なぜ土佐勤皇党の武市瑞山が評価されているのかわかりません。

浅学な私がwikiなどで調べる限りでは「攘夷」のためと称しての人斬り指示しか行なっていない印象があります。
死後勤皇党が壊滅したのでしょうがないところもありますが、土佐藩を指導したのも暗殺した吉田東洋系の人材ばかり。

よく評価されている「高潔な人格」というのも、捕縛された岡田以蔵への対応を見る限りそれほどほめられたものではないような気がします。
結局のところ武市さんの評価としては三文字の切腹をしたことぐらい。

実際のところ武市半平太という人物は何を成し遂げ、どこが評価されているのでしょうか。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (8件)

簡単なことですが、同時代の人が最大限の評価をしているからですね。


薩摩の樺山三山は西郷と桂を足したような人物だと言っていますね。
山内容堂は腹を切らしたことを後悔していますし、板垣や後藤ですら
下士では彼のみ別格扱いですから、しかし暗殺を是とした政治手法は
後世の人には受け入れられないですね。私の中では維新四傑ですね。
    • good
    • 38

龍馬や中岡の影に隠れてしまいがちですが、武市も立派な


幕末の志士でしたよ。当時の土佐では、大多数の武市派と
少数派の坂本派に分かれていたので、龍馬を主役に見立てる
物語では、対比させるために冷酷な部分を際立てる演出が
多いかと思います。

幕末当時は、水戸学が流行っていたこともあり、神の国
日本を異国から守ろう。徳川ではなく、一番偉い天皇様の
家臣として国を守る。という「尊王攘夷」という考えが
イケイケでした。
関が原の代から、徳川に恨みを持っている長州は声高に
尊王攘夷を叫びます。そして、国を動かしての攘夷運動を
行うのです。
それぞれの国の殿様は、好き勝手やっているものの、
一様は徳川の家臣であるので、国をあげて攘夷なんて
しようものなら、取り潰される可能性大です!そんな
軽挙は中々行えずです。

武市の凄いところは、ほんの一時であるものの、下士の
身分でありながら、国を動かし攘夷風を吹かせ、更には
朝廷に取り入れ、日本を動かしたことになります。
もちろん、長州と結託した動きなのですべて武市の功績で
はないですが。長州も大いに武市を信頼し、共に国を挙げて、
尊皇攘夷を決行しようとしていました。
龍馬や中岡などは、土佐を捨てて自由の身で活動していた
ことに比べ、武市は藩の重役にまで登りつめ、常に責任
ある立場で活動していたことから、そのプレッシャーは
相当なものかと思われます。

剣術も一流、教養もあり、人徳もあることから、彼を慕う
人は非常に多かったです。
確かに、以蔵や新兵衛を使い、佐幕派の人間を闇討ちして
いましたが、そのお陰で長州や薩摩が思うように攘夷活動
ができたのも確かです。吉田松陰に似ているところがあり、
「公のためなら私情を一切捨てる」それが非情にも感じら
れる一面だと思います。(土佐勤皇党の輩が色町などに繰り
出しても、武市は一切行かなかった。仕事(公)を成さずに
自分のためだけの行為はしてはいけない、と戒めていたよう
です)
土佐の情勢が変わり、久坂などが執拗に脱藩を勧め、長州に
身を隠すように説得するものの、自分の命を惜しんでは、藩
を動かせないと決め、土佐に帰り藩主を説得するものの、
最期は三文字の切腹にて人生の幕を下ろします。

武市は何をした人?と聞かれれば、下士の身分で土佐一国を
勤皇色に変え、朝廷を動かし、幕府にまで影響を及ぼした。
龍馬や中岡に、国の情勢を詰め込んだ。(彼らは離反しますが
武市の影響力も多分にうけてると思います)彼が生きていれば
間違いなく、長州:桂、薩摩:大久保、西郷、土佐:武市の
構図ができており、土佐ももっと多くの人材が出ていたと思い
ます。まぁ、武市が禁門の変で生き残り、暗殺などされなかっ
たらの話ですが。。。
    • good
    • 66

