準・究極の選択

日本語の主語について、教えて下さい。
主語について、下のどちらになるのでしょうか?(どちらも同じことだ、といわず)教えて下さい。
1.日本語は、主語を持つ。ただし、自明の、分かりきった場合は、主語を省く。
2.日本語は、主語を持たない。ただし、行為者が分からぬ場合は、主語を利用する。

A 回答 (7件)

三人称表現においては1、


一人称、二人称においては2の考え方で通用します。
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どちらかと言えば2.に近い。


主語+述語という構図ではなく、述語が中心。行為者などをはっきりさせたければ「主格」や「主題」を置く。「主格」は「が」を付けてできるもの、「主題」は「は」を付けてできるもの。 
(ただし、これが完璧な言い方とは思っていません。まだよく分からぬことが多いから)
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<述語が中心>
なのですね。それだけで、都合の悪い・不便な・わからぬ場合のは、主格などで補う、のですね。
よく似た「は」や「が」は、主題や主格として捕らえるですね(主語とせず)

お礼日時:2015/04/30 09:30

先の回答者に同意しますが。


質問に対しては、主語があり、なし、ではなく、主語を表現する、しない、と解釈しての回答と思います。
原則ならば主語はあります、ただ表現は省略せれる場合が多いです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
主語がある、のと、それを表現する、とは、成程、違いますね。

お礼日時:2015/04/30 16:46

この問題はかなり難しいので、参考に「日本文法大辞典」に書いてある「主語」の項


をOCRで取り込んだものを載せておきます。この項目の筆者は、このサイトで時々引用される渡辺実氏です。傍線が引けませんので<>で代用しました。なお、「主題」についてもご希望があれば掲載します。また、日本語の主語を否定する人は「主格補語」」と呼びますが、渡辺氏は「主格連用修飾語」とされています。(削除されないことを祈りつつ)

以下引用
 『主語』
 文の成分の一つ。
文の有機的統一性をどうとらえ、意義や形態との関係をどのような姿勢でとらえるかによって、いろいろの考え方があり得る。最も一般的に通用しているのは、「<これが>僕の探していた本だ」「<花が>咲く」「<空が>美しい」などの傍線部を主語と呼ぶことである。すなわち意義的には述語によって述べる事柄がそれに該当するところのものを示す部分、形熊的にはいわゆる格助詞の「が」を伴って文中に現れる部分、それを主語と呼ぶことは、種々の学説の多くに共通する。
 そしてそこからさらに「<これは>僕の本だ」「<空は>美しかった」のように、いわゆる係助詞を伴うもの、「<雨さえ>降ってきた」「<風まで>吹き出した」のように、いわゆる副助詞を伴うもの、などをも主語と呼ぶこともある。ただし、このような係助詞・副助詞を伴うものについても、述語との関係が、もし格助詞を伴うなら「が」を用いることになるような場合のものを指すのが普通であって、「傘<まで>用意してきた」「御飯<さえ>炊くことが出来ない」のように、もし格助詞を使うなら「を」を使うことになるようなものは、主語と呼ばないのが普通である。
 しかるに一方では、係助詞「は」を伴う場合には、「これ<は>僕の本だ」のように、「が」の格にあたるものを主語と呼ぶのは勿論、「二階<は>人に貸した」のように、「を」の格にあたるものも主語と呼ばれることがある。そして「象<は>鼻が長い」のような、いわば主語が同一述語に対して二つ認められる表現に関しては、「鼻が」が主語、「象は」は総主語のように区別することが試みられてきた。
 このような混雑を整理することは急務であるが、「これは」「二階は」「象は」などを主題または題目語と呼び、「これが」「花が」「鼻が」などを主語と呼んで、相互に区別しようとする考え方が広まっている。すなわち「これは」「二階は」「象は」などは、それについて述べるためにその文が作られる、という態の、文全体の題目・主題とみなし、これを主語と呼ばれていたものの中から分離することによって混雑を整理しようというのである。
 右のような考え方は当然、主題は文の言い切りを予期する成分であり、主語はそれを予期しない成分である、という解釈を含む。事実「鳥<は>飛ぶ」は現実に存するいいかたであるのに、「鳥<は>飛ぶ時」は現実に存しない言い方である。一方「鳥<が>飛ぶ」「鳥<が>飛ぶ時」は両方とも現実に存する言い方である。こうして主題と主語とを区別することはいろいろ有効な面があるが、その観点に立つときは、主題と区別される主語は、「本<を>読む」「<山に>登る」「<早く>走る」などの、
いわゆる連用修飾語と同性質のものではないか、という新たな問題が展開する。「本を読む」「本を読む人」「早く走る」「早く走る馬」などの言い方が両方とも可能である点、「<花が>咲く」「<本
を>読む」「<早く>走る」などは、すべて述語で述べられる事柄の内容をいっそう詳しく限定する要
素であると見なし得る点、などから、主題と区別される主語はむしろ主格連用修飾語として、「本を」の対格連用修飾語その他と同列のものだ、という解釈が成り立つのである。
 この見方によれば、従来の広義の主語は、主題と主格連用修飾語とに分散解消することになる。だがこのような解釈にも問題がないではない。「二階は」「象は」など「は」で示されるものは確かに文の主題と呼んでしかるべきもののようだが、逆に「は」は常に主題を示すかというと必ずしもそうではないのである。「東京に<は>住みたくない」「京都へ<は>いつお出かけですか」「君と<は>遊ばない」など、連用の格助詞の下に「は」の現れることは少なくなく、主題の「は」とこれとは決して無関係ではないだろう。つまり「二階は」「象は」を「には」「ては」「とは」などと切り離して主語の名において特別扱いすることは、「花が」「鳥が」「鼻が」を「を」「に」「へ」その他から切り離して主語の名において特別扱いしたのと通じる態度といわねばなるまい。主語特別扱いが誤りなら、主題特別扱いもまた誤りではあるまいか。
 これらのすべてをどう把握するのが最も事実に近いかは、今後の研究にまたねばならないが、主題を示すといわれる「は」は、「鳥は飛ぶ」のようにいわば「がは」に相当するものか、「二階は貸した」のようにいわば「をは」に相当するものか、そのどちらかであることは見逃してはならぬことであろう。「が+は」「を+は」という言い方は現代日本語には存在せず、たんなる「は」を以て表現するのだが、それは決して「に+は」「と+は」と切り離し得る異質の存在ではない、という認識の方向で問題解決がなされねばならぬように予想される。
 まだはっきりしないことを多く含みながらも、主語あるいは主題が特別扱いされてきたのは、判断は主辞・賓辞・繋辞から成り、判断を言語表現したものが文である、という論理学の側の命題が、文法学の文の把握に深くかかわってくるからである。論理学に根を発するところの、文は主語と述語から成る、という文法学の命題は、次第に説得力を薄めつつあるように見えるものの、むしろ逆に、文は判断の表現であり、主語・述語から成るという考えに帰ろうとする勢いも一方に強い。主語は文の本質をどうとらえるか、という根本姿勢において論じられるべききわめて重要な成分である。    (渡辺)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
引用文を読んでおりますが、難解ですね。主語とか主題などを、気軽に使えなくなりそうです。
私のように力のない者には、猫に小判、のような状態です。
再度、挑戦してみます。

