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田沼意次と松平定信のデメリット メリットを教えてください。
今度どっちの政治がいいか討論?みたいなものをします。
ちなみに私は田沼派です。この前ちょっとしたんですが、ぼろ負けでした・・・
松平の政治の悪いところ、また良いところ
田沼の政治の悪いところ、また良いところ
教えてください!詳しく書いてくださったら幸いです(#^.^#)
あと、田沼の弱いとこつかれたらなんて返せばいいと思いますか?
こう、立場ひっくりかえせるような返し方はないですか?

早めにご回答お願いします。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    詳しく書かずごめんなさい。
    なぜ田沼派なんですか??

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/26 23:41

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A 回答 (7件)

田沼意次と松平定信は、「ほぼ正反対」の政治姿勢(経済対策)で、メリット,デメリットは表裏一体の関係です。


従い、ボロ負けと言うのは、ちょっとおかしい話ですよ。

両者ともに共通する課題は、幕府の財政再建ですが、田沼は、いわばバブル経済を目指したワケですよ。
経済政策で言えば、印旛沼の干拓事業など、現在の公共事業に費用を投じるなどして、経済を活発化しました。
ルーズベルト大統領のニューディール政策の先駆け的なこと、約150年も早くやってます。
ただ、その結果、物価の上昇(≒インフレ)や、利権が生じ、贈収賄の様なことが行われたワケです。

一方、田沼の後を引き継いだ松平は、財政再建を目指し、緊縮財政の「倹約」路線。
これも財政再建としては、常套手段ですが・・・まあ誰でも考える経済対策で、江戸幕府を中興した徳川吉宗の「享保の改革」を手本にしたとも言われ、まあパクリです。

また、田沼政治の悪い部分を改善しようとしたのは判りますが、田沼のバブル路線から、いきなり180°正反対の路線になりましたので、プラス成長からマイナス成長,インフレからデフレなど、重要な経済指標が反転し、市中経済は混乱するばかり。
従い、松平定信の「寛政の改革」は、「享保」「天保」と共に、江戸時代の三大改革と言われるものの、失敗改革とも言われます。
江戸時代の経済が、米本位経済から貨幣経済へ以降しつつある等、経済が近代化,複雑化する中、吉宗時代に遡る「徳治政治」の様な、古い体制に引き戻そうとして、失敗しちゃった格好です。

定信は、学問や剣術を奨励したり、社会保障的な政策に力を入れるなど、真面目な政治家ではありますが、田沼もそれらを全く無視していたと言うことでもありません。

逆に、治水や普請なども、田沼以前から経済対策的には行われていましたが、それを国家レベルで行ったと言う点では、恐らく田沼が日本初であり、世界的にもかなり先駆者と言えるでしょう。
田沼の方は、近年で言えば、田中角栄に近い様な感じかも知れません。
角栄氏はロッキード事件などの当時は、金権政治の権化の様に言われ、日本の政治を腐敗させたA級戦犯扱いでしたが、現在は再評価を受けており、田沼も同様に、再評価する向きも多いです。
田沼も角栄氏も残念な点は、セコくない舛添前都知事みたいな感じで、政治的汚職にも手を染めた部分ですが、田沼の時代には、現在ほど「汚職」と言う概念も、乏しかったのではないかな?

すなわち定信は、厚労省や文科省,総務省あたりの大臣としては優秀ですが、こと経産省あたりになりますと、田沼が圧倒的に優秀有能です。
その両名が、首相や財務大臣として、どちらが優秀か?と言う様な話ですが。

田沼を失脚させると共に、田沼政治を全否定に近い方針で、経済政策や財政再建を推し進め、失敗した定信は、稀代の政治家であろうとは思いますが、ちょっと度量が小さいと思います。
失脚させた後も田沼を残留させ、この両名が得意分野を担当し協力していれば、素晴らしい政治が行えたのではないか?とも思われますので。

ちなみに、徳川吉宗が大岡越前を起用した様に、定信は鬼平犯科帳で知られる長谷川平蔵(鬼平)を起用した人物で、人を見る目が無かったわけでもなさそうですから、なおさら残念・・。
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何を質問されているのか分からない。