理由は簡単です。

英雄である竜馬に関った人物で、なおかつ竜馬はもちろん土佐中の下士から慕われた人物だったから。
当時の武市は全国的な有名人でもないし、実際たいしたことをやってません。
基本的には小説による誇張。まぁ竜馬の逸話も大半が小説の誇張ですが。
でも武市は長州の元勲達からはそこそこ評価は高かったようですよ。

実は倒幕派上層部では武市よりも竜馬よりも中岡慎太郎の方が才気があると評価されてたらしいです。

この回答への補足

木戸孝允が維新後、武市を切腹させたことで容堂公をなじったという逸話があるそうなので、長州系の人には評価が高かったようですね。

でも、どこを評価されていたのでしょう?
禁門の変以前から支持してくれていた郷愁でしょうか?

補足日時:2010/05/21 09:14
    • good
    • 18

最近、大河ドラマの影響で雑誌で取り上げられることが多いのでちらっと読んだんですが、当時のことはあまりよく分かっておらず、小説などで有名になったから人気が出た・・・・・ということらしいです。



坂本さんも、竜馬か龍馬か分からず、
「りゅうま」か「りょうま」かも定まっておらず、
地元の有名人としては銅像が建っていたが、全国的にはそれほど有名ではなかった。

龍馬は梅毒だったという説がある。

など書かれておりました。

武市さんもイメージが膨らんでいるのかもしれませんね。
    • good
    • 10

坂本竜馬に絡んだ小説に登場したから。



そもそも坂本竜馬が幕末の偉人として一躍世間に名前が知られるようになったのは、明治時代中期に発行され大ベストセラーになった小説のおかげです。
それまでは世間の人は誰も知らなかったんですよ。
そして、小説ですから当然「作り話」です。
有る事無い事書いて、英雄のように仕立て上げてますが実際はたいした事をしてませんので。

武市半平太や岡田以蔵も同様です。

この回答への補足

戦前に流行った戯曲? の月形半平太のモデルだったとか。
その中での悪役は新選組なので、戯曲イメージとの混同は確かに強いかもしれません。

補足日時:2010/05/21 09:18
    • good
    • 9

長州は変な藩で


元旦の朝 家老が殿様に
支度が整いました といいます
そして殿様は時にあらず と答えます。
徳川への戦です 関が原以来 毎年の密かな行事です
それほど 恨み骨髄

ですから 倒幕のためには 尊王であることを外せません
朝廷なしの開国は 待っていましたでしよう

攘夷は倒幕の裏返しで 一貫していましたでしよう

薩摩は現実的な藩ですから 情勢外交に長けていますよね

土佐は 改革派と守旧派との抗争がまずあって
守旧派との連携での 地位向上をかけての 攘夷の一環としての勤皇の
性格が強いようです

ただ個々の運動ではなく 全藩上げてのものを目指し
その意味での力の集中を図ったことは 企画統率能力はあったでしょう

さっさと脱藩して 薩摩長州の活動家と連携していれば 名はもっと
大きくなったでしょうかね

いずれにしても、
その後の勤皇党(全藩としての性格が強いものですから)の粛清は
その後の 尊王各藩から 一歩遅れをとることになり

いい場所(ヘゲモニー)が取れなかった
武市を先頭に あのまま突き進んでいたら を思えば
初代首相もあったかとね 評価も違ったものになっていたでしょうかね  

この回答への補足

個人的には、歴史資料などでの武市さんの行動を見ていると「お勉強のできる馬鹿な子」的なイメージを持ってしまいます。

補足日時:2010/05/21 09:21
    • good
    • 10

反面評価対象が後藤象二郎だからでしょう。


明治初期の権力体制を見れば、薩長土肥が明治維新の功績を上げたと評価されています。
薩長肥は、明治後半までそれなりのビッグネームがいますが、土佐では本来後藤象二郎あたりが、ビッグネームになるはずが、自由民権運動での腰砕けなどで高知出身の首相は、浜口雄幸までいません。
生きていれば総理にもなった人なのに・・・という残念感が、評価を上げているかと。

※ けど、人材の摩耗という話で言えば、長州の方が激しいので、生きていれば総理だった武市ってのは、なんか違うような気がします。
    • good
    • 7

