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「私は花が好きだ」の「花が」は、主語ではないですよね。何語でしょうか?
「花を」と言い換えられるから、目的語か補語かと思いましたが、そんな言葉は国語にないみたいでした。すると修飾語なのでしょうか。

「主格補語」は、こういうときの「花が」に当たりますか、それとも「私は」に当たりますか?

A 回答 (19件中1~10件)

修飾語だと思います。



国文法の勉強ですか?
頑張ってください!
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32.《私は花が好きだ》なる文の形式の仲間について考えます。



  (あ) 私ハ 花ガ 好きだ。   <好悪>
  (い) ぼくハ 水ガ 飲みたい。 <希望>
  (う) かれハ 英語ガ 下手だ。 <巧拙>
  (え) 彼女ハ 英語ガ 話せる。 <可能>

 33. (え)は かんたんですね。線形論理層としては 《彼女ガ 英語ヲ 話せる。》

 34. そのツテで (う)も だいじょうぶです。《かれガ 英語〔を話すの〕ヲ 苦手としている。》または《かれガ 英語ニツイテ 下手だ。》

 35. (い)は 厄介なようです。試みに:
   (い‐1) ぼくガ 水ガ(水ノ)飲み二 到っている。(欲求として)
   (い‐2) ぼくガ 水ガ(水ノ)飲みニオイテ 痛い。(欲求を満たせずに)
   (い‐3) ぼくガ 水ガ(水ノ)飲みヲ 欲する。(~~タイには このような意味はないのだが)

 36. つまり 次のような発想から来ているのではないか?

   (い’) ぼくハ 水ガ 飲み〔ガ〕 いた(頂き)にあり。
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№16を承けます。



 28. 《私は花が好きだ》のガ格は 用言(《好きだ》)を修飾するという意味で 論述条件あるいは述格補語であると言って言えなくありません。このことは 先には・つまり日本文の構文を明らかにする前には言いたくありませんでした。

 29. 論述主題の《好きだ》を 状態用言(形容動詞でしょうか)だと捉えた場合 ちょうど英文と同じような文型になっています。:

   和文: 私ハ  花ガ   好きだ。
   英文: I of flowers am fond. (= I am fond of flowers.)

 30. 《 fond 》を述格( am )の補語と見るべきかも知れませんが 上のように分析してみました。そうすると ガ格のガは 属格(ノ格)の用法もありますので――《我ガ家》など―― ある程度英文の《 of 》とも意味上も対応している。

 31. この事実は 愛嬌だと思います。
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回答№14をおぎないましょう。


 
 15.もし《私は花が好きだ》の《花》がそういう名前の人だったとしたら?

 16. 分かりやすいように《花子》としましょうか。そうしますと ハ格やガ格は 《好きだ》という述格に対してどういう論理的な格(主格や対格など)をになうことになるか?

   文(話し手の意志表示): 私ハ     花子ガ   好きだ。
   __________________________________
   主題提示層:    中心主題〔格〕 関係主題〔格〕 論述主題〔述格〕
    

 17. 背景としての文脈はいま措いておいて 述格の《好きだ》という動作にかかわって ハ格とガ格とがそれぞれどのような意味上の連絡となるか?

 18. 《好きだ(好く・好む)》という動作の主体は 何か? ――これは ハ格の承ける《私》であり得ると同時にガ格で承けた《花子》でもあり得る。

 19. 動作主体が決まれば その対象としての対格はおのづと決まる。だとすれば この文例では 次のふたつの論理的な意味合いが――話し手の意志を別とすれば――成り立つ。

   文(話し手の意志表示): 私ハ     花子ガ   好きだ。
   __________________________________
   主題提示層:    中心主題〔格〕 関係主題〔格〕 論述主題〔述格〕
   ---------------------------------
   線形論理層:  (あ) 私ガ(主格) 花子ヲ(対格) 好く(述格)。
           (い) 私ヲ(対格) 花子ガ(主格) 好く(述格)。  

 20. 日本文は かくして二層構造である。《Aハ Bガ C‐ナリ。/ C‐スル。》という三項形式が基本構文を成し その構文が二層に分かれてゆく。

 21. ハ格とは何か? ガ格は どういう格か?――それぞれあくまで文の主題を提示する役割りを負った格標識であって ハ格は中心主題をになうハ格であり それに関連する主題をみちびき出したガ格はガ格であるというのが 基礎としての決まりである。

