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前にも似たような質問をしたのですが

武士といっても下っ端ではなく一国の主クラスの武士はどういう教育を受けたのでしょうか?

平安時代から江戸幕府成立するまでの話を教えて下さい。

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A 回答 (6件)

武士が学問を熱心にするようになったのは江戸時代からです。

それまでは武術が武士の仕事だから熱心に勉強などしていません。圧倒的に貴族優位です。
貴族に聞くと圧倒されるので僧侶に聞いているのです。武士にとって先生は僧侶なのです。特に禅宗の僧侶に国主子息の教育が託されています。
江戸時代は平和なので武術は無用の長物となります。武士は支配者であり公務員なので、読み書きが出来なければ仕事になりません。教育の基本は論語で儒教です。儒教が理屈ばかりであったので、実践を重んじる朱子学が好まれるようになりました。犬公方で有名な5代将軍の綱吉は儒教のレベルが学者級であったと伝えられています。
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この回答へのお礼

titelistw1さん
いつもありがとうございます。

武士は武術以外は基本何もしてなかったんですね。まあ不要ですからね。
でも国主となれば武術だけというわけにはいかないのでは?

僧侶は何を教えていたのでしょうか?非常に気になります。

綱吉は何のために、そこまで儒教を学んだんでしょうか?趣味でしょうか?

回答ありがとうございます。またお願いします

お礼日時:2014/07/29 00:51

 鎌倉時代の武士が持っていた素養といえば、流鏑馬・笠懸・犬追物が有名ですが、これはあくまでも武術としてのトレーニング的な意味合いを持っています。


 その鎌倉時代の武家が拠り所としたのは旧南都仏教や平安仏教でもありません。法規範としての律令からすれば、彼等自身が想定外の存在ですから、彼等の正当性を裏付ける目的での思想も必要でした。それが禅の考え方であり、一時的に公式の外交関係が閉ざされていた中国との往来により紹介されたニュースタイルです。
 旧来の南都仏教や平安仏教が経典の解釈を主眼としたために、そうしたテクストに触れるにはどうしても文字の読み書き能力が求められもし、そのために有力貴族は競って私設の教育機関を設けもしました。それが大学別曹と呼ばれる形です。
 彼等がなぜその様なハコ物を造ったかといえば、日本がモデルとした当時の先進文化が全て中国の政治システムや思想であり、それらは全て漢文で記されてもいました。その漢文を読めるだけの資質が政権運営に携わる貴族や官僚にも求められるとの必要に迫られての形でした。官職やステータスを求めるならばどうしても漢籍や教典といった活字に関する知識が必要でした。
 これに対し、禅にはテクストとすべきものが最初からは用意もされていない状態であり、道元の只管打坐に示される禅を組むことにより自己探求の方途とするなどの考え方が文字の読み書きができない武士にとっても取り掛かり易い存在だったともいえます。
 あとは少し遡り平安期に行われていた「歌合わせ」にみられる、和歌に関する素養をはじめ、室町期に移入進化した茶道もあれば、世阿弥が古典に題材を求めた能楽もあります。
 これらは風雅の道などとも呼ばれ、一つのテーマを演じるにはその背後にある歴史事象に関する知識も求められもします。芭蕉ならばそれが西行の足跡を辿る事であり、世阿弥ならば源氏物語をはじめ伊勢物語などの古典の言葉を聴くとのスタイルになります。
 徳川の時代になりますと、社会秩序の維持を目的とするために儒教の宋学(朱子学)が幕藩体制にとってのスタンダードな基準となり、四書五経に関する読み書きが中心ともなります。
 こうした官学に対する私学とも呼びうる存在が中江藤樹や熊沢蕃山といった陽明学派や伊藤仁斎・荻生徂徠・山鹿素行に代表される古学派の立場です。
 もし「儒学に関する素養が武士の嗜みである」との説明がなされているのであれば、大塩平八郎の乱で大塩のとった行動を説明することが困難になり、儒学との説明だけでは不十分といえます。あくまでも「朱子学」と呼ぶ以外には許容の幅はありません。
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この回答へのお礼

