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ネットや現実の社会の中でいじめは頻繁におこっています。
いじめる側は、「批判されても仕方がないようなことをするからだ」
「思ったことを言っただけ。言論の自由。」と正当化します。
そして弁護した人もまたいじめの対象にされることが多いです。

いじめか単なる批判であるかという区別はなかなかつきにくいですが、どのように区別されるべきでしょうか。
また第三者がいじめをやめさせる有効な手段などもありましたらご教授いただけるとありがたいです。

カテゴリー違いでしたらご指摘いただけるとありがたいです。

A 回答 (11件中1~10件)

お礼ありがとうございました。



>たとえば、あるスポーツ選手が高難度の技に挑戦せず、レベルを落とした技を行って、その完成度で高得点を得ています。

>批判する側は彼女がミスのない演技をしたことについては一言もほめず、彼女には向上心がないといってたたきます。
そしてスポーツを向上させるために批判しているのだと言います。

批判したその人が、そのスポーツ選手以上にスポーツに対して真摯にやってきたことで
口にした意見なら分かるのですが、その立場に立たない人にその人の何が分かるのでしょうね。

相手の今、表面を見て語るのは誰でも楽です。
難度の高い技までチャレンジできるようになるまでの強い向上心を持ってしても
あえて選ぶにはきっとその人なりの理由があるはずです。

それを踏まえて考えるに、相手への思いやりや気持ちを察するなどが不可欠なのかなって思います。

「言うは安し」です。
多分、自分の限界にチャレンジして乗り越えることを何度もやってきた人にとっては
そのスポーツ選手に、そんな軽々しい言葉をかけることはできないでしょう。

有名な人は、槍玉に上がりやすいですが
「だったら自分でやってみろよ」って言いたい悔しさを抱えるだけでも大変だと思います。

人にあれこれ求めるなら、誰しもまず自分でやってみることがいいと思います。
人を批判したくなったら、批判できるほど自分がやってるかを自分に問うことです。
自分のことを棚上げして語ってる人が自分だとしたら、本当にそれでいいのか?

自分に問うことですよね。


いじめと批判の違いですが、いじめは人に向けられて批判は行動に向けられる。
そんな所が違うかと思いますが、多くの人は自分の言動を意識してません。

「そんなつもりじゃない」ことで、多くの人を傷つけます。
それに気がつくことでしょうね。
気がつけば、変わることに繋げることができます。

人に「変われ」はできないですが、自分からなら変えられますから。
誰でもね。
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この回答へのお礼

こちらこそ何度も回答ありがとうございます。

>批判したその人が、そのスポーツ選手以上にスポーツに対して真摯にやってきたことで
口にした意見なら分かるのですが、その立場に立たない人にその人の何が分かるのでしょうね。

そのとおりです。
批判されているのは海外の選手なので
自分がひいきの自国の選手を勝たせたくて
そんなことを言っているようにも思えてしまうんですよね~。

確かにそのスポーツ自体、採点がわかりにくいという欠点があるとは思うんです。
採点システムを変えたほうがいいと思います。
だけど、悪いのは選手でなく、採点システムです。
なんかそこのところをはき違えている人が多い。

それなのに、性格が悪いとか(つきあったこともないのに!)
コネがあるとか、もう聞いていられないくらいです。

>それを踏まえて考えるに、相手への思いやりや気持ちを察するなどが不可欠なのかなって思います。

ですね、ですね!
バッシングする人は他人への思いやりがなさすぎると感じることがよくあります。

容赦ないというかな。
だけど、どう考えてもその人にそのように他人を裁く権利があるとは思われない。

>「言うは安し」です。
多分、自分の限界にチャレンジして乗り越えることを何度もやってきた人にとっては
そのスポーツ選手に、そんな軽々しい言葉をかけることはできないでしょう。

想像力の欠如ですね。

>人にあれこれ求めるなら、誰しもまず自分でやってみることがいいと思います。
人を批判したくなったら、批判できるほど自分がやってるかを自分に問うことです。
自分のことを棚上げして語ってる人が自分だとしたら、本当にそれでいいのか?

