ここに質問させていただくのは初めてです。
僕は中二なのですが、歴史の授業でディベートをすることになりました。
しかも明日なのです。
内容は『鎖国はすべきだったのか』です。
資料を探したのですが、あまりいい資料が見つからず、
ここで皆さんの知識をお借りさせて頂こうと思います。

鎖国をしたことによって、どんなメリットがあったのでしょうか。
海外との国交が途絶え、日本独自の文化が発展したんじゃないかなぐらいにしか考えられません。
ディベートは立論、第一反駁、第二反駁と3つに分かれています。

なぜ鎖国をしたのか。
鎖国によってどんなメリットがあったのか。
開国のきっかけはペリーの来航だと聞きました。
なぜ開国したのでしょうか。

その辺について皆様の知恵を貸してください。
どうかよろしくお願いしますm(_ _)m

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A 回答 (4件)

忘れてはならないことは、日本は完全に外国との関係を絶っていたたわけではない、ということです。

例えばオランダとは幕末まで通商が続きます。朝鮮からは将軍が変わるごとに通信使(お祝いを述べに来た人たち)が来ていましたし、清(中国)に対しては日本から通商を申し込んだのに断られる始末でした。
 ではなぜ、完全な鎖国を行わなかったのでしょうか。鎖国を行った理由としては、今までの回答者の方々が述べておられる通り、キリスト教を恐れるあまりでした。しかし、完全に鎖国をすれば、諸外国と貿易ができなくなってしまいます。例えば、特に重要な輸入品である「生糸」が全く入ってこなくなります(当時日本では、ほとんど輸入に頼っていました。これがなくなれば服が作れなくなります。ちなみに、オランダ、清は生糸の輸出国です)。つまり、国の安全を守ることと、対外貿易との関係をうまくすり合わせた物が鎖国といえるでしょう。ですから、僕の意見としては「鎖国はすべきだった」というよりも「せざるをえなかった」ということになります。
 ちなみに鎖国期において、独自の文化だけが発展したわけではありません。「杉田玄白」は蘭学(オランダの学問)をもとに大成した人ですしね。
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1.キリスト教になり、ヨ-ロッパに植民地になっていた.またヨ-ロッパのそれぞれの国の紐付きになり,ヨ-ロッパの争いが,そのまま,日本に持ち込まれて内乱が絶えなかったと思います.といえども長崎,出島からは世界の情報は入っていた.


2.海外からの干渉がなくなり,国内の統治を安定し,とにかく,戦争がなくなったことで,そして日本の文化も高めていった事、その当時としては世界でも人口の多い都市としての江戸になった。
3.逆に「井の中の蛙」になった,世界の情勢を庶民は知らなかった.ヨ-ロッパの文化をとり入れることが少なかった.海外との交流ができずに、外国人に対して,アレルギ-のようなものがいまも続いている。
4.下記の質問にも該当すると思いますので,ご参考にしてください.

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=90382
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鎖国をしたからこそ、徳川幕府が長期にわたって政権を維持できたのでしょう。

鎖国のきっかけはキリスト教が伝来して広まる機運が高まったため、「人間は神の下で平等」というキリスト教の教えが、封建体制を足元から揺るがしかねないと、判断したためです。徳川家ではなく、神に忠誠を誓うことは、施政者に不利に働きます。
しかし、キリスト教の布教を許した多くの諸国家が、植民地化されてしまったという事実からみると、結果的に日本の独立を守った、ということになりますね。
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一部についての私見を;


開国のキッカケはペリーの来航であるとも言えますが、直接的にはアヘン戦争がキッカケでしょう。
アヘン戦争の情報は十二分に幕府に伝わっていました。
そして、日本も同じように攻められ、占領されてしまうのではないかという恐怖に怯えていました。
そういうときにペリーがやってきたのですネ。
タイミングが違っていてアヘン戦争よりも以前であったならば、どうなっていたか神のみぞ知るというところでしょう。
以上kawakawaでした
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Q徳川時代の鎖国について

徳川家光は鎖国をしました。
これによって日本はどのようなメリットとデメリットがあったのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