坂本龍馬も武市半平太も、特に評価されるような人物ではないし、ロクな事をしていません。



逆に、政敵に失脚させられた人物などは、かなりの高評価を受けて然るべきの偉業を成し遂げている筈なのに、その記録や手柄が政敵に揉み消されたり奪われたりして後世に記録が残らなかったため「悪人としての評価しかない」と言う場合もあります。

そう言う訳で、坂本龍馬も武市半平太も、後世に脚色混じりで書かれた「時代小説」で脚光を浴び「小説に書かれた脚色により、なんか、とても凄い事を成し遂げた人物のように思われているだけ」です。

当時は「内戦勃発前のテロ多発状態」だったので、勤王側も佐幕側もどっちも、今から見れば「殺人過激派集団」です。

>捕縛された岡田以蔵への対応を見る限り

以蔵が捕縛された時には、既に武市は投獄されていて、武市は殆ど何も出来なかった筈です。出来たのは「外部と連絡を取る」くらい。なので、対応しようにも対応できませんよ。外からの連絡が来た時には手遅れでしょう。

この回答への補足

以蔵の自白を防ぐため、自分に心酔している獄吏を使って毒薬を渡したという逸話がありましたよね。
拷問の苦しみから救うやさしさと見ることもできるのでしょうが、個人的には姑息さを感じてしまいます。

補足日時:2010/05/21 09:32
    • good
    • 7

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aに関連する記事

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q山内容堂と武市半平太の関係について教えてください。

山内容堂と武市半平太の関係について教えてください。
始めは、容堂の志を武市は隠居させられた老公(山内容堂)の志を継いでいたと思うのですが、
なぜ、途中からは敵対するようになってしまったのですか?

Aベストアンサー

これは簡単な話で、武市は容堂の駒の1つだったわけです。

悲しいかな、お国柄もあります。
長州などは、部下からの進言に対してなんでも「そうせい」といってきた
ことから「そうせい候」といわれる毛利敬親がおり、主従関係が奇跡的に
円滑でした。薩摩の島津斉彬も、部下を育てようと、国の情勢を熱く説き
ました。しかし、土佐には身分制度というものがあり、上士と下士に分か
れています。上士から見れば、下士は虫ケラ以下の存在で、対等に話する
こと自体ご法度なぐらい厳しい身分差別がありました。

容堂の考えは、基本的には公武合体派(公家と幕府が治める世の中をつくる)
です。まぁ殿様レベルで、「私は尊王攘夷派(幕府ではなく天皇が治める世の
中をつくる)です」と言う人もいないかと思いますが。しかし、この容堂公は
ズル賢い、というか狡猾というか、長いものに巻かれるのが得意な人です。
世の中が尊皇攘夷派の流れになっていれば、土佐の国で尊皇攘夷に動いている
人物を引き上げ、その人物が中心になる動きをさせます。この場合、武市です
ね。本来は、容堂に注進する上士の人がいたのですが、それを影で操っていた
のが、下士(白札郷士に格上げされましたが)である武市でした。身分上は
上士になったものの、元は虫けら以下の下士です。なかなか容堂にお目見え
する機会はありません。他の尊皇攘夷の上士と共に、何度も容堂と接する機会
があれば、あれほど妄信的にならずに済んだかもしれません。

さて、世の中が尊皇攘夷派から公武合体派に移ろっていくと、武市はもはや
価値なしと判断し、処罰の対象にします。それにより、幕府から「土佐も
不穏な輩がいたように思えるが」と問い詰められた際に、「勝手に攘夷の旗を
掲げていた下士がいましたが、すでに処分しました」と体裁よくすることが
できます。公武合体派の人物を推挙し、時流にのります。

ってことで、武市は土佐のため!と力を振るっていたのですが(容堂も好きな
ようにやれ、と言っていたし)結局のところ容堂にいいように使われていた
だけの存在ということでした。