 22. その上で――つまりは 日本語の構文は言わば非線形であって 気体や液体の状態であったその上で――構文が 固体にも相転移する。

 23. 水蒸気としてふわふわと浮かんでいたふたつの主題提示格(ハ格およびガ格)が 水になり氷になって論理的な意味を示す格(主格か対格)へと固定して行く。

 24. すなわち《 I love Hanako. 》 かまたは《 Hanako loves me. 》かのいづれかの一本調子の線形論理に収れんして行く。もちろんこの・文の意味は 確定しなければならないものである。意志表示としての文であるかぎり。

 25. 尺八がひと吹きで世界を醸し出させるように 自己表出としての言葉が主題をポンポンポンと投げ出したときには その語句が浮遊していて文は世界大の広がりを見せている。相転移して固体の世界にかたまると 一本の論理に収れんしていく。英文のごとくなのか? 

 26. 英文も 話し手と聞き手との人間どうしの場が成り立つかぎりで――文型の固定性とは別に―― 世界は広くやすらかである。

 27. 問題は 日本文を母語としつつ・またしゃべりつつ その文を分析するときには 英文の固定した論理をとうとび(崇拝し)それに頼るという場合 にある。
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こんにちは。



以前、「学校文法」について書いたものをコピーします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7878213.html

(前半省略)
学校文法のことを少し書いておきます。
ここでの問題は、「学校文法」というものの内実です。これもくわしく書くと長くなるので、はしょって書きますが、学校文法というのは非常に不完全な、説明能力の限定された文法です。

ここでまた、たとえを出して説明します。今、中学で教えている学校文法というのは、算数にたとえれば、自然数の範囲で四則演算(+-×÷)をやっているようなものです。足し算は自由にできますが、引き算の練習では負の数が出ないように、(5-3)のような練習問題しかできません。(3-5)はできないのです。同様に、かけ算は自由にできますが、割り算は必ず割り切れるものだけにします。分数はまだ知らないのです。余りが出るのは美しくないでしょう。

このたとえと同じで、中学で習う文法の練習問題は、必ず答えがすっきり出るような例文ばかりです。日常的な、実際の日本語の中の、学校文法の枠組みでは答えが出にくいものは、慎重に排除されています。
上の「ハ・ガ文」はまさにそのようなものです。

学校文法は、子どもに日本語の中の規則性をごくかんたんに教えるには、それなりに教育的価値のあるものですが、不合理なところがいろいろあり、現在の文法研究者で学校文法を良いものだと思っている人はほとんどいないでしょう。
なんと言っても、戦前の、日本語の文法研究がまだ始まったばかりと言ってもいい時代に作られた枠組みを、そのまま教えているのです。古典文法の理解のためには、それなりに役立つのでしょうが、それにもいろいろ批判があります。早くやめたほうがいいのですが、一つの体制が確立してしまうと、その改革には非常に大きな労力が必要で、一部の文法研究者が取り組んでいるようですが、難しい問題です。

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「主題」も「対象語」も「補語」も「目的語」も、学校文法の用語にはありません。それらが分析のための用語として使われるようになったのは、戦後のことです。(「目的語」は英文法の用語です)
現実の日本語を、納得がいくように分析することは、学校文法では無理なのです。残念ながら。

saburoo
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★ (№2お礼欄) 最後まで読んでも、結局「花が」が何語ということになるとおっしゃろうとしているのか、読み取れませんでした。


 ☆ 参考資料を示すかたちを回答としました。

 直接の答えとしましては:
 
 1. 趣旨説明文からは どうしてもいわゆる学校文法にしたがって回答せよと限定しているとは捉えませんでした。

 2. したがって 答えは 次です。

 3. 文:私は花が好きだ。――《花が》のガ格は 日本語の文の構文として 関係主題格です。

 4. 《私は》のハ格が 中心主題格です。

 5. 日本文には 一般に主題がふたつ提示されます。もっとも中心となるのが ハ格で承ける第一主題。第一主題に関係する何らかの主題をさらに提示するのが ガ格の承ける第二主題です。

 6. ふたつの主題のあとに 基本的な構文として 論述主題が来ます。《~~ナリ・/ ~~スル》で表わします。つまりは 中心主題の提示が言わば問いとすれば その答えが 論述主題になります。文は 《問い(ふたつの主題)+答え(論述主題)》から成るかたちです。

 7. 問い〔ハ格=中心主題格 + ガ格=関係主題格〕 + 答え〔論述主題(述格)〕。この三項形式が 日本語構文です。

 8. ハ格やガ格が では 述格との連絡でその文の論理的な意味として どういう格をになうか? 