ふーむ。なるほど
詳しい話ありがとうございました。

また回答お願いします

お礼日時:2014/07/29 02:16

平安時代から、となると相当に面倒といいますか、寡聞にして武士の教育史などという纏まった文献をしりません。


そもそも、武士たる者少なくともこのようなことを学ばなくてはならない、などと定められたのは江戸時代に入って世の中が落ち着いてきてからの話です。

切ったはったの戦国時代には、息子に学識があるか無いかよりも、武術戦略の才能や能力があるかどうかの方が問題でした。
文書が必要ならば朝から晩まで、お経なる漢文を読んだり書いたりしていた僧侶がいくらでも身近にいました。
情報交換や指示命令、同盟関係の制約などの文書の読み書きは必要でしたので、最低限の読み書きはマスターしてはいたようです。
室町幕府は文化優先の人達の集団で京都に居を構えていましたから、武士とはいえ文芸に対する素養は養われていました。
鎌倉時代は政治的にも安定した時期が長かったことから、それ相応の教育は僧侶や父兄の手でなされていたようです。
平安時代となりますと、上級武士は京都のお公家さんとのお付き合いが不可欠でしたから、必要な教養は身に着けていたようです。

ここで、注意する必要がありますのが、和歌です。
端的な例が辞世の句と呼ばれるものです。
下記サイトに例が載せられています。

辞世の句 戦国武将|勉強に役立つサイト Start Point
www.start-point.net/jisei/

ここで注意して頂きたいのはこれ等の句が本人作のものか、ゴーストライターによるものかということもさることながら、一軍の将たるものは和歌の一句もその場で詠むことができることが求められていたということです。
有名なのが太田道灌の山吹の話です。
道灌自身は幼少の頃に鎌倉の建長寺に預けられて教育を受けていましたが、草深い関東の地で里人の女性から和歌を突きつけられて咄嗟に意を解することができなかったことを恥じ入ったという話です。
太平記に書かれています、衣川の戦いにおける源義家と安倍貞任との和歌による歌問答も、将たるものは和歌の一句もその場で詠むことができることが当然だという意識があったればこそ、書かれて後世まで伝えられました。
平家の武将であった、平忠則の話も有名です。
むしろ後年薩摩守忠則と記された名前の方が有名になっています。
西行も元はといえば佐藤義清と名乗る北面武士でした。
文学史に詳しい方であれば、武士の作った和歌をいくらでも推挙できるかと思います。
平氏も源氏も始祖は皇族で、京都生まれ京都育ちですから、当代一流の教育は受けていました。
後世でも嫡流であれば受け継がれていたかと思います。
義経も鞍馬山で教育を受けていました。
そうであればこそ僧兵とはいえ僧侶であった弁慶が付き従ったのかと思います。
軍事の天才であるというだけで無学文盲の粗暴なだけの男であったのであれば難しかったでしょう。
信長も、謡曲の敦盛を好んで謳い踊ったとされています。

平安時代については下記のようなサイトがあります。
忠盛から清盛へ
www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/keifu/keifu5.html

江戸時代に戻りますが、武士というのは現代でいえば官僚です。
朝から晩まで文書と格闘していました。
大名、特に譜代大名というのは、江戸城へ入ればただの官僚の一員として扱われました。
書類を書いたり運んだり報告したりしていました。
家来をつれて威張っているなどということは許されませんでした。
常に本人の事務処理能力が問われました。
親の仕事を引き継がせる以上は、息子の教育は父親の大切な責務の一つでした。
四書五経などという空論よりも千字文などと呼ばれる実用性の高い教育が優先されました。

幕政に直接携われる大名は数が限られていました。
大半の大名は間違いなくお世継ぎを生んでくれれば充分な存在でした。
御家老連中もたいして期待はしていませんでした。
むしろ才能もないのに下手に藩政に口出しされるよりは遊んでいてもらう方が助かりました。
江戸城内での出世競争などには極力参加させませんでした。