蛇足ですが。。。
武市を処罰した後、世の中はまた尊皇攘夷派になります。これに焦った容堂は
後藤象二郎と板垣退助を用いて、長州に接しますが、盟友である武市を処罰した
土佐を信じません。そこで中岡慎太郎に接して、長州との架け橋になってもらい、
坂本龍馬に接して、薩摩との架け橋になってもらいます。その後、明治になる
前に、中岡、坂本とも暗殺され、後藤や容堂などが生き残ります。その際に、
長州の桂小五郎から「容堂公はなぜ武市を処罰されたのか?」と問い詰められ、
何も言い返せなかったというエピソードもあります。また、武市の奥さんで
あるお富に対して、後藤と板垣は「武市を処罰したのは我々の間違いだった」
と頭を下げました。明治数十年過ぎて、やっと武市のことが認められて瞬間です。

これは簡単な話で、武市は容堂の駒の1つだったわけです。

悲しいかな、お国柄もあります。
長州などは、部下からの進言に対してなんでも「そうせい」といってきた
ことから「そうせい候」といわれる毛利敬親がおり、主従関係が奇跡的に
円滑でした。薩摩の島津斉彬も、部下を育てようと、国の情勢を熱く説き
ました。しかし、土佐には身分制度というものがあり、上士と下士に分か
れています。上士から見れば、下士は虫ケラ以下の存在で、対等に話する
こと自体ご法度なぐらい厳しい身分差別がありました。

容...続きを読む

Q岡田以蔵と武市半平太

以蔵は拷問に耐えられなくて武市の事を言ったんですか?


岡田以蔵は下級身分の家で育った為
塾や道場に通えず自己流で剣術をやっていたところ
武市半平太に拾われ以蔵は武市を尊敬していた
以蔵は武市の為に人を斬り「人斬りの以蔵」と呼ばれていた
以蔵が捕まった時以蔵は拷問に耐えたが
武市は自分の悪さをバラされると思い
毒入りのおにぎりを差し出したが以蔵は死なずに助かった
以蔵は武市が自分を殺そうとした為自白し死んだ


以上が私が聞いた以蔵と武市の話です

私はずっと以蔵は裏切られたから自白したのかと思っていました

Aベストアンサー

おはようございます。真実は下記の様です。

『岡田以蔵』は既に入牢していた同志らとは別に捕まり、拷問により暗殺に関与した仲間を自白、これが土佐勤王党崩壊の端緒となった訳です。同志が次々に入牢、また吉田東洋暗殺の背後には山内家保守派層の関与が公然の秘密であり、お家騒動への発展を恐れ以蔵毒殺計画が仲間内で相談されました。しかし強引な毒殺はいかんと『武市半平太』や島村寿之助らが止め、以蔵の弟である岡田啓吉に、以蔵の父から毒殺の許可、ないしは自害を求める手紙を寄越すよう獄外の同志に連絡を取らせます。これらの遣り取りの間に、武市半平太の弟・田内衛吉は拷問に耐え切れず兄に毒薬の手配を頼み自害、島村衛吉は拷問死。
『武市半平太と土佐勤王党』に依ると、結局以蔵に毒は送られることなく結審を迎えたようです。

創作にみられるエピソードによれば、この際、毒を送られた以蔵はそれを毒とは知らずに服んだが死なず拷問に屈して白状したとか、毒を見破って憤りのあまり自白に及んだなどと様々に推測されていますけれども、いずれも事実とは異なります。


箇条書きにしてまとめますと、より解り易いでしょう

・岡田以蔵は単に拷問に耐え切れずに屈服し、一連の暗殺に関与した仲間の名前を自白

・これにより同志が芋づる式に捕まる

・お家騒動を恐れた同志が「以蔵毒殺」を計画

・武市半平太らが「そんな強引な毒殺はだめだ」と一旦止めさせる

・以蔵の弟に以蔵の毒殺或いは自害の許可を以蔵の父に取らせる為に手紙を出す様、獄外の仲間に指示(律儀)

