1つだけ過去を変えられるとしたら?

 《永遠》とは 何か? が問いです。

 《非知》であるというのが たたき台です。

 思いっきり自由にご見解を述べてください。


 
 1. そもそも永遠に生きたひとはいない。生物も無生物もいない。と経験則からのように推し測られる。

 2. なのに 人間はこの《永遠》という言葉を持っている。つまり人間は時間的存在として有限だとし 永遠を無限だとすれば 有限のものが無限のことを語っている。これいかに?

 3. かなり昔にどこかの野球チームは 永久に不滅ですということでした。これは むろん言葉のアヤであり文学的修辞です。ですが 永久・不滅そして永遠とは どういうことですか?

 4. 限りがない・果てしがないと言ったとして その限りや果てをあなたは 見たのか? 調べたのか? と問い返さねばならない。のではないでしょうか。

 5. 永遠とは何か? あなたは分かりますか?

A 回答 (12件中1~10件)

お礼ありがとうございます。


お礼の前半部は同意できるのですが(永遠は超体験であるという部分くらいまで)、

>永遠を半分にしたとしても その半分づつはいづれも永遠のままなのですから。

↑の部分がよくわかりません。∞を2で割っても、割られた一つ一つは∞である、と、知っているのではないでしょうか。ここでは、知的体験として∞は存在しているが、実際体験としては謎のままである、と解釈したほうが良さそうです。

また、確かに永遠という概念は知り尽くされているわけではない、多様な解釈の持てる言葉だとは思います。その点で、永遠の実際を人は知らない、と言われるのも納得できるところです。
そして、地球の例えで、地球の外周は変わらないので地平線が有限であると見るのも一つの角度として認められます。

お礼を読んでは、知るという体験と、生きるという体験の間には、ギャップが有るのかなと思いました。

もし、観念を体験するという立場を認めるならば、例えば、永遠は我々の身体にも満ちている、という表現も可能ではないかとは思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 ★ ここでは、知的体験として∞は存在しているが、実際体験としては謎のままである、と解釈したほうが良さそうです。
 ☆ こうなるのでしょうね。

 そのあとです 次の問題は。


 ★ もし、観念を体験するという立場を認めるならば、例えば、永遠は我々の身体にも満ちている、という表現も可能ではないかとは思います。
 ☆ この表現について 微妙に違った見方をしています。

 ○ 観念を体験すること(その既知)は もうどうでもうよいと見なしたならば 《ナゾとしての永遠》は ひとつの推測として 《永遠は我々の身体にも満ちている》といった仮りの表現も派生して来る。と言える。

 となるのではないかと思います。

 つまりナゾだということは 永遠は 知り得ないと知ったと言い切ることが むしろこれも出来ない。となるのではないかです。

 なぜなら 完全に知り得ないと見なすなら それは《知り得ないと知っている》ことになるからです。知り得ないと誰もに分かっていること・ものは ナゾと言えばナゾですが たとえば死後の世界といったように死の延長ないしその以前の生の延長としてある〔ならある〕というものですから 経験世界とつながっているように捉えられます。

 けれども《永遠》は これら生と死(死後)とをすべて超えています。生や死やとつながりがあるのか無いのか これも分かりません。

 あの世をもし《知り得ないと知った》ものだとすれば 永遠は このあの世をも超えています。《知り得ないと知った》とは 永遠については言い切れません。

 《知り得るか知り得ないかが知り得ない》ものとして 永遠はあります。(あると言えばあります)。




 ですから問題は そこから人間は――或る意味で勝手なほどに自由ですから―― こう考えます。この《永遠》は どうやらすべてを超えており・すべての経験事象(因果関係などの経験則)から自由であるなら この経験世界のここかしこにあまねく存在しているのではないか? と推し測る思想が起きて来ます。


 ★ 例えば、永遠は我々の身体にも満ちている、という表現も可能ではないかとは思います。
 ☆ これです。すなわちこの《永遠》は アートマン(霊我)とかブッダター(仏性)とか あらゆる名で一般に《神ないし神の霊》として 人びとに呼ばれて来ている。

  一切衆生 悉有仏性

 というかたちで永遠をわれわれは身近に捉えて来た。のではないでしょうか。


 ちなみに それですから 死後の幽霊ですとか生きている内の守護霊であるとかそういったオカルトものに到るまでの話が――《永遠》についての理論の一端を言い当てているからには―― なかなか消えて行きません。



