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 1. 《ウソつき》は 常習犯つまりは確信犯としての常習犯になりますか?

 2. ウソをつくと こころが戸惑い動悸がはげしくなり 言葉はシドロモドロになります。これを 《やましさ反応》と呼ぶとすれば この 《罪悪感ないし ヤマシサ反応ないし 恥ぢ》を感じなくなるということが 常習犯にあってはあるのでしょうか?

 3. ひとが 恥ぢを感じなくなることは ない。でしょうか?

 4. もしウソつきの常習犯が ヤマシサ反応を感じなくなることがあるとして それは どのようにして・どのような段階に到ったときでしょうか?

 5. その鉄面皮なる状態から ウソつきは もとのわれなる状態へと生還できるでしょうか? どのようにでしょうか?

A 回答 (6件)

人の心は「個」ではあるけれど「全体」から飛び出てきたので両方の要素を持っていて、だから《やましさ反応》は「全体心」の反応ですね。


この状態ならまだ普通人と言えます。

この《やましさ反応》が起こらないのは「個心」が「全体心」を覆い尽くしてしまっているからです。
でも「全体心」が無くなった訳ではないので、そこに光りを当てることが出来れば普通の人に“生還”出来ると思います。

風を以て「個心」を払おうとするより太陽の暖かな光りが「全体心」を目覚めさせるのではないでしょうか。

☆ 人はみんな“自分”を他者に認められたいのです。受け入れられたいのです。
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この回答へのお礼

 ☆ 人はみんな“自分”を他者に認められたいのです。受け入れられたいのです。
 ★ ここが ちょっと気に成りましたが。

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 つまり《認められたい・受け容れられたい》ゆえに ウソをつく。というのではないですよね? あるいは そうなのかなぁ。


 ☆ この《やましさ反応》が起こらないのは「個心」が「全体心」を覆い尽くしてしまっているからです。
 ★ ううーむ。たしかに このことの前提に
 ☆ 人の心は「個」ではあるけれど「全体」から飛び出てきたので両方の要素を持っていて、だから《やましさ反応》は「全体心」の反応ですね。
 ★ ということがありますからね。

 《わたし》は 社会的な独立した個人である。と同時に 社会的に互いに関係し合う存在でもある。と。両方の側面を持つのだと。

 一方に片寄ると 困る。《個としてのわたし》に片寄ると ヤマシサ反応が薄くなり恥ぢを忘れてしまう。
 あるいは 《社会公共性としてのわたし》に片寄ると・・・どうなるか?




 と見た上で あらためて:
 ☆ この《やましさ反応》が起こらないのは「個心」が「全体心」を覆い尽くしてしまっているからです。
 ★ というのは どういうことか?

 社会公共の存在としてのおのれを忘れる。とは どういうことか?
 忘れるのではなく 《個として独立したわたくし》が 《社会関係としてのわたし》を《覆い尽くす》 ですか。

 ほんとうは関係しあっている存在であるのに 個としての自分が単独分立してしまった。単独分立することが出来ると思い込んでしまった。だから まわりの人びとの目も顔も思いも見えなくなる。のかなぁ。


 たしかに こういう見方があるようです。すなわち:
 ○ 神のごとくいかなる者の下にも立つまいとつよく堅く心を決めた精神
  (単独分立としてのアマアガリ・シンドローム)

 というんですけれど。うまく行くと・つまりアマアガリの出世がうまく行くと 心の内からのヤマシサ反応を軽く見るように成りがちかも知れません。
 


 そういう《たましい》に対して
 ☆ 風を以て「個心」を払おうとするより太陽の暖かな光りが「全体心」を目覚めさせるのではないでしょうか。
 ★ となりましょうか? 

 あまいと言われないでしょうか。だいじょうぶでしょうか。つまり
 ☆ でも「全体心」が無くなった訳ではないので、そこに光りを当てることが出来れば普通の人に“生還”出来ると思います。
 ★ というとき どうなのでしょう? つまりは
 ☆ 「全体心」・・・に光りを当てることが出来れば
 ★ とは 具体的にどういうことか? 