・しかし半平太の弟も拷問に耐え切れず、兄に毒薬手配を委託し自害

・結局、以蔵に毒は盛られなかった


歴史の真実はどこかで話が大きくなったり、実はこうだった、いや違う、といった論争は果てしが無いですが、この「以蔵の件」については信憑性はかなり高いです。

おはようございます。真実は下記の様です。

『岡田以蔵』は既に入牢していた同志らとは別に捕まり、拷問により暗殺に関与した仲間を自白、これが土佐勤王党崩壊の端緒となった訳です。同志が次々に入牢、また吉田東洋暗殺の背後には山内家保守派層の関与が公然の秘密であり、お家騒動への発展を恐れ以蔵毒殺計画が仲間内で相談されました。しかし強引な毒殺はいかんと『武市半平太』や島村寿之助らが止め、以蔵の弟である岡田啓吉に、以蔵の父から毒殺の許可、ないしは自害を求める手紙を寄越すよう獄外の同志に...続きを読む

Q長州藩の尊攘派の攘夷

恐らく似たような質問があるかと思われますがあえてこの場で質問をさせて下さい。

私は尊王攘夷の思想の意味は分かりますが長州藩の尊攘派の攘夷は土佐藩や水戸藩とは違っていたと聞いており、それが以下のような事で合っているのか伺いたいと思います。

・吉田松陰は尊攘派として有名だが開国派の佐久間象山を師事している
 うえ、西洋の文化にも興味があったことから実は開国派である。
 ではなぜ、幕府の開国を批判したのか?
 それは幕府が開国をする際にアメリカと結んだ条約があまりにも日本
 にとって不平等で、しかも天皇の勅許も得ないまま結んだので吉田松
 陰としてはそんな腰ぬけな幕府を批判した。
 さらにこんな不平等な開国に対しては攘夷だ!という事で尊攘派とし
 て運動した。
 開国するならするでちゃんとお互い対等な条件と勅許を得た上で調印 しろ!といった感じで。

・よって吉田松陰の弟子にあたる長州藩の尊攘派の中心、桂小五郎や高
 杉晋作や久坂玄瑞なども表では攘夷とさけびながらも実は攘夷などは
 もう無理でいずれは開国し国力をつけなければと思っていた。
 しかし、今回の幕府が行った開国は不平等であるので攘夷を実行し
 た。
 不平等な条約での開国は反対という事で攘夷を唱え、実行していた。

・しかし、その攘夷を実行して4カ国艦隊でやられ結局そのまま開国へ
 と変えた。

この概要であっておりますでしょうか?

恐らく似たような質問があるかと思われますがあえてこの場で質問をさせて下さい。

私は尊王攘夷の思想の意味は分かりますが長州藩の尊攘派の攘夷は土佐藩や水戸藩とは違っていたと聞いており、それが以下のような事で合っているのか伺いたいと思います。

・吉田松陰は尊攘派として有名だが開国派の佐久間象山を師事している
 うえ、西洋の文化にも興味があったことから実は開国派である。
 ではなぜ、幕府の開国を批判したのか?
 それは幕府が開国をする際にアメリカと結んだ条約があまりにも日本
...続きを読む

Aベストアンサー

 吉田松陰が幕府の開国を批判するときに、不平等条約だからという理由で批判したというのは聞いたことがないです。質問者様が不平等条約とおっしゃっているのは、明治時代に治外法権などの不平等な点を改正しようと大変苦労をしたあの不平等条約のことを指しておっしゃっていると思われます。
 反対した1番の理由は朝廷の勅許を得ないで開国しようとし、開国した点だったと思います。

 1858年(安政5年)3月、朝廷から通商条約調印について、御三家・諸大名から意見を聞いた後に改めて勅裁を得るようにとの勅掟が出されました。松陰は調印反対の意見書、『愚論』『続愚論』を藩に出します。
 しかし、老中井伊直弼は6月に日米修好通商条約に調印し、朝廷へは事後報告でした。
 翌7月、松陰は『大義を講す』という文章を書いて藩に送っています。