なるほど~、私も人を批判したくなったら、そう問うてみることにします。
自分自身もあんまりいい人間じゃないんで(汗)

>人に「変われ」はできないですが、自分からなら変えられますから。
誰でもね。

そうですね~。

先日、あまりにひどいバッシングをやめてほしいとブログに書いてた人がいました。
承認はされませんでしたが、たくさんの批判コメントがきたようです。
そういう事態は十分に想定できたにもかかわらず
ブログに書いてくださったことが嬉しかったです。

他人は変えることはできないかもしれませんが、やはりこの方のように
自分の思いを世の中に発信するということが大事かな、と思いました。

お礼日時:2013/10/09 09:34

言論の自由より人権が優先されると思います。


人権が認められる上に、言論の自由も成り立つからです。

ただ、残念なのは人権に対して学校でも深く学ばないこと。
人権を自分なりに深く掘り下げることも、あまり無いだろうと言うこと。

「人を尊重する」とか「尊厳」とかに、深く突っ込んで向き合って考えたこと
私は成人2回分来てからぐらいに、やっとじっくり考えてみました。

他の方が「君」や「さん」を付けることに話しをしてあります。
それが、一つの相手を尊重すると言うことに繋がる手段だからだと思います。


>いじめる側は、「批判されても仕方がないようなことをするからだ」

まず疑問なのは、批判する必要性があるのだろうかってことです。
批判して、相手の何が変わる?
大抵は、意固地になるだけです。

人を批判するのは、人権問題に繋がります。
相手の行動を批判するのは、改善に向けてではなければ批判に意味を成しません。

つまり、相手を批判するのは自分が気持ちよくなるための批判となってしまいます。


例えば、泥棒が入って捕まったとします。
「ふてぇ野郎だ。ざまあみろ。そんなことするからだ」は、何も生みだしません。

「どうやって入ったのか?」
「家の裏に回って、人目に付かないところで鍵を壊したらしいよ」
「そっか。それじゃ裏に回るときに音が出る石か何か敷いていたのかぃ?」
「何にもしてなかったって」
「それじゃ入られるかもね」
「家も何もしてないから、何か考えてやっておかないと危ないね」
そこには、防犯対策が生まれます。


人を批判したくなった気持ちに、自らが哲学的批判をすることにより
それを回避するということが出来るようになるのが本来はいいのだと思います。

自分を見つめる目を養うこと。
そこは、今の日本人の多くが忘れ去っているものかもしれませんね。
個人的には、進歩的回帰がなされることを望んでいます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>言論の自由より人権が優先されると思います。
人権が認められる上に、言論の自由も成り立つからです。

なるほど、正論ですね。
私もそう思います。

>ただ、残念なのは人権に対して学校でも深く学ばないこと。
人権を自分なりに深く掘り下げることも、あまり無いだろうと言うこと。

たしかにそうですね~。
小学生のころ、道徳という授業がありましたが
どんなことを学んだのか、ほとんど思い出せないです。
また道徳の授業なんてバカバカしいと思っていたクラスメイトが多かったですね。

>他の方が「君」や「さん」を付けることに話しをしてあります。
それが、一つの相手を尊重すると言うことに繋がる手段だからだと思います。

ですね!
すべての人が尊重されるべき、という理念が、そこにはあると思います。

逆に人をいじめるときには、「この人は馬鹿にされてもしかたがないような人だ」というような心理があると思います。

>まず疑問なのは、批判する必要性があるのだろうかってことです。
>相手の行動を批判するのは、改善に向けてではなければ批判に意味を成しません。

なるほど~。
しかしこれもなかなか判断が難しいですよね。

何がよくて、何が悪いのか、という問題につきあたります。

法律で禁止されていることを行うのはよくないとはっきり言えるのですが

たとえば、あるスポーツ選手が高難度の技に挑戦せず、レベルを落とした技を行って、その完成度で高得点を得ています。

批判する側は彼女がミスのない演技をしたことについては一言もほめず、彼女には向上心がないといってたたきます。
そしてスポーツを向上させるために批判しているのだと言います。