 説教することでしょうか? まわりのこと・みんなのことを もっと考えろよと。

 これだけでは・ちょっとやそっとでは ダメでしょうね。
 何らかのキッカケとなることがあるのでしょうか。

 失敗をしでかしたから ではないのですよね?
 あるいは ある種の競争にやぶれたので われに還った というのでもないのでしょう。
 それだと まだまだ次の競争に野望の心を燃やすでしょうか。

 ともかく 《あたたかい心に接する》とき 全体としての社会公共心がよみがえる。ということでしょうか?




 いちおうこのように受け留めました。
 あやまった解釈がありましたら・またおぎなうところがありましたら 言って来てくださいませ。

 ほかのみなさんも ご見解がありましたら どうぞお寄せください。議論のかみあう場合には それとしての情報交換というかたちになると思いますので ともに問い求めをすすめてまいりたい。と思います。

お礼日時:2014/06/11 15:21

こんにちは。




☆1. 《ウソつき》は 常習犯つまりは確信犯としての常習犯になりますか?
◇たぶん。嘘をつくことが平気になる、そのことに何らかのヤマシサを感じなくなっていく。
まぁ、すべてのことに対して、《やましさ》をまったく感じなくなるとは思えませんけれど。
そして、最終的には、自身が嘘をついていることすら分からなくなるんじゃないでしょうか。


☆3. ひとが 恥ぢを感じなくなることは ない。でしょうか?
◇お隣の国の人の言動を見ていると・・・。
メンツが潰されたとは感じるのかもしれませんが、《恥ぢ》には感じないのかもしれません。

【記者手帳】「遠洋漁業大国」のメンツ丸つぶれ
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2 …

悪いことをしているという意識や自覚がないのかもしれない・・・。


☆4. もしウソつきの常習犯が ヤマシサ反応を感じなくなることがあるとして それは どのようにして・どのような段階に到ったときでしょうか?
◇韓国状態www。
嘘を嘘で塗り固め、そして、さらなる嘘の上塗りをして、その虚構・幻想・フィクションの世界で生きるでしょうか。

たぶん、お隣さんは、嘘をつくことが悪いのではなく、嘘だとすぐにバレるような嘘をつくことが悪いんじゃないかと、そんな気すらしてしまいます。

韓国、詐欺が多いんですよ。その犯罪数・犯罪率は、世界トップクラス。
対10万人あたりの犯罪件数は、日本の15倍とも30倍とも言われています。
偽証罪は400倍とも600倍とも言われています。

こうした国際比較の統計がネットで出たりすると、
「韓国には単純犯罪が少なく、知能犯罪が多い(俺たちは頭がいいのだ!!)」などと
誇らしく書き込む韓国のネットユーザーも結構いたりするようです。



☆5. その鉄面皮なる状態から ウソつきは もとのわれなる状態へと生還できるでしょうか? どのようにでしょうか?
◇お隣さんは、もとのわれなる状態へと生還できるとお考えですか?
他人の言うことには耳を貸さず、耳を塞いでいるうえに、
自浄作用を有しているかどうか疑わしい。
ローマ法王には「韓国民は倫理的・霊的に生まれ変われ」とまで言われてしまう。

聞く耳を持っていないので、どうしたらいいんでしょうか?
棒で叩いてでも、しつけなければならないのでしょうか・・・。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ たぶん。嘘をつくことが平気になる、そのことに何らかのヤマシサを感じなくなっていく。
 ☆ これが まだ必ずしもよくは分かりません。腑に落ちるようには分かりません。

 たとえば 《ポーカーフェイス》というのは すでにそのときヤマシサ反応をおぼえていてこれを隠すためにそうする。のだと思います。

 《嘘をつくことが平気になった》というのは 《平気》のあり方から考えるに やはりヤマシサを覚えているからこそ 平気になるのだと思われます。

 ヤマシサ反応が 非常に薄いものとなった。というようなことが 実態なのでしょうか?



