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浄土真宗の寺院を訪れたときいつも疑問に思うのですが、ご本尊の阿弥陀如来がどの寺院でも来迎印(下品上生印)を結んでおられます。 浄土真宗の開祖親鸞聖人はその著書(消息集)の「末燈鈔」で、「…真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず。…」と述べておられます。 阿弥陀の「来迎」を待つ必要がないと説かれた親鸞聖人が開かれた浄土真宗の寺院のご本尊が、よりにもよって来迎印を結んでおられるのが不思議でなりません。浄土宗など他の浄土系宗派のご本尊のように、定印や説法印を結んでおられるのなら、まだすんなり腑に落ちるのですが…。

質問者からの補足コメント

  • よほどひねくれた性格の方のようですね。私の質問の意味を全く取り違えておられます。
    私は別に自分が上等の人間などとは考えておりませんが、親鸞聖人の教えに従って、出来れば阿弥陀様の来迎を待たずに往生を遂げられれば、最高の幸せと思っております。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/01 16:42

A 回答 (4件)

御返事ありがとうございます。



>>なお、ご回答文中では来迎印のことを「上品下生」印とされていますが、これも真宗での言い表し方でしょうか。 世間一般では「下品上生」印と称していると思いますが…。

すいません。。もう少し詳しく書けばよかったのですが、この九品仏の印相に関しては、品と生が逆の場合も存在します。ですので、真宗の阿弥陀仏の印相は九品仏の流れで考えると上品下生の場合と下品上生の場合と二通りの解釈がります。一応浄土宗さんのサイトにわかりやすい表がありますので張っておきます。
http://jodo.or.jp/naruhodo/index8_2.html
この「印相の図」のところを見ていただくとお分かりになると思いますが、質問者さんはカッコなしの方の解釈を採用し、私はカッコ付き方の解釈を採用して書いております。混乱させてしまったで申し訳ありません。
 あと、真宗では基本的に九品仏の説は自力の人に対するもので仮門として採用しません。

>>浄土真宗では下品上生印のことを、観無量寿経に照らして「摂取不捨の印」と称しているのですね。
>>確かにあのお姿を見れば、我々あまねく衆生を見捨てず救って下さる御心がよく伝わって来ますね。

 少し書き足しておきますが、上述のような、九品仏の考え方でいえば、真宗本尊は下品上生印・上品下生印という印相ですが、これがある程度固定化されたのはどうやら江戸時代に入ってからのようです。ですので、先の回答で述べたことですが、真宗本尊と二河譬の関係から考えると、現在の真宗本尊は上品上生の印と想定して作られているのではないかと考えるわけです。
 『観無量寿経』上品上生には浄土真宗でも重視される至誠心・深心・廻向発願心の三心という信心が説かれ、善導大師はこの三心を上品上生の者だけが起こす心ではなく「九品に通ず」として、上品上生から下品下生のものまで全ての凡夫が往生するために必須の心としています。親鸞聖人もこの三心は『無量寿経』第十八願における、至心・信楽・欲生と同じ心として重視して、その心はすべて阿弥陀仏の廻向によって私たちの中に成立すると考えておられます。親鸞聖人は『教行信証』の中で

まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといえども、信心の業識あらずは光明土に至ることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす。光明・名の父母、これすなわち外縁とす。内外因縁和合して報土の真身を得証する。

と説いて、「徳号」というのは私たちにとっては称名念仏であり、「光明」というのは私たちが受け取ることを親鸞聖人は聞光力などと説いておられますので、私たちが称える御念仏を仏の「極楽へ往生しなさい」という声として聞くことを言います。つまり上の文章は、私たちが称名念仏をすることが因で、その称名念仏を仏の声として聞くことを縁として、因縁和合して「信心(三心)」が私たちの中に展開するといいます。そして、その「信心」を因として、「お念仏を称え(徳号)、それを仏の声と聞くこと(光明)」を縁として、因縁和合して往生成仏という救いが成立するとして、これはすべての人々を救う教えであるとされています。
 そのすべてのものを救う事を教えるのが真宗本尊の印相であり、あれは来迎印や九品仏の上品下生印・下品上生印ではなく、真宗の解釈から考えればすべてのものを救う信心の姿を伝える二河譬を基本においた上品上生の印であり、『観無量寿経』における念仏衆生摂取不捨を表した「摂取不捨の印」という事ができるのではないかと考えます。

 結構この本尊論てややこしいんですよね。もう少しわかりやすくかければいいんですが、私にはこのあたりが限界です。難しいと思われたなら私の力不足です。すみません。
 あと、ちょっと聞きたかったんですが、何でこの質問のカテゴリが数学なんですか?ちょっと気になるところです(笑)あしからず。
 どうぞ、急ごしらえの為誤字脱字乱文ご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
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 どうも、俗に真宗のボーさんと呼ばれているものです。

しばらくお付き合いください。
>>浄土真宗の寺院を訪れたときいつも疑問に思うのですが、ご本尊の阿弥陀如来がどの寺院でも来迎印(下品上生印)を結んでおられます。 浄土真宗の開祖親鸞聖人はその著書(消息集)の「末燈鈔」で、「…真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず。…」と述べておられます。 阿弥陀の「来迎」を待つ必要がないと説かれた親鸞聖人が開かれた浄土真宗の寺院のご本尊が、よりにもよって来迎印を結んでおられるのが不思議でなりません。浄土宗など他の浄土系宗派のご本尊のように、定印や説法印を結んでおられるのなら、まだすんなり腑に落ちるのですが…。
 御説ごもっともで、確かにそのような疑問が出てきますね。しかしながら、この印相に関しては、一つの印相には複数の意味があり、時代ごとにその意味も違ったりします。仏教美術史家安嶋紀昭氏の説によれば

