単二電池

『ブッダのことば』とは言えないものを『ブッダのことば』として
伝えることを、なんとも思わないのでしょうか?

A 回答 (10件)

貴方は禅をご存知でしょうか?禅は言葉を使いながらも『何も教える事も、経典も無い宗派』として続いています。

この意味は『仏心宗』としての伝え方があるからです。

釈迦の悟りを、師匠から弟子に直接、心から心に直に伝えている事を意味します。教える事が無いと言いながらです。

宗教は言葉にした時点から死んでいます。本当の意味での宗教とは、人間を生き生きとさせて、今正に生きているものではなくてはなりません。釈迦の教えは、釈迦になる事で分ります。こう云った釈迦の悟りを直接、直に伝えているものが『禅』の中に在ります。

仏教は釈迦の教えが言葉にされていますが、言葉にした時既に釈迦の教えは入っていません。こう云った言葉によらない教えが禅宗の要をなしています。

言葉によらない教えが、禅による伝え方です。その教え方を『教外別伝』と呼んでいるようです。仏陀の教えは頭での理解は不要です。身体で知る必要が在ります。

こう云った事柄をマスターする事は、経典を学ぶ事からは無理があります。時間的な制約や異国の言葉での翻訳や、時代の変遷による言葉の変化が付いて回っているからです。


貴方が『『ブッダのことば』とは言えないものを『ブッダのことば』として伝えることを、なんとも思わないのでしょうか?』といって嘆くよりも、貴方も是非自分で体得する事を学んで下さい。


良い本があります、鈴木大拙博士の本です。大拙博士は25歳で悟りを開いて、そうして亡くなるまでの70年間にもわたる研究をされた方です。本も沢山書いていますが、実体験をした経験が詠む人の心に訴えるものがあると思えるからです。

私の場合も27歳から本を読み始めて、32歳で『父母未生以前本来の面目』と言う禅問答が解けた経験があります。その経験でノイローゼが治った経験です。

博士の書いたもののお陰で、人生の謎が解けた経験と言う意味ですので、釈迦の経験と殆ど同じ経験と思っています。

生死の問題が解決したというほどの意味です。自分の命よりも大事なものに目覚めたと言う意味です。
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「閉ざす」ことを、なんとも思わないのでしょうか?

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kazamidori365様、こんにちは。




中村元先生の『ブッダのことば』を読んで、そういうものかと考えました。

「伝える」という意味では、イイカゲンかもしれませんね。
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2014-10-16 06:42:53 回答No.6です。



この地上を歩きまた去っていく人は誰一人として同じ人間はいないでしょう。
輪廻転生が仮にあり、そういう転生の存在としても。
釈迦やイエス、あるいは孔子と同じ人間など決していない。
なればどんなに忠誠に侵攻精進しても、全く同じfeelingでの知認や経験はないでしょう。
そして概念構成や信仰精進も千人千様でしょう。
にもかかわらず、忠誠であることは可能であり、必要でしょう。
釈迦やイエス、あるいは孔子も決してご自身のコピー人間など思ってもいないし、新たな広がりを喜ぶでしょう。
そしてむしろそれを望んでおられるでしょう。

ロマンロランがジャンクリストフの序文で;
・・・クリストフは靴をすり減らして世界中を歩き回ってきた。
生みの親のこの著者が帰ってきたクリストフを見て、”何!君がクリストフだって!”と叫ぶのである。
と言っている。こういう風に皆さんの仰せのことは不可避の事象なのである。
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私たちの信仰精進するRajaのヨーガも教えのオリジナル性のために、会員同士の議論や解説は戒められています。


マザーセンターでの一定の資格ある方の場合を除き。
でも個人としての信仰精進はどうして個人化なく歩むことは不可能であり、自己撞着ですよね。
異端や道を違えることの危惧はありますが、自分で受取り理解して精進していく以外にはないでしょう。
どんなに誠実忠誠な会員でも。
誤りはそうしていくうちにわかってきますからね。
異端って意外に大事かもしれませんね。
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>なんとも思わないのでしょうか?



