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この文における「本は」はについて、補語だと主張している方がおられます。
「補語」とは、
連用修飾語のうち,主として格助詞「に」「と」を伴うもの。「花が実になる」「白を黒という」における「実に」「黒と」の類。格助詞「を」を伴うものを目的語または客語というのに対する。
https://sakura-paris.org/dict/%E5%A4%A7%E8%BE%9E …
と覚えていたのですが、「は」を伴なう場合にも補語になるのですか?
であるなら「私は」も補語なのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 補語は《述語動詞の意味を補って,文意を完全にする役割を果たす語句をいう。》とあります。
    格助詞「に」「と」を伴うもの以外で該当するのは、

    「白く なる」
    「隣町へ 引っ越す」
    「まきで 湯を沸かす」

    などですかね。

    ある日、おじいさん【 は 】山へ柴刈りに、おばあさん【 は 】川へ洗濯に行きました。

    という文で、「おじいさんは」は柴刈りの補語で、「おばあさんは」は洗濯に行きましたの補語であるという捉え方が、果たして妥当だろうか?
    といった問題になってくると思います。

    それよりも、「おじいさんについて言ってみれば」「おばあさんについて言えば」のように主題として捉えるほうが遥かに自然だと思うのですが、ま、この辺りは個人的な感覚の相違になるのかもしれません。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/10/25 21:56

A 回答 (12件中1~10件)

No.3でコメントした者です。


===========引用開始
三上はガ格を補語とみなすわけですが、ハが補語というのは初耳だったもので質問してみました。
===========引用終了
 
 そうなんですか。
 当方は、本多読本の影響で、「甲が」と「丁は」を区別していない気がします。
 詳しくは下記をご参照ください。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983596905&owne …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>「修飾語」と「補語」がどこまで重なるものなのかは知らない。
 たしかに『日本語文法事典』に出ている例は〈「甲が 乙を 丙に 紹介する。」における三つの名詞をすべて補語とし、「甲が」を主格(第一)補語と位置づけ〉たという記載〉で、「丁は」の話はない。

そうでしたか。
であれば本多も、ガが主語でハは主題という分類をしていたんじゃないですかね。
つまりハを主語とは分類していなかった印象も受けますね。
ま、これだけの文では何とも言えませんけど。

2.
> ただ「甲が」を「主格(第一)補語」にするなら「丁は」なんなのだろう。あくまでも主題で、「補語」とは別のものなのだろうか。

そう思います。
補語は連用修飾語なので。
たとえば、

・社長はどこに?

と問われて、

・私が社長だ。

と言う場合。
これは、【「社長だ」という述部について、】その主格が何(誰)であるか聞き手には未知の情報というシチュエーションになる。
未知の情報のままにしておくわけにはいかないので、「私が」という補語(修飾語)で「社長だ」という述部の主格を指定しているわけです。
「私が」⇒「社長だ」という構図は必須と言える。
「私が」は補語ではあるが、一応主体なので首席補語とも呼んでもよいだろう。
これが三上の論だと思います。

一方、

・私は社長だ。

の場合はどうか。
自己紹介の場面などを想定してよいでしょう。
これは、

・私について言うならば、(私は)社長だ。

という意味。
「私について言うならば、」と、主題(話題)を聞き手に宣言しているにすぎません。
なので極端な例として、

・私は・・・(=私について言うならば・・・)、いややめておこう。

などと述部が存在しない場合すらある。
「私は」には述部の補語(修飾語)としての用法はない、ということです。
私は何なのか?聞き手はわからずじまいに終わる。

・私が・・・、いややめておこう。

と言うこともたしかにできるわけですが、しかし「私が」と言った時点で聞き手は「私」が社長であるとわかる。
「が」を使う文では補語(修飾語)として主述の密接な関係性があることが、アプリオリに理解できるからでしょう。

3.
> 近年になって「やはり無理がある」と感じているから。

妥当な感覚ではないでしょうか。

お礼日時:2022/10/30 15:56

>>主題として捉えるほうが遥かに自然だ



「は」がめ「題目提示」や「対比」という機能を担っているのではない。それは結果的に出てくる表現効果であり,この助詞の本質そのものではない。

という点については下記を参照下さい。

堀川, 智也
日本語の「主題」をめぐる基礎論
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/9 …
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「英文法にならって国文法で」補語を定義したということなので、英語に当てはめてみたまでのことです。


「文意を完全にする役割を果たす語句」とし、少しの制約をつけて補語としている、この定義はどうかなと思います。
だから、
「おじいさんは」は柴刈りの補語で、「おばあさんは」は洗濯に行きましたの補語であるという捉え方をしてもいいことになりかねないし、「花が実はなる」の「実は」も補語としてもいいことになりかねない。
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>>何故ならそれは「目的語」だからです。