 この『愚論』『続愚論』『・・ などを読んだら詳しくわかりそうですが、手元にないのでとりあえず検索してみましたらこんなページがありました。

http://www.araki-labo.jp/shiso103.htm
 この方のご研究によると吉田松陰の攘夷論は「開国的攘夷論」だそうです。

 また、松陰は鎖国(国を閉ざす)が良いとは言っていません。天保13年に藩に出した上書でも、海防の為に英国などから艦船を買い、西洋の船匠・船師・技師を海外より雇い水戦術を習うべし。また有名な『幽囚録』では、世界へ進出(侵出?)すべしと主張しています。
 その内容は、「善く国を保つものは徒(ただ)に其の有るところを失ふことなきのみあらず、又其の無き所を増すことあり。」として、
 オウストラリアは英国人がまだ10分の1しか開墾していないので「吾先ずこれを得ば、当に大利あるべし。」
 「朝鮮のごときは古時我れに臣属せしも、今はすなわち驕(おご)る、・・・」「朝鮮を責めて質を納(い)れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ(朝鮮を責めて人質を取り朝貢させて昔のようにさせ)、」。
 また、カムチャッカ・オホーツクを奪い、台湾・ルソンも手に入れるべきだとも述べています。
 貿易や産業のための開国というより、領土拡大を第一の目的とした開国です。『幽囚録』で書いていますが、ロシアも近頃蝦夷の近くに艦を備え兵を置いて軍事拠点を作りつつあるので、時を移さず日本に迫って来るだろう。
 ほとんど、「やられるか、こちらがやるか、二つに一つ」に近い大変な危機感で思考しています。

 1854年にペリーが再び来たとき、松陰は日米間で戦争になると予想していました。
 外夷は日本を呑み込もうと来ているのだから、日本が海防力を整えるまではとにかく今は追い払わねばと思っていたのではないでしょうか?
 

 吉田松陰が幕府の開国を批判するときに、不平等条約だからという理由で批判したというのは聞いたことがないです。質問者様が不平等条約とおっしゃっているのは、明治時代に治外法権などの不平等な点を改正しようと大変苦労をしたあの不平等条約のことを指しておっしゃっていると思われます。
 反対した1番の理由は朝廷の勅許を得ないで開国しようとし、開国した点だったと思います。

 1858年(安政5年)3月、朝廷から通商条約調印について、御三家・諸大名から意見を聞いた後に改めて勅裁を得るよ...続きを読む

Q”尊王”と”攘夷”とを結び付け、”尊王攘夷”という言葉を作った接着物は、何でしょうか?

江戸時代末に、”尊王攘夷”という言葉が活躍しました。
この四字熟語は、直接関係のない”尊王”と”攘夷”とが、結び付いたものですね。
ところで、この両者を結び付けた接着物は、何でしょうか?
(討幕ですか)

Aベストアンサー

> ”尊王攘夷”という四字熟語は、直接関係のない”尊王”と”攘夷”とが、結び付いたものです。この両者を結び付けた接着物は、何でしょうか?