>人を批判したくなった気持ちに、自らが哲学的批判をすることにより
それを回避するということが出来るようになるのが本来はいいのだと思います。

>自分を見つめる目を養うこと。
そこは、今の日本人の多くが忘れ去っているものかもしれませんね。
個人的には、進歩的回帰がなされることを望んでいます。

そうですね~、絶対これが正しい、と思っても、もしかしたら間違っているかもしれない、と考えてみることが必要かもしえれませんね。

また、異質のものを排斥するのではなく、認めるというような空気が作られることを望みます。

お礼日時:2013/10/07 09:54

こんにちは。

まだどなたも書かれていないので私が書くことにしました。
表現に稚拙な部分があるかもしれませんがご容赦下さい。

まず、通俗的に誤解されていることですが、「○○の自由」と言った場合、どのような行動も許される、ということではありません。
制限が無い行動が許された場合、究極の場合、殺人の自由なども許されてしまうからです。
これはどのように考えれば良いのでしょうか。

思考の補助線として、過去において次のようなことがあったことを、下敷きとして考えていきましょう。
まず社会で習う「○○の自由」の類はなぜこのように声高に叫ばれているかというと、それがその時代の社会的構造によって弾圧されてきた経緯があるからです。
「○○の自由」をわざわざ言っているのは、「○○の自由」が無い時代があったからです。
「○○の自由」が無い、それを取り戻そう、と言う時代があった考えれば分かりやすいです。

例えば「言論の自由」が無い時代がありました。それを取り戻す為に「言論の自由」が叫ばれるようになりました。
あるいは「職業選択の自由」が無い時代がありました。それを取り戻す為に「職業選択の自由」が叫ばれるようになりました。

これらは一貫してある法則が通底します。それは、「人間の理想として、基本的にこういった権利が理念としてあるべきであり、実際にその理想が社会にあるべきである。なのにそれがない。これは社会としておかしくないか」という考え方です。
現行、人間として社会的に受けている権利が、本来の理想とは程遠いから、理想の権利を社会から授けよ、という主張です。

簡単にまとめますと、本来の自由の意味とは、「理想に近づく為の行動理念」なのです。
決して「個人のわがままで何をしてもいい」という意味ではありません。
学校での「自由時間」に遊んでいるのは、これは本来の意味を曲解した結果にすぎません。自由とは自らを由とする(みずからをよしとする)わけですから、自分の考えを軸に立脚し、その行動を理念にそって実行する時間が与えられている訳です。

よって、誰かをいじめている時には、その「人間が本来持つべき、近づくべき理念」の有無が議論の対象になります。

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また、いじめを解決する際にはこうした言論の哲理的考察というものは何の役にも立ちません。「自由という概念は実は何をしてもいいというわけではないんだよ」と上記のことを言ってハッと気づくのが相手であればいいのですが、多くの場合において、いじめる人間というものはそうしたことは理解しません。このようなことを言ったところでいじめが加速するだけです。いじめの発生と抑止は極めて原始的です。

いじめられるのは、いじめる対象にある人間の行動にいらだつからです。
言うことに一言多くていらだたせたり、相手を傷つけたり、物忘れが多く周囲の足を引っ張ったり、不潔で近寄りたくなかったり、行動が不気味で予測がつかなかったり・・・。

あるいは、逆に抑止の傾向もあったりします。
話していると快活で面白いことを言っていたり、ケンカを売っても勝てそうになかったりなどという面がそうです。

昔のいじめはいわれの無い階級差などが元にありましたが、現代は本人の実力次第の部分が多々あります。
ビートたけし氏も「ペンキ屋の息子」と呼ばれ(ペンキ屋は放送禁止用語)、親が授業参観に来てみれば、服の下から入れ墨が見えるわ、酒飲んで学校に来るわで大変だったそうです。その本人の環境を変えたのが、お笑いという新形態だったのですね。
面白いことを言えば番長もかわいがってくれる。それで現在の芸能界のトップまで上り詰めたというのはおおいに見習うところがあると思います。

松本人志さんもそうですね。お笑いが自分の人生を変えたようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>簡単にまとめますと、本来の自由の意味とは、「理想に近づく為の行動理念」なのです。
決して「個人のわがままで何をしてもいい」という意味ではありません。

