▲ (ニーチェ:高貴とは何か Was ist vornehm? ; What is noble? ) ~~~~
( a )
――高貴とは何か。われわれにとって今日なお《高貴》という言葉は何を意味するか。
始まりつつある支配のこの重苦しく雲に覆われた空のもとに すべてのものが不透
明に鉛色になっているときに 高貴な人間を何によって露わにし また何によって識別
するのであろうか。
( b )
――高貴な人間であることを証拠立てるのは行為ではない。――行為は常に多義的であ
り 常に底を究めがたい。
( c )
――それは《作品》でもない。今日では芸術家や学者たちの間において 高貴なものへ
向かっていかに深い要求に駆り立てられているかを彼らの作品によって示しているよう
な人々が十分に見いだされる。しかし まさにこの高貴なものへの要求こそは 高貴な
魂の要求とは根本的に異なるものであり しかもまさしくその欠乏の雄弁にして危険な
徴表である。
( d )
ここで決定的であり ここで位階秩序を確定するものは 一つの古い宗教上の方式を新
しく かつより深い意味において再び採用して言えば 作品ではなくして 信仰( der
Glaube ; the belief )である。
すなわち 高貴な魂が自己自らについてもつ何らかの根本確信( irgend eine Grund-
gewissheit; some fundamental certainty )である。
求められもせず 見いだされもせず 恐らくはまだ失われもしない或るものである。
( e )
――高貴な魂は自己に対して畏敬( Ehrfurcht; reverence )をもつのだ。――
(木場深定訳:『善悪の彼岸』第九章 高貴とは何か 二八七(その全体です)
1970 / 2010改版。任意に改行し段落に符合をつけています)
・ 独文: http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/JGB
・ 英訳: http://nietzsche.holtof.com/Nietzsche_beyond_goo …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
おしえてください。
1. 《神は死んだ》と言う・かのニーチェが 《 信仰 / 根本確信 》とは おかしく
ないか?
2. 何かのレトリックか?
3. いづれの解釈をするにしても けっきょくどういう思想であるのか?
4. 神は 《有る神》と《無い神》との間に何ら違いはない。とは質問者は考えてい
ます。でもその捉え方を当てはめるのは あまりにもニーチェ劇場の外からその芝居を
見ているのと違わないことになるのではないか?
No.4
- 回答日時:
お礼及び、補足ありがとうございます。
ルサンチマンは言い過ぎでした、これは無いものとしてください。
ニーチェの考えについては、「The Antichrist 」で記載されているとおりなんだと思います。
「喜ばしき知識」に記載されている内容は、信仰者自身が、その「神」の存在を信じられなくなった(つまり殺した事)を意味しているんだと思います。(つまり、キリスト教が空虚である事に気付いたと言う事でしょう)
ここら辺は、科学(理性)により「神」が打ち滅ぼされた事であり、信仰者自らが、聖なる「神」を失った事を意味していると思います。(これをニーチェは絶賛しています)
逆に、その道徳性から、「神」の存在証明(意義)を導き出した、カントを痛烈に批判します。
カントの「神」の存在証明がトートロジーなのは確かなんです。(事実、カント自身も、限定された状態として、これを証明しています)
あくまで、信仰者が「善」なる存在として存在しうるときにしか、「神」は存在しえないんですから、実のところ、それは人間の「善」なる意志の元でしか存在しえないんです。(「神」が人間を「善」に導くのではなく、「善」なる存在として生きられる時に、それを保証する為に「神」の存在が要請されるという、倒置がなされています)
パウロの「希望」については、形が無いものではあるが、「神」による救済を信じて生きる姿勢をあらわしていると、キリスト教徒は信じています。(救済は、信仰の元に保証されているのでは?)