 9. 定義述格(~~なり)や動作述格(~~する)に対しての主格か対格かは ハ格についてもガ格についても 三項の主題を提示する形式だけとしての構文からは 決まりません。言わば 格自由として提示されます。

 10. つまりは 文の論理的な意味としては 述格との意味上の連絡(あるいは文脈)からハ格やガ格が それぞれ主格(定義主格や動作主格)や対格として決められることになります。

 11. 《好きだ》という論述主題は 定義述格でもあり動作述格でもあるように見られます。が 便宜上 広義の動作述格と見なしますが そうすると この《好きだ》という動作の主格や対格を――構文のかたちからは自由に(離れて)――話し手や聞き手が 文脈をも加味して 決める。こういう手続きになっています。

 12. 《好きだ》の主格は 論理的な意味から 《私は》であると決まり 《花が》は その対格をになっていると決まります。論理的な文意としては 《私が 花を 好く》となります。

 13. 言いかえると 日本文は このような論理上の意味連絡(いわゆる SVO文型)のみから成るのではなく 論理自由において まづ言葉で主観は世界を――大ざっぱに――読み取り自己表現する。こういう心で成っています。

 14. 重ねて述べれば ハ格やガ格が 述格に対してそれぞれどのような論理格(主格か対格か)を表わしているかは 日本語としての文だけからは決まりません。その世界構造を提示しただけのかたちを採ります。主‐対‐述格(SVO)などは文脈の中で あとから決まります。(話し手の主観の中ではすでに決まっていたとしても 聞き手にとってはです)。
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>(歌)が「上手だ・下手だ」<巧拙の対象>


「私は歌が上手い」という文を考えると、「象は花が長い」に似て来ますね。ダブル主語になって。
主語を二種類に分けて、前者を題目主語、後者を対象主語、とでもすれば、解決するでしょうか(??)

かつて、文法学者たちが「象は鼻が長い」について、「象は」は総主語で、「鼻が」が主語だと本気で言った時代がありました。その後、「象は」は主題、「鼻が」は主語と言われるようになりました。「象は鼻が長い」という文をそのままタイトルにして本を書いた、三上章は「日本語に主語は必要ない」(主語不要論)という結論に導きました。その影響を受けた学者はたくさんいます。金田一春彦もその内のひとりです。
 「私は歌が上手い」と「象は鼻が長い」とは、形の上では似ていますが、「鼻が長い」の場合は「鼻が」が主語、「長い」が述語として説明出来ます。しかし、「歌が」が主語、「上手い」が述語という説明は可能でしょうか。言い換えれば、「鼻が」が「長い」という性状を持つ、と同様に「歌が」が「上手い」という性状を持っているといえるかどうかです。日本語の場合、これを同様に見なしてしまう立場がある得るのは否定しません。しかし、「が」について「日本文法大辞典」に「可能・希望・好悪・巧拙の対象を表す」(この項-阪田雪子)とあったので、そのままここに掲げました。
 「題目主語」と「対象主語」という取り上げ方は面白い考えですが、「主題」と「主語」の方が分かりやすいのではありませんか。
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#9です。


まずは、質問者さん、横レスさせていただきありがとうございました。

1.
#10さん、丁寧にお答えいただきありがとうございました。
私の勘違いだったかもしれませんね。失礼いたしました。
ウィキには、【日本語では、「が」「は」などの助詞を伴った文節が主語である。主語が省略されることも多い。】と学校文法では教える、という記述があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%AA%9E
それを、『 簡単に言ってしまえば、学校文法でいう「主語」すなわち「何が」は「主格補語」という補語の一種と考えます。 』という#8でのご回答箇所と結びつけ、「花が好きだ」も主格補語になるとおっしゃっているのだろうか、と早とちりしてしまいました。
さらに!!!学校文法で【「才能が」は主格補語である。】と明記している、などととんでも無いことまで申し上げてしまいました。
重ねてお詫び申し上げます。
これに関しては、中ほどの文脈をすっとばして読んだためであり、文字通り「短絡的」解釈でありました。
ご指摘いただき大変助かりました。
お恥ずかしい次第です。