ああ、こう考えるといいかもしれませんね。
他人をののしったりしていじめることが「理想に近づくための行動理念」であるとは思われないので。

ただ、明確にそれで区別できるかというと、なかなか難しい問題になるかと思います。

第三者から見ればいじめているように見えても、いじめる側にも理由はあるのですね。
暴力をふるうとか、そういうのは明らかにやりすぎ
(国家レベルではそんないじめもありますが)
暴力については大抵の人には理解できるはずなんですが
言論となると、なかなか難しい~。

たとえばあるスポーツ選手がひどくバッシングされています。
彼女がなぜバッシングされているかといえば、他の選手に比べて点が出すぎると多くの人が感じているからです。
コネがあるんだろうとか、ジャッジにお金を渡しているんだろうとか、書かれています。
しかし彼女が不正を行っているという証拠はひとつもない。
なので、やはり書きすぎだと感じます。
書けるとすれば「彼女の採点に納得できない」まででしょう。

明らかにやりすぎだと思うんですが、書いてる人にすれば「スポーツを公正なものにするため」に書いてるのであって「正義」なのですね。

ある芸能人のことをあたかも犯罪者であるかのような書き込みをしたとして、逮捕者もでています。
いじめているほうにも、こういうリスクがあるのですが
自分の推理はまちがっていない、と思い込んでしまっている。
警察が誤認逮捕することを認めるのか、と言いたくなります。

週刊誌などが名誉棄損になりかねないような記事を平気で書いたりするので、
「こんなこと書いてもいいんだ」と思ってマネする人が増えたりしているようにも思われます。

まあ、でもこんなのはまだいい方かもしえません。
なんだかんだと理由をつけて軍事介入する国にくらべれば。

>自由という概念は実は何をしてもいいというわけではないんだよ」と上記のことを言ってハッと気づくのが相手であればいいのですが、多くの場合において、いじめる人間というものはそうしたことは理解しません。

まったくそのとおりです。

>いじめられるのは、いじめる対象にある人間の行動にいらだつからです。

確かにそうですね。
しかし客観的にものごとを見ることができる人であれば、「他人をいじめたい」という自分の衝動を抑えることができる。

>言うことに一言多くていらだたせたり、相手を傷つけたり、物忘れが多く周囲の足を引っ張ったり、不潔で近寄りたくなかったり、行動が不気味で予測がつかなかったり・・・。

人はそれぞれ違うので、誰しも他人に対してそう感じたりすることはあるでしょう。
ただ、そうであっても他人を尊重できる人と、できない人がいる。

>あるいは、逆に抑止の傾向もあったりします。
話していると快活で面白いことを言っていたり、ケンカを売っても勝てそうになかったりなどという面がそうです。

いじめられやすい性格と、いじめられにくい性格があるということでしょうか。

それは確かにそうなんですが、面白いことを言うにはセンスが必要だし、ケンカに勝つにも体力や知力が必要で、どうにもならない場合が多いのではないかと思います。

もちろん、いじめられないようになりたいと思ってそういうふうになる努力をすることはいいんですが

第三者から見た場合、いじめられている人間にそういう努力をせよとは私自身は言えないです。

いじめる人はその人が何をしようといじめるのではないかと思うんです。

環境を変えると、いままでいじめられていたのが嘘のように
人気者になったり、もてたり、愛されたり、という人もいました。

すいません、愚痴っぽくなってしまって。
決して単に愚痴をこぼしたいわけではないのですが
なかなかどうしたらいいのか、解決策が見えてこないので。

お礼日時:2013/10/07 09:24

ネットで本名で意見を述べること。



著名人は誰であれ、このマナーは厳守ですよね。

いじめに該当するのは、他人の意見に便乗して匿名で特定者を煽る行為です。


個人に危害が加わる恐れがあるから匿名で、なんてのはへたれの言い訳。

そういうことを言ってるから、いじめはなくならない。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>いじめに該当するのは、他人の意見に便乗して匿名で特定者を煽る行為です。

あー、これありますね。
人気ブロガーさんが一言悪口みたいなことを言うと
賛同するコメントがものすごい数ついて、いじめみたい、と感じることがあります。

聞いた話ですが「煽り屋」と呼ばれる人もいるそうですね。
そう考えると、ネットで大勢の人に反論されたからといっても
深く考える必要はないかもしれませんね。
「煽り屋」の仕業かもしれないし、ひとりで何十件も投稿しているかもしれない。

