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「どのような宗教団体に属し、どのような神を拝もうと心の病を治すことは絶対にできない。
もしも心の病を治すものがあるとするならそれは唯一つ本人の意思、本人の「思想と哲学」を除いて他にはあるまい。
-ロジャースペリー1981年ノーベル生理学・医学賞」
 
つまりどのような宗教団体が、どのような神や仏を作ろうとも、これらの神や仏が心の病を治すことは決してできないのである。
では心の病を治すことができる「思想と哲学」とは一体何か。
それは我々が我々自身と我々を取り囲むこの宇宙について、我々が抱こうとするあらゆる願望を排除し、より高い視点、より高い次元からこれを認識することではないか?
 

A 回答 (14件中1~10件)

禅による『見性』体験で可能になります。

或いは東洋の無の世界を体得する事です、或いは日本人が得意とする『道に至る』という事になります。

或いは『意識性の問題をクリアーする事』も同じです。


『心の病』と医師は簡単に判断するようですが、医師は『心』の実態を知らないで判断しています。その証拠は、同じ医師仲間の中で精神科医の自殺率が一番高い形で推移している事が証明しています。


心の苦しさに対応出来るはずの、専門家が『自分の心の苦しさの対応方法を知らないでいる事の表れ』と思います。こういった原因が今の日本での自殺率の高止まり現象になっていると感じます。

『心の病』と医師は簡単に判断するようですが、心は病む事はありません、何故なら診断時の身体の異状も脳の異状も存在していないからです、その理由は『体の異常なら』その異状が病名になるし、脳の異常ならその脳の異常がその診断名になるからです。

心を病むという場合、その判断する動機は『患者自身の訴えが大部分です。』

その訴えによって症状名が決定されています、ですが訴えている内容に付いては誰が何処から見たとしてもその訴えについての『実態は存在していません』

実体のない不安感や恐怖感などを訴えているからです。実体がないと言う意味は、『頭の中に架空に作られている不安や恐怖感』という意味です。

この現象が、何時もutayomi_2011さんが唱えている『心の矛盾』に相当します。

理想とするものが手に入らないもどかしさ、という意味です。ところが理想とする『心の健康』なるものは存在していません。存在するとするなら『心の健康を求めていない時にしか、心の健康など無いからです。」


つまり『自分の心が健康なのなどうか、』と考えていない時に健康が達成されているからです。自分の心が健康かどうか?とう違う場合だけ、心の健康に自信が無くなっているからです。

”無我”の時、心の健康は達成されているからです、つまり『自分を忘れている時です。』

実体のない不安や恐怖を『妄想』と言います。今の精神科医達は実体のない妄想を相手に仕事をしていることを意味します。こういった体験上の苦しみを相手にしているために、医師の中でも精神科医の自殺率が一番高くなっているのかも知れませんが、裏を返すなら、心の苦しさが『心の矛盾』という事実でさえ、精神科医たちは知らないでいる、或いは学ばないで来たのかも知れません。

そうであるなら、誠に嘆かわしい事と言わざるを得ません。

心の病を治すことが出来るものは『心の矛盾を解消する事』で可能になります。仏典も聖典も『心の矛盾を解消するためのテキスト』という意味があります。

心の矛盾を解消するという意味は、自分の脳内に二つ心が存在しているという意味です。心理学的な表現なら『意識している自我意識』VS『無意識の自分』です。

科学的に証明するなら、右脳と左脳です。

見性体験で心の病は治す事が出来ます、是れは、『意識の根底での二つの意識が出会う体験です。』

心の実体験という表現で示すなら、考えや感情を『沸き上がらせている者』と『沸き上がらせられた感情や考えを、感じている自分』という関係性です。


実際に見て納得するなら次の動画が参考になるかも知れません。

もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

URL:


