これ何て呼びますか

事実と真実の哲学的意味合いについてですが、僕は今まで独自の理解でこの二つを使い分けてきました。
事実とは、人が主観的に造り出す実で、
真実とは、そこに在る客観的な実だと考えていました。もちろん、辞書的定義とは違い、書物を読んだりせずに自分の頭の中で考えたものなので、矛盾が生じたり立ち行かない時もあります。
この間、このような理解の下で、この二つの語を使い、質問をしたところ、事実でも真実でもないとの回答を受け(詳しくは質問をご覧ください。またよければ回答も是非。)、混乱したので、辞書で確認したところ、以下のような定義となっていました。
◆事実・・・本来、神によってなされたことを意味し、時間、空間内に見出だされる実在的な出来事または存在。実在的なものであるから、幻想、虚構、可能性と対立し、既に在るものとして当為的なものと対立し、個体的、経験的なものであるから論理的必然性はなく、その反対を考えても矛盾しない。
◆真実・・・※電子辞書の広辞苑で調べましたが、哲学的定義は載っておりませんでした。ちなみに、〔仏〕仮でないこと。究極のもの。絶対の真理。真如。※

みなさん、どうか、「事実」と「真実」の一般的な哲学的定義を分かりやすく教えてください。
そして、「当為」という言葉もよく分かりません。併せてよろしくお願いします。

また、自分の中に独自の哲学的定義を成すことはしてもよいのでしょうか。

それでは、多くの回答をお待ちしておりますので、よろしくお願い致しします。

A 回答 (12件中1~10件)

「真実」という言葉ですが、言葉の使用という観点の考察が不足しているかに見えます。



辞書に、「事実」の方には哲学用語としての解説があり、「真実」には別には仏教用語しかない。ということは、西洋哲学の用語としては使われていない、あるいは使われていても稀なケースである、と辞書作成者が判断したのかもしれないですね。平凡社の『哲学事典』にも「真実」の項目はない。こういうケースで、一般的な哲学的定義を求めるのは、無理筋ですね。
一方言葉としてはよく出てきそうな気もします。その場合の意味ですが、
(イ)たとえば、「右側」というのは、そういう「側」があると言っているのではなく、「左右の別があってその一方を指す」ことが意味の主題ですね。同じように、「真実」ということ・ものがあるということではなくって、嘘・偽り・作り事ではなく、「本当の」ということを言おうとしている言葉だ、という見地。すなわち、形容動詞、副詞として、「真実の何々」と使われる。
(ロ)単一の用語としては見られていない、というケースが考えられますね。「何々は真実だ」あるいは「真実は何々だ」と言った時、その「何々」が、嘘・偽り・作り事ではないことを強調しただけのものである。「何々は真実だ」も「真実は何々だ」も共に、「何々は事実だ」「事実は何々だ」と言い換えても意味は変わらないケースは、「真実」という言葉は、「真の事実」・「本当の事」と言い変えうるもので、「事実」に「真の」という形容を付加したにすぎない、という見方もあるのではないか。「真実」を名詞的に使っていても、その意味は「真の何々」の「何々」が裏に隠れているにすぎない、というケースもあるのではないか。
(イ)(ロ)のような見方の場合は、哲学的用語とは見ないのは当然のように思うのですが。どうですか。

ついでに、その辞書にある「既に在るものとして当為的なものと対立し」という意味ですが、「事実命題」と「当為命題」ということで、英米系の哲学では、証明済みのことのように「事実から当為は導けない」とされています。「雨が降っている」という事実から、「傘を持っていくべきである」という当為は導かれない、そういう考えのことを言っていると思います。
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この回答へのお礼

おっしゃる通りです。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/14 13:18

さあ、一般的、という定義が判りませんが、個人的見解です。



よろしくお願いされた、多くの回答、の一つです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/14 13:18

事実は真実の下位カテゴリにある、その違いだと思います。



ひとつの事実が、他の事実と数え切れないほどの組み合せでひとつの事実(概念)となり、
一貫性をもつとき、それが真実(と呼べるもの)となる。

たとえば愛、幸と不幸、戦争と平和、などの概念のを弁証法的に検討してだされる結果
(個人の考えや学問としての哲学)を運営しているのが人生。
現実的に不都合な真実であれば、「真実」に秩序をもたせるのが法。
混沌それ自体がひとつの大きな真実であると考えます。

でも真実は人によって違いますし、別の真実にとっても真実ではないでしょう。
弁証し続ける限り、新たな真実が生まれる。
どの事実も、真実に帰結させていくように作用する個々の力。

