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 ▼ (スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章) ~~~~~~
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 <6、学生ドータカの質問>
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 1061 ドーカンさんがたずねた、「先生! わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」

 1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」

 1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」

 1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」

 1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」

 1066 師は言われた、
 「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」

 1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」

 1068 師は答えた、
 「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 問い:このひとくだりにおいて どこか知性を感じるところはありますか?

 という質問です。質問者の感想は めちゃくちゃでござります です。問題外の論外の外でしょう。

 どうかご教授ください。

A 回答 (33件中31~33件)

徹底した〈自力〉ね~。


1064の
「ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」

 最上の真理→アートマン
 知る→見る
 この煩悩を渡る→ニルヴァーナ
と置き換えると、《ウパニシャッド》になる(笑い)。

主知主義的な態度の表明は、むしろ、1065でしょうね。
ここでは、理法(理法を知識・ヴェーダに置き換えよ!!)を知ることによってニルヴァーナに至ることができる、と書いてある。

しかし、
1066に「伝承によるのではない」とあるので、これはゴーダマによって否定される。
そして、
「まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」
とあるので、
 《まのあたり体得されるこの安らぎ》→いま、ドータカの目の前にいるゴーダマ(の安らぎに満ちた様子)
となる。
そして、
「それを知って」の《それ》については、何も語っていない!!

ということで。
ではでは。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ○ 自力
 
 というのは 勘違いが多いように思われます。

 (あ) 絶対他力の信仰を持つ者も 経験世界における意志行為やもろもろの事象にかんしては 自力の問題になります。その行為の首尾不首尾にはかかわりなく そうです。

 (い) 一般に聖道門で自力を言うのは けっきょく――経験世界では 前項の《絶対他力信仰》の場合と同じくであり しかも―― 絶対他力を《無い神》として想定している場合です。

 (う) 実際問題としては 自力派も 神と――非思考の庭において――かかわっています。ただし自力派と言うからには この非思考の庭なる《無い神なる霊》について もうそれ以上は 気にしないし 認識もしないと自分で決めた場合を言います。

 (え) 本人の思いとしては 自力のみだという認識しかない。つまり 《真理・神の霊・アートマン》を《無い神》と捉えてそう想定したあとは そのような絶対他力には いっさい目もくれない。

 (お) つまり 絶対他力との関係は 依然としてあるはずなのだが それを認識したくない。すべては 自力の世界であるという心でいたい。そこに何もつけ加えたくない。という立ち場。

 



 ◇  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  《まのあたり体得されるこの安らぎ》→いま、ドータカの目の前にいるゴーダマ(の安らぎに満ちた様子)
 となる。
 そして、
 「それを知って」の《それ》については、何も語っていない!!
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆  ゴータマは けっきょく感得せよと言っているようです。したがって そのあとドータカが 《「それを知って」》と言っているのは 理性による知解のことであるようなので トンチンカンである。

 ということでしょうが いま それでは 《やすらぎを感得せよ》というのは どういう意味になるか?

 すなわち・つまり これが 《サクラメント》なのである。と言ってよいでしょう。

 儀式というまでには成っていないかも知れませんが 初対面のこの場が 或る種のイニシエーションの儀式になっているのかも分かりません。つまり サクラメントです。

 言葉では――まだ――伝えない。そうではなく 立ち居振る舞いからにおい出る香りを知りなさい。と言っているのでしょう。まさに サクラメント主義そのものだと知ることができます。

 そうではないでしょうか。

お礼日時:2014/04/29 17:00

面倒なので引用がてきとうです。



おかげで、ニルヴァーナにまだまだ多様な
解釈があるのだということがわかりました。


スッタニパータ 中村元
註釈 1061

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この文章から見るかぎり、安らぎを実現するために学ぶことが、ニルヴァーナであり、
ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。

中略

この詩の原文によって見る限り、学び実践することがニルヴァーナであると漠然と考えていたのである、と
解することができよう。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

註釈 1064

ここでは、徹底した<自力>の立場が表明されている。仏は、人々を救うことが出来ないのである。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