中世以前における九品往生印の異同は今ほど固定したものではなく、印相だけによる安易な判断は危険である。

と述べでおられます。現在の感覚でいえば、真宗本尊は来迎印であり九品でいえば上品下生の印を結んでいるように見目ますが、親鸞聖人在世当時やそれ以降しばらくは固定的ではなかったようです。
 確かに、浄土宗の知恩院蔵の阿弥陀二十五菩薩来迎図なども印相は来迎印であり中品下生の印を結んでいますが、往生者手元に法華八巻や上空に浮かぶ七宝宮殿は上品上生にしか説かれていない特徴ですので、その阿弥陀仏は上品上生の阿弥陀仏であるといわれています。
 また、時宗万福寺蔵二河白道図等の二河譬図においても阿弥陀仏は来迎印・中品下生印を結んでいますが、二河譬は善導大師が『観無量寿経』で説かれる「廻向発願心」の解説としてあらわされたお釈迦様が「阿弥陀仏のところへいきなさい。」と教え・阿弥陀仏が「こちらえきなさい。」と教えたという例え話で、この「廻向発願心」は『観無量寿経』おいて上品上生で説かれるものですから、この二河譬図においても上品上生の阿弥陀仏を表していると考えられます。
 また、真宗において親鸞聖人在世から存在していたといわれる光明本尊も、やはり来迎印・上品下生印を結んでおります。しかし、光明本尊はお釈迦様と阿弥陀仏の二尊が表されておりますので二河譬の姿を現していると考えられますので、やはり上品上生の阿弥陀仏の姿といえます。
 そして、現在の真宗の寺院においても、本来は山門に釈迦三尊(『無量寿経』によって、中央は釈迦如来、脇侍は弥勒菩薩と阿難尊者)を配し、山門をくぐり阿弥陀仏のいる本堂に向かう形態は、まさに二河譬の形態になっています。もちろん、お寺さんによっては山門を置けない場合もありますし、石の門の場合は本来布教所であった場所という事だったりもしますので、状況はケースバイケースですが、本来はお釈迦様を通って阿弥陀仏のところへ向かうという二河譬形態が最も正式な形です。
 上述のように真宗寺院の形態は善導大師の二河譬の形になっており、阿弥陀仏像もそれに合わせて作られていると考えられます。ですから、阿弥陀仏の印相も来迎印と同じではあるんですが、真宗においては「摂取不捨の印」とされ挙げた御手は上求菩提(智慧)、下げた御手は下化衆生(慈悲)を表すものとされています。この摂取不捨の印という言い方も『観無量寿経』において仏身をといた

一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。その光明と相好と、および化仏とは、つぶさに説くべからず。ただまさに憶想して、心眼をして見たてまつらしむべし。この事を見るものは、すなはち十方の一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもつてのゆゑに念仏三昧と名づく。

という部分に基づくと考えられます。ですから、来迎印だからと言って来迎印の意味で使っているわけじゃないんですよね。また、親鸞聖人は来迎に関して『唯心抄文意』のなかで独自の見解を述べており、来迎とは阿弥陀仏の護念であるとしていますので、来迎印は私たちを見守り導く阿弥陀仏の姿とも解釈は出来ますね。以上こんなところでしょうか。まぁ、私の大まかな意見としては親鸞聖人にして「 善導独明仏正意(善導ただ一人が仏の正意を明かす)」と言わしめた、善導大師の影響が真宗本尊には表れているといえるのではないでしょうかね。

急ごしらえのため誤字脱字乱文ご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀仏
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この回答へのお礼

ありがとうございます。 お答えを頂戴して、長年の疑問が氷解しました。
浄土真宗では下品上生印のことを、観無量寿経に照らして「摂取不捨の印」と称しているのですね。
確かにあのお姿を見れば、我々あまねく衆生を見捨てず救って下さる御心がよく伝わって来ますね。
なお、ご回答文中では来迎印のことを「上品下生」印とされていますが、これも真宗での言い表し方でしょうか。 世間一般では「下品上生」印と称していると思いますが…。

お礼日時:2015/02/02 13:23

真宗さんの教義に従うならば、


阿弥陀仏は、法身または自受用身であり、姿かたちを有さないのではないですか。
この教義に従うならば、
そもそも阿弥陀仏を仏像として表現するのがおかしいのではないでしょうか。

こんなものはハッキリ言って偶像に過ぎませんが、
それでは信仰の対象、祈りの対象になりにくいので、
単に仏像を置いているだけでしょう。、
方便として仏像を安置しているだけです。

また、
すべての人を救済するという弥陀の広大無比な慈悲心を表現するために、
信者の教導のために
来迎印がふさわしいと思うから、
そのように表現しているだけの話ではないのでしょうか。
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定印、つまり、門徒さんの信者さんはすべて上品上生だと。

皆さんが最高ランクで極楽往生するとおっしゃるわけですね。
であるから、
下品上生の来迎印はおかしいと。

なるほど、なるほど。

しかし、それはさすがに盛り過ぎなんじゃないですか。
下品下生でも、私は阿弥陀さんの出血大サービスだと思いますよ。

そもそも、真宗の皆さんは真実信心の行人ですか?
正定聚ですか?
ご自身が悪人であることの自覚が足りないんじゃないですか。

そんなんじゃ阿弥陀さんは救ってくださらないと思いますよ。


不思議に思うのは、増上慢だからですよ。
この回答への補足あり
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