これまでの考え方:(通説)
(1)「神の下では、万民が平等」という教えが、徳川幕府を頂点とした「封建社会の秩序」を乱しかねない。などの理由が挙げられていますが、戦国時代あたりから日本に「布教活動」を活発に行い始めたのは、主に、イギリスやポルトガル、スペインを中心としたキリスト教の中でも、カトリック系の宣教師たちであった。
(2)そして、確かに、私たちは、学校教育などの現場で「キリスト教徒」の進出に恐れて、日本が植民地化されるのではないか、と言う「懸念」から「鎖国」をした・・・と、習ってきましたね。
(3)しかし、長崎の出島においてはオランダとの交易は「許可」をした。
これには、オランダも植民地化を推進する国ではありましたが、一言で言うと、日本から「輸入」する「産物」が乏しかった。つまり、東インド会社などのように、当時、ヨーロッパが欲しがるような「香辛料」などは、日本の風土の中では、全くなかった。
さらに、金銀などにしても、当時は「銀」が主な流通貨幣でしたが、メキシコにおいて銀山の開発が本格化して、大量に輸出されたため、「黄金の国ジパング」とは言われても、その産出量は比較にならないほど少なかったためにスペインはいち早くメキシコとの交易に転じた。
そして、オランダはキリスト教の中でもプロテスタント系が多く、東インド会社を巡っては、オランダはイギリスに勝利をしイギリスは排除され、日本からも撤退せざるを得なかった。しかし、すでに、日本が戦国時代頃から布教がされていたカトリック系をプロテスタント系に改宗せよ、と言っても、すでに根付いてしまったものを覆すことは、非常に困難であり、無理だと考え、布教活動に対する「魅力」は何もなかった。
(4)そこで、布教活動をするよりも、交易による利権に目を向けた。

もう一つの考え方:(日本側)
(1)どのような国の支配者たちも、自らの権力の「維持」「強化」を目指すものであり、海外との交渉で諸問題が発生するよりも、「閉ざされた社会」の方が「管理」をしやすい。
(2)当時の諸外国と言えども、中国や朝鮮でも同様に「閉ざされた社会」であり、例えば、明にしても、朝貢以外を排除し、中国人の海外渡航を禁止している。
(3)幕府としては、「開国」することにより、日本の諸藩が貿易による「財力」や「兵力」の拡大を強く恐れた。
(4)ただし、こうなると、諸外国の「情勢」が何も見えなくなって、いわゆる、「独裁国家」になるため、幕府権力だけでは日本を「独裁的」に統治する力は、まだ「完全」とは言えず、とは言っても、幕府権力という独裁的立場を確立するために、「布教活動をしない」という約束のもとで、長崎の出島のみでのオランダとの交易を許可した。
そこには、日本の諸藩を介入させず、幕府だけが「富」と「情報」を独占するためであった。
しかし、幕府の力が、まだまだ弱いことを印象付けたのは、寛永14年(1637)10月25日より発生した「島原の乱」では、幕府軍は苦戦をし、オランダに依頼をして、海上から原城への砲撃をさせています。
(5)「鎖国」をする・・・と、言うことは、とりもなおさず、国家の中だけで「自給自足」をすることになるわけですが、秀吉の頃からは、日本国内でも「灌漑」「治水」事業が発達して「新田開発」なども盛んになった、また、「農業技術」や「農機具の発明」などで徳川幕府としては、「国内生産」「国内消費」だけでも統治できる・・・と、考え「鎖国」に踏み切った。
(6)やがて、幕府権力も充実してくると、海外との戦いでも、必ずしも「最新の兵器」だけで勝てるわけもなく、「兵力数」や「食料の補給路」で、さらには、戦国時代としう戦いにおいての「戦略」や「戦闘技術」では、幕府は諸外国に対抗できる・・・と、考えた。
これには、秀吉が朝鮮出兵で「補給路」を絶たれて敗北した経験が、そうした考えとなった。
従って、徳川幕府としては、「鎖国」をすると同時に「海外進出」には一切目を向けていない。
寛永12年(1672)6月25日、幕府評定所の話し合いで酒井忠勝は、
「我々は、他の人の奉仕を受けることができるかぎり、日本の船を国外に渡航させる必要はない」
との諮問を出している。
(7)幕府は、一気に「鎖国」をしたわけではなく、徐々に発令していった。
*慶長17年(1612)、キリスト教禁止令を出す。
*寛永10年(1633)、奉書船(渡航が許可された船)以外の海外渡航を禁止。
*寛永12年(1635)、日本人の海外渡航と帰国を禁止。
*寛永14年(1637)、島原の乱。
*寛永16年(1639)、ポルトガル船の来航を禁止。
*寛永18年(1641)、オランダ商館を平戸から長崎の出島へ移転。
(8)また、「鎖国」とは言っても、「四口(よつのくち」と呼ばれて、
*中国から琉球へ、そして、薩摩藩を通じて幕府への路。
*中国から朝鮮へ、そして、対馬を通じて幕府への路。
*中国やオランダから長崎へ、そして、幕府への路。
*蝦夷地(アイヌ)から松前藩を通じて幕府への路。
(ただし、松前藩には40%位の課税をしたとか)
が、開かれていました。

「鎖国」という言葉について:
(1)ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが江戸旅行をして、帰国後に書いた「日本史」(1712刊)の中にある、
「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、また、此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」
と、いう一文を、蘭学者である志筑忠雄(しづきただお)が享和元年(1801)「鎖国論」において初めて使用した「造語」である。
(2)しかし、嘉永2年(1849)に成立した「徳川実記」では、寛永12年(1635)の措置を「海禁」と書かれている。
(3)近年、「鎖国」という言葉は、研究者の間でも使われなくなってきており、学校の教科書などでも、山川出版「新日本史」では、本文中には一切「鎖国」という文字は出てきていない。
(4)著者の東大教授藤田覚氏によると、
「幕府は、最初から鎖国を意図したわけではない。その状態が、たまたま200年ほど続いたから『なんとなく鎖国』だった」
と、考えた方が自然ではないか・・・とコメントしている。

結論:
>>これによって日本はどのようなメリットとデメリットがあったのでしょうか?