つまり、ニーチェは、これこそが空虚(ニヒリズム)だと断定しているのでは無いでしょうか?(ニーチェにとっては、「生」は、永劫回帰する円環であり、キリスト教的な終末や救済はあり得ないのでしょう)
「高貴」が打ち砕かれる例では、「善と悪の彼岸」ではナポレオンを取り上げていますね。
あくまで、当時の状況を書いただけでしょうから、現代ではすでにその段階はすぎているのかもしれません。
ニーチェに関しては、精神の位階を論じた段階で、そこに上下は存在していると言えます。
ただし、実際の社会的階層とは、対比はしていますが、必ずしも一致はしないでしょう。
「ニヒリズムの宗教」については、それ自体が空虚である(もしくは、空虚に向かう)と言う事のようです。
仏教に関しては、解脱を目指す以上、ある意味当たり前の事です。
神の問題を解決していると言う事の真意はわかりませんが、原始仏教が哲学的に内面だけに向かった事を示しているのではないでしょうか?(そういう意味では、大乗仏教の事は意味していないと思います)
少なくとも、ルサンチマンは無いと言う事だと思います。(あえて言えば、神と言う概念に触れる必要が無かったと言う事が正解なのかもしれません)
ただし、仏教自体も「ニヒリズムの宗教」であり、「力への意志」を否定した宗教として、それが衰退に向かう事を示唆しています。
必ずしも、ニーチェの真意では無かったのでしょうが、位階の思想は、そこに人間(精神)の序列を生み出してしまうのは確かです。
ただし、「超人」は、外的なものに対して、相対化する必要は無いので、そこに位階は存在しないんです。(つまり、位階は「超人」でない、人間にしか存在しない事になります)
これは、ニーチェの挑発でしょう。
位階に反発を持つならば、「超人」になれば良いと言う事なんでしょう。
ニーチェ自身は、自分の思想を受け入れろとは言っていません。
「超人」であれば、ニーチェ自体をも乗り越えなければいけないからです。(ニーチェが「超人」になれたかは、わからないですけどね)
ご回答をありがとうございます。
★ つまり、キリスト教が空虚である事に気付いた
☆ と言うために《神は死んだ。われわれが殺した》と言うのかなぁ
という疑問なんです。
感性と思考とを超えたところに想定する普遍神について オシへない
し観念(つまり 思考の問題になります)としての神をその思いにお
いて抱く・・・のならすでにその時点で 神は《思念》に成り下がっ
っています。
死ぬも何も 神ではなくなります。そう表現して一件落着としないか
ぎり どこまで行っても 観念論に終わるのではないか。
★ カントの「神」の存在証明がトートロジーなのは確かなんです。
☆ 《存在》は 自同律そのものなはずです。
それに《物自体》は 分かり得ない(ほんとうには 分かるか分から
ないかが分からないのですが)として別枠としたのは それはそれで
筋が通っていると思うんですが。
《道徳あるいは格率》は 物自体ないし神とは切り離して論じるべき
でしょうね。
そして何よりもかによりも 神は想定です。無限がその説明手段です。
★ 救済は、信仰の元に保証されているのでは?
☆ それがオシへでしょう。オシへは 思考の問題ですから 神では
ありません。善悪や義不義を超えたところの神を信じる(心に受け容
れる)のが 信仰であり愛であり希望であると理解しています。雲を
つかむような話です 初めっからです。
善悪や義不義を超えているというのに 善や義やあるいは救いをのみ
見ようとする。これは 人間の側のしわざです。
これは 空虚(ニヒリズム)だと言うほど問題ではないと思います。
神と人間が思惟しうる観念の神とを混同しているというだけです。
だけれども このような《取り違え》は ほんものの普遍神の仮りの
代理(あるいは 偶像)ではあり得ます。それを補助線として正解に
みちびかれ得ます。
★ 「ニヒリズムの宗教」
☆ と呼ぶというのは 筋が違うと言いますか 神についての人間の
理解にとって建設的ではありませんね。
★ 位階に反発を持つならば、「超人」になれば良いと言う事なんで
しょう。
ニーチェ自身は、自分の思想を受け入れろとは言っていません。
「超人」であれば、ニーチェ自体をも乗り越えなければいけないから
です。
☆ ほかの論点を割愛しましたが この命題でよいのでは? つまり
《無》。
No.3
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
(d)に関してですが、「一つの古い宗教上の方式」→信仰ですが、ニーチェの言う「信仰」はキリスト教(一つの古い宗教)的な信仰では無く、より深い意味としての信念(もしくは「価値基準」)を意味しているのではないでしょうか?
文脈的には、「信仰」→「高貴な魂が自己自らについてもつ何らかの根本確信」となります。
これは、「信仰」の対象が、自分の内にしか存在しない事を意味します。
ここに、怖れがあるでしょうか?
