街中で見かけて「グッときた人」の思い出

今日、NHKで東日本大震災の遺構を残すことに関してドキュメンタリーを放映していました。

陸に乗り上げた大きな船。その船を目前に見る自分の目の前で多くの人が津波に呑み込まれて行った。そんな船は辛いことを思い出させるだけだから解体して欲しい。
市長は後世のため保存したかったのですが、住民投票した結果、7割以上の人が解体撤去を望んだので解体されました。

釜石市では、住民248人が一軒の建物に逃げ込んだが、そのほとんど全部が死んだ。その建物に逃げ込んで死んだ妊娠中の娘さんを両親が毎月命日に訪れ、娘と対話していた。その両親はこの建物こそ失った娘と会える唯一の場所だから、是非解体しないでくれと訴えていました。しかし、別の両親は、自分の娘を思い出して辛いから解体してくれという考えでした。

同じ経験をしているのに、何故違いが出るのでしょう?
私は最近妻を亡くしましたが、妻を思い出す全ての遺品をなくしたくありません。妻を思い出して辛いけれども、その辛さを10%くらいは軽減してくれるのが妻の遺品との対話なんです。
だから、建物を解体するなという両親の気持ちはよく分かります。
見るのが辛いから解体しろという親の気持ちが分かりません。

心理学的に、どこがどう違うのか説明できるでしょうか?もう少しその心理を詳しく知りたいのです。
遺構を残すべきかどうかを質問しているのではありませんから、くれぐれもお間違いのないように願います。
ではよろしく。

A 回答 (4件)

先の戦争に対して国民に啓蒙の意味を込めて繰り返しマジメに番組つくりをする、NHKなどは歴史に真摯に向き合っていると私は思っています。

これは日本の公共放送として正しいことだと考えます。悲惨な戦争や被爆体験を改めて思い出すのは辛いことだと避けるひともいますが、ある意味逃避だろうとわたしは思います。

震災と戦争とは異なる面もありますが、いくつかの点で同質であり、忘れてはならないことであると考えます。もちろん、極めて厳しい実体験をされたひとが、それらの思い出が自身を罪悪感と自己嫌悪にさいなんで心が乱れ、辛い思いにさせるというのはあり得ることでしょう。彼らが、できれば忘れたい、忘れて安らかな気分になりたいという心理は理解できますし、そのひとにとっては必要なことなのかもしれません。個人的にはそれぞれ自由ですから、遺構をどうするかということにアンケートをとったりするのでしょう。そういうやり方を非難することはできないかもしれませんが、ある意味自由の履き違えがあるような気もします。

そうでないひと、忘れまいというひとは、辛い思い出の中にもなくなられた方に強い愛着を持ち、思い出そのものがそのひとを心慰めるのでしょう。先祖供養というのは日本人の伝統的なしきたりですが、なくなられた人たちへの愛情があれば自然とそうなるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

自分に地球人としての自覚を持たせた場合、遺構は残すべきという結論にはなると思いますが、
心理学カテをわざわざ選んで質問した理由は、そのことではないのです。

心理の違いを心理学的に分析してくれる人はいないかなと期待したわけです。

お礼日時:2013/12/23 18:19

私自身も突然身内を失った経験がありますが、遺品は大切に手元に残してあります。


でも、もしも震災で身内を失ったら、震災遺構は取り壊してほしいと望みます。
個人的な遺品と、震災を思い起こす遺構は別のものだと思っています。

大切な人を突然失った悲しみは、皆、同じだと思います。
違いがあるとしたら、「罪悪感」と「無力感」ではないでしょうか。
それが強いか、弱いか、その違いだと思います。

大切な人の死は、自分のせいではないことは分かっているんです。自分を責めてもどうしようもないこと、これも分かっているんです。
それでも、自分を責めてしまう気持ちが強いのです。
「何もできなかった」、「助けてあげることができなかった」、「あのとき、こうしていれば助かったかもしれない」、「代わりに自分が死ねばよかったのに」、「どうして自分だけが生きているんだろう」…などと、まるで自分が罪人であるかのように、自分を責め続けてしまうのです。

悲しみやつらさと一緒に、このような罪悪感と無力感があり、自分を許すことができないんです。

>見るのが辛いから解体しろという親の気持ちが分かりません。

解体してほしいという人の心の中は、
「失った人のことを思い出してつらい気持ちを軽減する < 罪悪感や無力感が強まる」なんです。
建物を見ることによって、自分の心の中にある罪悪感や無力感が強まる、余計につらくなるから見たくないんです。だから解体してほしいと望むのではないでしょうか。

保存してほしいと望む人は、罪悪感や無力感が少ないのです。
それで、当時の建物を見ると、つらい気持ちが軽減するのではないでしょうか。



 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>保存してほしいと望む人は、罪悪感や無力感が少ないのです。

う~ん、ちょっと違うような。私も罪悪感で一杯です。自分など生きている値打ちがないと感じています。

その罪悪感から逃れようとする自分の気持ちが許せません。
もし、解体して逃れたとしたら、そういう自分の行動に罪悪感を更に感じます。

お礼日時:2013/12/22 18:51

失った悲しさを思い出す。



生きていた姿を思い出す。

この差でしょう。

失った事実が辛すぎて自分の中で処理し切れていないと、津波を思い出させる存在は事実を見せ付けられるという恐怖だけです。

失った事実を受け入れる事が出来ていれば、残ったものは大切な家族との対話の糧でしょう。

どちらも心を守る動きです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

どこからその差が生まれるのでしょうね。

これを研究している心理学者はいないでしょうかね?

お礼日時:2013/12/22 18:43

心理学とかなんとか学とか、


学の関係しない話だと思います。

解体にしても、寂しさ辛さは同じだと思います。
ただ、その建物があると自分を責め続けることになるので、
そんなことは、故人も望まないだろうから、取り壊してくれ。
前に進みたいのだ!!ということだと私は、思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>その建物があると自分を責め続けることになるので
 前に進みたいのだ!!

自分を責めることを嫌がって、前に進もうとするのは、故人に対する裏切りに感じるのです。
責任放棄に感じるです。責めて責めて責め続けるのが、自分の人間としてのやるべきことと、思うのです。

お礼日時:2013/12/22 18:40

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