 この永遠論ないし無限論あるいはつまり要するに神の理論 これがしっかりと日本人に理解されるなら そうとう強いチカラになるかと思います。世界の人びととの対話の場における推進力としてのチカラです。

 ほかの国の人たちは それぞれ自分たちの神――じつはその観念――に雁字搦めになるという目に遭っていますから 日本人のように容易には この理論が飲み込めないかも分かりません。つまりは 原動力(進行役)となるのは おそらく日本人が筆頭候補ではないでしょうか。

お礼日時:2014/11/12 09:05

1について


 神は無限に属します。
2について
 神が無限をという観念をすべてのものに与えたのです。
3について
 この世界は言葉から始まったのです。永遠という言葉があるということは本当に永遠があるのです。
4について
 神が直感的に果てしないという観念を人間に与えるのです。
5について
 すべてのものは永遠です。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 1について: 神は無限に属します。
 ☆ そうですね。わたしの掛け値なしの反応をつづってまいりますが 神は 一般に《非経験の場》として想定され その内容の説明として たとえば《無限》という概念が挙げられる。つまりは 《絶対・不可変性・永遠》などです。

 さらにそこから 《絶対》を擬人化して 《絶対者》とも見なされ さらには 全知全能だとされれば 創造主にもされます。あとは 善悪の彼岸としての《至高の善》であるとか 《慈悲や慈愛》であるとか 《真理》とも《正義》とも言われたりします。


 ★ 2について: 神が無限をという観念をすべてのものに与えたのです。
 ☆ これについては 前項でわたしの見解を述べました。

 
 ★ 3について: この世界は言葉から始まったのです。永遠という言葉があるということは本当に永遠があるのです。
 ☆ これは 【Q量子・・・】のほうに寄せてもらったご回答に対してもお応えしましたが 主観の明証性から 世界のものごとの存在を主張することは その主観にかんする限りでそのように見なされるかも知れませんが 他者から見れば それはやはり独りよがりな見方である。となると思います。

 ★ 4について: 神が直感的に果てしないという観念を人間に与えるのです。
 ☆ ちょっと乱暴な言葉使いをすれば あんた 神を見たんかいな? と問い返さねばならないご発言ですね。

 ★ 5について: すべてのものは永遠です。
 ☆ そうですか。だったら 万々歳ですね。

お礼日時:2014/11/14 20:41

こんにちは。

ANo3です。

《現実の知が限られているので 未来への想像を生み 
そこに妄想として永遠なる言葉が持たれた》という意味か?

おっしゃる通り。
現実の知──自分が生きて居ると云うか、認知出来る時間──
が限定的な事で未来は有った、それは過去からの現在が認識
できている。
で、生物的観点から未来を創造出来るかもと想像しますから
軽薄なる想像となります。──妄想。
と言う事から「永遠」は愛にしか用いない妄想言葉──伴侶が
出来るか?(生への渇望・地球や銀河の存続期待)、子供が生まれ
るか?(子孫の繁栄希望・永続的な性)、その子が未来を創造
出来るか?(核BOMボタンを押さない)、等の期待値を言葉に
したものです。
有限に対しての無限がある、と言いたい為に造った妄想語でしか
有り得ません。
「アナタは無限にこの者を愛しますか?」ではウソぽいしカッコ悪い。
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この回答へのお礼

 分かるんですが 現実には無いと言い切れる妄想であるとだけでは・・・と思ってもいます。

 ご回答をありがとうございます。

 
 あ_ほなさんからも指摘があったように 無限は二で割っても その商はやはり無限です。

 このような《空想》は――実際には《想定》だと思うのですが は―― 《経験事象ではない絵空事》だと言ってしまっておしまいとすることは出来ないように思うのです。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 「永遠」は愛にしか用いない妄想言葉──伴侶が
 出来るか?(生への渇望・地球や銀河の存続期待)、子供が生まれ
 るか?(子孫の繁栄希望・永続的な性)、その子が未来を創造
 出来るか?(核BOMボタンを押さない)、等の期待値を言葉に
 したものです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは 言ってみれば人間にとっては《類としての永続》の問題になるのでしょうか。親から子へ そのまた子へという生命の継続とその永続性。