 ◇ まぁ、すべてのことに対して、《やましさ》をまったく感じなくなるとは思えませんけれど。
 ☆ でしょうね。



 ◇ そして、最終的には、自身が嘘をついていることすら分からなくなるんじゃないでしょうか。
 ☆ これですね。ここですね。

 たとえば イエスの発言としてですが:
 ▲ (ヨハネによる福音書/ 8章 44節) ~~~~~~ 
 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。

 悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。

 彼の内には真理がないからだ。

 悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。

 自分が偽り者であり、その父だからである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ▲ 悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。
 ☆ すなわち

  ○ 真理から外れている場合には その真理の無という本性からウソをつく。

 ということだと捉えられます。あたかも

  ○ ウソつきは あたかもおのれの心の真実としてウソをつく。

 ということでしょうか。おそらくこのような《ウソのつき合い合戦を制した者が統治者と成ってウソをつくことが或る程度世の中の支配的なナラワシと成っているとしたら われわれ人間は〈悪魔を父として生まれて来ている〉》というのでしょうか。

 しかもただし 《ほんとうのこととして ウソをつく》とき ヤマシサ反応は消えているであろうか?




 ● (【記者手帳】「遠洋漁業大国」のメンツ丸つぶれ)・・・ EUが問題視している西アフリカ沿岸での韓国漁船の操業は非常に悪質だった。海洋水産部によると、沿岸国の領海(海岸線から12カイリ=約22キロ以内)を平気で侵犯して操業を続け、また国籍を知られないようにするためアフリカの漁船に偽装し、これが摘発されることもあった。・・・
 



 ◇ たぶん、お隣さんは、嘘をつくことが悪いのではなく、嘘だとすぐにバレるような嘘をつくことが悪いんじゃないかと、そんな気すらしてしまいます。
 ☆ バレたら あやまりますけれど 土下座すればゆるしてもらえるといった風潮であるようにも――テレビドラマから――感じます。


 ◇ 「韓国には単純犯罪が少なく、知能犯罪が多い(俺たちは頭がいいのだ!!)」などと / 誇らしく書き込む韓国のネットユーザーも結構いたりするようです。
 ☆ ということは 《恥ぢ》を知っている。とも採れます。その対極を語っているのだとしたら。




 ◇ 自浄作用を有しているかどうか疑わしい。
 ☆ まぁ まぁ まぁ。自性清浄心があるという想定ですから。

 ただし わたし自身も 原始心性の化石として存続しているのが韓国人だと言ってしまっています。心的現象の内に思いや考えの筋を見ることなくいっさいが混沌とした状態にある原始心性。
 (いえ さすがに現代人として《論理も倫理も》 じつは知っています。知っていながら しかもそれを混沌のブラックホールの中へ投げ入れてしまって しっちゃかめっちゃか状態を《たのしんで》いるようです)。




 ◇ お隣さんは、もとのわれなる状態へと生還できるとお考えですか?
 ☆ 《お隣りさん》ないし人びと一般の話として どうであるか?――これを なお問い続けます。

お礼日時:2014/06/11 19:20

#2で


棒で叩くと書いたので・・・。

韓国のことわざ「川に落ちた犬は棒で叩く」の出典は、
中国の『孫子』にある「打落水狗」のようですね。

意味は、
http://www.iciba.com/%E6%89%93%E8%90%BD%E6%B0%B4 …
がわかりやすいようです。

水狗で狂犬病にかかった犬という意味があるとか、ないとか。
カワウソという意味もあるらしいですが・・・。
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この回答へのお礼

 つづきましてです。


 ● 构成 动宾式:打|落水狗
 ☆ 分かりにくかったのですが たしかに《落水狗》というまとまった語句としか採れませんね。
 
 《水》が処格を帯びている。ですか。

 《落ちる水》ではない。

お礼日時:2014/06/11 19:28

こんばんはです。




☆しかもただし 《ほんとうのこととして ウソをつく》とき ヤマシサ反応は消えているであろうか?
◇消えている、とは考えません。ただ、その働きが鈍ってくる。そして、それが働いた先にあるもの、ベクトルの向きが変わっている。

たとえば、
「☆ということは 《恥ぢ》を知っている。とも採れます。その対極を語っているのだとしたら。」
ですね。

そして、
嘘がバレたときには、「次は決してバレないような嘘をつこう」という方向でしょうか。
恥じるのは、バレる嘘をついた自分であり、そのような嘘をついたこと、になってしまっている。



