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1. 隣りの人をおのれとひとしく愛せとは 互いに自由に批判することである。

2. 相手の考えを批判するには その相手が《われはわれなり》の状態にある
ことが 前提である。

3. 《わたしがわたしである》とは 身も心も普通にすこやかで 不当な障害
や妨害をこうむっていないことが条件となる。

4. だから 互いに自由に批判するには 生活日常の基礎の部分を互いに安定
した状態にあるように助け合うことが条件となる。

☆ ということではないのだろうか?

5. 互いに自由に批判するということは――むろん 生身の人間であるかぎり
おのれのためを思っておのが意志をはたらかせることをまぬかれないのであるが
しかも同時に それは―― 神のためにおこなうのである。

6. だから 批判する心が 愛することである。はずだ。タテの愛とヨコの愛
とが つながっている。批判を述べることばを届ける人の手は うつくしい。

A 回答 (3件)

この質問の源泉に、"煩悩即菩提"の心が有ると思いました。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ひと言多いのが わがトレードマークになってしまうのは避けたい
とは思いますが。:

★ "煩悩即菩提"の心が有る
☆ のは どういう源泉によるか?

と問うと イチャモンになっちゃうだろうか。

お礼日時:2016/03/30 09:27

衣食足りて礼節を知る、と云います。



最小限、衣食住を共に“共有”し、そうしたところから生まれる心の余裕から発する“批判のこころ”は人の持つ煩悩を批判する事であり、この批判精神は菩提心に通じる。

こうした思いが"源泉"と云う表現になりました。

煩悩が即菩提心なのではなく、煩悩を疑問視する心が菩提心、なんだと思っています。
煩悩の赴くまま生きて、後悔も疑問も起きず、満足できるのならばそれはそれでいいのですが、そこに菩提心は無い、という解釈です。

菩提心は、うつくしい。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 心の余裕から発する“批判のこころ”は人の持つ煩悩を批判する事であり、
この批判精神は菩提心に通じる。
★ 煩悩を疑問視する心が菩提心、なんだと思っています。
★ 菩提心は、うつくしい。
☆ ということは 自分のも他人のもその煩悩をつつみ込んでその苦を共に
するということですか。
そうなんでしょうね。

わたしは 手当り次第に 批判の手を伸ばしています。まだなおりません。

お礼日時:2016/03/31 09:16

そんなに批判しなくても「これこれこうだよ」と教えて上げれば分かるのではないでしょうか?



そりゃ哲学や政治なら批判も必要ですが 隣人を親友のように思えれば自然と愛することが出来るのではないでしょうか

その為には相手の良い所を見出す力が必要です、昔は隣近所助け合って生きていたのでしょうけどねえ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆(趣旨説明欄) 2. 相手の考えを批判するには その相手が《われは
われなり》の状態にあることが 前提である。
☆ ここが ひとつのキモですね。

つまり 《批判すること》と《助け合い》とをつなげているということです。

しかるに 今回のご回答では 別々だと見ておられますよね。

そして 助け合いのためには:
★ 隣人を親友のように思えれば
☆ という条件をしめした格好です。

ですからそれに対して質問の趣旨としては 《互いに自由に批判しあうために
は 特に相手がすこやかな状態でいてくれないと困る。という考え方から 助
け合いと批判とのつながりを言おうとしています》。

はる27さんは 状態がよろしくないと聞いていますが 何はともあれ質疑応
答の場に出て来て参加しておられる。という状態を前提として 批判のやり取
りをわたしの側からは おこなっています。

お礼日時:2016/04/03 20:15

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