何分にも武家というのは本来軍事組織の一員で職業選択の自由が認められていなかった階層です。
藩政に携われるのはほんの一握りの人達だけで、しかも大概は世襲でした。
平和な時代には、役務に就くことができなければ、学問をするか遊んで暮らす以外にやることがありませんでした。
学問好きの若者向けには藩校が設けられると同時に、私塾が沢山開かれていました。
日本は、中国や朝鮮のように、科挙という制度を設けていませんでした。
成績がどうのというのは名誉としての表彰がある程度でした。
史実として、抜擢されたとか出世したとかいう記録がある、と主張する人がいますが、例外的な特記事項だからこそ記録されて残されています。
日常生活をそつなく安寧に過ごした人間のことをいちいち記録して残すような閑人はいません。
300年間の間に生きていた武士の数を想像して下さい。
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この回答へのお礼

ichikawaseijiさん
ありがとうございます。

基本武士は必要なことだけ学んだって感じですね。

ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/07/29 01:54

大名クラスの武士の師匠と言えばこの人が一番有名でしょう。



伊達正宗の幼いころの教育を担った虎哉宗乙です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E5%93%89% …
学問教養等は虎哉和尚が担い兵法学と武術は守役の鬼庭左月が担ったと思われます。
室町時代から戦国時代になれば大名クラスは文武両方の教育を行ったと思われますが、それより前は学問の教育がどの程度行われたかは疑問ではありますね。
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この回答へのお礼

兵法は別の人が教えたんですね。
その僧は政宗に何を教えたのでしょうか?

回答ありがとうございました。またお願いします。

お礼日時:2014/07/29 00:40

 武士のルーツは元々土豪層ですから、一般庶民とさして変わりもしません。

その武士が新たな権力者として世間の座に就いた時、最も苦慮したのが文書の発給つまり法令や現在の判決に相当する文書を如何に記したかとの問題は、既に日本史学や古文書学の世界では共通の理解となっている事項があります。
 それは文書を専門にしたためる職業が存在し、祐筆などと呼ばれていたことも知られています。現在の書記官にあたり、その殆どが京都の朝廷に出入りしていた役人や公家です。
 ですから時代劇に登場する「お殿様」といっても、別に高級官僚のような素養を持っていたわけでもありません。
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この回答へのお礼

そういう人がいるなら字は別に書ける必要はなくなりますね。
ならせいぜいやっていたのは馬と弓矢の稽古ぐらいでしょうか?

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/07/29 00:03

 平安時代の国司クラスは家柄のほうが重要ですから、中にはろくに字が書けない人までいたらしいです。

もちろん、実際には家庭環境と本人次第千差万別で、漢文や詩歌に励んだ人もいますし、兵法に熱心だった人もいます。石田三成みたいに武芸より管理部門に詳しい人もいました。
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この回答へのお礼

tzd78886さん。早速の回答ありがとうございます。

字もかけない国主もいたんですね。
石田三成は確か元茶坊主ですよね。

国主の嫡男のような立場の人がどういう風に育てられたか知りたいのです

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/07/28 04:06

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Q江戸時代の武士の教養

どのような一般教養を身につけていたのでしょうか?
今、現在の我々でしたら、義務教育やセンター試験などが一般教養の最低ラインになるのではないかなと思います。
(これも言い過ぎとは思いますけどね)

では、江戸時代の武士たちにとっての一般教養ってどのようなもので、どうやって身につけたのでしょうか?

それとも、ちゃんと学ぶような一般教養なんて無く、生きているうちに身に付ける常識しかなかったのでしょうか。

どう、思われますか?