韓国が本当に儒教社会であるかどうかはおいておきまして、
韓国が儒教社会であるとするならば、
儒教にもこの責任があると思うんですよ。

~~~~~~~~
葉県(しょうけん)の長官が孔子に言いました、
「私の村にはとても正直な者がいます。彼の父親が羊を盗んだとき、自らの父親を訴えたのです。」
孔子はこれを聞いて、
「私の村の正直というのはそれとは違います。父は子のために罪を隠し、子は父のために罪を隠します。本当の正直とはその心の中にあるものです。」
とおっしゃいました。

http://blog.mage8.com/rongo-13-18
~~~~~~~~

これが儒教で言う正直者。
そして、
儒教の道徳は宗族の道徳なので、家族や宗族の利益のためならば、盗みや、たとえ殺人であっても肯定される。
ですから、孔子先生のいう「本当の正直」すら歪んでいる・・・。
(社会的)正義のためであっても、宗族を裏切ってはいけないし、「我ひとり澄めり」ということは決して許されない。


そんなことを、ちょっくら考えております。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 次の分析は おもしろいですね。《ヱクトルの向きが言わばぎゃくに成ってしまっている》でしょうか。
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 消えている、とは考えません。ただ、その働きが鈍ってくる。そして、それが働いた先にあるもの、ベクトルの向きが変わっている。

 たとえば、
 「☆ということは 《恥ぢ》を知っている。とも採れます。その対極を語っているのだとしたら。」
 ですね。

 そして、
 嘘がバレたときには、「次は決してバレないような嘘をつこう」という方向でしょうか。
 恥じるのは、バレる嘘をついた自分であり、そのような嘘をついたこと、になってしまっている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。《恥ぢ》については ちゃんと知っている。《知っている》ことに変わりない。ただし その恥ぢを感じる向きが変わってしまっている。

 ◇ 嘘がバレたときには、〔*――もうウソをつかないようにしよう ではなく そうではなく――〕 「次は決してバレないような嘘をつこう」という方向でしょうか。

 ☆ おもしろいですね。なるほど。ヤマシサ反応も 決して消えたり無くなってしまうのではない。はたらいている。ただしそのハタラキを どのように・どっち向きで参考にするか。これは 違うものになってしまった!!!


 《感性には勝てない》けれど その作用をうまく向きかえてしまう。鉄道における路線を転換する転轍機みたいな。



 あとは コンフーシアニズムにも問題があると。
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 儒教の道徳は宗族の道徳なので、家族や宗族の利益のためならば、盗みや、たとえ殺人であっても肯定される。
ですから、孔子先生のいう「本当の正直」すら歪んでいる・・・。
 (社会的)正義のためであっても、宗族を裏切ってはいけないし、「我ひとり澄めり」ということは決して許されない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 仲尼くんも罪作り。

 《「我ひとり澄めり」》は バカ扱いされるか それともボコボコに殴られるかであるかも知れません。

お礼日時:2014/06/11 21:46

 質問1.に付いて


 成り得ると思います。悪いことだとの自覚を持ちながら(確信犯)

 2.に付いて
 在り得ます。好ましくない方の心《個(我)》が育てば、好ましい方の心《全体(敢えて言えば真我と云われている心)》は衰えるからです。心は肉体、筋肉、と同様に使うほど強くなり、使わなければ退化します。

 3.に付いて
 いえ、あります。人の精神が《個(我)》の心で満たされれば。

 4.に付いて
 重複しますが、《全体(真我)》が《個(我)》に覆いつくされてしまった段階に至った時。

 5.に付いて
 可能性はあります。
 《個(我)》に覆いつくされたとはいえ《全体(真我)》が消えてなくなった訳ではないので、そこに《全体(真我)》の帰趣する処の『光り』が当たって《個(我)》が反応すれば。
 
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この回答へのお礼

 そうですね。それほどあたらしいお考えではないとは思います。

 まづは ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 いま別様に考えてみましょうか。
 つまり 《恥ぢ》ということに焦点をあててみると ウソつき常習犯のゆくえや如何に? といったふうにです。


 やましさ反応を 感性の次元からひとつの概念へと上げて捉えると 《恥ぢ》になるのかと思うのですが この恥ぢがあれば心がやましさを感じたことは実行しない。ことになる。というとき 問いを言いかえるなら・そしてわいわいえいとさんのご見解に合わせて捉えるなら 次のようになりましょうか。


 1.ウソつきは 恥ぢを無くしてしまうのか? あるいは無くすことはないのだが もはやないがしろにしてしまうのか? それが 常習犯か?