 これについては いろんなふうに受け取られるでしょうね。

 これまでの歴史にあっては いのちは遺伝子をつうじてそれなりに永続して来ている。

 これからどうなるか? 地球の環境等がゆるすならば〔といった条件のもとに〕 或る程度は永続を繰り返すであろう。

 ただしそのような永続性は ほんとうの《永遠》ではない。限りがあり果てがあると考えられる。

 背理法にて この経験世界における存続に果てが無いと証明できたとしても ほんとうの永遠としての無限ではない。なぜなら それを数えている主体には限りがある。子孫としてその主体が限りなく続くとしても その主体(つまり人間)やその生きる時空間は やはり経験的で相対的な世界である。どんな主体が来てもどんな世界に成ったとしても つねに有限の世界でありつづける。


 すなわち・ところが 永遠とは この《相対的で有限のもの・ことが存続する世界》とは別である。その因果関係などの経験則を超えている。思考によって把握される法則から自由であるのが 永遠である。つまり そのように想定される。

 すなわち
 ★ 「アナタは無限にこの者を愛しますか?」ではウソぽいしカッコ悪い。
 ☆ のは それは人間がおこなう場合にはです。《永遠》が言えば それは――想定にかんするかぎり―― 妥当であると成り得ます。

 そういう永遠を 個としては有限の一定期間しか生きていない人間が語っています。

 それが 神であると言えるし そういう永遠のことが想定されているから 神という言葉も話も――妄想やインチキをふくめて――物語られて来ます。そしていかにオカルトであっても 一概には切って捨てることもできない。

 ・・・

 まだなお話はつづくかも分かりません。もうこのあたりまでかも分かりません。・・・

お礼日時:2014/11/12 11:31

こんにちわ、永遠は言葉の遊びなので無視します。



数学には無限という言葉を使いたいと言う「誘惑」が常にありましたが、乗り越えました、誰かは知りません、だが偉い、導入されたものははっきり定義されたもので、議論は気の利いた小学生にも出来る。
「大数」がそれ、自然数でも構わないので書くと「充分大きな数」これだけ。
これで無限を論破するのは簡単、だって「無限」には「定義が無い」のだ、だから「議論が出来ない」
「抵抗できない」歯ぎしりしても無駄だ。
もし無限でないと証明できないと言うなら、「例を挙げろ」、例が挙がったら「それより1大きい数」で
終わってしまう。

なお化学にも無限に長い時間という言葉を使いたい、と言う誘惑がありましたが、これも定義できるもので
置き換えられてしまい、不要になりました、曰く「充分に長い時間後」
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ・・・もし無限でないと証明できないと言うなら、「例を挙げろ」、例が挙がったら「それより1大きい数」で
終わってしまう。
 ☆ ええ。背理法による証明だそうですね。いちおうNo.5でおそわりました。



 ★ 永遠は言葉の遊びなので無視します。
 ☆ でも 無限ということと同じなのではないですか?

 そしてたぶん 無限には 有限の中における限りなくつづく無限と この有限の世界を超えた場としての無限とのふたつがある。のではないかと思いましたが どうでしょう。

お礼日時:2014/11/12 00:18

永遠とは概念の一つですから、所謂形而上、メタフィジカの世界の産物です。

既知であるが体験はできない、そういう性質のものでしょう。
また、無理数は有理数よりもはるかに数が多いと言われています。円周率は無理数の一つですので、たとえその大きさが3と4の間にあるとしても、質的には全く異なった数だと言わざるを得ません。

他の例えでは、例えば地球があります。
地球はあまりにも大きいので、その上で暮らしていると平面のように思われますが、実際にはそこは球面であり、その全体は球です。地平線、水平線に果ては存在せず、それが∞に続いているのは、その実態が球体であるからです。このように見る角度が異なれば、∞というものは存在しているといえるのではないでしょうか。

繰り返しになりますが、永遠とは形而上の概念であり、モノではない形で存在していると言えるでしょう。
まさに人間にとっては、永遠は知的に存在しているのであり、他の動物にこれが存在するかというと、それは難しいでしょう。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ただちに反応してしまいましたが
 ★ 既知であるが体験はできない、そういう性質のものでしょう。
 ☆ というのは ちょっと矛盾ではないかと思います。

 《既知》であるなら 《それを知った・認識した》ということだけであっても《体験した》ことになる。のではないかと思うのです。



 たぶん《永遠》についての意味内容 これは《既知》だが《体験はできない》と言っているのではないかとは 思い直しました。

 概念は その意味を持ちますから すでに何らかの言葉があれば その意味内容は既知となるのだと思います。けれども それが 経験世界に属するものであるかどうか。これは 別だと思われます。二つに分かれると。経験事象とそして超経験と。

