▼ (スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章) ~~~~~~
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<6、学生ドータカの質問>
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1061 ドーカンさんがたずねた、「先生! わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」
1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」
1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」
1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」
1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」
1066 師は言われた、
「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」
1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」
1068 師は答えた、
「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
問い:このひとくだりにおいて どこか知性を感じるところはありますか?
という質問です。質問者の感想は めちゃくちゃでござります です。問題外の論外の外でしょう。
どうかご教授ください。
No.24
- 回答日時:
○ドータカ尊者は、釈尊に、生きながら自身で涅槃を体現したいので、涅槃の境地を問うたわけですね。
釈尊は、自身が涅槃を体験したので、それを話したわけですね。
それが、
1068 師は答えた、
「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。
ですが、この簡単な答えでドータカ尊者は涅槃への道に気づいたのですから並みの尊者じゃないですね。読んでも何やら理解できないのは当然のことですね。
生きて涅槃に入るわけですから執着を完全になくさないように、「妄執をいだくな」と言っていますね。執着を完全になくすと「死体」になって死んで涅槃に入ってしまいますので、妄執はだめだが、生きる執着までは否定していないですね。
「上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、」この部分はむつかしいですね。ここが涅槃の境地の味噌の部分ですね。
さて、ドータカ尊者も仙人とも呼ばれる程の修行をされたお方ですから、即座に「上と下と横と中央」の意味を理解されたのでしょう。これ十字架の形をしているのですね。この十字架の意味は時間と空間の交わるところの自分を表しているんですよ。空間というのは悟りの上下、時間というのは過去・現在・未来のことですね。つまり、仙人が目指す全てのもの、知識は執着の対象であり、それを超えたところに涅槃の静寂があるといっているのですね。
この問答はそれだけのことなのです。それ以上でも以下でもありませんね。
なぜなら、その涅槃に到達した者は釈尊しかいないからですね。
しかし、修行者に対して究極の目標として涅槃寂静とは何かを後世に残したわけですね。
それだけのことかと。普通人には読むだけ無駄なのかもしれませんね。参考までに
ご回答をありがとうございます。
ゴータマ弁護ないしスッタニパータ擁護のご回答内容です。
いくつか疑問があります。
1.
★ この簡単な答えでドータカ尊者は涅槃への道に気づいたのですから並みの尊者じゃないですね。読んでも何やら理解できないのは当然のことですね。
☆ ということは このスッタニパータの編集者は 知らないということでしょうか? ドータカさんがさとりをどのように得たのか またその内容は何かについて 知らない。けれど 伝えられたままいわば実況中継をおこなった。
――こういう理解をするのが 読者一般であるということでしょうか?
2.
分かる人は分かる。分からない者は 分からない。ということですね。
つまり ゴータマ氏もドータカ氏も ほかの人たちに――たとえ分からなくても――さとりの中身を言葉で伝えるという手間暇はかけなかった。そうはしなかった。
けれども たとえただちに分からなくても言葉で表わしておいてくれたら あとで分かるようになる場合もあります。でも そういう親切心は起こさなかった。ということでよいでしょうか?
3.
★ 妄執はだめだが、生きる執着までは否定していないですね。
☆ だとしますと 例の四苦つまりその内の《生なる苦》については 解せなくなります。なんで生が苦であると言ったのか?
《生きる執着》こそが 生が苦であることの原因であり けっきょくそれが無明≒煩悩≒渇愛であると説いたのではなかったのですか? まさか二枚舌ではないと思うのですが。
4.
★ ドータカ尊者も仙人とも呼ばれる程の修行をされたお方ですから
☆ この章で質問をしているのは マナワと呼ばれるおそらくバラモンたちです。中には ピンギヤさんは老人であるようですが けれどもマナワという言葉は 若い青年を意味するようです。ドータカさんも ゴータマの噂を聞いて初めてやって来たということですから まだ若い人であったと推測されるのですが どうでしょう?
5.
★ 即座に「上と下と横と中央」の意味を理解されたのでしょう。これ十字架の形をしているのですね。この十字架の意味は時間と空間の交わるところの自分を表しているんですよ。
☆ そうは なかなか考えられないのではないでしょうか。
要するに世界のすべてのものごとというくらいの意味ではないのですか? あらゆる事象というほどの意味なのでは?
6.