お礼日時:2015/05/01 12:39

こんにちは。



  日本語の主語について、教えて下さい。      (主語なし)
  主語について、下のどちらになるのでしょうか?  (主語なし)
  (どちらも同じことだ、といわず)教えて下さい。 (主語なし)
  日本語は、主語を持つ。             (主語あり)    
  ただし、自明の、分かりきった場合は、主語を省く。 (主語なし)
  日本語は、主語を持たない。            (主語あり)
  ただし、行為者が分からぬ場合は、主語を利用する。 (主語なし)

というところでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
申し訳ないのですが、理解不能です。

お礼日時:2015/05/01 19:28

よくわからないのですが、


>2.日本語は、主語を持たない。ただし、行為者が分からぬ場合は、主語を利用する。
これって矛盾していませんか?
主語を持たないのなら、
>ただし、行為者が分からぬ場合は、主語を利用する。
というような主語を利用することってできないのではないのですか?

日本語に主語はあるのだけれど、その主語を表現するかしないかという問題だとおもうのですが。
あなたのご質問は、「どのような時に、主語を省き、どのような時に主語を表現するか」
ではないのですよね?
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この回答へのお礼

今、頭の中を整理しているところです。
1.<主語を持たないのなら、
>ただし、行為者が分からぬ場合は、主語を利用する。
というような主語を利用することってできないのではないのですか?>
この私の文章では、理解が出来ないですね。聞き手などを補足します。すなわち“ただし、「聞き手にとって」行為者が分からぬ「おそれがある」場合は、主語を利用する。”
に訂正します。
2.今まで回答者の皆様に教えて頂いたこと参考に、質問自体を修正します。
①. 日本語文では、原則として、行為者を主語など(主格とか主題とか)で表現する。状況においては、主語などを省略する。
② 行為者を主語などで表現しない。状況によっては、主語などで表現する。
日本語文は、上の①ですか、②ですか、という質問です(質問に修正しました)
どちらを採用しても、中身は同じだよ、とはいわず、日本語と言うのは、本来、主語などがあるのか?ないのか?です。

お礼日時:2015/05/03 17:29

>日本語と言うのは、本来、主語などがあるのか?ないのか?です。


「日本語文法」に拠る人は、「主語なし」と答えるでしょうし、「学校文法(国文法)」に拠る人は「主語あり」でしょう。しかし、このサイトでその主張を押し通しては、コミュニケーションが成り立ちません。そのため、No.5の方は国文法の立場に立って「主語のあり、なし」を回答されていますが、実際は「日本語文法概説」を下記Urlに発表されていますから、「主語なし」の立場のはずです。それぞれの文に主語が見られることは、かなり少ないですよ、ということをおっしゃりたかったのでしょう。
 http://www.geocities.jp/niwasaburoo/
 わたしは長らく学校文法の立場をとってきましたが、金田一春彦氏などの影響で、日本語文法に近づいてきました。その結果、「主格」「主題」等の言葉を使っています。日本語文法では一般に言う「主語」に対して「主格補語」という名称を与えているからです。だから「主語はない」派です。
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この回答へのお礼

拙い質問に対して、“日本語文法”と学校文法“の、二大巨頭様にから、ご回答を頂いたのですね。誠に恐縮しております。
日本語文法では、
<「主語はない」>
のですね。なぜなら、
<主格」「主題」等の言葉を使っています。日本語文法では一般に言う「主語」に対して「主格補語」という名称を与えているからです。>
ということですね。
<それぞれの文に主語が見られることは、かなり少ないですよ、>
ということから、①主語がそもそもないのだ、あるいは、②省略されているのだ、と見解が分かれるのですね。

お礼日時:2015/05/06 17:31

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