主観と客観という、人の思考で捉えた事実を、不特定多数によって反復継続され、真実に昇華する、というような感じでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

参考にさせていただきます。

お礼日時:2014/07/14 13:19

辞書の意味を離れた一般的な哲学的定義などというものはありません。


真実も事実も言葉としては辞書通りの意味の言葉でありそれ以上でもそれ以下でもありません。

哲学者個々人が独自の考えにしたがって真実とはこれこれこういうものであり事実とはこれこれこういうものであると定義している場合もある、ただそれだけです。

>自分の中に独自の哲学的定義を成すことはしてもよいのでしょうか。
構いません。ただし他人にそれを伝える時は「私は『真実(あるいは事実)』という言葉を私の理論の中ではこれこれこういう意味をあらわす用語として使っています」と相手に適切に伝えなければ考えを誤解される可能性はあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
みなさん大変興味深い回答をくださいましたが、こちらの方が真っ直ぐに質問に答えてくださったので、BA差し上げます。
が、補足に対する回答や新たな回答をもう少し待ってみます。
ありがとうございました!

お礼日時:2014/07/02 22:10

お礼ありがとうございます。



ついでに補足です。

一般的な哲学的定義等は、私は聞いた事がありません。

大体、人によって皆変わりますから。

特に西洋哲学では、其処の第一歩目から常に始まります。

下から営々と積み上げていったものの一番下のブロックを、誰かが「此れが違う」と言って引っこ抜く作業を、延々数千年繰り返しています。


哲学は西洋にしかなく、東洋には何も無いと言う方もいますが、「定義」の世界から自由になれない「事実」に気付く「真実」も、あって良いのではないですかね。

お邪魔しました。
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この回答へのお礼

こないだ図書館で哲学辞書を見たらたしか確かに真実という単語は載ってなかった気がします。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/14 13:20

個人的な意見なら・・・



「事実」は実際に起きて・起きている事象。

「真実」は見えていない部分までを“何処までも考察して”求めた思い込み。


人によって、千差万別

千の事実と万の真実に人は喘ぐ
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
個人的と明記してあり、わかりやすかったです。
他の方も、個人的考察なのか、一般的定義なのか述べていただければ幸いです。

お礼日時:2014/07/02 20:26

真実とは、嘘偽りがない事。


事実とは、客観的事象。


大きな違いは、真実は嘘や偽りがないが、誤った事実が伝わる場合があります。つまり、真実が絶対に間違いのないとは限りません。

事実は客観的事象なので、事実が誤る事はありません。誤って伝わる事実が存在するだけです。



例としては、キリスト教徒にとって神は宇宙を作り人間を作った。これが彼らの真実です。しかし、事実がそうとは限りません。(まだ科学は人類誕生の実証や宇宙の完全な解明をしていないので、この真実が誤りとも限らない。しかし、正しいとも限らない。)

この回答への補足

これは一般的な哲学的定義でよろしいですか?

補足日時:2014/07/02 16:03
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「事実」とは「実在」の別称。



主に「モノ」についてよりも「ことがら」に対して使われる。
その意味で、「事象」とも哲学的意味が近縁関係にある。

真実とは誰かの「断定的見解」」を指す。

「排他的・決定的な思考の停止が導き出す単一の結論」である。

この二つを混同して使用すると、唯の「事象」に過ぎないものが
話者の見解に過ぎない断定的結論にすり替えられてしまう。

事象はその存在が揺るぎないが、それは「解釈」ではないことに因る。 
しかし、すり替えられた「見解」は当然に批判対象となり、反論も形成する。

「見解」は、一つの見方、「事実」をある投影によって写像としたに過ぎない。
従って、本質的に別な視点からの見解を否定することが出来ない。
故に、反論に対して完全な論理的整合性・唯一性を持たない弱点を持つ。
これを決定的に補強するために、揺るぎない「事実」に限りなく近いもの、と
してすり替えてしまうことで、単なる写像に過ぎないものを実像と誤認させ、
議論するまでもない、揺るぎない価値のあるものである、と相手方に
思考停止させることが無意識に企図される目的である。

これを防止するために、議論に際しては「事実」についてはあらかじめ
証明できること、裏付けが皆で共有できることを担保として、先に決めて
置くことが必要になる。

さもなければ、「事実」である、と話者が主張する度に、これの事実性について
確認し、認証する作業が付いて回ることになる。

その上で、話者が「真実」である、と主張する解釈について、あえて別の
視点から、その事実を異なる見方で捉え、新たな解釈を模索し、その
価値について斟酌する、というように、一つの事実についてより多くの
見解、すなわち多面的な評価の「系」を構築するために、あえて「反語」として
断定的な「真実」と表される見解を位置づける必要がある。