★ つまり、仙人が目指す全てのもの、知識は執着の対象であり、それを超えたところに涅槃の静寂があるといっているのですね。
☆ いいえ。たとえば ナーガールジュナによれば 《真理》は この世のもろもろの事柄・ささいな物事を離れてはあり得ないという意味のことを言っています。煩悩即菩提です。娑婆即常寂光土です。即身成仏 即得往生です。なぜなら 一切衆生にブッダターがやどるゆえ。
《執着》がどうのこうのと言いだすことがマチガイなのです。ゴータマの欠陥です。明らかな事実です。
7.
★ この問答はそれだけのことなのです。それ以上でも以下でもありませんね。 / なぜなら、その涅槃に到達した者は釈尊しかいないからですね。
☆ ぢゃあ そう言うえむえむけいわいさんは そのゴータマの程度のニルワーナには到達しておられるわけですね。唯仏与仏とも言いますから そうでなければ理解することが出来ないと考えられます。
ということであれば つかぬことをうかがいますが そのニルワーナなる心のでしょうか あるいは 身心ともなる人間存在のでしょうか の状態とは いったい何であるか? どういうことなのか? をみなさんに何とか言葉で伝えようというお心つもりはないですか?
思うに ブッダなる境地にあれば 相手が理解できないとしても 先ほども言いましたがあとになってその言葉による説明があれば 何度もそれを読んで 何とか知ることが出来るようになるかも知れません。そういう意味で 成道の中身を 公開・公表するというお考えはありませんか?
8.
★ しかし、修行者に対して究極の目標として涅槃寂静とは何かを後世に残したわけですね。 / それだけのことかと。普通人には読むだけ無駄なのかもしれませんね。参考までに
☆ あぁ。やっぱし 尋常でない人たちも こちらがお尋ねするだけ無駄だったようです。
No.23
- 回答日時:
>「ふつうの人間にとっては どうしても乗り越えることのむつかしいものとして説かれているということ。
――ここに 批判の的があります。」
それは、
「愛する」ということが「技術」であって、
「誰でも簡単に出来る」というものではない、とした、
西洋人と、同じでは。
(・・・患者に「乗り越えろ!」と言いながら、
「酷だな」と医者自身が思っている。
そんなのもあるんです、ようです。)
ご回答をありがとうございます。
★ 「愛する」ということが「技術」であって、 / 「誰でも簡単に出来る」というものではない
☆ 《技術》とは どういうことを言うのか?
あるいは 《「誰でも簡単に出来る」というものではない》という判断は おそらく《〈出来ない〉とは言っていない》のではないでしょうか?
というのは 一般に《神の愛・アガペー》さえもが 人間にとっての愛についても ときとして実現できないとは言い切っていないかたちで言われたりするからです。
それにくらべて ゴータマの《生は苦である》説や《煩悩からの解脱》説については その扱い方が違っている。と思われます。
ひとつに この《苦や煩悩からの解脱》は それを出来ない人びとがいる――すなわち 六道輪廻を繰り返すということ――と説かれます。
もうひとつに その解脱は おれ(=ゴータマ)の説くオシエによらなければ可能ではないという意味合いで説かれている。
つまり ここに批判の的があります。
ただし ゴータマのあと マハーヤーナ―を自称した《ブディスト》たちは 例の《ブッダター(仏性)》をあらたに説き これが一切衆生 悉有仏性と言って 《解脱》の推進力であると宣言しました。
ですから
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
(・・・患者に「乗り越えろ!」と言いながら、
「酷だな」と医者自身が思っている。
そんなのもあるんです、ようです。)
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ というような事態については もう見方を変えています。
われわれ人間には ブッダに成るためのチカラとしてブッダターが誰もに生まれつきやどる。ゆえに そのブッダに成ることは それぞれの人間にまかせられている。いちいち《医者》がいて 面倒を見るかたちではない。(先輩が アドバイスをするのは 別でしょうが)。――こう説き直しました。
それなら 別です。批判は 別です。つまり ここでの批判は ゴータマその人の思想に対するものです。それに限ります。
狭い。中身がない。(中身が無いという点は 後世のマハーヤーナ―・ブディズムについても――親鸞をのぞいて――当てはまります)。
No.20
- 回答日時:
>「そうですよ。
同じことだとおもいますが。なお何か気になるところがありますか?」
ちょっと、、、違う気がする、、、なあ(笑)。
「煩悩あり→煩悩から自由になる」
たぶん(笑)これは、真理を知らなくても、
さとりうんぬんでなくても、
可能なのではないですか。
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~
「煩悩あり→煩悩から自由になる」
たぶん(笑)これは、真理を知らなくても、
さとりうんぬんでなくても、
可能なのではないですか。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ ですから もともとは そういう意味のことを言おうとしているわけです。
ふつうに出来ること あるいは ふつうに人びとがしていること をわざわざ《理法》としてまたそのめざす状態をニルワーナとして オシエとしている。そんな必要はないではないかと。
また 《はじめに 煩悩ありき》ということを強調しすぎるのではないかと。
No.18
- 回答日時:
B様、こんにちは。
>「ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう」
この辺でしょうか。
あろいは、
>「伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ」
でしょうか。
・・・それらは、「知性」を目的としたものだったのでしょうか?
