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22歳の女です。
なかなか自分の考えたことに自信を持てない私の考えたことで、
これは時代が悪いのか?それとも自己の確立が出来ていないのか?(妄念にとらわれてはいないか?)
と疑問を抱くようになり、他の方の意見が聞きたく質問させていただきました。

私は以前まで近所のおばあさんの煮物のおすそわけが食べられませんでした。
他人が握ったおにぎりを食べることが出来ませんでした。

口にするものに対して強迫観念的なものを感じていました。
(これは個人的な事で、異常な部分は多いにあると思いますが)

しかし、最近ではさまざまなニュースなどを観て、
それに対する色んな方の意見を聞き、
様々な年齢層の方と交流を重ねる中で、
自分の中で食に対する自惚れみたいなものを感じまして、
それを発端に
この便利すぎる世の中で、食のみならず
自身が自惚れによる誤った価値観を抱いてしまっているのではないかと考え始めました。

そして価値観の多様化というのは広義的には謝った解釈による
価値観や古典的な考えの喪失に繋がることもあるのでは?
と考え始めました。

しかし、その一方で
価値観を持つ生き方に対して自身が傾倒しすぎているようにも感じています。
(というのは、周囲の価値にとらわれすぎてはいないか?と思うことです)

これらの考え方に対する意見を聞かせてください。
お願い致します。

A 回答 (8件)

自分なりの価値観を持つことは良いことだと思います。



ただ、そういったものを過度に「誤ったもの」と捉える必要は無いと思います。
もちろん、犯罪めいたものや、他者の考えを少しも受け入れられないとしたら問題だと思いますが。

そもそも、古典的な価値観全てが正しいとは限りません。
個人的には、食習慣については古典主義にはある程度真理のようなものが含まれているような「気が」していますが、あくまで個人の解釈だと思っています。

己の確立ができていない、という記述がありましたが、人間は変化しますからずっと永遠に同じ価値観を持ち続けると言う事は非常に稀です。
ちょっと論点がずれますが、生まれた瞬間は誰もが「親がいないと生きていけない」と考えていたはずですが、年月を重ねるごとに「まあ親がいなくても生きられるでしょ」となっていきます。
それと同じようなことはどんな点においても起こります。
食べ物の好みもそうだし、服装や髪形、友人関係においても言えることです。

ただひとつ、ほぼ間違いなく全員に共通するのは、何かの価値観が変わっていったとしても「以前そういった考えを持っていた」という事実は死ぬまで積み重なっていくものだということです。途中で記憶喪失でもしない限り。
そういう意味で、質問者さんも、今の自分に疑問を持って、その上で「新しい解釈」を自分の中に上書きしたとして
元々持っていた価値観が「変化」した、という新たな事実ができていくわけですね。
その変化こそ、周囲の多様性に触れたことによるものではないでしょうか。
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この回答へのお礼

3次的4次的なものが多い今に対して、古典的なものを絶対的なものとして考え排他的になっていたようです。
今はアンビバレントな感情に苦しんでいるのだと、そう認められました。
わかりにくい文章で伝わらないことも多かったと思いますが、そのなかでも自分の質問の趣旨に沿った意見を聞くことができ、参考になりました。回答者様をベストアンサーにさせていただきます。

お礼日時:2014/01/19 14:02

人は動物でもあります。



価値観とか感性とかは、普段生活していく上では大事なものだし、判断基準になるかもしれません。
しかし、それはあくまでも「普段」ということであり、生が保証された、安全な場所での生活に限定されます。

あなたの質問からは「生物が生きていく上で」ということが、すっぱりと抜け落ちています。
「食」というものは、生きる上で必要不可欠なものです。
細胞が活発に動くために、神経が信号を送るために、脳が機能するために必要な「もの」が食です。

人にかぎらず、生きとし生けるものは皆「生きている」のではありません。
能動的に、自己的に「生きている」のではないのです。
命は単に、細胞が死滅しないような複雑なサイクルを「繰り返していること」に過ぎません。

人間はとても複雑に物事を考えられますから、時々「勘違い」をします。
「生きていること」は自分の意志ではないのです。
単に人は「生かされている」だけです。

生かされている、ということを前提にして「おばあさんの煮物」を見直して下さい。
他の人が握ったであろう「おにぎり」を見直して下さい。
食というものが即ち「命のかたまり」だ、ということに気づくでしょう。

我々は、命を摂取して生きているのです。
その事実の前には、一人の人の人智など、とても底が浅いものでしか無いのです。
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この回答へのお礼

そうですね。考えすぎていたのだと思います。
視点を変えていこうと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/19 13:35

何でも美味しくいただけばよろしいと思います。

美人は感謝で出来ています。
あなた様は超美人だと思いますので大丈夫だと思います。
自分自身を信じてあげれば価値観など、どうでもよくなります。
自分自身を褒めてあげましょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/19 14:06

まず、価値観を持つことは大切です。


価値観は判断の尺度であり、生き方の基礎です。
これを他人や社会に依存していると、言ってることがころころ変わったり、行動に一貫性がなかったりします。

次に価値観をもつことと固定的に物事を考えることは違います。
価値観の多様化とは、判断の尺度や生き方が様々になってきたということです。
たとえば昔は、会社に入れば最後まで勤め上げる終身雇用が当然で、結婚も当たり前のようにするものでした。
今現在がそうでないというのは、論じる必要がないかと思います。

