人生でいちばんスベッた瞬間

良いか悪いかは横に置いといて障害も一つの個性であり、個人個人の個性にあった競技で努力して、一般の人に混じって世界一を目指すのが普通なのではないですか?
「障害があるのに頑張っててすごいよね」という見方こそが差別であるように思うのです。

足が不自由でも大きなハンディキャップにならないスポーツもありますよね。手も足も不自由なら将棋やチェスや学術で一流を目指せばよいのでは?

レクリエーションや体力づくりという面なら納得できますが、パラリンピックを健常者のオリンピックと同じように扱ってほしい、もっと広く盛り上げるべきだという意見には疑問があるのです。

パラリンピックをもっと盛り上げようという考えを延長させると、耳の不自由な人のための音楽コンクール、盲目の方のための絵画コンクール、もっというと、体重200キロ以上の人限定のフィギュアスケートもやればいい、ということになるのではないでしょうか。

生まれつきの様々な個性、病気、怪我からくるハンディキャップを背負っていたとしても、一般の健常者に負けない何かをみつけて、それをいかすことで健常者とにまざって戦うことに意義があると思うのです。

耳が不自由な日本のプロ野球選手がいますよね。一般の選手に混じって素晴らしい成績を残しています。病に負けず、素晴らしい研究を残しているホーキング博士の例もあります。

そういうことには素晴らしく感動しますし、そうあるべきと思います。

いかがでしょうか?私の考えのほうが差別なのでしょうか?
不快に感じた方がすいません。煽るつもりはまったくありません。
みなさまのご意見をお願いします。

繰り返しになりますが、障害のある方を差別するつもりは全くありません。車椅子バスケなど健常者のバスケとはまた違った面白みがあると思っています。
「片足なのにすごいよね」という考え方と、障害者スポーツに過度な費用(税金)をかけることに疑問がありました。
よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

>手も足も不自由なら将棋やチェスや学術で一流を目指せばよいのでは?



それって「障害者差別」ですよね。「障害者はスポーツするな」って言う。

質問者さんは「自分も気付かないうちに、差別意識を持っている」ってのを自覚すべきでは?

>いかがでしょうか?私の考えのほうが差別なのでしょうか?

質問者さんには「障害者手帳を持つ身になってから出直して来い」というセリフを贈呈します。

まあ、当方も、手帳を持つ一歩手前までは行きましたが、手帳を持つまでには至らなかったので、偉い事はいえませんが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
出直すことはできませんが、あらためてよく考えて見ます。

お礼日時:2014/03/17 12:15

こんにちは。



>「片足なのにすごいよね」という考え方と

というよりは私は柔道などの〇〇キロ以下級・・・などと同じような区分だと
思っておりました。

両足がなくてもモーグルをやりたいと思う人がいても、健常者には勝てない
から別な何かで見返せばいい、というわけではないのではと思います。

出来ることとできないことを区分するのではなく、足がなかろうが手がなか
ろうがやりたいと思ったことを貫く、ということに意味があるのではない
かと思います。

できないんなら「できる範囲」に絞れば?というのは違うと思います。
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この回答へのお礼

> というよりは私は柔道などの〇〇キロ以下級・・・などと同じような区分だと思っておりました。

確かに言われてみればそのとおりかも。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/03/17 12:15

パラリンピック 批判というのでGoogle検索してみてください。


100万件以上ヒットします。
パラリンピックだけでなくオリンピックやワールドカップでも
批判する人はたくさんいます。
パラリンピックに対して貴方の意見に正当性がある、正しいと
世界中の多くの人が判断すればパラリンピックは中止となるでしょう。
それが民主主義と言うものです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
確かにたくさんのヒットがありますね。
ただ、民主主義も完璧な仕組みじゃないところがあるのが、難しいのかもしれません。

お礼日時:2014/03/17 12:14

おっしゃることはもっともだと思います。



ただ、それをそのまま受け取ると、障害者の方がやりやすいように考えられた運動の種目は趣味の域を出てはいけないという事にもなりかねません。
耳の不自由な投手は「サイレントK」石井投手の事だと思いますが、彼は運動能力には全く問題がないために健常者のなかでも活躍できます。かつて長野五輪のスキージャンプでテストジャンパーとして知られた高橋選手も同じような例ですね。

ただ、四肢に障害がある人は健常者のスポーツのなかで活躍することはなかなか難しいです(不可能だとは言いませんし、片手のない野球選手等の例もありますが)
それらの人たちが統一して運動できる競技のルールを考えて、そのなかで世界を目指したいと考えることに何が悪いのだろう、というのが個人的な感想です。

端的に(あるいは極端に)質問者さんの文の感想を申し上げると、「健常者と同じことができなければ価値を感じない。それができない障害者は細々とやっていればいい」というようにしか見えないんです。

>パラリンピックをもっと盛り上げようという考えを延長させると、耳の不自由な人のための音楽コンクール、盲目の方のための絵画コンクール、もっというと、体重200キロ以上の人限定のフィギュアスケートもやればいい、ということになるのではないでしょうか。

私としては、それらの大会の存在を否定する必要はないと思いますが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

> 私としては、それらの大会の存在を否定する必要はないと思いますが。

私も否定するつもりはないですが、五輪と同じレベルでの大会は違うのでは?と思いました。


> 片手のない野球選手等の例もありますが

アボット投手ですね。きっとものすごい努力をされたんでしょう。

お礼日時:2014/03/17 12:13

それを言い始めたら、競技が男女で分かれているのも男女差別ですよね?


ということは、差別ではなく区別だということです。
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この回答へのお礼

男女の違いも差別の有無も一緒ということですね。確かにそうかもしれません。あらためてよく考えて見ます。

お礼日時:2014/03/17 12:17

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