平たく言えば、様々に反論するためにこそ、「真実」は主張されるべきものである。

その意味で云えば、「事実」は一つしか存在しないが、「真実」は増殖していく
もの、とも云う事が出来る。

この回答への補足

これは一般的な哲学的定義ですか。

補足日時:2014/07/02 16:12
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 こんにちは。




 《定義》は つねにあたらしいものを提示して行けばよいわけです。よりよい内容のものが残ります。



 1.
 たとえば《世界》があります。と言って世界を見ようとしている《わたし》を含めたこの〔知覚および〕認識の対象のすべてのことです。

 2.
 《事実》というのは この世界の中でものごとがこの現在時においてあるそのさまのすべてを言います。ただし 言ってみれば まだ認識をする前の段階にあるものごとを想定して言っています。

 3.
 すなわち 事実認識がおこなわれ そこで得た結果を主観真実と言います。《わたし》が事実について認識した内容です。

 4.
 《わたし》による認識結果であるゆえ 《主観》です。ワタシが片寄りのない見方で認識したと心に思ったら それは 事実についてのワタシの認識真実です。

 5.
 ワタシのこの主観真実〔としての事実〕が あなたにもほかの人たちにも共通の内容であると互いに確認しえたなら そこには 事実認識についての主観共同が得られます。

 6. 
 じんるいはそれぞれの主観を超えて共通の認識内容を得ようと科学して来ました。わたしたちは その時の科学的な成果を 共同主観としています。この共同主観が いわゆる客観であることを願いつねにそうであることを問い求めています。

 7.
 《客観》は けっきょく人間の認識する以前の《事実》のことです。

 8.
 科学行為は この客観事実に限りなく近い認識を得ようとし続けています。

 9. 
 客観に近い世界認識 これは――あくまで客観の近似値としてなのですが――誰にとってもその主観真実となると見なして 変わらざる真実という意味での《真理》と呼ぶこともあります。

 10.
 事実も真実もそして世界も けっきょくうつろいゆかざるを得ないものと見られています。わたしたちが そう見ています。

 11.
 もしその線で考えをさらに伸ばす場合には 《変わり得ず つねに独り満ち足りているもの》としての《真理》を立てる場合があります。

 12. 
 これには 《無限・絶対》という概念で説明をつけますが それは《世界》を超えている・つまり経験世界における因果関係から自由であると見るからには そのような真理というものの想定です。(科学から見れば 無根拠です)。

 13.
 この真理が 哲学の排除することの出来ないことがらとして 昔からの言葉で《神》です。

 14.
 つまり おそらく自然科学とそれによる客観的な世界認識が それでもけっきょくは朽ちざるを得ないものごとであるとすれば 人間にとっての《世界》にはひょっとするとこの高次の真理にかかわる《現実》があるということかも分かりません。

 15.
 またはこの世界についてのあたかも プラス・αとして 《非経験の場》ないし《非思考の庭》が 《人間にとっての最広義の現実》としてそなわっている。かも分かりません。それは ナゾです。

 16.
 ひととしてのワタシの存在構造

  ナゾ:非思考の庭:ヒラメキ(直観)・信仰
  ---------------
  理性:思考の緑野:オシエ(宗教)・科学
  感性:感性の原野:ヒラメキ(直感)

 《ナゾ》以外が 世界の事実およびその認識です。

 《世界事実 + ナゾ》=《ひとにとっての現実》だと考えられます。

 17.
 ナゾが有るという人は 信仰を有神論として持ちます。
 ナゾが無いという人は 信仰を無神論として持ちます。
 いづれも 自由です。認識を超えていますから 有る・無しを自由にえらべます。

 18.
 もしこの信仰=非思考の庭 などは無いという向きには 科学教・理性崇拝というレッテルが 無理なく 貼られるものと思われます。経験世界こそが 現実だというオシエです。
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ご自身が当初から思っていた通りで、全部解釈が通るように思います。



真実は唯一の「真なるもの」なのですが、それを体験したり目撃した人にとっては、その認知の数だけ「事実」が個々に生まれる

という関係でよろしいのではないでしょうか。身近な交通事故での加害・被害、派閥争い・宗派争い・歴史認識・・・。

ドラえもんが、「どっちも自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ」と言っていたのを思い出します。
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