註釈 1070

ニルヴァーナというものは、固定した境地ではなくて、<動くもの>である。

中略

われわれが、ホッとくつろいだときには、その安らぎの境地を増大させることができる。
それと同様にニルヴァーナを栄えさせ、増大させるか、あるいは少なくとも作りすことのできるものだと
解していたのである。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 いえ。中村元には納得行きません。

 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~
 安らぎを実現するために学ぶことが、ニルヴァーナであり、
 ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~
 この詩の原文によって見る限り、学び実践することがニルヴァーナであると漠然と考えていたのである、と / 解することができよう。
 ▼ ニルヴァーナというものは、固定した境地ではなくて、<動くもの>である。

 ☆ 中村元 狂えり。これだったら 赤ちゃんのときから子ども時代も 社会人となったときも いつも ひとは ニルワーナにあり。となります。

 赤ちゃんは無理としても 《執着・離れる・やすらぎ》の三つの言葉を用いることが出来る人なら皆 すでにニルワーナにあり。となります。

 例外は 《安らぎ》が嫌いな人です。安らぎは要らないという場合は 例外です。
 となりませんか?

 中村元は 屁理屈ではありませんか?


 ▼ 漠然と考えていたのである
 ☆ これなら 誰でもが出来ます。

 ▼ <動くもの>である。
 ☆ 日から日へ 特別何も考えていなくても 人とその生活には 《変化》はあるでしょう。ならば 《動くもの》なるニルワーナにあり。と言えましょう。

 ▼ 安らぎを実現するために学ぶこと / 学びつつ(実践しつつ)あること
 ☆ これは ですから 安らぎを嫌いでなければ 誰でも学びたいと思っています。何から手をつけてよいか分からなくても いつも素直に学びたいと思っています。それだけでも 実践に入るはずです。



 ▲ 1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」
 ▼ 註釈 1064 ここでは、徹底した<自力>の立場が表明されている。仏は、人々を救うことが出来ないのである。
 ☆ 注釈も めちゃくちゃである。のではありませんか?

 前文では 《疑惑者》に限っては 解脱させ得ないと言っているのではありませんか? そのひとつの可能性もあるかと思いました。

 後文では あまりにも当たり前のことを言っています。
 ▲ 最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう
 ☆ すなわち 《真理を知れば 解脱する》と言うのです。当たり前です。解脱するためには 《真理を知ればよい》はずなのですから。真理とは そういうものを言っているはずなのです。さとりの知恵 解脱のための般若のことなのではありませんか?

 堂々巡り論法です。 


 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 われわれが、ホッとくつろいだときには、その安らぎの境地を増大させることができる。
 それと同様にニルヴァーナを栄えさせ、増大させるか、あるいは少なくとも作りすことのできるものだと
 解していたのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この文章が言っていることは 《ひとは やすらぎを欲している。願っている。なら つねにニルワーナにあり》です。
 やすらぎが要らないという人は 例外だということになります。

 ことば遊びです。ふざけたヤローだと考えられます。

お礼日時:2014/04/29 16:34

こんにちは。



ただゴーダマを賛嘆しているだけで、中味ないですわね~。
オシエとして汲むべきものは、何もない。

さすがに、これは、わたしも弁護できない1!
フォローできません。
白旗をあげちゃいま~す。

無条件降伏でございます。

まぁ、それでも無理やり何かを言おうとすれば、
ゴーダマの説法は言葉だけによるものではない。
彼の姿や立ち居振る舞いを目にするだけで、人々は感化された、教化された。
こういうことは、日常でも起こり得るので、そういうこともあったのではなかろうと・・・。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 確認できたとすれば これにまさるさいわいはありません。



 ◇ ~~~~~~~~~~~~
 ゴーダマの説法は言葉だけによるものではない。
 彼の姿や立ち居振る舞いを目にするだけで、人々は感化された、教化された。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そのあと このドータカさんのように話を聴く機会があったときには がっかりでしょうね。としっかりと批判を述べておきます。

お礼日時:2014/04/29 15:52
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