 永遠は どう考えても超経験だと思うのですが これがなかなかみなさんとの間で はっきりしない。すっきりしない。ようです。




 ★ 地平線、水平線に果ては存在せず、それが∞に続いているのは、その実態が球体であるからです。このように見る角度が異なれば、∞というものは存在しているといえるのではないでしょうか。
 ☆ この場合の《無限》は 地球の長さという一定の範囲内でのことですから やはり有限の中で《果てしがない・限りなくつづく》という場合だと思うのです。決して永遠ではないはずです。


 ★ 繰り返しになりますが、永遠とは形而上の概念であり、モノではない形で存在していると言えるでしょう。 / まさに人間にとっては、永遠は知的に存在しているのであり、
 ☆ いえ。わたしは――いつも反論しますが―― ひとは永遠が何であるかその実際を知らないと思います。知り得ているかどうかが分からないのだと思います。

 なぜなら 永遠を半分にしたとしても その半分づつはいづれも永遠のままなのですから。

 そのように人間も言葉で説明しますが その説明した内容じたいは 知り得ていないはずなのです。

 どうでしょう。

お礼日時:2014/11/12 00:13

エホバだろーがだろーが要りません・・



何故なら あなたに習う事等 何も無いから

じゃ( ´・ω・`)ノ~バイバイ
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この回答へのお礼

 じゃ( ´・ω・`)ノ~バイバイ

お礼日時:2014/11/11 21:49

「ずーっとこうだったらいいのにな」って思ったことないですか?


それって終わりあるって知ってるからこそ思うことで、最初から終わりが無いなら思わないと思うんです。
有限だからこそ、無限を望み、永遠を語るんだと思います。


永遠って、憧れみたいなもんだと思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 有限だからこそ、無限を望み、永遠を語るんだと思います。
 ☆ ですから 実質的に言えば――それは 哲学の役目ですね―― 《望んでも 望めない》ことですよね。

 《永遠を語る》というのは 空に餅の絵でも描くことですよね。


 ★ 永遠って、憧れみたいなもんだと思います。
 ☆ 《妄想》だという見解も提出されています。

 はてさて どうでしょうか。

お礼日時:2014/11/11 21:52

☆ 2. なのに 人間はこの《永遠》という言葉を持っている。

つまり人間は時間的存在として有限だとし 永遠を無限だとすれば 有限のものが無限のことを語っている。これいかに?
◇「こうであったらいいな~」という願い、希み、希望、そして、欲望ですかね。



☆ 4. 限りがない・果てしがないと言ったとして その限りや果てをあなたは 見たのか? 調べたのか? と問い返さねばならない。のではないでしょうか。
◇ここで登場するのが、《背理法》ですよ。

たとえば、「整数に果て、最大数Mが存在する」と仮定すると、
Mは最大数ですから、
M+1 ≦ M
となる。この両辺をMで引くと
1 ≦ 0
となって矛盾する。
であるから、
「整数に果て、最大数が存在する」と仮定したことが間違いであるとなる。

《背理法》を認めればですが(ポリポリ)。



☆5. 永遠とは何か? あなたは分かりますか?
◇無限や永遠を有限(の時間)の否定の形で定義して、分かった気分に浸っております(ポリポリ)。
無限や永遠が何かは分からなくても、無限や永遠などに関するテーマを扱うときには、これで間に合います。
私は、無限や永遠そのものを扱うことはないですしね~。
私がすることといったら、
「○○は有限かいなか(無限)?」、「△△が無限であるならば、×××である」
ですから、この定義で足りるんですよ。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 2.
 ◇「こうであったらいいな~」という願い、希み、希望、そして、欲望ですかね。
 ☆ そうでしょうね。いど‐かわずさん(No.3)はさらに《妄想》だと見ているかたちです。



 4.
 ◇ ここで登場するのが、《背理法》ですよ。
 ☆ この問い自体がいけなかったのですが この背理法で証明できるのは この経験世界における・そしてその限りで有限のものごとにかんする《限りのなさ》ですよね? つまりそれを《無限》と呼んだとしても この有限にして経験的な世界の中におさまるものである。のではないでしょうか? 