>個人に危害が加わる恐れがあるから匿名で、なんてのはへたれの言い訳。

うーん、でも匿名でカキコミしたほうがいいこととかありますよね。
例えば会社でパワハラ受けてることを相談したいと思った場合、やっぱり匿名でカキコミしたほうがいいと思う。

あ、他人を批判する際には本名で批判しろ、ということでしょうか。

たしかに匿名であればつい言いすぎてしまうという部分があるかもしれないので、それは有効かもしれませんね。

批判などではなく、素朴な疑問なのですが
それでは回答者さまはなぜ匿名でここに投稿されているんですか?
プロフィール欄に名前を書いておられないのはなぜでしょうか?

お礼日時:2013/10/04 11:46

>いじめか単なる批判であるかという区別はなかなかつきにくいですが、どのように区別されるべきでしょうか。



人にではなく、状況、問題、行動などに関しての批判であれば、いじめとならない。

イジメは、人、その人格そのものに対する否定、批判が多いですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>人にではなく、状況、問題、行動などに関しての批判であれば、いじめとならない。

うーーん??

私がこれイジメじゃないの、と感じるのは状況・問題・行動などに関する批判が多いです。

もちろん、人格を否定する人もいます。
子供の喧嘩なんかはこれが多いですね。
お前の母さん、でべそ、的な。

大したことしてないのに、あーだこーだ批判されているケースを
実社会やネットでよくみかけます。

例がないとわかりにくいですよね。

たとえばスポーツやってる人が試合に負けて、「実は熱があって力が入らなかったのだ」というと「言い訳」だと言ってバッシング。

スポーツ選手を、そういう事実がないのにスポンサーの力で点をあげてもらっているといってバッシング。

ひとりのクラスメイトがあることに失敗して、「かわいそう」と大騒ぎになっているときに、ひとりが「かわいそうじゃないよ、こうやればきっとできるよ」と言った。
すると「かわいそうじゃないと言うなんて冷たい」とバッシング。

授業中、騒ぐ人がいて教師の言うことが聴こえないので、「うるさい」と一喝したら「なんや、えらそうに」とバッシング。

音楽の授業で、課題曲が2曲あり、ひとりだけ他の人とちがう曲を選択したら、「ひとりめだとうとしてみっともない」とバッシング。

「化粧品かぶれするので、化粧品が使えない」と言うと
「私ってデリケートでしょ、と必死にアピールしてみっともない」とバッシング。

これらは私が実際に見聞きしたことのあることです。
人や人格に関する批判ではなく、行動に関する批判です。
だけど、いじめじゃないですか?

お礼日時:2013/10/04 11:30

#2の者です。



>博愛の精神をはぐくむためには、どのようなことをするのが有効でしょうか?

ただ、現実を見、真実を感じる事です。
既に我々の身の回りのモノは、衣食住すべて世界中の人
の営為に拠っており、実質的に「助け合っている」のです。
そうした自己の生命性の社会的拡張を自覚化できる認識
の深まりを育成せず、自己チューな意識のまま他律的に
社会性のコースを走らせるための、お金や出世、虚栄心
といった“馬車馬の目の前のニンジン(虚構の価値)”を
発達させたのです。
それにより、実際は助け合っている社会において、個人の
意識としては、お金を奪い合い出世を争う、弱肉強食の
擬似ジャングルと化しているのです。
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この回答へのお礼

何度も回答をありがとうございます。

>既に我々の身の回りのモノは、衣食住すべて世界中の人
の営為に拠っており、実質的に「助け合っている」のです。
そうした自己の生命性の社会的拡張を自覚化できる認識
の深まりを育成せず、自己チューな意識のまま他律的に
社会性のコースを走らせるための、お金や出世、虚栄心
といった“馬車馬の目の前のニンジン(虚構の価値)”を
発達させたのです。

たとえば学校などでグループ活動などをとりいれるといいかもしれませんね。
個人ではなく、グループに点がつくとか。
連帯責任にするとか。
よけいにいじめにつながっちゃうかな~?

