレベーターの床のような
平面的な世界に生きているとしましょう。

 この場合、高さ方向を時間と考えて下さい。

 エレベーターは勝手に下降しているんです。
この状態が、人間の運動と関係なく、時間が
経過していく仕組みです。

 人間もほんの少し、ジャンプして高さ
方向の移動に変化をつけることができます。

 同様に時間もほんの少しなら変化をつける
ことができます。

 エレベーターの中で、ジャンプすると
ほんの少し下降を遅らせることができる
ように、時間もほんの少し遅らせることは
できるんです。




 

>そもそも我々の住んでいる世界は三次元ですか、四次元ですか?

4次元であると考えると都合がいいというのが
現段階の結論です。

 100年ほど前、スイスのチューリッヒ工科大学
のミンコフスキー教授が物理学的な4次元の理論というのを
考えました。物理的な計算をするのに、縦、横、高さ
方向以外にもう1つ方向があるとして計算すると
うまく計算できることがあるというもので、
彼の教え子の一人が、4次元時空の理論と
して有名な相対性理論を完成させた、アルバート・
アインシュタイン...続きを読む

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。

●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が...続きを読む

Aベストアンサー

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。

これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対し...続きを読む


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