そういう頭のレベルだからディベートに負けろのじゃないですか?
本屋に行きなさい。田沼政治と寛政の改革に関する本がわんさかあります。
定信が保守派、意次が積極変革派でした。
と言うことでメリット、デメリット考えてみたらどうですか?
ただ、変革が必要な時代に来ていることを見抜いていた意次の方が現状を正しく理解していたとは言えるでしょう。
それが、八代将軍吉宗の孫である定信としては、反対せざるをえなかったでしょう。
寛政の改革は失敗します。
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治世は、協力社会です。

お金社会は、他国から舛添みたいな馬鹿垂れが入りお金の素を無くすのです。何もかも消えてしまうのです。昔から国を守るのは、治世を守る事なのにクズが何もかも無くし全ての生存が消えてしまうのです。
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今の日本も強かな外交戦ですね。

主民族を失うと守りが出来ません。テロの場合、誰を守るのかハッキリし無いのです。その為、自壊してしまうのです。お金を守っても意味が無いのです。お金の元を守っている事が重要なのです。協力がお金の元で、生産力が価値なのです。お金は、奪うと別れてしまい意味が無くなるのです。要は、生産力を作り出せることがお金なのです。
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ペリー来航から、黒船の海賊文化それの習得が、現在の日本の守りになっている事がメリット田沼派、しかし、所詮海賊、治世が壊れ藩札で暮らすようになります。

植民地から守ったが、メリットの松平定信派ですかね。当時は、植民地は、虐殺それを回避して、黒船を手に入れていきます。当時としては、強かな外交をやったと思います。
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>なぜ田沼派なんですか??



収入を米に依存する体制から、重商主義への変換を図っているなど、
西洋の社会が発展するパターンと同様の変革を起こそうとしていたと思われるから。

討論のレベルはどの程度なのでしょうか。(中学~大学、それ以上?)


補足がついたという通知が来たので見に来たのですが、御親切な方がNo2を削除したらしいです。
申し訳ありませんが、私ではなく全員への補足で教えてください。
「田沼意次・松平定信 デメリットメリット」の回答画像3
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>今度どっちの政治がいいか討論?みたいなものをします。



それは何時ですか→いつまでに回答が欲しいのか。



>ちなみに私は田沼派です。この前ちょっとしたんですが、ぼろ負けでした・・・

>田沼の弱いとこつかれたらなんて返せばいいと思いますか?

何を突かれてまけたのか不明。
それが分からない限り、対策を教えようがありません。

とりあえず、↑が不明な限り回答できません。



他人様に役に立つ回答を求めるなら、一度の回答で済むようにこれらの情報を出すのは当たり前だと思います。
この程度の事に気がつかないようでは、討論に負けるのは当たり前かもしれません。

私も田沼派です。
「田沼意次・松平定信 デメリットメリット」の回答画像1
この回答への補足あり
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Q江戸の三大改革失敗の理由

「貨幣経済の発展に伴い、米中心の経済制度が崩れてきたからどの改革も失敗に終わった。」という内容を目にしたのですが、どうして米中心の経済制度が崩れると改革が失敗に終わるのかそのメカニズムが解りません。どなたかご存知の方いらっしゃいますか?

Aベストアンサー

>「貨幣経済の発展に伴い、米中心の経済制度が崩れてきたからどの改革も失敗に終わった。」

 「へー そうですかねぇ」って感じなので、その言葉を発した人の考えを十分に理解しているとは言えない私ですが、

 たぶん、その意見はこういうことなんじゃないかと思います。

 昔は米が中心で、どれくらいの米と交換できるかという価値観で物の価格が判定されたから、米を増産し、節約し、ため込めば、それだけ財産を殖やしたことになったわけですわ。

 ところが貨幣経済になると、米は一つの商品でしかなくて、米を増やしたって財産を殖やしたことにならないんですわ。

 まあ、、例えば米1俵が2両だったときより、米を2倍増産して2倍ため込めれば、米の価値は半分の1両になるわけです(実際はそんな単純に計算できる話ではないのですが、まあ価格が下がるという話)。