 回答No.1では 円周率の数を特定するとき限りなくつづくその継続性が 永遠の観念だというのがありました。


 つまりおそらく《永遠》ではない。はずだと。




 5. 永遠とは何か? あなたは分かりますか?
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 無限や永遠を有限(の時間)の否定の形で定義して、分かった気分に浸っております(ポリポリ)。
 無限や永遠が何かは分からなくても、無限や永遠などに関するテーマを扱うときには、これで間に合います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ けっきょく神とは何か? なんですけれど。つまり これをあいまいにしておくのは ほかの類似の質問を放っておくことになるかと思い 挙げた質問です。

 宇宙の法則が 永遠であるのではない。といったことくらいは 明らかにさせて行きたい。こう考えます。

お礼日時:2014/11/11 19:35

哲学は「屁理屈の塊」です



まっ どーせ絶対逝かないといけなくなるので その時に判るから 別に構わないんだけど・・

あなたが 何をホザいても 関係無い・・・
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この回答へのお礼

 では エホバの証人を批判する質問をかかげてあげますから。

 いましばらくは 余裕がありませんが。(五件もうけています)。



 ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2014/11/11 18:10

こんにちは。


「現実の知と未来への妄想」です。
手に入らないモノを妄想して手に入ると妄想したら、
この永遠が手に入った気持ちになれる。
「アナタハこの者を永遠に愛しますか?」
ウんな訳ないのに、イエス・愛デュと神の前で誓う
妄想を見たことが有りますか?~
生涯をかけて追い求めるモノではない。
遠さを観計る視力を持たない、速度も光以上のものを
モテない為に追い越せないので、未来へは行き着けない。
永遠を、「とわ」と読みますと、遠き「ワ~ぷ」を妄想出来る。
質問の《非知》を、叩台と見ますと、戸を叩くになります。
戸を叩け、そうすりゃ開くかも、となります。
と、人間はかくも素晴らしい妄想を描ける。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。



 ★ 「現実の知と未来への妄想」です。
 ☆ これが 永遠とは何か? に対するお答えですよね。

 《現実の知が限られているので 未来への想像を生み そこに妄想として永遠なる言葉が持たれた》という意味でしょうか?

 だとしたら どうやらねらいは・願いは 永遠の生あるいは
 ★ この者を永遠に愛します
 ☆ なる永遠の愛の問題になるようですね。大昔からの悲願である不老不死。



 ★ 永遠を、「とわ」と読みますと、遠き「ワ~ぷ」を妄想出来る。
 ☆ 日本人は どうもただ《常世》と称したくらいみたいですね。

 かの地では 恒河沙とか阿僧祇とか《無限》に近づく位取りがあるようですが 日本では《とわ》にしても 《とこ(床)-いは(磐)》 > ときは(常磐・常盤) > とは-に(永久に) と言っているに過ぎないようですから。




 ええっと。ここからは厳密に考えてみますが
 ★ ・・・と、人間はかくも素晴らしい妄想を描ける。
 ☆ ということで 《妄想》を答えとしておられる。

 妄想というのは  想像じょうのことがらであり 現実には無いという意味ですよね。

 けれども 《無い》と言ってしまえば・《無い》と人間が規定することが出来るのなら それは経験事象である。ということにはならないですか? いかに架空のものごとであっても その空に架けた思いや考えが その事実としての内容がないものと分かっている。ことになります。

 果たして そうか。《永遠》は 経験事象にはまったくかかわらない想像じょうの観念であるか?

 たたき台で言おうとしたことは それは少なくとも《観念》ではない。ということです。

 ぎゃくに言えば 《床岩:つねなるもの》という永遠を表わそうとする概念は 経験事象の永い存続を言っています。これは 単なる観念ではないです。(つまり 経験事象からまるっきり離れた想像物を 観念と言うとします)。

 もう一度元に戻って 永遠とは 経験現実ではないと言い切れるか? という問いです。言い切れたなら それは単なる想像物であり たしかに妄想です。


 すなわち 日本語で言う永遠とは 経験事実としての《床岩》を じつはシルシとして ほんものの永遠を指し示している。というふうにも解釈できるのではあるまいか。

 床岩は さすが強固な岩でも移ろいゆくものです。ですが そうではなくその経験事物そのものを指して言っているのではなく その物・その言葉を何かのシルシとして じつは 別のものを指し示そうとしている。シルシとは 依り代であり 補助線です。

 なぜなら その《ほんもの》のほうは 現実に見えないから。事実としてあるのかどうかは分からないから。でもほんものの永遠が あるかも分からない。ないかも分からない。・・・

 というところまで 人間の知性は知り及ぶのではないでしょうか。《非知》。むろん《神》のことです。

お礼日時:2014/11/11 17:18

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