Aベストアンサー

 江戸時代の官営の学校で、大学に当たるのが有名な昌平黌(しょうへいこう)です。

 これは、幕府が制定したもので前身は林家の私塾で、寺小屋です。最初は上野忍ヶ岡、今の上野公園の下にありました。

 それを元禄四年(1691年)、五代将軍綱吉の時に文京区の湯島に聖堂を造って移転し、昌平学問所とし、大学頭、今日の学長を林鵞峯(がほう)の子孫に世襲させたのです。

 このために、林家は一万石の所領と、江戸城大手門の前に邸宅をもらい、歴代将軍の師匠と幕府文教政策の責任者、つまり文部大臣を兼ねていたのです。

 従って、昌平黌は学校であると同時に文部省のようなもので、幕府の教育行政の中心的役割を果たしました。だから、昌平黌は一般の学校というより、学者の養成機関であり、幕府直属の武士、直参の師弟の検定試験を行うところでした。

 当時は学生と言わずに、門弟と言いましたが、昌平黌の場合は住み込みで大学頭の指南を受け、一定の年齢に達すると、郷里へ帰って結婚して町塾を開いたり、各藩に仕えたりします。

 直参の場合は、十七歳になると大学頭の前に出されて、素読の試験を受けます。二回までは落第しても大丈夫ですが、三回落ちると再試験の機会を失います。そうすると、一生、武士として家を継げなくなります。つまり、武士としての階級は残りますが、家督相続は許されません。その結果、やむなく町民や農民の家に養子に行ったり、雑業につかなければならない、という厳しいものでした。

 従って、外国で武士に当たる騎士というのは、必ずしも教養があるとは限りませんが、江戸時代の日本の武士はかなり高い教養を持っていたといえます。教育内容は、『大学』や『論語』に代表される四書五経と言われる中国の古典の素読や高度の私文書の作成を身につけることでした。

 さらに、江戸時代には、諸藩に置かれた藩直営の藩黌(はんこう)・藩学というものがありました。
 この教育機関によって、武士は、直参以外の者でも教育を受けられたのです。藩黌は、普通儒学を建前としましたが、江戸時代後期には、洋学や医学なども教えるものもありました。
 これらの藩黌は、幕末にはなんと250校に及びました。現在の国立大学が99校であることを考えれば、当時の教育水準の高さが分かると思います。

この藩黌で有名なものは、岡山の閑谷黌(しずたにこう)、水戸の弘道館、会津の日新館、仙台の養賢堂、、米沢の興譲館、長門の明倫館、尾張の明倫堂、熊本の時習館などです。

   参考 樋口清之 國學院大教授著『続・梅干と日本刀』

 江戸時代の官営の学校で、大学に当たるのが有名な昌平黌(しょうへいこう)です。

 これは、幕府が制定したもので前身は林家の私塾で、寺小屋です。最初は上野忍ヶ岡、今の上野公園の下にありました。

 それを元禄四年(1691年)、五代将軍綱吉の時に文京区の湯島に聖堂を造って移転し、昌平学問所とし、大学頭、今日の学長を林鵞峯(がほう)の子孫に世襲させたのです。

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Q武士の教育

歴史小説を読んでいて武将や商人達の判断に感服する事が多いのですが、
年齢に関係なく物事を懸命に実行する彼らの心(忠)を鍛えていったのはどのような教育(方法やカリキュラム)だったのでしょうか?

今なら小中大学…などの教育機関で指定教科書を使いますが、

戦国時代、また江戸時代~幕末などはどういった師弟教育が行われたのか、将たる者の胆を練っていったのか…教えていただければ幸いです。
(平時の武士の1日の過ごし方等も教えて頂けると嬉しいです)

