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縄文海進(Holocene glacial retreat)に関して調べてみたところ、
・海面が今より2~3メートル高かった
・縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされている。
・日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んでおり、香取海や奥東京湾を形成した。
・気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1~2℃気温が高かった。

がわかりました。

また奥東京湾について調べてみると、
・東京湾は現在の群馬県、栃木県に至るほどに広域であった。

最後に、現在の群馬県に関して調べてみると、
・前橋市役所の場所は標高 約108メートル
・貝塚で有名な群馬県邑楽郡板倉町は標高16メートル

などがわかりました。


平均気温が1-2℃上昇、海水面が2~3メートル高かった、という推定事実と、標高16メートルの板倉町に貝塚があるという事実の三点が私の中で整合しません。

質問:
1.群馬県邑楽郡板倉町の貝塚は利根川でとれる淡水二枚貝(カラスガイ、マツカサガイ、ドブガイなど)ではないのか?

2.縄文海進は水面の上昇だけが原因とされているが、やはり地盤の沈下があったのではないか?(海面上昇3メートル、地盤沈下13メートルであれば、板倉町に海岸線が来る)


縄文時代の地理、海岸線などに詳しい方より、アドバイスをいただければありがたいです。

A 回答 (4件)

ヒマラヤ山脈の隆起量が現在、年間あたり10ミリですから、6000年だと60メートルの隆起が可能です。


もともと関東地方の周辺山地は、第四紀に入ってから隆起場でしたが、関東平野も最終氷期移行、ある程度の隆起場に転じたことが知られています。
厳密には、現在の関東平野周辺部がより早く隆起し、中央部が相対的に沈降する動きになりますから、平野の北縁部にあたる群馬県邑楽郡付近がヒマラヤの5分の1の隆起力をみせれば、6000年で12メートルの標高をかせげますから、ヒプシサーマルの海面上昇が2~3m未満だったとしても、ご質問の証拠と合います。

さらに関東平野の標高を押しあげる要素がもうひとつ。それは、周辺山地からの堆積物の増加です。
山が隆起して盛りあがれば、浸食量も増して泥や砂粒など砕屑物の生産が増えますよね。さらに関東ローム層の名にもみるとおり、関東平野は火山灰の堆積場でもある。富士・箱根に近い大磯丘陵では火山降灰が第四紀を通じて300メートルも積もっているそうです。つまり、邑楽郡付近がヒプシサーマル期以降、周辺からの浸食~流れこみを得て埋まり、さらに周辺火山から一定規模の降灰を浴びれば、かりに隆起量がプラマイゼロだったとしても6000年間に16メートル程度の標高を得ることは容易でしょう。
http://www.kubota.co.jp/urban/pdf/21/pdf/21_1_1. …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2013/09/19 13:29

遺跡の標高から割り出している訳ではありません。


地層から割り出しています。
下記サイト参照
東京の低地 - 東京都地質調査業協会
www.tokyo-geo.or.jp/tech-note-pdf/No21.pdf

東京低地北部における沖積層のシーケンス層序と古地理 - 地質調査総合 ...
www.gsj.jp/data/bulletin/59_11_02.pdf

考古学だけではなく、地質学、地理学の分野での研究成果に基づいています。
ちなみに、東京低地には火山灰層がありません。

地盤沈下に関しても関東平野全体が現在の江戸川の下流部分の方向へ約1mm/年傾き続けているとされています。
関東地方の地図を御覧頂ければ解りますが、埼玉県内では川は北西の方向から南東の方向に流れています。
荒川の流れも直に流れれば上野の大地の裾を通るようになります。
鬼怒川も宇都宮の北部付近で流れの方向が変わっています。

現在の利根川は元々は、鬼怒川や小貝川の下流部分です。
現在の利根川と江戸川との分岐点(関宿)付近は広大な湿地帯で無数の水路(クーリー)が走っていました。
鎌倉時代ごろから少しづつ流れを寄せ集めて、中川や太日川(現在の江戸川)に纏めました。
最終的に、江戸時代の初めの頃に、現在の分岐点(関宿付近)を広げて現在の形になりました。
現在の元荒川、古利根川などの名称に注意して下さい。

即ち
>1.群馬県邑楽郡板倉町の貝塚は利根川でとれる淡水二枚貝(カラスガイ、マツカサガイ、ドブガイなど)ではないのか?
は、該当しません。
>2.縄文海進は水面の上昇だけが原因とされているが、やはり地盤の沈下があったのではないか?(海面上昇3メートル、地盤沈下13メートルであれば、板倉町に海岸線が来る)
東京湾の海面の高さの変化は100m単位で起きています。
最も海が後退していた時代には、現在の浦賀水道付近を河口とする川(東京川と呼ばれています)が流れていて、現在関東平野を流れている川を全て集めて太平洋へ流れ出していました。
この川の痕跡は今でも東京湾の海底に残っています。

世界地図で東京湾の大きさを見て下さい。地球規模での海進、海退の規模からすれば東京湾の形状変化は誤差範囲です。

どちらにお住まいかは存知上げませんが、一度葛飾区郷土と天文の博物館を訪れてみて下さい。
葛飾区郷土と天文の博物館|Katsushika City Museum
www.museum.city.katsushika.lg.jp/
東京低地に関するシンポジュームのパンフレットが沢山あります。

なお、川の名称は時代によってたびたび変化しますので注意して下さい。(学会でも統一されていません)
荒川、江戸川、中川は人工の流域が作られていていますので注意をして下さい。(流れが大きく変わっています)
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2013/09/19 13:29

回答ではないですが、整理として



最終氷期以降6000年前くらいまで海進→縄文海進
その後海退
8世紀から12世紀に海面上昇→平安海進、ロットネスト海進
14世紀後半の海退→パリア海退
16世紀中頃の海進→中世海進

中世海進後も現在より海水面が低かったらしいので、それ以降は海退はなくやや海進がすすんできた、という感じなのでしょうか。
今調べたところなので、抜け間違いがあるかもしれません。


縄文海進は、氷が解けて地球の形も変わったので、世界的に地域差が大きいことが知られています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2013/09/19 13:29

そういうところは地盤の隆起もあるようですね。

場所ごとに個別な事由もあると思うので,一概には分かりませんが。

ただ,海進と隆起の時期は分けて考える必要はあるでしょうね。

20mもの高さまで縄文海進?
http://nh.kanagawa-museum.jp/kikaku/ondanka/pdff …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2013/09/19 13:29

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