お礼日時:2013/10/02 13:18

いじめと言論の自由の違い、というのは


適切な問題提起だとは思えません。

言論の自由があり、その言論の自由に
いじめは含まれるのか、
ふくまれるとして、その言論には制限がないのか
という問題でしょう。

言論の自由は大切ですが、無制限に保障される
わけではありません。
他の価値によって制限されます。

つまり、言論の自由という価値と、他の価値との
調整の問題です。
どう調整するか、その基準如何ということです。

例えば、火事でも無いのに、満員の映画館で
火事だ、と叫ぶのはどうでしょう。
この場合には「明白かつ現在の危険」という基準が
適用されます。
その様な状況下で火事だと叫ぶのは、他人の身体生命
に明白かつ現在の危険が及ぶからダメ、ということです。

同じような価値の比較の場合、例えば、名誉の場合は
比較衡量という手法が基準になります。
これは、個々の事例において、双方の価値を比較して
決めようとするものです。
刑法では、名誉を侵害される者が政治家などの場合には、
それが真実であれば、言論の自由が優先すると定めています。

他にもLRAの基準とか色々ありますが、いじめの場合はどうでしょう。
そもそも相手をいじめる表現行為が表現の自由に含まれるか
という問題がありますが、含まれる、とするのが一般です。
そうでないと、御指摘のように正当な評論なども禁止される
ことになりかねないからです。

私は、これは比較衡量基準により判断すべきだ、と
考えます。
いじめられる方が、それだけのことをした場合には
過度にならない範囲で、言論の自由が優先する、
という具合ですね。


”第三者がいじめをやめさせる有効な手段”
    ↑
某高校では、相手を呼ぶときには「君」「さん」
をつけることを躾けただけで、いじめが激減した
という報告があります。
礼儀や言葉遣いを躾けるだけで、かなり減少する
と思っています。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
急用ができたので明日きちんとお礼をいたします。
申し訳ありません。

補足日時:2013/10/01 23:37
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
さきほどお礼を書いて投稿したつもりだったのですが、なぜか投稿できていませんでした。
おひとりにだけお礼を書かないような形になってしまい、すいませんでした。

>いじめと言論の自由の違い、というのは
適切な問題提起だとは思えません。

言論の自由があり、その言論の自由に
いじめは含まれるのか、
ふくまれるとして、その言論には制限がないのか
という問題でしょう。

自分でも変な日本語だな、と思っていました。
指摘をありがとうございます。

>つまり、言論の自由という価値と、他の価値との
調整の問題です。
どう調整するか、その基準如何ということです。

>同じような価値の比較の場合、例えば、名誉の場合は
比較衡量という手法が基準になります。
これは、個々の事例において、双方の価値を比較して
決めようとするものです。

なるほど~、参考になります。

>いじめられる方が、それだけのことをした場合には
過度にならない範囲で、言論の自由が優先する、
という具合ですね。


うーーん。これ、いじめる側の常套句なんですよね。
いじめる側は、批判されても仕方ないだけのことをしているじゃないか、というのです。

たとえば
会社ともめて裁判をおこすなどケシカラン、とか
ある女性を他人から奪ってつきあっているのはケシカランとか。
(どちらも文句いわれる筋合いないですよね。)

>某高校では、相手を呼ぶときには「君」「さん」
をつけることを躾けただけで、いじめが激減した
という報告があります。
礼儀や言葉遣いを躾けるだけで、かなり減少する
と思っています。

凄い!言葉には魔法があるかのようですね!

お礼日時:2013/10/02 13:11

目的が何かによる。


相手に不利益をもたらすことが目的ならいじめ。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
急用ができたので明日きちんとお礼をいたします。
申し訳ありません。

補足日時:2013/10/01 23:37
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>目的が何かによる。
相手に不利益をもたらすことが目的ならいじめ。

なるほどひとつの指標になりますね。
ただ人の心は自分自身でもよくわからないところがあってやっかいです。

いじめる人の深層心理には、相手に不利益をもたらしたい、と思っていても、自分ではなかなか気づくことができない。
また、相手に不利益をもたらそうとしたのか、そうでないのかは他人にはなかなか判断しづらい。