心の矛盾の解消とは『今現在の自分の置かれた全てを受け入れる』という意味です。死の淵にあるなら『死の受容』という意味です。死にたくないと思っている”自我”が目の前の死を見つめていて『自分の死期を教えている者』に従うという意味です。


キリスト教的な表現なら『神の思し召しのままに』という意味です、仏教的に言うなら『あるがままに全てを受け入れる』という意味ですので、笑いながら死にゆく事が出来る、或は『死によっても覆す事ができない幸福感に包まれる』という意味になります。


人間の苦しみが心の矛盾である、という意味は『今現在を肯定出来ないでいる』という意味になります。

もっとはっきり言うなら『人生に救いなどなかった事』を肯定出来た時『人生においての魂の救いが』成就されます。
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私は心の病の者ですが 心の病が治る思想・哲学と言うのは初めて聞きました



心の病といっても色々で 妄想や幻聴をもつ統合失調症から双極性障害 強迫神経症等など(不安を持つものとか)

生まれつきのものやストレスでなるものまであります

だからこの問い自体がかなり無理があるのですが

あえて書くなら 妄想を持つ精神病患者にとっては 逆効果のこともありますが

本当のことを書いたもの 妄想ではなく 真実を述べた思想と哲学がいいでそうね

ただ真実があまりに残酷な場合はその限りではないでしょう。

健常の方も一緒ですが 宗教やあの世とか一時しのぎになるものもあるでしょう。

あしからず。
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>哲学の捉え方がまるで分かっていないね。


哲学とは真理の探求である。
では真理の探求とは何か。
それは我々が我々自身と我々を取り囲むこの宇宙について、我々が抱こうとするあらゆる願望を排除し、より高い視点、より高い次元からこれを理解することを目指す果てしなき探求である。
これが真理の探求であり、哲学である。

判っているのならば、人に尋ねる意味は無いでしょう。

答が外にあると思って尋ねるならば、考える意味が無い。

外に無いのに尋ねるのは、自分を晒したいだけで、これも意味が無い。

教えてもらう者が「大所高所」を声高に叫ぶのも愚かしい。

貴方にとっての哲学は、アイデンティティの確立の為の隠れ蓑にしか過ぎません。

>ロジャースペリーは心の病を治すものは薬でも宗教でもなく、本人の哲学以外には有り得ないと説いたのである。

自己治癒が全ての病の治療の基本です。

第一、人間だけが病気から治る訳では無いという、其の程度の事も気付かずに「大所高所」をのたまうのはどうかと思いませんか?

貴方流に言えば、哲学を捉えていない私は、病気になれば死ぬのですか?


誰にでも哲学はあるのですよ。

貴方には捉え切れないだけです。

何しろ、自分を捉えていないのだから。
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>他者の愛と自分の愛、どっちが先か?



そこまで教えてもらっていたら、依存度高すぎです。
自分に問いましょう。
自分に問うから、哲学でしょう?

自分の中の答えを探すのが哲学ではないですか。
そのための指針が自分で、方法論が存在して
それでも分からない時、他者の意見を参考にさせてもらう。

助け合いと依存の境目も分からなければ
心の病を治すなど、はるか遠い話しですよ。

「人として生きる」課題、頑張って下さいね。
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この回答へのお礼

心の病を治すものが他者の愛であるなら、その他者の愛は何処からやってくる?
自分の愛があって他者の愛が生まれるんではないのかい。
そんなことも分からんで他者の愛を求めてどうなる。
 