「求められもせず 見いだされもせず 恐らくはまだ失われもしない或るものである。」は、すべてを否定で表すことによる「神」との対比だと思いますが、人間の「生」の価値そのものを意味していると思います。
ニーチェ自身は、実践的な「生」を追求して、その理想形としての「超人」を想定したんだと思います。
「神」が死んだ(もしくは殺した)のは、キリスト教徒そのものでしょう。(殺したと言うと、「神」そのものが存在したような感じがしますが、少なくともキリスト教的な「神」自身がニヒリズムですから、それ自体存在していたような幻想と言う事かもしれません)
なぜか、ニーチェも我々と書いているので、自身も殺した内の一人です。(キリスト教徒だった事があるからでしょうね)
ニーチェは、キリスト教も仏教もニヒリズムの宗教としていますが、仏教に対しては「衛生学」として、その実践に対しては、キリスト教より100倍優れているとしています。(仏教はルサンチマンを排除している点と、神の概念を解決している点)
その事による消極的ニヒリズムからの脱却としての「生」を生き抜けるのが「超人」なのでしょう。
ニーチェの想定する「超人」は、現実の「生」に対する恐れは持たないのでは無いでしょうか?
なお、「善悪の彼岸」で「高貴」を打ち砕いたのは、ルサンチマンそのものです。
「神」=キリスト教的価値観のみを恐れて、怖れるべき「人間=高貴」を排除したと言う事です。(キリスト教的な「善」「悪」の価値観が勝ったと言う事です)
ニーチェが批判したのは、あくまで、かなえられる保証の無い「希望」に基づいて、信仰を強制する「宗教」であって、「信仰」=「生」を実践する根拠、を否定しているわけでは無いでしょう。(否定は、主に「一つの古い宗教」に向けられています)
キリスト教が、「神」としてのキリストを作った時に、キリストを殺してしまったわけです。(ニーチェは、実践者としてのキリストが、「神」とされた事を批判しています)
ご回答謝謝。
★ ニーチェの言う「信仰」はキリスト教(一つの古い宗教)的な信仰
では無く、より深い意味としての信念(もしくは「価値基準」)を意味
しているのではないでしょうか?
☆ (あ) 字面では:
▲ 一つの古い宗教上の方式を新しく かつより深い意味において再び
採用して言えば
☆ のごとく《古いから新しいへ および浅いから深いへ》の衣替えを
内容としていますが 《再び》によってやはり《宗教上の方式》を言っ
ていると読みました。
(い) ただし確かに《自己〔の高貴な魂〕》への《信仰・確信》とい
うことですので 《信念(もしくは「価値基準」)》とはっきり言いか
えたほうがよいようです。
そしておっしゃるように:
★ 「信仰」の対象が、自分の内にしか存在しない事を意味します。
☆ ことは 大きな問題であると見られます。《観念の神が 倫理規範
としての抑制力になるようなまさに観念としておのが経験思考の内にあ
る》ことと けっきょくさほど違わないと成り得ます。
★ 「求められもせず 見いだされもせず 恐らくはまだ失われもしな
い或るものである。」は、すべてを否定で表すことによる「神」との対
比だと思いますが、人間の「生」の価値そのものを意味していると思い
ます。
☆ ここはニーチェにしては しゃれていますね。確かに普遍神の信仰
を示唆するとも見られます。そのもとに《人間の「生」の価値そのもの》
があると解釈し得ると思います。
★ ニーチェの想定する「超人」は、現実の「生」に対する恐れは持た
ないのでは無いでしょうか?
☆ ちょっと主題が大きすぎるように思いますが そうですね。《人・
対・猿》の図式に 《超人・対・人間》が当てはまるのだとしたら《現
実の「生」に対する恐れは持たない》のでしょうが それは《この世界
に対する苦手意識としての恐れ》を持っている証拠であるようにも見ら
れませんか?