Aベストアンサー

武将は武士の一部ですが、全てではありません。江戸時代であれば、上は将軍・大名から、下はサンピンと呼ばれた三両一人扶持(一分とも)クラスの最下級武士など範囲は広く、また、同列に論じることはできません。さらに、わからないことも多くあります、というよりもわからないことの方が圧倒的に多いとも思います。
さて、現代の教科書に相当するのは「往来物(おうらいもの)」と呼ばれていましたが、平安時代の後期には出現しています。その中で、戦国時代から江戸初期にかけての代表的な往来物は「庭訓往来」で、武将・武士の心得や、年中行事・社会常識など幅広い範囲に及んでいます。また、「尺素往来」のようにレベルの高い往来物などの往来物もあり、かなりの種類があったようです。この往来物を階層などにより使い分けていたと思います。
戦国時代はこのような往来物を利用して親や、僧侶などから教育を施されていたようですが、これは一般の武士や庶民であって、武将クラス、特に戦国大名クラスになると異なっていたようです。このクラスには傅(ふ)などの後見役が付き、養育・教育に携わるのですが、実際上の教育は禅僧が担うことが多かったようです。織田信長を例にとれば、禅僧の沢彦宗恩が総合教育係で、それに各分野の専門家として兵法の平田三位、弓術の市川大介、鉄砲の橋本一巴の名前が知られています。また、伊達政宗には教育係として虎哉宗乙という禅僧がいました。禅僧が教育の中心ですから参禅もあるでしょうし、心構えや行動の規範、平常心など心の鍛錬の柱は禅宗にあったように思います。
また、人から聞くことも重視されたようで、江戸の初期頃までは大名クラスでは御伽衆と呼ばれる相談役が存在し、大名に有用な話をするようになっていました。また、一般の武士などでは、古老や経験者から合戦譚などを聞くことも多かったようですし、御伽衆や古老などの話が一種の教育(耳学問)となっていたと思います。商人については禅宗に帰依する者も多く見られますが、日蓮宗に帰依する者も多く、堺と禅宗及び日蓮宗との結びつきなどからも、商人の精神活動のバックボーンに禅宗・日蓮宗があり、それが商人の精神形成に寄与しただろうと思います。商人出身の千利休の茶の湯が、禅宗的色彩を帯びているのはそのような関係によるものですし、寺社との結びつきは商人の教育の場の一つが寺院であったと考えられます。
江戸時代になると、将軍・大名も含め武士階級は、軍人から為政者・役人としての側面が強調され、新井白石のような儒者が将軍・大名などの教育の中心になります。しかし、江戸時代の初期には軍学が流行し、小幡景憲の甲州流や山鹿素行の山鹿流などがあり、「甲陽軍鑑」は甲州流の一種の教科書でもありました。また、これらの軍学を学ぶ武士(大名を含めて)も多くいましたが、太平の世が続くと廃れ、儒学に取って代わられます。この面でも軍人から為政者・役人への変化がうかがえます。大名も一般の武士も儒学が基本となります。また、寺社・宗教による影響もありました。
武士の教育としては、江戸の中期ごろから藩校が出現します。以下の「」内は、以前他で回答したものですが、藩校の教育について書いたものですので。
「思想面を見ていくと、藩校という教育制度がほとんどの藩で設置されます。幕府でも遅れて昌平坂学問所を設置します。これらの藩校は文武両道のもと、儒学(後には洋学・国学なども取り入れられる)を中心に文が、剣道・馬術などの武の教育が行われ、藩の官僚として、また指導者としての人材の育成と武士の教育(Wikiは藩政改革の人材育成と記述)を目指すもので、武断政治から文治政治への転換期に藩校が設置され始めたことは象徴的で、人治から法治へ、戦士から官僚への転換が行われていくことになります。徳川将軍の施政方針でもある武家諸法度について、德川綱吉はそれまでの「文武弓馬之道、専可相嗜事(寛文令)」から、天和令で「文武忠孝を励し可正礼儀事」とし、儒学に基づく文治政治への転換をはかり、これが受け継がれ、各藩にも影響を与えます。修身斉家治国平天下・経世済民・愛民などの考え方も儒学の中に含まれ、儒学を中心に武士の思想的背景となっていきます。また、藩校だけでなく独自に学ぶものも多く、武士階級出身の文化人なども多く輩出するのみでなく、大坂奉行所元与力の大塩平八郎(陽明学者でもある)の乱に見られるように、貧民救済を掲げて反乱を起こすまでに為政者としての自覚が広く、かつ中・下級武士にまで広まっていることがうかがえます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E6%A0%A1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%9D%82%E5%AD%A6%E5%95%8F%E6%89%80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E4%B8%96%E6%B8%88%E6%B0%91 」
