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 それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。

 スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。この職務を嫌ったというのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。

 宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。



 スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。

 わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。

 ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。宮の前に糞をしておいたりした。



 ところがアマテラスは 疑う人でした。とうとう姿を現わさなくなりました。スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。

 アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。

 宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明されたから。あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。

 アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。



 かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。



 アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしての)によって生活する人たちを統治することに長けていました。かのじょは この世に・日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。



 このゆえに神の国が生起しました。言い換えると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生――それが行き着くところは 死の世界だから――が 克服されたのです。



 この世で 時間的に歴史的に 神の国(ほんとうの現実)が見られることとなった。スサノヲに神がここで王となった。この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。



 スサノヲは 追放され この世から そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかったのです。

 スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。ここで神の国が現われたのです。すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。

 ☆ 自由なご批評・ご批判をたまわりたく・・・。

A 回答 (2件)

「スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。

ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。」
と書かれているのでしょうが、明らかに違和感がありますね、何故なら黄泉の国(死の世界)を統治するのは神話上イザナギではなくイザナミだからですね。「スサノヲが母のイザナミに命ぜられてウナハラの統治を任せられた。」であれば話が合いますね。イザナギとイザナミは離婚していますから、勢力や思想的、宗教的な違いがあったと見るほうが自然だと思いますね。アマテラスは父側に付き、スサノウは母側に残ったが、母のイザナミに反抗し、追放された。その結果として自由を得た。と読んだほうが矛盾がないように思います。神話とはいえ、その当時を考えれば豪族の政略結婚だったでしょうから内部抗争はあったと見るべきですね。歴史の常で滅んだ側の歴史は勝ち残った側に断片的にのみ残りますので、話として主人が入れ替わって残ったのではないかと考えます。
というような見方もできるということだけです。参考程度に。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 そうですね。まづ この質問の性格についてですが:
 端的に言って 古事記ないし記紀神話をあつかっていますが 文学カテでもなければ歴史カテでもなく 哲学カテで問うています。そこのところをくみ取っていただきたいと考えます。

 つまりすでに一人ひとりの独自の読み・誰のでなくみづからの評価といった内容をあつかっています。

 それゆえ
 ★ 書かれている〔* ことからすれば〕 明らかに違和感がありますね
 ☆ といった受け留めになるのは まづとっかかりとして 仕方がない。と考えています。



 ただし 記事についての事実認識をめぐっても しっかりと共通の前提に立ちたいとは思います。
 ★ 何故なら黄泉の国(死の世界)を統治するのは神話上イザナギではなくイザナミだからですね。
 ☆ スサノヲに任されたのは 《ウナハラ・根のカタス国》などであったはずです。これを 死者の世界あるいは黄泉の国として読み替えた。こういう事情です。

 イザナミは すでに死んで黄泉の国に逝った。そこへイザナキがおとづれた。というような文脈で出て来ますね。

 スサノヲのウナハラは けっきょく人もいないのですから 死の国ではないでしょうか。あるいはつまり けっきょくつまらない場所をあたかも祭司となってつかさどる。――ゆえに 死の国として受け留めたものです。



 ★ イザナギとイザナミは離婚しています
 ☆ これは明らかに違うはずです。カグツチを産んだときイザナミは亡くなっています。夫のイザナキは その黄泉の国にまで出向いてイザナミに会いに行ったのですから 離婚の問題ではないはずです。




 ★ アマテラスは父側に付き
 ☆ 父イザナキからは スサノヲやツクヨミへの指令とともに アマテラスには 高天原を主宰せよという使命がさづけられました。以来 最高権力者です。


 ・・・
 こんなところでしょうか。


 



 

お礼日時:2014/07/01 18:35

こんにちは。



アマテラス・和魂(にぎみたま) VS スサノヲ・荒魂(あらみたま)
だからじゃないですか。

スサノヲが高天原に登ってくるとき、
アマテラスはコワモテ(荒魂)の部分をみせますが、この立場をすぐに放棄します。
和魂だから、アマテラスは、もともと、争わない神なんですよ。


