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独立戦争のときに何か事情がありましたか。

A 回答 (2件)

wikiを読んだら、昔っから別だったみたいですよ。

もともとはチンギス・ハーンのモンゴル帝国が、世継ぎで息子達に分割されてから別々の国。
内モンゴルはその後、清を建てて中国を支配した。だから第2次世界大戦の時も、となりのモンゴルは別の国、自分たちの国は中国そのもの、みたいな感覚だったんじゃないでしょうか。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E3%83%A2% …
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この回答へのお礼

よくまとまった解説が載っている場所を紹介してくださったことに感謝します。
「wiki」を検索語に入れたら良いことを忘れておりました。

お礼日時:2014/07/09 15:00

内モンゴルが清朝を建国したわけではありません。


清朝は満州族が、漢族の明朝を倒して成立した国ですので、モンゴル族の国家ではありませんでした。

清朝の時代、モンゴルはチベットや新疆とともに「藩部」とされ、中央政府は内政に干渉せず伝統的な地元の王が統治していました。
しかし南部では中国本土から漢族の開拓移民が増え、人口の上では漢族が多数派になったのです。

辛亥革命で清朝が倒れたのを契機に、外モンゴルでは独立運動が起こりかねてからモンゴル進出を狙っていたロシアの支援で、チベット仏教の活仏ラマを君主とする、ボグド・ハーン政権が生まれました。
清朝に代わって成立した中華民国はモンゴルの独立を認めなかったのですが、ロシア革命後はソ連の赤軍が占領して、1924年にモンゴル人民共和国として独立を宣言、ソ連の衛星国となりました。

内モンゴルでもモンゴル人の間で、外モンゴルと一緒に独立を求める動きが出るのは当然のこと。
モンゴルが社会主義国として独立すると、内モンゴルもこれに合流して社会主義を実現しようという左翼組織も生まれ、内モンゴル人民革命党が結成されました。
一方で内モンゴルの王族たちの間では、漢族の支配からは脱したいが、モンゴルに併合されて社会主義化されるのはもっと困ると、内モンゴルの独立や自治を求める動きが盛んになっていきました。

しかし、内モンゴルの中でもモンゴル族はもはや少数派に過ぎない上、モンゴルへの併合か独立か自治かと主張もばらばらでした。
中国政府は内モンゴルをいくつかの省に分割して支配しました。
内モンゴルの運動は徐々に下火となり内モンゴル人民革命党は分裂し消滅、内モンゴルの有力者たちは、中国政府による支配を受け入れて、各地の知事などに任命されました。

内モンゴルと外モンゴルの関係は上記のようなものです。

その後1932年に日本が満州国を成立させると、内モンゴル東部は満州国に組み込まれました。
そこで日本との関連も出てくることになるのですが、ご質問の主旨からは外れますのでここまでにしておきます。

  参考出典:社会評論社『消滅した国々』 (著者・吉田一郎)
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