チョコミントアイス

そもそも無の悟りは、

君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。
私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。
したがって一切が無である。

お釈迦様のこの悟りを理解することである。
しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。
この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。
私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。
現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。
この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。
すなわち無の境地とは何ぞや。
悟りに至る道とは何ぞや。
無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。
自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。
無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。
私はそんな感じに至っている。
快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。
答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。
そう言う訳で、
「わが信仰の大道を行け」
こうなる。

さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。
そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。
しかし実感が無いだろう。
その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。
サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。

A 回答 (21件中21~21件)

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 長すぎ。

 どっかでオッカムの剃刀を入手してきなさい。

この回答への補足

やあ。
簡潔に述べよということならね。

おめーら全員皆殺しだ。

こうなる。

補足日時:2013/09/30 23:25
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この回答へのお礼

コピペに失敗しているよ。

お礼日時:2013/09/30 23:23

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