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武士の住まいの歴史を教えて下さい

鎌倉時代は誰もお城に住んでませんでしたよね?
館?屋敷?みたいなものに住んでいたと思います

武士の住まいがどう変わっていったのか、どうして変わっていったのか知りたいです

A 回答 (1件)

ご指摘の通り城郭という形式が発達するのは、戦国時代に入ってからです。


それまでは、住居(屋敷)も戦闘用の建物も区別がありませんでした。
一族郎党が住む一帯を板塀や冊で囲み周囲に掘りや溝(空堀)を掘ったものが主な様式でした。
建物も板張りで、屋根も板張り、檜皮葺き、萱葺きなどでした。
現在の感覚で言うと相当にみすぼらしいという印象かもしれません。

領地の境界部分などに砦と呼ばれるものが設けられるようになりましたが、これも簡素なものでした。
この砦の規模の大きなものが山城と呼ばれる様式に変わっていきました。
山城のイメージは下記のサイトを御覧下さい。

第1回 中世城郭の歩き方 - 公益財団法人 かながわ考古学財団
kaf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/02/H22tukui-nyuu...

鎌倉時代の様子については下記のサイトに動画がありますので、是非ご覧下さい。
住居-武士の館・主殿の様子(じゅうきょ-ぶしの ... - 教育用画像素材集
www2.edu.ipa.go.jp/gz2/r-lif/r-kma/r-kah1/IPA-lif370.htm

山城が発達する一方で住居用の建物も大きなものとなっていきました。
但し、江戸時代の大名屋敷のように白壁をめぐらしたようなイメージではなく、板塀でした。
室町時代に京都にあった武家屋敷は、下記のサイトに比較的イメージし易い写真(絵)があります。

京焼でつくる洛中洛外図の世界~国宝・洛中洛外図屏風(上杉本)を実物 ...
www.rakuchu-rakugai.jp/world/

京都の市中では、武家だから公家だからと言って特別様式が異なっていた訳ではありませんでした。
公家は既に、広大な寝殿造りの屋敷を作るだけの財力は枯渇していました。

戦国時代も後半になると戦闘の規模も軍団の規模も大規模となり、城郭も山岳地帯から平地に移り現在も観光地として見ることのできる、いわゆる、お城の形式が整っていきました。
同時に城郭の内部に城主の一族が住み家臣は城下に屋敷を持つという江戸時代の城下町の形式が整っていきました。

武士の家だからという理由で特別に建築様式が変化していった訳ではありません。
平安時代は公家が権力を持っていたので、公家が中心となって建物の様式が発達し、鎌倉時代以降は武家が権力者となって武家が中心となって発達して行っただけです。
特に、城郭という施設が発達するのにつれて、戦闘用と居住用に特化していっただけです。
江戸時代に入ると、戦闘がなくなりますので、居住用と政務を行う事務用に特化していきました。
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この回答へのお礼

うーん完璧な回答

ありがとうございます

お礼日時:2014/03/26 14:38

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