いちばん失敗した人決定戦

事実と真実の哲学的意味合いについてですが、僕は今まで独自の理解でこの二つを使い分けてきました。
事実とは、人が主観的に造り出す実で、
真実とは、そこに在る客観的な実だと考えていました。もちろん、辞書的定義とは違い、書物を読んだりせずに自分の頭の中で考えたものなので、矛盾が生じたり立ち行かない時もあります。
この間、このような理解の下で、この二つの語を使い、質問をしたところ、事実でも真実でもないとの回答を受け(詳しくは質問をご覧ください。またよければ回答も是非。)、混乱したので、辞書で確認したところ、以下のような定義となっていました。
◆事実・・・本来、神によってなされたことを意味し、時間、空間内に見出だされる実在的な出来事または存在。実在的なものであるから、幻想、虚構、可能性と対立し、既に在るものとして当為的なものと対立し、個体的、経験的なものであるから論理的必然性はなく、その反対を考えても矛盾しない。
◆真実・・・※電子辞書の広辞苑で調べましたが、哲学的定義は載っておりませんでした。ちなみに、〔仏〕仮でないこと。究極のもの。絶対の真理。真如。※

みなさん、どうか、「事実」と「真実」の一般的な哲学的定義を分かりやすく教えてください。
そして、「当為」という言葉もよく分かりません。併せてよろしくお願いします。

また、自分の中に独自の哲学的定義を成すことはしてもよいのでしょうか。

それでは、多くの回答をお待ちしておりますので、よろしくお願い致しします。

A 回答 (12件中11~12件)

哲学的定義という認識ではなく、個人的考えとしてです。



事実は、現象として観察できるものを意味し
心象や感情に左右されないものと認識しております。

真実は、それぞれの根底にあるもので他との共通項を有するもの。
現象として観察できるそのものではなく、目で見て共通に認識できるものではない。


当為は
大辞林 第三版の解説
とうい【当為】
〘倫〙 現にあること(存在),またはかくあらざるをえないこと(自然的必然)に対し,まさにあるべきこと,まさになすべきこと。カントは,道徳的行為に先行しその実現を可能とするものとして道徳的当為を考えた。新カント学派は,さらに真・善・美などの超越的価値にむけての主観の関係を超越的当為とした。ゾレン。 → 存在 ・ 必然
とあります。


例えば、人がこけたとします。
その現象を前にして
事実は、「人がこけた」であります。

こけた人を見て多くの人が様々な思いを抱くでしょうが
私が居合わせたとしたら声を掛けるでしょう。

「大丈夫ですか?」の行為の真実は労わりと心配であり
それを優しさと呼ぶかもしれません。

その時の当為が、声を掛けることであり
散らばった荷物を回収する手伝いであり
場合によっては、起きることを手伝うことであり
救急車を呼ぶことであると思います。

勿論、当為をしなくてはと頭で認識して
行動に起こしている訳ではありませんが(笑)


人は言葉ありきで行動ではなく、見えるもの見えないものの現象に
言葉を付けているのですが、学びやコミュニケーションが
言葉という介在を通すので言語による差異の擦り合わせがつきまといますよね。

面白くもあり難解でもある奥深さだと感じます。
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「事実」と「真実」、あるいは「現実」と「本質」とも


言えるでしょう。
「事実」は我々が感じる現象的な存在性であり、
「真実」は、そうした階層現象表面的な有限な
存在性が、不確定性原理において、実は絶対的
に確定化しようとすると無限不確定に発散して
しまう量子性(超弦)を、階層現象性を表面的に
(いい加減に)捉える事で派生しているものであ
る事によって、一致しないものになっています。

人は、存在的な確定性は、原理的に分析していく
事でどんどん確定化していく物だと考えがちですが、
実は、そこにある「存在的確定性」と「原理的に
把握する事」とは、両立しないのです。
それは、物理学の「不確定性原理」のみならず、
論理学の「不完全性定理」においても、公理系が
無矛盾(Aと非Aを同時に導かない=有限な存在性)
であるのは、公理系が不完全(その公理系では
証明できない公理の先入)である場合にのみ、
という証明がなされています。
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