良心の呵責は有るのでしょうね。

でもね、仏陀の言葉ってのはパーリ語かなにかでしょう?
それをサンスクリットに翻訳し、道教と儒教が盛んな中国というフィルターを通して、日本に仏教が伝えられた。

なかには、親鸞や日蓮みたいに、ブッダの教えを無視して出家坊主の肉食妻帯を是とする輩まで現れた。

まあ、ビルゲイツの言葉を無視してマイクロソフト社を繁栄させた営業マンのような高祖が沢山いるわけですよ。

仏陀が(パーリ語で)何を言ったか知りませんが、仏陀は空観、仮観、中観の考えにたどりつき、この世に生きる我々人間にアプリオリの自我が無いことを示唆した。空観。

空ではあるが、全ての空が仮初の役割を持っていることも教えてくれた。仮観。

多分、ここまでは後世の誰が何と言おうとも仏陀の悟りだったのではないか。

我々、仏教哲学に興味を持つ者として、これで十分。
四苦八苦や八正道など、後付けのマイクロソフトビジネスと考えておけばよろしいのではないですか?
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だ・か・ら、


わたしは常々
 「大乗はゴータマ・ブッダの言葉でない」
 「パーリ語聖典もどうだか、怪しいもんだ」
と言っているじゃないですか。
ずっと、大乗非仏説とともに小乗非仏説を唱え続けていた、展開していた(ニコニコ)。

今となっては、ゴータマさんの考えや教えがどんなものだったか、辿りようがない。
テキストを自分に都合の良いように取捨選択し、「こうだったんじゃないか」と勝手に推測することしかできない。しかも、この判定・判断根拠が極めて恣意的!!
そして、
「これこそが正しいゴータマの教えなのだ」と声高に叫ぶのであった。



ところで、最近、ちょっとおもしろい論文を読んだんだけれど、
それによると、
「仏教の原型は釈迦族に伝わる教えだったんじゃないか」
なんてことが書いてあった。
そして、
この教えは、ゴータマさん系統とデーヴァダッタさん系統の二分派があったんじゃないか、
なんてことが書かれていた。
この説に従うならば、
デーヴァダッタは、ゴータマさんと袂を分かったんじゃなくて、最初から別であった、となりますね。
これはこれで面白い、検討に十分に値する学説なんだろうな、と思います。

私は、原始仏教にまったく興味がないので、これをやる気はないけれど(ポリポリ)。
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ブッダは王子ですので文字が書けなかったわけではなく、教えを理解して覚えることを大事にしたのです。

ブッダの死後に弟子が文書にしたと言われています。書き写されるにつれて変化してどれが本物なのか分らなくなっているのです。中にはまったくの偽物が入っていることでしょう。

でもそのことはどうでも良いのです。自分の心で良い教えと思ったものをブッダの言葉とすれば良いのです。日本の各宗派の始祖はそのようにして自分の教えを広めています。

仏教は神を信じるようにブッダを信じるようなものではないのです。
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その疑問は全うでありますが、実はそれが出来ない宗教のほうが弊害を生みます。




ブッダに限らず、そのような事が出来る宗教は「時代に宗教を適応させる事」が可能な宗教です。
逆にそれが出来ない宗教は、時代の適応が困難になります。




その代表例がイスラム教です。

イスラム教は、ムハンマドが「ムハンマドを通して神の言葉を発する」と言う形で、イスラム教の法典が出来上がります。これはムハンマドの言った事は神の言葉であり、何一つ今後言葉を変化させる事も追加する事も(ムハンマドは「神の声を聴く事ができる最後の人」です。よって今後そのような人は現れないので、言葉の追加は不可能)を許さない完璧なものでした。

しかし、その完璧さゆえに、時代の変化に宗教を適用させる事も困難になりました。


宗教と政治を切り離して国家政策をする事を「近代化」と呼びます。

ある国では、文字通り宗教と政治を切り離して近代化を成功させたり、ある国では宗教の解釈を変更したり言葉を追加して近代化を可能にしました。


しかし、イスラム圏はそれが出来ませんでした。

イスラム圏で近代化を成功させた例は、トルコなどの極一部の国です。多くのイスラム国は近代化が思うように捗っていません。それは、そもそも宗教が法律そのものであるのも大きいですが、解釈変更も許さないほど完璧な宗教だった事も原因です。


これは宗教としては完成度が高い事を示しますが、現実問題としては弊害は多々あると言えるでしょう。
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まあ、どの宗教でもありますよね、そういうのは・・・・聖書だってそうでしょう。



なんとも思わないというか、ゴータマさんがこう語りました、という伝え書きみたいなものだから、そういう意味で「ブッダのことば」なんじゃありませんか?
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