 となると、いままで100俵(200両)あった蔵に2倍の200俵の米をためこんでも前と同じ財産(200両分)でしかないわけですね。

 すると、財産家になったはずなのに、武士の生活はよくならない。よくならないのに、米は貯まったからよくなったはずだと思って2倍の贅沢をするヤツが出てくる。でてくる、というより、全員そうだったというほうが正解かな。

 すると、その贅沢者に着物や家具、刀などの商品を売り込んだ商人が儲かる。米を売れば、取り扱った商人が口銭をとって儲かる。「おかしい。幕閣のやらせていることはおかしい」「改革、失敗だよね」という話になるわけです。

 上記の意見も、そんなことを言っているのではないでしょうか。

 しかしね、これは武士の観点、武士の救済という点で眺めるから失敗なんで、日本国全体からいうと、さほど悪影響はないような感じがする・・・ って話は、今回の質問とは関係ないので省略。

 それに、けっこう商人は運上金や店舗税(間口の幅を基準にしてかけられたので、昔の店舗は『うなぎの寝床』と言われる、縦に細長い造りになっている)などを取られているんで、米中心の改革だった、という見方もどうかという気はするんですけどね。

>「貨幣経済の発展に伴い、米中心の経済制度が崩れてきたからどの改革も失敗に終わった。」

 「へー そうですかねぇ」って感じなので、その言葉を発した人の考えを十分に理解しているとは言えない私ですが、

 たぶん、その意見はこういうことなんじゃないかと思います。

 昔は米が中心で、どれくらいの米と交換できるかという価値観で物の価格が判定されたから、米を増産し、節約し、ため込めば、それだけ財産を殖やしたことになったわけですわ。

 ところが貨幣経済になると、米は一つの商品で...続きを読む

Q田沼意次はどうして賄賂政治を行ったのですか?

田沼意次の時代は、賄賂政治が行われ、
政治が腐敗していたようです。
庶民からは嫌われていました。
一方で、その政策は、商業改革中心で、時代に即したものだった
ようです。
老中の位であり、お金もあったはずですが、
どうして賄賂をとるような不平等なことを行ったのでしょうか?
また賄賂政治を行いながら、20年近くも政治を牛耳って
いられたのはいかなる理由からでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 私も田沼父子のために弁護を行いたいと思います。田沼ファンです。大河でやってくれないか、と思ってます (^o^;

> 政治が腐敗していたようです。

 やっていたことから判断すると、今より立派です。例えば今は、賄賂は取らないですが、年金資金などで豪華な公務員宿舎を建てて自分たちは住み、流行るはずもないホテルをたてては1000円くらいで売却して、おかげで年金資金は不足して、多くの庶民が困っています。


> 庶民からは嫌われていました。

 改革を推進すると、概して推進者は嫌われますよ。
 戦時に平和を説く人も嫌われる。日露戦争でしたか、講和条約を締結した人(名前失念)は、日本に帰るのが怖かったという話を読んだことがあります。庶民に暗殺されそうで。

 ちなみに、田沼の後継者はもっと嫌われたようですよ。「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」でしたっけ? そんな狂歌が読まれたりして。


> 一方で、その政策は、商業改革中心で、時代に即したものだったようです。

 そこですよねぇ。本当に賄賂をとっていたのかどうか、疑問を感じさせる点は。人というものは、賄賂を取って、正しいことをやるものでしょうか。


> 老中の位であり、お金もあったはずですが、
> どうして賄賂をとるような不平等なことを行ったのでしょうか?

 外様などを中心に、大名を貧乏にするのは幕府の政策だったため、重臣への贈り物が多額でも、問題視されなかったという話もあります。これは小説ですが、「重臣に賄賂を多く出すのは幕府に対する忠義の現れ」と言われていた、というような話も。

 ちなみに、白河さんの書いた日記に、自分も若いときに猟官のため賄賂を贈ったが、少額だった、と書いてある由。


> また賄賂政治を行いながら、20年近くも政治を牛耳っていられたのはいかなる理由からでしょうか?