ご回答をありがとうございます。
★ ・・・それらは、「知性」を目的としたものだったのでしょうか?
☆ 《知性を目的としていない》ゆえ そこには《知性は感じられない》のは当たり前だというご見解でしょうか?
まぁ いづれにしましても 前者は 当たり前のことを述べています。
《真理を知る》なら 《煩悩から自由になる》。これが 当たり前です。《真理を知る》ということが さとりを得るということであり さとりを得たのなら 煩悩から解放されている。
後者は つねに言うことは《予告編》であるという問題です。《本編》がいつになっても 説かれない。どこまで行っても 序論が説かれるだけというありさまです。輪郭は明らかにされるけれども その中身はついぞ描かれません。
《最高の理法を説き明かそう。さすれば さとりを得るであろう》。――これの繰り返しのみです。
No.16
- 回答日時:
追伸
実は私も、昔は周りの人全てが言うなれば善知識であると考えていた頃があり、それで幸せでした。おめでたい考えと言えばそれまでですが、案外それでいいのかもしれませんね。
ところで仏教には、衆生は病める菩薩であるという見方があります。
関係しているのかもしれません。
もちろんブラジェロンヌさん的には、病んでなど居ないとなるのでしょうか。
あぁ そうですか。それでよい・それがよいとわたしは思いますが。
★ ~~~~~~~~~~~
ところで仏教には、衆生は病める菩薩であるという見方があります。
関係しているのかもしれません。
もちろんブラジェロンヌさん的には、病んでなど居ないとなるのでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いま世の中で病んでいる人びとの半分は 心理的に〔なのであるにもかかわらず 大きな重荷がのしかかってそういう圧力としての心理的に〕お休みを必要とするようなかたちであると思います。
言いかえると やがて世界のここかしこで踊りが展開されるとき その半分の人びとは ただちに直ると思います。《王の敵のこころで 国ひとは倒れる》がごとく踊り出すとき いろんな《どんでん返し》が現われるものと思っています。
ちなみに《地涌の菩薩》も湧き出てくるかも知れません。(法華経)。
No.15
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
最初のボタンの掛け違い、つまり、生存は苦であるという見解にやはり批判が集中しているのだなと見受けました。
それはもっともなことだと私も思います。しかし、四門出遊の話もありますし、ブッダにとってはやはり生存は苦であったのでしょう。それに、我々も、どのような思想を持っていても病気になれば苦しいし、他の生き物をとって食べねばならないし、考え込めば考えこむほど、ただ、生存がやすらぎであると認識するのは難しいと思われます。
むしろ、ブラジュロンヌさんは、どのように考えて、生存の安楽を見ているのか知りたいです。共生の思想ですか?それとも非思考の庭でしょうか。
わたしは、一切皆空、一切皆無と見て安楽と見ているのですが。
また、神々との対話、サンユッタ・ニカーヤという経典にはこうもあります。
傍らに立って、その神は、尊師のもとで、次の詩句をとなえた。
「時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。
青春の美しさは、次第に〔われらを〕捨てて行く。
死についてのこの恐ろしさに注視して、
安楽をもたらす善行をなせ」
〔尊師いわく、――〕
「時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。
青春の美しさは、次第に〔われらを〕捨てて行く。
死についてのこの恐ろしさに注視して、
世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ」
世間の利欲を捨てて、静けさを目指せとあります。ブラジェロンヌさんのいう共生の思想などはおそらく意に介していないと考えられるのです。出家の道を選んだその事実は、大きなことだと思いますし、両者に横たわる思想の溝としては、深いものがあると思います。
あと、真理が全てにおいて全てである、の意味について、補足をいただけると助かります。
この回答への補足
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最初のボタンの掛け違い、つまり、生存は苦であるという見解にやはり批判が集中しているのだなと見受けました。
それはもっともなことだと私も思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ まづこの見解は それほどは揺らがないと思います。
★ しかし、四門出遊の話もありますし、ブッダにとってはやはり生存は苦であったのでしょう。それに、我々も、どのような思想を持っていても病気になれば苦しいし、他の生き物をとって食べねばならないし、考え込めば考えこむほど、ただ、生存がやすらぎであると認識するのは難しいと思われます。
☆ 問題は 老病死のほかに 生をも苦であると見なすのならば それでもよいとしたなら あくまで相対的な重さなのだとことわっておいてくれればよいわけです。
あたかも 生こそが 根本的な人間の欲であって これから人間は解放され得ないほどだというその重さを 強調しすぎである。でしょう。