四字熟語にも色々ありますが、寡聞浅学、有名無実、無芸大食、会者定離、勧善懲悪、栄枯盛衰、質疑応答、遠交近攻なども、直接関係ないと言えばそうも言えるものを結びつけているようにも思えます。
言い出しっぺ、あるいは聞いてそれを真似た者にとっては、セットにすることで、一つのイメージを訴えられる、スローガンあるいはコピー(キャッチフレーズ)として効果的だという感覚があるのでしょう。
ただ尊王、ただ攘夷と言うだけよりは、一つにまとめて尊王攘夷と言い出した方が、なにか目新しく一つの主張を強く訴えているように(本人も思い、聞いた方も感じる)ということなのでしょう。
造語の効果、新しいキャッチコピーの効果は、(そうした単純なフレーズで新しさを感じさせる)ことにあるのだと思います。
また、尊王だけ、攘夷だけ、倒幕/佐幕だけ、勤王だけ、大政奉還だけ、富国だけ、強兵だけのように一つの主張しかないような言葉だと糾合する対象者で対立も起きやすくなります。 その言葉の具体的な中身に入り込んで考え主張し合うようになったら、セクト化が始まり、内部闘争に発展しかねません。
二つ三つが混在したようなものを一語(一熟語)にしてしまうと、糾合している対象者間での力点の置き方、評価や志向の差、行動面の具体的な差が覆われぼやっとして「スローガンだけの一致」に気分を酔わせることも可能になります。 
政治、軍事、社会政策などで、味方を増やし、分裂させず、それでもって高揚感や連帯、同調感を得るには、こうした複数のイメージを接合させたキャッチが都合良いのだと思います。

  ~~~   ~~~   ~~~  ~~~
このURLのベストアンサーに選ばれているaminouchiさんの回答に「周王室の力が衰えたことから諸侯は尊王攘夷を唱えて」とあります。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/865355.html
残念ながらその事実を私は今確認出来ません。
下の解説は、事実を踏まえているのか疑問に感じます。
"尊王攘夷 中国の春秋時代、周王を尊び、夷狄を撃つこと。 周王を尊び、夷狄(犬戎など、周辺の異民族)を討ち払う、という意味で、春秋時代の前半の有力諸侯が唱えたことば。"
http://www.y-history.net/appendix/wh0203-034_1.html
  ~~~  ~~~   ~~~  ~~~
宋の時代には"尊王攘夷"を"文字列"にして言い出した人がいるようです。(ココでも政治的アピール効果ですね)
"宋では王安石が「断爛朝報(切れ切れの官報)」と『春秋』をけなしたが、北方異民族の侵入もあって、士大夫(官僚層)の間では尊王攘夷、復讐是認の春秋学が盛行した。 "
https://kotobank.jp/word/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E5%AD%A6-1545026
確かに、随分と後代になってから「尊王攘夷」の言葉は出てくるようです。(元は漢文ですが、、、、)
"平心にて論ずれば,胡氏の春秋の大義は孟子に本づき,一字褒貶は公穀に本づき,皆其の非を謂うを得ず。而るも之を求むること深きに過ぎ,勤めて公穀両家の外に出で,鍛錬すること太だ刻にして,多く諷を時事に託するの心を存す。其の書,経筵に奏御せらるれば,原と藉りて以て約を納むべし。但だ尊王攘夷,春秋の大義と雖も,王ならば唯諾趨伏の尊ぶべきに非ず,夷ならば一身両臂の攘すべきに非ず。胡が『伝』は首めに権臣を戒め,芸祖の黄袍を懲艾するの非を習い,高宗の諸将を猜疑するの意を啓けり。王夫子の岳侯の死を謂うに,其の説は庸主の心に中るを先にすと。此れ其の立言の大失,経を解するの明らかならざるに由るなり。"   大修館の「広漢和辞典」にはこの一節が、漢文で掲載されています。この経学歴史・経学変古時代の筆者にとっては、「尊王攘夷」は政治的主張を表すスローガンとして周知のものというイメージだったのでしょう。 この筆者が懸念する通り、主題を限定すれば異論がでて対立が際立つのだと思います。
http://awata.blog102.fc2.com/blog-entry-89.html
http://awatasan.web.fc2.com/chunqiu/howto/sankou.html
春秋時代には「尊王攘夷」という言葉や熟語はなかったのじゃないかと、浅学厚顔の私は思います。
http://coolrip.b.ribbon.to/ueno.cool.ne.jp/souryuu/sisou-syunzyu.html

> ”尊王攘夷”という四字熟語は、直接関係のない”尊王”と”攘夷”とが、結び付いたものです。この両者を結び付けた接着物は、何でしょうか?

四字熟語にも色々ありますが、寡聞浅学、有名無実、無芸大食、会者定離、勧善懲悪、栄枯盛衰、質疑応答、遠交近攻なども、直接関係ないと言えばそうも言えるものを結びつけているようにも思えます。
言い出しっぺ、あるいは聞いてそれを真似た者にとっては、セットにすることで、一つのイメージを訴えられる、スローガンあるいはコピー(キャッチフレーズ)として効果的だと...続きを読む

Q【千利休の最後は切腹だった?!】お茶の千利休はなぜ切腹して死んだんですか? 千利休は茶道で政治を牛

【千利休の最後は切腹だった?!】お茶の千利休はなぜ切腹して死んだんですか?

千利休は茶道で政治を牛耳る政治スパイだったと聞いたことがあります。

茶道で政治を裏で動かしたので政権が変わったときに死刑宣告されたんでしょうか?

誰が切腹しろと指示したのでしょう?

時の将軍はお茶が嫌いだった?

Aベストアンサー

豊臣秀吉との確執でしょうね、最後は。

切腹を命じたのも秀吉です。


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング

おすすめ情報