 表面的には将軍が支持していたから。本当のところは、優秀な人が、時勢に合ったことをやっていたからではないでしょうか。

 田沼時代の幕僚が、強権をもって反対派や庶民を弾圧した、という話は見たことがありません。

 私も田沼父子のために弁護を行いたいと思います。田沼ファンです。大河でやってくれないか、と思ってます (^o^;

> 政治が腐敗していたようです。

 やっていたことから判断すると、今より立派です。例えば今は、賄賂は取らないですが、年金資金などで豪華な公務員宿舎を建てて自分たちは住み、流行るはずもないホテルをたてては1000円くらいで売却して、おかげで年金資金は不足して、多くの庶民が困っています。


> 庶民からは嫌われていました。

 改革を推進すると、概して推進者は嫌われま...続きを読む

Q田沼意次の評価って?

息子が、歴史で「田沼意次」のレポートを書くようにいわれているようですが(GWの宿題)、文献によって「賄賂をとって私腹を肥やし幕府の幕藩政治を崩壊させかけた悪臣」という評価から「先見の明を持った改革者」と様々な書かれ方がされており統一性が無くこまってます。
 実際の所はどうなのでしょうか?

Aベストアンサー

 私も参考までに。

 「実際のところ」という「評価」というのは、存在し得ないんではないでしょうか?
 現に今実際に見ることができる生きている政治家ですら、「実際のところどんな評価をすべき人物なのか?」という点では、見解の相違がありすぎるでしょう。

 まして、実際に見ることすらかなわぬ過去の為政者となると、後世の様々な評価が羅列されるだけで、「実際のところ」は、闇の中です。

 ただ、個人的には、評価されるべき人物だとは思っています。
 したがって、レポートとしては、「なぜ、彼が、良くも悪くも評価されうる人物であると言えるのか?」という点でのアプローチはいかがかと愚考します。

 田沼意次の場合は、正確に言えば、「評価に統一性が無い」というよりも、「評価が両極端」というタイプの人間です。
 それは、とりもなおさず、彼が行った政策のベクトルを「建設的にとらえる」か「否定的のとらえるか」という、歴史家の主観が介在しやすい存在だったと言うことを意味します。

 大概の場合ですが、(良い意味でも悪い意味でも)「天才的な人」というのは、周囲の評価の落差が激しいものです。

 一例になりますが、田沼時代というのは、典型的な「貨幣経済優先政策」です。
 これは、貨幣ではなく米の石高を経済の基本とする封建制度の下では、一種の反逆行為に近いものともいえるでしょう。
 給料を「米」で支給されている武士階級以上の人間にとっては、貨幣経済の発達によって必然的に発生するインフレーションは、耐え難い苦痛であったに違いありませんし、「大権現様の教えが全て」という時代背景にあっては、許されざるべき背徳行為に間違いありません。

 しかし、経済理論からいえば、農本主義から資本主義を経て近代社会へつながるのが、まぁ、正常な社会の進化の道筋です。
 そのような「未来人からの視点」からいえば、彼は「早く生まれすぎた才人」だというのも、また間違いないでしょう。
 つまり、「幕藩政治の根本を破壊すること」を「悪」だと決めてしまって良いのか? というところは、重要なポイントです。

 また、田沼時代というのは、商家など一般民衆(特に町人)にとっては、自由を満喫出来た極めて文化的な時代であったと言えます。
 いわゆる「江戸の改革期」のように、質素倹約を強制されて、思想統制をがちがちに行われ、修正主義的な歴史観を強要されるような時代を「楽しい時代」と呼べるかどうかという点は、町人的な視点でいえば、かなり疑問があります。

 現在の国家に例えてみれば、「金日成元主席の教えを絶対とする思想統制をがちがちに行い、これに反するものは強制収容所送りであり、現行の独裁体制を維持する努力を怠らないものが社会的に賛美され、国民的な模範的な髪型まで国家が指導する、美しい理想的な朝鮮人的国家」に対して、これを内部から壊そうとする姿勢というのは、「悪臣」なんでしょうかね? それとも、「改革者」なんですかね?