それに さとりとなれば 何も苦からその消滅した楽へ移るのだというような見方をするよりも そうではなくやはり対立する二項に振りまわされることなく その場でナゾのアートマン電磁場としてのチカラに頼ってもよいはずだと見ます。
おそらくその結果は 苦を引き受けるという姿勢が現われるはずです。
苦を引き受けることが 生きることの糧である・パンであるといった行き方が出て来るはずです。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
むしろ、ブラジュロンヌさんは、どのように考えて、生存の安楽を見ているのか知りたいです。共生の思想ですか? それとも非思考の庭でしょうか。
わたしは、一切皆空、一切皆無と見て安楽と見ているのですが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ おそらく苦楽を突き抜けるんでしょうね。できるはずです。もしアートマンが 電磁場のごとくはたらくならば。
▼ 安楽をもたらす善行をなせ
▼ 世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
世間の利欲を捨てて、静けさを目指せとあります。ブラジェロンヌさんのいう共生の思想などはおそらく意に介していないと考えられるのです。出家の道を選んだその事実は、大きなことだと思いますし、両者に横たわる思想の溝としては、深いものがあると思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ですから 単純に論理的にこれにこたえるのならば 苦楽や善悪や利害関係やシガラミや何やかやを突き抜けるんでしょうね。在家ですから。
★ あと、真理が全てにおいて全てである、の意味について、補足をいただけると助かります。
☆ これは 聖書からのくだりです。
▽ (コリント前書 15:26~28) ~~~~~~~
26: ・・・最後の敵として、死が滅ぼされます。
27: 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。
すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。
28: すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここから勝手にわたしが 《真理がすべてにおいてすべてである状態》と言っています。
理論上から言えば
・ 世界の因果関係を超えている。縁起の経験法則からも自由である。
・ 世界のすべての因果関係について知っている。
・ それは あたかも十字架上にはりつけになったキリスト・イエスが〔あたかも〕特異点であるかのごとく 世界史から自由な存在となった。
・ この真理は きみたちを自由にする。と言われる。
と考えられるかたちです。実際にはわれわれには その時その場で必要な知恵と知解があたえられるものと考えます。
もしふるい話を持ち出して 仮りに迫害を受けるといった情況を考えるならば そのような切羽詰まった場合にも けっきょく何を成すか・何をその相手に告げるかなどなどについては 神の霊がヒラメキをつうじておしえてくれるはずです。必要なだけ知恵と知解能力が発揮されます。
たとえばこのように真理がハタラキを現わすときには いささか古臭く物騒な話を持ち出すなら:
▽ (詩編 45:6) ~~~~~~~~~~
あなたの矢は鋭く、
王の敵のただ中に飛び
諸国の民はあなたの足もとに倒れる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ というような場面が まだ前史を生きることが残っているかぎりで 現われないとも限らない。
要するに まだなおワタシに立ち戻らない部分を残す場合には こういったふうにたぶん踊り出すのだと思われます。この踊りが見られるようになれば おもしろいと思います。
ちょっとまとまりのわるい恰好になったかも。ですが。
ご回答をありがとうございます。
まづ並行して問い求める道で 中村元の翻訳にけちがつけられましたので 少し見てみたいと思いました。
けっきょくところどころ活用や語どうしのつながりが分かりづらくて往生しましたが 推測を交えて分かった範囲では さほど問題はないと見ました。さらに精確を期すことができればよいと考えます。(つまり 添削等をお願いしておきます)。
ほんの少しだけです。
▼ (Suttanipāta 5. Pārāyanavaggo)
http://epalitipitaka.appspot.com/canon/sutta/khu …
▼ 5. Pārāyanavaggo
◆ 第5 彼岸にいたる道の章
● 5. The Chapter on the Way to the Far Shore
5. Dhotaka-manava-puccha
<6、学生ドータカの質問>
Dhotaka's Questions
▼ 1067. ~~~~~~~~~~~~~~~
‘‘Pucchāmi taṃ bhagavā brūhi me taṃ, (iccāyasmā dhotako)
Vācābhikaṅkhāmi mahesi tuyhaṃ;
Tava sutvāna nigghosaṃ, sikkhe nibbānamattano’’.