対して、スサノヲは、混沌を内に秘めている。
混沌だから、生も死もない、そこには善悪の区別も存在しない。破壊と創造の区別も存在しないし、これは同じこと。
すべてを飲み込み、包み込む。
イザナギ・イザナミがアメノヌボコでかき混ぜる前のより原初的な存在と言った方がいいのかもしれないですね。
神が「光、あれ!!」という前の存在。
最初から自由な存在。


神さまとしては、スサノヲの方が上手なんですよ、きっと。

そして、
 「日本の神」 = 「和魂」+「荒魂」
であって、アマテラスとスサノヲのセットで語られるべきもんじゃないんですかね。
分けて議論しちゃ~、いけないんじゃないですか。
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この回答へのお礼

 こんにちは。

 ☆☆ スサノヲだけがなぜ自由か
 ◇ アマテラス・和魂(にぎみたま) VS スサノヲ・荒魂(あらみたま) / だからじゃないですか。
 ☆ ん? なんで? おとなしくやさしい魂は 自由ではないのですか? 自由にはなれないのですか?


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 スサノヲが高天原に登ってくるとき、
 アマテラスはコワモテ(荒魂)の部分をみせますが、この立場をすぐに放棄します。
 和魂だから、アマテラスは、もともと、争わない神なんですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《コワモテ(荒魂)の部分をみせますが》というより ただただスサノヲの心をうたがい 疑いに疑いつづけ 自分の国を奪おうとしてやってくるに違いないと思って 自分も――女だてらに――武装した。だけではないのですか?

 つまり 猜疑心の問題であり 人間不信のもんだいではありませんか?

 ◇ この立場をすぐに放棄します。
 ☆ 《立場》の中身が いま上に検討したように違って来ますが そのスサノヲをふつうに受け容れることのない極端な猜疑心・人間不信の《立場》は 最後までなくなりません。

 どちらが間違っていないかを決める例のウケヒのときでも スサノヲが勝ったということであっても 決して その疑いを解いたりしていません。

 だから スサノヲは その無関心という――ひとどうしの方向性を消してしまって愛関係を無くし無関心となった――態度と思想を批判して アマツ罪と呼ばれた不法行為をしたい放題にしまくりました。

 なるほど それをアマテラスは とがめることもしなかった。むしろ 人びとがその罪をうったえても スサノヲを擁護した。

 ただし けっきょくは 最後まで 不信を解くことはなかった。

 人びとが スサノヲを高天原からカムヤラヒに追放したときにも 何も言わなかった。押し黙って 《人間として死んで》いた。

 それを どうして
 ◇ 和魂だから、アマテラスは、もともと、争わない神なんですよ。
 ☆ と言えるのでしょう?

 金持ち けんかしない に少しは似ていますが。





 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ 
 対して、スサノヲは、混沌を内に秘めている。
 混沌だから、生も死もない、そこには善悪の区別も存在しない。破壊と創造の区別も存在しないし、これは同じこと。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もしそうだとしたら ウケヒをやる意味がありません。むしろ《計算づくの混沌》をよそおうのは アマテラス姉さんのほうではないですか。

 おそらく――その判定は分かりにくいのですが―― ウケヒに姉さんは負けたんですよ!
 それなのに 依然として精神は高ぶったまま高止まりしている。

 《混沌》というより けっきょく人間以後で人間以上の過剰アマアガリした精神状態であったろうと考えられます。
 
 スサノヲは ふつうですよ。大風を起こすというだけのことです。



 ◇ 神さまとしては、スサノヲの方が上手なんですよ、きっと。
 ☆ いえ。スサノヲは ふつうの人間なんです。
 
 アマテラスが 異常なんです。くるっています。人間を飛び出てしまっています。

 これが 現代の現在時まで 尾を引いて来ています。

 そうではありませんか?

お礼日時:2014/06/28 15:44

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