英訳してみれば明らかです。「I already bought that book.」

「脳天気」さんは根本的に誤っていますね。

屈折語である英語と膠着語である日本語は構文が全く異なります。

英語は天秤型、日本語は入子型構造で、格の分類も異なります。こうした本質的な理解なしに英語に翻訳し品詞を云々するのは全く方法論的に誤っています。

本質的に言語とは何かが全く理解できていないことを露呈しています。

構造主義、生成文法的な非科学的言語理解の限界を恥ずかしげもなく露出しています。■
「「私はその本はもう買いました」」の回答画像9
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>「私はその本はもう買いました」


https://sakura-paris.org/dict/%E5%A4%A7%E8%BE%9E …」の定義によれば、「本は」は補語ではありませんね。何故ならそれは「目的語」だからです。英訳してみれば明らかです。「I already bought that book.」
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

目的語ともちょっと違うように思うのですけどね。
英語には疎いので合っているわかりませんが、

I already bought about that book.

といった感じでしょうか。
こんな英語はありませんかね?(笑)

お礼日時:2022/10/26 18:28

No.4 の応答について



>>ある日、おじいさん【 は 】山へ柴刈りに、おばあさん【 は 】川へ洗濯に行きました。
という文で、「おじいさんは」は柴刈りの補語で、「おばあさんは」は洗濯に行きましたの補語であるという捉え方が、果たして妥当だろうか?
といった問題になってくると思います。//

これは全くのやぶ睨み、形式に囚われた誤りです。

この文は、「ある日、おじいさん【 は 】山へ柴刈りに」、「おばあさん【 は 】川へ洗濯に」とそれぞれの特殊性を表す句を並置したもので、「~に~に」」のそれぞれの句が述語「行きました」の補句になっています。

と同時に、「おじいさん」、「おばあさん」は述部 「行きました」の主語にもなっているという立体的な構文になっています。

一文に主題が二つあるというのは全く矛盾した誤りです。

個人的な感覚の相違では全くなく、単なる誤認、誤った理解に過ぎません。■
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>>主題を否定する文法は理解が難しそうです。



否定する以前に主題とは何かを説明などできませんが??
単なる後付けの解釈に過ぎません。

>>SF文法と矛盾しないんですかね。

矛盾しません。
当然、真っ当な部分もあるので指示されているということです。
全くのでたらめではないのは当然のことです。

神や宗教が信仰されるのも部分的にはそれなりの根拠があるからということです。

その程度の理解もなしにあれこれ騒いでもしょうがありませんね!
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>>この辺りは個人的な感覚の相違



論理的に破綻すると、いつもの体の好い逃げ口上で豚ずらですね!! (藁)
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「主として」って書いてあるってことは「そうでないこともありえる」と読むのが正しいと思うんだ. そうであるなら, 「『は』を伴う」補語がありえる, と考えられるんじゃないかな.



「そもそも『補語』とはなにか」「全ての項を『補語』とみてもいいんじゃないか」論もありそう.
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「主として」って書いてあるってことは「そうでないこともありえる」と読むのが正しいと思うんだ.

なるほど、ごもっとも。
論理的にもおっしゃるとおりですね。
ただ、補語は《述語動詞の意味を補って,文意を完全にする役割を果たす語句をいう。》とあります。
格助詞「に」「と」を伴うもの以外で該当するのは、

「白く なる」
「隣町へ 引っ越す」
「まきで 湯を沸かす」

などですかね。

ある日、おじいさん【 は 】山へ柴刈りに、おばあさん【 は 】川へ洗濯に行きました。

という文で、「おじいさんは」は柴刈りの補語で、「おばあさんは」は洗濯に行きましたの補語であるという捉え方が、果たして妥当だろうか?
といった問題になってくると思います。

それよりも、「おじいさんについて言ってみれば」「おばあさんについて言えば」のように主題として捉えるほうが遥かに自然だと思うのですが、ま、この辺りは個人的な感覚の相違になるのかもしれません。

>そうであるなら, 「『は』を伴う」補語がありえる, と考えられるんじゃないかな.

はい、《あり得る》のは確かですね。
逆に言うと《無いかもしれない》ということですね。
神はいるかもしれない、ということを否定できる人がいないのと似ている?のか似ていいないのか?
どうでしょう。(笑)

お礼日時:2022/10/25 21:54

「本は」も「私は」も補語……という考え方はできるでしょう。

三上章的な考え方ですね。それはそれでアリなのでは。SF文法と矛盾しないんですかね。
 詳しくは下記をご参照ください。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983563472&owne …
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そうですか。
三上はガ格を補語とみなすわけですが、ハが補語というのは初耳だったもので質問してみました。

>SF文法と矛盾しないんですかね。

主語を否定するのはまだ理解できますが、主題を否定する文法は理解が難しそうです。
「は」を格助詞と認識する場合らしいので、さらに難しそうですね。
しかも、それが誤りだと言っておきながら、その誤りに基づいた認識であるハ補語説を肯定するという・・・、本当は何もわかっておらんのでしょう。(笑)

お礼日時:2022/10/25 21:37

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