2.
さて、ご質問に対する回答に戻ります。
#4でお示しした論文を拾い読みしていたところ、面白い記述がありましたのでご紹介させていただきます。(【】内は抜粋部)
【さて,本節のタイトルである「対象のガ格は主語なのか?」という問いに対する回答について述べよう。ある事態を言語化する際に,認知レベルで最も際立ちを置いて認知されている tr.が,文法関係レベルにおいて<主語>として選ばれるのである。】
tr.=ターゲットで、(私の理解に間違いがなければ)『文中で最も際立って認知されている対象』という意味になると思いますが、この切り口がなかなか興味深いと感じます。
この後、筆者は、
【認知文法の考えに従って「節レベルで最も際立って認知されている参与者(つまりtr.)が主語である」と定義するならば,対象のガ格も間違いなく<主語>として扱って構わないことになる。】
と結論づけています。
今回わたしがコメントしてきた内容とは異なりますが、説得力のある見解だと思いました。
この部分には例文もあって、そのうちのひとつが、
【(21) {僕は/?僕が}あいつが好きだ。】です。
つまり、この場合の「あいつ」も主語として十分認めて良いのだ、とこの筆者は言っているわけです。
今回のご質問に照らし合わせれば、
『私は花が好きだ』の「花が」も主語になり得る、ということになるでしょう。
また、この場合、「私は」は「主題」ということになるのでしょうが、上記の筆者がこれに関して何か書いているかどうかまでは読んでいません。
とりあえずは、
1.「わたしは=主題」+「花が=主語」
という説がある。
ということになりそうです。

3.
ただ、一方で「わたしは=主語」と考える説もやはり根強いでしょう。
ここで、やっとご質問の本題に戻ることになるわけですが、では、「花が」は『何語でしょうか?』ということになる。
これについての私見は、#4ですでに述べさせていただきましたので繰り返しません。
ただ、連用修飾語と言うこともできるのだろうか・・・という疑問が払拭できません。
もし、そうだとすれば、私の全くの認識不足だったと言わざるを得ないと思いますが。
「私は学校に行く」の「学校に」は、動詞の連用形に付く格助詞ですから副詞に準じるものと判断して良いと思いますので、これが連用修飾語というのはわかります。
しかし、『私は花が好きだ』の「花が」は、もし「対象語」という言葉を使わないなら、むしろ「目的語」に分類したい気がします。
大辞泉の【2 希望・好悪・能力などの対象を示す。「水―飲みたい」「紅茶―好きだ」「中国語―話せる」】という用法を持つ格助詞であり、この辞書例文は(多少ぎこちなくなる例文もありますが)「を」に置き換え可能でしょう。
と、ここまで書いて大辞泉で「目的語」を調べたら、【学校文法では連用修飾語に含めて扱われる。】と注釈されていました。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/218947/m1u/ …
なかなか難敵ですね、この修飾語っていうやつ。

4.
あれこれ検索していましたら、次のスレッドが見つかりました。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/2135167.html
こちらのベストアンサーは以下のようになっています。(ベストアンサーが正しいとは限りませんが)
「私は水が飲みたい」に関しての回答。
【複文とみなす。「水が」(対象語) は、 「飲みたい」 に対する主語あつかい。「私は」 は、 「水が飲みたい」 に対する主語。】
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参考までに。


英語圏の人に日本語を教えるときは、目的語につく「を」は、object marker (目的語の印)として説明されます。
好き/大好き が動詞となる場合、例外的に「が」がobject marker (目的語の印)として使われると説明されています。
すなわち、「花が」というのは目的語です。

まあ、主語、目的語などといった概念は外国語のものですから、日本語を母語としている人から見れば納得がいかないかもしれません。
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No.9の方へ



>主語の存在を否定する立場:「太郎に」は主題を示す「は」を伴っており、これは主題である。また、「才能が」は主格補語である。(wikipediaより)

「主語の存在を否定する立場」とは、いわゆる「日本語文法」(国文法とは異なる立場の)です。「日本語文法」とは今では混同されて使われているのに対して、相当以前から使っていました。(20年以上前から)それに対して「学校文法」は「国文法」でした。とにかく「主語の存在を否定する文法」ですから、その点で区別する必要があります。

>「花が好きだ」の「花が」も主格補語になるんですかね・・・。
これは、【2 希望・好悪・能力などの対象を示す。「水―飲みたい」「紅茶―好きだ」「中国語―話せる」】という用法だと思いますので、「主格」という語が含まれている点に違和感を覚えるのです。
学校文法(橋本文法)では、「ガ格」はすべて主格補語、と教えるのでしょうか。
単純な疑問ですが、これは質問者さんも、おそらく知りたい点でしょう。
「花が咲いた」などであれば、主格補語(または主語)で納得できるのですが。

 前回の回答で、「花が」は「対象」を表す、といいました。また、学校文法(橋本文法中心)は「主格補語」などという言葉は全く使わず、「主語」を使います。「私が」「私は」「私も」等はすべて「主語」です。それを混同するようなことを言ったつもりはありません。
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