◆(中村元訳) 1061 ~~~~~~~~~~~~~~~~
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/su …
ドーカン(ドータカ)さんがたずねた、
「先生! わたくしはあなたにおたずねします。
このことをわたくしに説いてください。
偉大な仙人さま。
わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。
あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」
● (英訳)1067 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://epalitipitaka.appspot.com/canon/sutta/khu …
[Dhotaka:] I ask you, O Blessed One. Please tell me.
I hope for your words, Great Seer.
Having heard your pronouncement, I'll train for my own Unbinding.
☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お尋ねします(Pucchāmi) それを(taṃ) とうとき方( bhagavā)
語れ( brūhi) われに( me ) それを(taṃ),
〔と( iti- )やって来(āya-)て(-smā)(⇒iccāyasmā) [述べた] ドータカは( dhotako)〕
ことば(Vācā- )で(-bhi-)願います(kaṅkhāmi) 大いなる(maha-)仙人( -isi )(⇒ mahesi) あなたに( tuyhaṃ);
あなたの(Tava) 聞い( su- )て(-tvāna) おうわさを( nigghosaṃ),
学びたい(sikkhe) ニルワーナを( nibbānam-) みづからの( -attano)’’
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼ 1068. ~~~~~~~~~~~~~~~~
‘‘Tenahātappaṃ karohi, (dhotakāti bhagavā) idheva nipako sato;
Ito sutvāna nigghosaṃ, sikkhe nibbānamattano’’.
◆ 1062 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
師(ブッダ)が答えた、
「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、
よく気をつけて、熱心につとめよ。
この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」
● 1068. ~~~~~~~~~~~~~~~~~
[The Buddha:] In that case, be ardent — astute & mindful right here.
Then, having heard my pronouncement, train for your own Unbinding.
☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
しからば(Tena-hi-) 熱心さを(-ātappaṃ ) 成せ(karohi),
〔ドータカよ(dhotaka- )と(-iti) とうとき人は( bhagavā)[答えた〕〕
この世界に( idha- )〔あれ〕
ごとく( -iva )(⇒idheva) かしこい者(nipako)思いのゆきとどいた者( sato);
これより(Ito) 聞い( su- )て(-tvāna) うわさ(声)を( nigghosaṃ),
まなべ(sikkhe ) ニルワーナを(nibbānam) おのれの(attano)’’
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足欄にて お応えします。
No.14
- 回答日時:
おはようございます。
《三明》でもめているようですね。
というわけで、真宗さんのHPから説明を拝借。
─────────
仏の持つ三種の智慧の力。神通力。愚痴の闇を破るから三明という。
(1) 宿住智証明(しゅくじゅうちしょうみょう)(宿命通)。衆生(しゅじょう)の過去世の相を明らかに知る智慧。
(2) 死生智証明(ししょうちしょうみょう)(天眼通)。未来の衆生の死生の相を明らかに知る智慧。
(3) 漏尽智証明(ろじんちしょうみょう)(漏尽通)。真理を明らかに証知して、漏(ろ)(煩悩(ぼんのう))を断滅する智慧。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%89%E …
─────────
わたしの知る三明の定義もこれとほぼ同様。
それで、これらの《超能力》はヨーガの副産物として得られる。
───《ヨーガ》というのがポイント。つまり、ここまでなら、バラモン教さんのヨーガでも獲得できちゃうかも───
Wikipediaの六神通には、《四念処》によって獲得できる、と書いてある。
つまり、・・・・・・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%A5%9E% …
すこししゃしゃり出て、すぐに引っ込む。
ではでは。
六神通は
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%85%AD%E …
がわかりやすいかと。
ご回答をありがとうございます。
さほど問題はないように見られます。
六神通の《漏尽通》の説明は やはりいただけませんね。
▼ (ヰキダルマ:六神通) ~~~~~~~~
(6) 漏尽通(ろじんつう)。煩悩(ぼんのう)を滅尽させる智慧。
六通のうち前の五は凡夫(ぼんぶ)にも得られるが、第六の漏尽通は聖者(しょうじゃ)のみが得るといわれる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ おそらく では聖者とは何か? という問いには 《漏尽通》を得た人という答えが返ってくるという寸法だと予想されます。
◇ ヨーガ
☆ は その運動じたい 問題ないのでしょうが 例の秘儀たるサクラメントとして用いられると その説明を求める者にとっては 困ると思います。
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