つまりいろんな考え方・生き方があり、それを受け入れる視野の広さが要求されます。
自分の価値観を持つのは結構ですが、それから外れるものを「こうでないといけない、これではダメだ」と否定するのではなく、「そういった価値観もある」と認める器の大きさが必要です。
そうやって多様な価値観に触れることで、質問者様のように自分の価値観が揺さぶられ、より良く、より強い価値観を手に入れていくのだと思います。

自分は自分、他人は他人です。
自分の価値観をしっかり持つことが、他人の価値観を否定することにはなりません。
価値観の多様化している今だからこそ、それを受け入れる柔軟性と、周りに流されない自分を持つことが大切なのだと思います。
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この回答へのお礼

価値観が尊重されるべきものだということがわかりました。
今この揺さぶられるものを受け入れていこうと思います。
価値観への理解が深められました。ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/19 14:12

22歳という若さでそのように真剣に考えていることは素晴らしいです。



私は年老いたおじさんですが、あなたが価値観の多様化というものの考え方をするのはいいことだと思います。
これからのあなたにとって大切なことは、その考え方と現実社会を比較していくことです。現実社会の様々な出来事と価値観の多様化を比べていくのです。そうすると合致しないことも出てきます。そこで自分の考えを軌道修正するのです。それを繰り返すことによって世の中にはいろんな人がいて、いろんな考え方がある、いろんな人生があるということを許容できる柔軟なあなたになります。

そうなれば、自分や周囲に起こる喜びや悲しみなど様々なことに落ち着いて対応できていくと思います。
あなたのこれからの人生に拍手ですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/19 14:13

私が以前住んでいたアパートの家主さん(お婆ちゃん)も、アパートの住民皆に手作りのオカズやおはぎなど毎週お裾分けしてくれました。

ただ中には髪の毛の混じったお料理や腐っているものも多々あり、アパート住民一同あまり良い気持ちはしてませんでした。田舎で昭和の時代は当たり前の事だったと思いますし、何より本人は良かれと思ってやっている事だったので余計にお断りしづらいものでした。
価値観というより、よほど親しくない相手だと嫌に感じる人のほうが多いと思いますよ。今の時代だからこそ自然な事だと思います。
あと最近は冷凍食品の事故もありましたし、原発問題から食の産地なども煩くなったり、気にしない人のほうが少ないと思います。
実際、食に関して煩い私の兄弟も、その類いの研究室に入りました。今も変わらず食には神経質な所があります。(笑)
私は質問者さんが傾倒しすぎているとは思わないです。人それぞれなので。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/19 14:14

>>他人が握ったおにぎりを食べることが出来ませんでした。


口にするものに対して強迫観念的なものを感じていました。

スピリチュアル・マンガに登場した悩み相談で、「私は、食に対して添加物など異常に神経質です。そして彼がインスタント食品、冷凍食品などを食べることに文句を言って嫌われてしまいました」なんてのがありましたね。
その原因を探ると、「前世に、食品中毒で若くして、死んでしまった」ことだったそうです。それで食べ物に関して、異常に神経質になったと分析されていました。
高所恐怖症、水恐怖症なども、高いところから落ちて死んだとか、溺れて死んだ(人柱となり沈められた)という前世が原因だという話を目にしました。

ちなみに、私もある時期までブドウが嫌いだったのですけど、それは、子供のころにブドウを種ごと食べてお腹を痛めたことが原因だったようです。その原因をあるときに思い出したら、ブドウが食べられるようになりました。

もしかすると、前世ではなく、幼いころに、他人からもらった食べ物でお腹を痛めた過去があるとか、もしくは、他人からもらった食べ物に毒物が入っていて毒殺されたなんて前世があるとかいうことではないでしょうか?

幼少時において、そんな事件が無い場合、前世が視える方にお願いすれば、なにか判るかもしれませんね。
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この回答へのお礼

食べ物に関してはそうゆう過去が多いにあり、トラウマが完全に払拭しきれていない状態です。
前世はわかりませんが。。。先入観を持ってしまうと味覚は変わってしまいますね。。。

お礼日時:2014/01/19 14:19

価値観は、育った環境や学んだ環境によって異なります。


そして、それが個人の個性になります。
まぁ価値観は、十人十色です。
なので、共感されことまずないかと思います。
確かに、近年世の中は、さまざま分野において便利になり
ましたよ。
それによって、価値観もさまざまになりました。
でも、それによって、自分の価値観に悩むことはありませんよ。
世代によっての価値観だってやはり、生きてきた道のり、教育、環境が
異なりますから、否定されるのも当たり前かと思います。
なので、そんなに人の価値観よりも、自分がもっている価値観を信じ、ぶれ
ないことが、何よりも大事かと思います。
私もやはり、ちょっと世代の違う方から、自分のことで否定されると、ちょっと
考えてしまいますが、それは、それで、受け入れられることがあれば、受け入れ、無理な
ことでしたら、否定するようにしてます。
そうしなければ、自分の個性が伸びませんし、消滅してしまいますからね。
悩むようですが、己の「個」を大事にしてください。
うまくまとまらずどうもすみません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/19 14:20

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