ただ、江戸時代の教育で重要な部分は寺子屋であり、寺子屋の語源になった寺での教育、父母など親族による教育、私塾呼ばれる伊藤仁斎の古義堂や緒方洪庵の適塾などの専門分野の高等教育機関など幅広く存在していました。それにつけて往来物の種類も増えるだけでなく、寺子屋の教師が往来物自製するなど、生徒?の実態に合わせた教育を行おうとする姿勢も見られます。また、武士階級などでは剣・弓・鉄砲・馬術・水泳・学問などを師について(入門して)学ぶこともされています。
武士の教育については儒教の内の朱子学が主流ですが、陽明学も流行しますし、後期になると国学の影響が強くなる傾向があります。このような中で、尊皇精神が形づけられていきます。また、吉宗の実学解禁もあり、武士だけでなく広く蘭学が流行します。
最後に「平時の武士の1日の過ごし方」ですが、江戸時代になると武士は戦士から為政者、または役人に変化していきます。現在の公務員に近い存在となっていきますが、現在のように毎日仕事がある武士は稀で、役職のない武士(禄は得るが仕事はない)、三日に一日の出勤や、十日に一日の出勤といった武士も多くいました。反面勘定関係などのように繁忙や部署もあり、バランスが極端に傾きます。しかし、多くの武士は何日かに一日の出勤という状況でした。「元禄御畳奉行日記」にもあるように、自宅待機日が長いために、以下に暇を消化するかが問題でした。これは、参勤交代で江戸に上った勤番侍も同じようなものでした。そのため、趣味に走る者が多く、江戸時代に文化的に貢献した武士も多くなります。特に文化・文政ともなると文化の担い手の多くが武士階級でした。一例をあげれば太田蜀山人は幕府御家人で、天明時を中心に活躍する江戸時代を代表する文人でした。趣味としての釣りが確立するのも江戸時代です。趣味の前提として教育があり、持てる時間を利用して師について学んだからこそ文化の担い手ともなれたわけです。
そうはいっても多くの武士が文化の担い手となるわけではなく、ほとんどの武士はいかに長い暇の時間を消化するかに四苦八苦しています。芝居などの演劇、寺社詣、釣り、川遊び、花見、その他「元禄御畳奉行日記」を見るとよく遊んでいると思います。また、勤番侍のように金も少なく、暇の時間を消化するかに本当に四苦八苦している様子も見られます。今から見ればうらやましい勤務実態だったとも思いますし、そのような人々の存在が江戸の文化の基盤をなしていたということも言えるのではないでしょうか。



往来物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%80%E6%9D%A5%E7%89%A9
庭訓往来
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AD%E8%A8%93%E5%BE%80%E6%9D%A5
沢彦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E5%BD%A6
平田三位
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E4%BD%8D
虎哉宗乙
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E5%93%89%E5%AE%97%E4%B9%99
御伽衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BC%BD%E8%A1%86
寺子屋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%AD%90%E5%B1%8B
日本の私塾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%A1%BE%E4%B8%80%E8%A6%A7
太田蜀山人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E8%9C%80%E5%B1%B1%E4%BA%BA

武将は武士の一部ですが、全てではありません。江戸時代であれば、上は将軍・大名から、下はサンピンと呼ばれた三両一人扶持(一分とも)クラスの最下級武士など範囲は広く、また、同列に論じることはできません。さらに、わからないことも多くあります、というよりもわからないことの方が圧倒的に多いとも思います。
さて、現代の教科書に相当するのは「往来物(おうらいもの)」と呼ばれていましたが、平安時代の後期には出現しています。その中で、戦国時代から江戸初期にかけての代表的な往来物は「庭訓往来」...続きを読む


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