お礼日時:2014/05/26 10:25

>では一つ訊きたい。


我々が哲学するのは一体何のためかってこと。

好きでしている事です。

生きるのを楽にしたい、軽くしたい、理解したい、と言う辺りが理由でしょうが、自分の為にしている事ですからただの好事家です。


頭の中で幾ら捏ね繰り回しても、朝になれば日が昇るし、夕暮れには沈みます。

哲学はそれを納得が行くまで理由付けをするだけの学問に過ぎません。

答があるならば、誰もが納得するだけの「モノ」があるべきですが、そんなモノは未だにありません。

それは「無い」からです。


もっとハッキリ言えば、「本質」を見たくないから、わき道に行く事を正当化する為に用いられる学問です。

本来はその「本質」を見る為のモノだったのだろうと思うのですが、現実には「木を見て森を見ず」を正当化する為に口角泡を吹く姿が散見されます。


「技術」としては面白いですがね。

私も好きですが、所詮、他と優劣を競うレベルの遊びでしかありませんから、没頭は出来ません。


「言語」で組み上げたパズルは、所詮「言語」でしか読めませんし、書けない事は書けません。

書かれていない事を読みたいならば、読み方を手にしなければ。
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この回答へのお礼

 
>もっとハッキリ言えば、「本質」を見たくないから、わき道に行く事を正当化する為に用いられる学問です。

哲学の捉え方がまるで分かっていないね。
哲学とは真理の探求である。
では真理の探求とは何か。
それは我々が我々自身と我々を取り囲むこの宇宙について、我々が抱こうとするあらゆる願望を排除し、より高い視点、より高い次元からこれを理解することを目指す果てしなき探求である。
これが真理の探求であり、哲学である。
ロジャースペリーは心の病を治すものは薬でも宗教でもなく、本人の哲学以外には有り得ないと説いたのである。
 

お礼日時:2014/05/26 10:39

その様な大所高所からではなく、もっとシンプルに、「病因」が肝です。



逆に言えば、大所高所から「上書き」しても本質には変化はありません。


幾ら鎧を着込んでも、風邪には勝てません。
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この回答へのお礼

 
>その様な大所高所からではなく、もっとシンプルに、「病因」が肝です。

では一つ訊きたい。
我々が哲学するのは一体何のためかってこと。

お礼日時:2014/05/25 23:04

宗教自体が「心の病」だからね、ありもしないものを確信する。


昔は、環境の知見が乏しく、その第一原因として神でも
もって来ないと訳も分からず生きている事になるから、
やむを得なかった。
しかし今は、存在の原因や生きる意味について、神とは
相容れない要素がしこたまあるのに、そうした認識を
深める努力をしなくても、低認識のまま他律的に生かして
くれる、神やお金を信じている、ていう。

ただ、「社会の常識」というのは、どんなに狂っていても
社会的に問題を起こさずプラスになる事なら、“正しい”
とするものだから、「低認識」のバカさを補完する「宗教」
の狂気は、「正しい」のだ。
毒をもって毒を制す=「心の病」は治せないが、見えない
拘束衣で社会性のタガにはめる事はできる。
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>では心の病を治すことができる「思想と哲学」とは一体何か。


>それは我々が我々自身と我々を取り囲むこの宇宙について、我々が抱こうとするあらゆる願望を排除し、より高い視点、より高い次元からこれを認識することではないか?

不意に疑問が浮かびました。
「大きく出て言い切っていたけど、確証は持っていません」
ってことですよね?

人間の研究と理解、ちゃんと頑張れたらいいですよね。
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こんにちは。


心は脳に在り──機能の働きを治せず──整理です。
心の病イは思考で正す、それは「思想と哲学」で行う。
そこに用いる、我々が宇宙について抱く思想は「無」
である事、欲望的思想を排する方法が哲学である。
本来の、ミミズに戻る事でしかありません。
気持ちの良い場所で、食ってクソして、繁殖。
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心の病は、本人の意思により錠前をかけて閉じた状態ですからね。


開ける鍵は「愛」です。
他者の愛で本人が意志を持つ時、思想や哲学は機能します。

パソコンみたいに 「パスワード」として、思想や哲学を用いようとしても
人間には機能しない構造になってます。
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この回答へのお礼

 
>他者の愛で本人が意志を持つ時、思想や哲学は機能します。

他者の愛と自分の愛、どっちが先か?
 

お礼日時:2014/05/25 23:11

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