★ キリスト教が、「神」としてのキリストを作った時に、キリストを
殺してしまったわけです。(ニーチェは、実践者としてのキリストが、
「神」とされた事を批判しています)
☆ これは 一つの見解でしょうが 伝統的な神学はそうは見ていない
ですね。
《王ないし政治的解放者としてのメシア》としてなら人びとがこしらえ
るものですが 神としたのは《想定》ですから。
補足欄へ。
No.2
- 回答日時:
他人と比較して自らを「高貴」たらしめようとしたり、
社会的な(あるいはモラリスティックな)価値基準に
従がおうとしたり、ずいぶん自意識過剰な事だ。
ご回答をありがとうございます。
☆☆ ~~~~~~~~~~~
1. 《神は死んだ》と言う・かのニーチェが 《 信仰 / 根本確信 》とは
おかしくないか?
~~~~~~~~~~~~~
☆ といった疑問を述べてその内実を問い求めることは:
★ 他人と比較して自らを「高貴」たらしめようとしたり
☆ している。という意味ですか?
(ニーチェの言う意味かどうか知りませんが わたしの心はもともと高貴で
すよ。いちいち高貴たらしめようとする必要はありません)。
★ 社会的な(あるいはモラリスティックな)価値基準に従がおうとしたり
☆ ここは マチガヒとしてでもこうではないかという推測による読み取り
すらが 出来ません。いったい何のことかと。
(分かりません)。
いづれにせよ これら二つのことが事実であり心の真実であるとすれば:
★ ずいぶん自意識過剰な事だ。
☆ という判断を下したよという回答でしょうか。
最初の判断は 的をはづれています。
二つ目のは 意味が取れません。
よって結論についても 何の意味も取れません。補足要求です。
No.1
- 回答日時:
ニーチェは、キリスト教の根源的意味を追求して、それを批判しました。
したがって、ニーチェにとっては、(キリスト教的な押し付けられた通俗的な)神は死んだ(不要になった)わけです。
したがって、信仰自体を否定しているわけでは無く、信仰を新たに再構築したわけです。
信仰とは、人間(個人)の価値判断の基準(根本確信)として捉えなおせば、高貴な魂は、自己に対して信仰(根本確信)を持ち、畏敬すると述べているだけです。(この場合の高貴は、自己以外の判断基準を持ちませんから、神が死んだ事とは、一切矛盾がありません)
高貴に関しては、その他にもいろいろ記載されていますが、基本的には、「高貴」であるためには、自己に対しての信仰のみによって、行動できる存在である必要があると言う事です。(しかし、その「高貴」さ故に、それが砕かれるあやうさとは常に同居しているとは言えるでしょう)
一つのレトリックとしては、「盲信」と言う意味では、なんらかの宗教の盲信的信者と「高貴」な魂の「信仰」は区別できないとは言えるでしょうね。(それ以外の価値基準を持ちえないと言う点についてです)
思想としては、自己超克出来る「超人」を想定した思想ですが、そこまで到達するには、相当「高貴」な魂を持たなければ無理だし、その状態で社会と立ち向かえるだけの力が無ければいけません。
りゅぱん344さん お早うございます。ご回答多謝。
ツッコミ魔になります。
★ (キリスト教的な押し付けられた通俗的な)神は死んだ(不要になっ
た)
☆ ヘーゲルがすでに 《神は死んだ》と言っていたとか。
もし《考えるべきオシへとしての・観念の神》なら 《死んだ(不要にな
った)》と気づいたときには そのように《観念のではない超越的な信仰
の神》が思考ないし思念としての観念の神にすり替えられた時点で・つま
りは宗教の説く神そのものが すでに〔普遍神としては〕死んでいる。
自分たち人間が神をナイフで刺して殺したのだとニーチェは言っていたは
ずです。観念の神は ころす必要はなく 初めから死んでいると言うべき
です。
★ したがって、信仰自体を否定しているわけでは無く、信仰を新たに再
構築したわけです。
☆ とのお考え。その可能性を思うべきでしょうが いま上に述べた事情
と理由からは そういう読みは出て来ないのではないかと。
聖書をいい加減けなしていますし そもそもアンチ・クリストです。とい
うことは 宗教のおかしな神だけではなく信仰の神についても ニーチェ
の中ではお呼びでない。ということだったのでは?