 ★ 悪いことだとの自覚を持ちながら(確信犯) 成り得ると思います。


 2. ・・・《恥ぢ》を感じなくなるということが 常習犯にあってはあるのでしょうか?

 ★ 在り得ます。好ましくない方の心《個(我)》が育てば、好ましい方の心《全体(敢えて言えば真我と云われている心)》は衰えるからです。心は肉体、筋肉、と同様に使うほど強くなり、使わなければ退化します。

 ☆ そうですね。物言いとしては:

 (あ) 《個(我)》と《全体(真我なる心)》とは――もし後者が アートマンのような・つまりブッダターのような《霊》の問題ではないとするならば―― 同じ心として それほど《好ましい・好ましくない》といった区別があるとも思えない。ような気がします。

 (い) つまり それとしても 《全体(真我なる心)》は 《霊》――信仰の次元――ではなく 人間の身と心というとき普通に言う心のことを言っていると思われます。なぜなら
 ★ 《全体(敢えて言えば真我と云われている心)》は衰えるからです。心は肉体、筋肉、と同様に使うほど強くなり、使わなければ退化します。
 ☆ というようにあくまでうつろいゆく人間の世界のことだと考えられるからです。

 (う) 言いかえると 《アートマン / ブッダター / 自性清浄心》なる霊の問題であれば それは 《退化》もしなければ 消えてなくなることもない。と捉えられます。
 これは そういう想定だということですが。



 3. ☆☆ ひとが 恥ぢを感じなくなることは ない。でしょうか?
 ★ いえ、あります。人の精神が《個(我)》の心で満たされれば。
 
 ☆ そして その奥に 《霊我》と呼ばれる非思考の庭もひかえている。と見てもよいように思います。



 4. 恥ぢを感じなくなるというのは どういう段階・どういう状態に到ったときか?
 ★ 重複しますが、《全体(真我)》が《個(我)》に覆いつくされてしまった段階に至った時。
 ☆ ということは さらにその奥に隠れている《霊我》にのぞみを置くことになるかと。・・・


 5. 恥ぢは もともとのハタラキを持つように復活しうるか?
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 可能性はあります。
 《個(我)》に覆いつくされたとはいえ《全体(真我)》が消えてなくなった訳ではないので、そこに《全体(真我)》の帰趣する処の『光り』が当たって《個(我)》が反応すれば。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《全体(真我)》の回復は 《恥ぢ》を復活させるかのような《アートマン(霊我)》のハタラキに俟つ。――というふうに 論理から行けば 結論づけられて来ますが はたして どうなのでしょうか?

お礼日時:2014/06/11 23:40

嘘をつくことが恥ずかしいのではありません。


嘘をついて心が動揺するのは、その心がやましいからです。
心がやましくなければ、たとえ嘘をついても動揺しません。嘘が悪いのではなく、悪意ある、意地悪な嘘が人を動揺させるのです。
また、悪意ある嘘を平気で述べることのできる悪人もこの世には居るでしょう。

恥について。
恥を知る人は萎縮しません。むしろ堂々として居るでしょう。
恥を知らぬ人が、あらぬ場ではっちゃけたりして、恥をかくのです。知らぬは当人だけです。

鉄面皮について。
良きにつけ悪しきにつけ、嘘を使いこなす人ほど表情は豊かなものです。人やその心について通じて居るからです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 嘘をつくことが恥ずかしいのではありません。
 ☆ これは 世間の知恵として言われているところの《ウソも方便〔だから ゆるされるし むしろ有益である。もしわるいことだとしても 必要悪である〕》といった命題あるいは課題のことでしょうか。

 或る意味で おおきな問題になるのかも知れません。

 つまり 

  ○ ウソにはよいウソとわるいウソとがある。
  ○ よいウソは 心にやましいという感覚が生じない。

 といったことでしょうか。つまり

 ★ 心がやましくなければ、たとえ嘘をついても動揺しません。嘘が悪いのではなく、悪意ある、意地悪な嘘が人を動揺させるのです。


 ☆ 正面からの反論というわけではありませんが ひとつ気になることはあります。
 つまり ウソをつくと どんなウソでも事実を曲げて・あるいはでっち上げて自己表現するのですから その事実誤認としての情報が そのままずっと残ってしまったらどうなるか? です。