参考になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/10/02 10:45

言論の自由はあります


ただ、「お前を殺す」とか言うと
場合によっては殺人予告として罪になるから
刑罰を受けるという事になります

自由というのは権利があるが、その行為の影響も受けるのが自由です
権利だけというのは好き勝手、もしくは自己中というふさわしい言葉があります

あと、批評と批判、批判と罵倒、これの区別がついてない人が多いです
他にも議論と討論も区別がついてない人が多数です

この回答への補足

回答ありがとうございます。
急用ができたので明日きちんとお礼をいたします。
申し訳ありません。

補足日時:2013/10/01 23:36
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>言論の自由はあります
ただ、「お前を殺す」とか言うと
場合によっては殺人予告として罪になるから
刑罰を受けるという事になります

確かにそういう場合は罪になると思います。

「死ね」とか「くず」などのように人格を否定する書き込みをよく見かけます。
これらはokウェーブでは禁止で削除対象ですが、これも場合によっては刑罰を受けるということになりますか?

ネット上で憶測で批判することは、確か逮捕者が出ていましたね。

>自由というのは権利があるが、その行為の影響も受けるのが自由です
権利だけというのは好き勝手、もしくは自己中というふさわしい言葉があります

なるほど、そうですね。

>あと、批評と批判、批判と罵倒、これの区別がついてない人が多いです
他にも議論と討論も区別がついてない人が多数です

辞書を引いてみました。

批評・・・良い点も悪い点も同じように指摘し、客観的に論じること。
批判・・・(1)物事に検討をくわえて判定評価すること。
     (2)人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであると論じること。
罵倒・・・激しい言葉でののしること。
議論・・・お互いの意見をのべて論じ合うこと。
討論・・・ある事柄について意見をだしあって議論をたたかわせること。

なるほど、参考になりました。

それにしても憶測で批判する人が多くありませんか。
憶測で批判したことを言論の自由と言われても、と思うのですが
そのことを指摘されると
「単なる感想、意見にすぎない」などと言い返しています。

お礼日時:2013/10/02 10:40

法律による刑罰が、いじめや暴力でないのはなぜか?


それは公益の観点に基づいているからである。
私利私欲に基づいて公益を損ねたり、他人を不快にしたり
(その「他人」が公益に反している場合は別)する「自由」は
ない。

抜本的解決には、社会というものがお金や出世を争う競争
社会ではなく、助け合うために集まったものであるという
自覚による博愛の醸成が必要である。
さもなくば処罰による抑制になるが、それが利己的な自己
弁護のための「言論の自由の阻害」に変質しない保証はない。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
急用ができたので明日きちんとお礼をいたします。
申し訳ありません。

補足日時:2013/10/01 23:40
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この回答へのお礼

回答をありがとうございました。

>私利私欲に基づいて公益を損ねたり、他人を不快にしたり
(その「他人」が公益に反している場合は別)する「自由」は
ない。

その通りと思います。

私利私欲に基づくいじめももちろんありますが、自分は正義であると勘違いされて、いじめてしまうというケースが多いように感じます。

探偵ごっこのようなことをして、他人をいじめてしまうのです。

たとえばAは病気と称して木曜日と金曜日休んでいたが、土曜日に行楽地でAをみかけた。
Aは木曜日から行楽地にでかけていたにちがいない。

みたいな感じです。
本当は、十分に確認しないといけないのですが、いじめる側にはこれは正義である、という意識が強いと思うのです。

また憶測で他人を批判してはいけない、といっても、「自分は感想をのべただけだ」と言います。

ネットの場合では、人気ブロガーさんなどが、このような憶測記事を書くと、賛同するコメントがたくさんついて、あたかもいじめているように見えるのですが、これはいじめとはいわないのでしょうか。
ちょっとわからなくなってしまいました。

>解決には、社会というものがお金や出世を争う競争
社会ではなく、助け合うために集まったものであるという
自覚による博愛の醸成が必要である。

そうですね。
自分とは異質のものをたたく、というような例も見たことがあります。
若い人が集まるサイトに、年配の方がまじっておられて
当然、言葉使いなどが他人と異質なのです。
で、若い方数人が「何言ってるのかわからない」などといってたたいておられました。
確かに多少文章がわかりにくいとは感じましたが、それだけのことなのに、きつい言葉で批判するのはやりすぎだと感じました。

博愛の精神をはぐくむためには、どのようなことをするのが有効でしょうか?

お礼日時:2013/10/02 10:05

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