つまり《無い神》としての普遍神信仰が考えられますが これもニーチェ
の場合には 全体として当てはめづらい。
( d )の信仰は 字面からは《宗教上の方式》を踏襲しています。
同じく――おっしゃっているように――《根本確信》は 《自己自ら〔の
高貴な魂〕についての》ものですし ( e )の《畏敬》も同じくです。
信仰なら 神についてきよらかなおそれを抱くものと考えます。
すなわち
★ (しかし、その「高貴」さ故に、それが砕かれるあやうさとは常に同
居しているとは言えるでしょう)
☆ というのは 《おそれ》が神に対するものではないからです。
すなわち 《オシヘの観念の神》なる宗教の場合と結局は同じであり 経
験思考における思念としての《確信と畏敬》でしかない。
すなわちおっしゃっています。:
★ 一つのレトリックとしては、「盲信」と言う意味では、なんらかの宗
教の盲信的信者と「高貴」な魂の「信仰」は区別できないとは言えるでし
ょうね。(それ以外の価値基準を持ちえないと言う点についてです)
☆ 《超人》は《大自然》だまではよいかもですが。
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№3補足(1)
★ 「神」が死んだ(もしくは殺した)のは、〔ニーチェをふくむ〕キリスト教徒
そのものでしょう。
▲(『喜ばしき知識』125番) ~~~~
神は死んだ!
死んでしまい 蘇ることはない!
しかも 我々が殺したのだ!
殺しの中の殺しをした我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?
これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフに
よって血を流して死んだのだ。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ №1お礼欄に書いたことよりほかに何か言うべきことが見つかりません。よく分
からないのです。
★ 少なくともキリスト教的な「神」自身がニヒリズムですから、それ自体存在して
いたような幻想と言う事かも
☆ という見方をも成し得ないでいます。
普遍神に ニヒルも人間の思い描くアールマイティ―も無いと見るからです。逆にす
べてを含むとさえ見られはしますが。
№3補足(2)
★ ニーチェは、キリスト教も仏教もニヒリズムの宗教としていますが、仏教に対
しては「衛生学」として、その実践に対しては、キリスト教より100倍優れている
としています。(仏教はルサンチマンを排除している点と、神の概念を解決してい
る点)
☆ (う) 《神の概念の解決》とは どういうことでしょう?
(え) ブディズムには六道輪廻があります。《ルサンチマン》をも諦めさせ現世
では大人しく振る舞わせ得ます。つねに《大化城》なる――三世にわたる永遠のま
ぼろしの――お花畑幻想があります。
(お) 輪廻転生説がやはり三世にわたる因果応報を人びとに信じ込ませ得たとす
るなら 確かに精神衛生は良好な状態を保ち得る側面があるようです。ただし こ
れもやはり幻想です。利害関係に基づこうとするグローバリズムの前に敢え無く潰
えました。
(か) クリスチャンのニヒルは十字架だけなのでは?
№3補足(3)
★ なお、「善悪の彼岸」で「高貴」を打ち砕いたのは、ルサンチマンそのものです。
「神」=キリスト教的価値観のみを恐れて、怖れるべき「人間=高貴」を排除したと
言う事です。(キリスト教的な「善」「悪」の価値観が勝ったと言う事です)
☆ ここはよく分かりません。読み落としているとしたら おしえてください。
でも卑賤を貶めていますよね?
★ ニーチェが批判したのは、あくまで、かなえられる保証の無い「希望」に基づい
て、信仰を強制する「宗教」であって、「信仰」=「生」を実践する根拠、を否定し
ているわけでは無いでしょう。(否定は、主に「一つの古い宗教」に向けられていま
す)
☆ (き) 《かたちのないものが希望である》(パウロ)。もともと《保証はない》
のでは? たぶんニーチェの無知なのでは?
(く) 《宗教》はすべからくアホンダラ教であることについてはもう触れません。
闇を照らすだけではなく 心の灯心をともすというイエスのハタラキについて。
○ 人の内から生きた水が湧き出る
▲ (ヨハネ福音7:37-39)
37: 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の
内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われた
*(註) 《聖書に書いてあるとおり》とは:
▲ イザヤ書55:1 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
▲ 同44:3
わたしは乾いている地に水を注ぎ
乾いた土地に流れを与える。
あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
あなたの末にわたしの祝福を与える。
▲ 同58:11
骨に力を与えてくださる。
あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。