 ウソを知っている人は ウソと本当とを使い分けて行けます。ウソをつかれたほうは――それが 方便として使われ よい結果にみちびかれたのですが―― ずっとその事実ではない情報を事実であると思い続けて行きます。
 このことが どうなるか? です。



 ★ また、悪意ある嘘を平気で述べることのできる悪人もこの世には居るでしょう。
 ☆ これが ひとつの主題だったことです。

 おそらく悪人であっても もとは(自然本性としては)ウソをつくときにヤマシサ反応をおぼえたはずです。そのとき平気ではなかったはずです。それが 平気でウソ・イツワリを述べることが出来るようになった。

 つまり 《平気でのべることのできる》という表現がすでに 《平気ではない心の状態・つまり やましいと思っている心の状態》という実際のことを語っている。

 悪魔といった言葉はあまり出したくないですが(必ずしも定義がはっきりしません) けれども

  ○ 悪魔は 本心からウソをつく。

 とも言われています。あるいは 単なるデタラメを言うのではなく そうではなく 《99%の本当のことを言い あとの1%でウソをつく》とも言います。

 このあたりのことも――わたしは どう問い求めたらよいのか必ずしも分かりませんが―― 明らかになるとよいと思っています。




 恥について:
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 恥を知る人は萎縮しません。むしろ堂々として居るでしょう。
 恥を知らぬ人が、あらぬ場ではっちゃけたりして、恥をかくのです。知らぬは当人だけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ。いまの問い求めでは 心にヤマシサ反応をおぼえたとき これを言わば概念として捉えると 《恥ぢ》といった倫理の問題にかかわる主題が得られる。といったかたちで 恥ぢを扱っていたのですが この場合は

  ○ ヤマシサ反応ともむろんかかわっているけれど 振る舞いにおいて相手との・または情況とのマ(間)のチガイによって 間抜けなことなどのアヤマチを侵したとき 恥ぢを掻くか?

 の問題でもあるようです。 すなわち
 ★ 〔* ふだんヤマシサ反応に対して素直に対応していて〕恥を知る人は萎縮しません。むしろ堂々として居るでしょう。
 ☆ と。どうでしょうか。そうですね。ただし マチガイはマチガイであるとは 思いますが これについても どうでしょうねぇ。



 これは 《よいウソ》はヤマシサ反応をともなわないか? という最初に取り上げられた課題ともかかわっているようです。
 《取るに足りぬマチガイ》には ヤマシサ反応も起きず 特には恥ぢを掻かなければならない事由はない。――という問題提起であるかも分かりません。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 鉄面皮について。
 
 良きにつけ悪しきにつけ、嘘を使いこなす人ほど表情は豊かなものです。人やその心について通じて居るからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これにはわたしは異論があります。

 鉄面皮になった場合とは すでに《ウソをつくことが平気になっている》ということだと思いますが 
 そのとき ということは 《人やその心について通じて居て 表情ゆたかに嘘を使いこなす》のは そうは言っても やはりその場合にはどうしても事実認識についてマチガイやアヤマチを伴なっている。と見なければならないはずです。

 とすると どうなるか?
 いくら《表情ゆたかにウソを使いこなして》いても 相手にとってよき結果をみちびくための方便であるというよりは一般に鉄面皮自身の都合のよい結果をみちびくためなのですから あやまった情報や事実誤認については おそらく遅かれ早かれ 問題が生じるようになる。つまり ウソが明るみに出る。――ということだと思うし そのことをきちんと同時に言っておかねばならないのではないかと考えます。

 このような鉄面皮は 《恥ぢを知る》人なら 嫌悪し唾棄するものと思いますが どうでしょうか。




 結論はまだ出ていないのかも知れません。じっさい保留したところが多いようです。

 また 進行役が自分勝手に議論をみちびこうとした部分があるかも知れません。

 さらにみなさんのご意見がありましたら 回答者さん同様 どしどしお寄せください。

お礼日時:2014/06/12 07:19

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