メリット:
(1)植民地化されずにすんだ。
(2)諸国の大名が幕府よりも経済的優位にはならなかった。
(3)幕府の「独裁体制」が一層強固なものとなった。

デメリット:
(1)諸外国の政情が幕府の独占で、諸国の大名たちには、海外情勢が理解できなかった。
(2)物産が国内の取引だけであったので、一部の「発明」や「工夫」などはあったが、画期的な進歩がなくなってしまった。
(3)農業依存度が続いた。

このようなところでしょうか。

少しでも、あなたのお役に立てば・・・。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

これまでの考え方:(通説)
(1)「神の下では、万民が平等」という教えが、徳川幕府を頂点とした「封建社会の秩序」を乱しかねない。などの理由が挙げられていますが、戦国時代あたりから日本に「布教活動」を活発に行い始めたのは、主に、イギリスやポルトガル、スペインを中心としたキリスト教の中でも、カトリック系の宣教師たちであった。
(2)そして、確かに、私たちは、学校教育などの現場で「キリスト教徒」の進出に恐れて、日本が植民地化されるの...続きを読む

Q開国のメリット・デメリット

学校の社会のテストでこういう問題が事前に配られたのですが・・
        --問題--
ぺリーの来航より日本は200年以上続いてきた鎖国政策をやめて開国を決断した。この開国について次の問いに答えなさい。

(1)あなたがもしこの時代に生きていたとしたら開国に賛成か反対かをそ
 の理由を明確にして答えなさい。


というものです。。テストがもうすぐなのでできれば早めにお願いします。。

開国のメリットとデメリットを書いてくださるだけでいいです!!
本当に困ってるのでお願いします!!!

Aベストアンサー

 立場によります。
 (1)幕府のトップであれば様々な情報(オランダからの)に接しています。1840年に中国がアヘン戦争でイギリスに負けたとか、アメリカが艦隊を派遣してもうすぐ日本に来そうだとか。
 この場合は、基本的には開国を選択するでしょう。戦っても負けそうだから。
 (2)それ以外。ろくに情報がない場合、「外国人」=「怖い」というイメージがあったり、「日本は神様の国なのに、外国人が土足で入ってくるのは許せねぇ!」という考え方ですから開国にはとにかく反対!ということになるでしょう。
 「この時代に生きている」という設定は、この二種類の考え方しかない、という結論となります。
 つまり、「開国のメリット・デメリット」というのは、現在(2008年)から見た、という事になりますから、「開国してどうなったか」が分かっていることになり、「この時代に生きていた」とは別物であることになります。

Qどうして日本は植民地化されなかったのですか?

 ペリーが黒船でやってきて、開国を日本に迫りましたね。ですが、どうしてその後、日本は色々な国が責めに来たのに、植民地化はされなかったのでしょうか?まとめるのは難しいと思いますが、できるだけ簡潔に教えてください!

Aベストアンサー

1.日本の統治システムが良かったから.内乱もなく,外国が入るすきがなかった事.--ペリ-提督がこの国は将来脅威になると思っていた-と書物で知りました.
2.その当時の幕府には.海外からの植民地になった中国などの情報が入り,植民地にならないように防いだのです.そのときは天皇は攘夷を考えていたのは,井伊直弼の暗殺で分かるように、攘夷派からは.井伊直弼は朝敵のように思われていたのです.
3. 薩摩や長州がイギリスとの戦いで簡単に破れて,攘夷では勝てない事を知った事も影響しているでしょう。

Q有機物を燃やすと二酸化炭素と水が発生するのはなぜ?

なぜ、有機物を燃やすと二酸化炭素と水が発生するのですか?中学一年生に分かるぐらいで教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

生合成の中で、一番最初に習う光合成の例で行きますね。
植物の体の中で、
 呼吸で吸った二酸化炭素

 水
から、植物の体が作られます。この植物の中で作られたモノを「有機物」と呼びます。(ちなみに動物でも似たことができますが)

つまり、こうやって作られた有機物は、二酸化炭素と水からできているんですね。光合成で作られる有機物を炭水化物と呼ぶのは、二酸化炭素と水からできているからです。

燃やす、というのは、呼吸と同じで、光合成の反対の反応です。
なので、光合成で作られた有機物を燃やすと、二酸化炭素と水に戻るんです。


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