 歴史というのはその点残酷でして、「成功すれば改革の英雄」、「失敗すれば逆賊の悪臣」ということになるのが、相場です。
 ですから、歴史家として最も恐れるべきことは、個人の思想によって評価を固定してしまうことの方でしょう。
 相対的な評価が出来ることは、歴史を学ぶ上でも、レポートをまとめる上でも、良いことだと思いますよ。

 私も参考までに。

 「実際のところ」という「評価」というのは、存在し得ないんではないでしょうか?
 現に今実際に見ることができる生きている政治家ですら、「実際のところどんな評価をすべき人物なのか?」という点では、見解の相違がありすぎるでしょう。

 まして、実際に見ることすらかなわぬ過去の為政者となると、後世の様々な評価が羅列されるだけで、「実際のところ」は、闇の中です。

 ただ、個人的には、評価されるべき人物だとは思っています。
 したがって、レポートとしては、「...続きを読む

Q江戸幕府が財政難な理由

天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?

Aベストアンサー

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんでした。
幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。
一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。
現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。
つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。
ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。
この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。

ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。
幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。
市場は全くの自由経済市場でした。
おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。
関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。
いわゆる元禄時代の到来です。
政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。
この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。
そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。
ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。

>インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?
需要と供給の関係です。
一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。
年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。
村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。
つまり一定規模以下の農家は無税でした。
この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。
大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。
他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。
田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。
禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています
ということで米の供給量は年々増えていきました。
武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。
つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。
年ごとの作況による上下は当然ありました。
一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。
食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。食材も贅沢になっていきました。
そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。
インフレになれば即値上がりしました。
つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。
武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。

>何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。
戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。
これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。
年々派手になり半端な費用ではありませんでした。
しかも最も喜ばれるのが小判でした。
江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。
大判は景物として最高のものでした。(むしろ通貨としては使われませんでした)
幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。
大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。
これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。
形式第一主義社会を生きるのは大変です。
つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。
江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。
形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。
食材も潤沢に現物が手に入ります。

蛇足
交易で得る金額などたかがしれていました。
木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。品物の価格もしれたものです。
100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。
秀吉の時代とは経済規模が違います。そもそも人口が違います。
交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。
薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。
40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。
金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんで...続きを読む

Q江戸時代に各地の特産物が生まれた背景

はじめまして。
江戸初期には田畑勝手作の禁で農民は穀物以外の栽培を禁じられましたよね。
しかし江戸中期には商品作物が栽培されるようになりました、そして各地の特産品へと変貌していきます。
しかしこの頃はまだ田畑勝手作の禁は廃止されていなかったはずです。

どのような背景から、法令を破ってまで特産品が生まれるようになったのでしょう?

Aベストアンサー

江戸時代に各地の特産物が生まれた背景

平和が続いたために農業生産・商品生産の技術が向上した。また、都市を中心に生活が向上し、ようような商品の需要が高まった。
米の生産力が向上し、商品作物を生産し、販売する余裕が生まれた。
より収益を上げるために農民の零細な農村家内工業の発達。
農業技術の発達により風土に適した特産物の生産。
大名財政の行き詰まりから商業作物・特産品栽培の奨励、保護、専売化。
当然のことですが、もともと畑作地はあり、年貢も現物と金納の両方であったこと。
年貢の金納化が進んだことにより、商品作物を作りやすくなった。
大坂を中心とする商品の全国流通網の整備により全国市場が成立し、商品化が進んだ。
米作より商品作物を作った方が収益が大きい例が多かったこと。綿などは金肥を使っても米の3倍以上の収益があがったといわれています。
農村の有力農民が土地を兼併し、商品作物の生産・流通及び金融の中心となり資本を蓄積し、豪農に成長する。
都市の問屋が豪農と提携し、商品作物の生産・流通を主導。また産地の農民に資金を出して、農村家内工業から問屋制家内工業に組織化し、特産化。

以上、分かる範囲で。

江戸時代に各地の特産物が生まれた背景

平和が続いたために農業生産・商品生産の技術が向上した。また、都市を中心に生活が向上し、ようような商品の需要が高まった。
米の生産力が向上し、商品作物を生産し、販売する余裕が生まれた。
より収益を上げるために農民の零細な農村家内工業の発達。
農業技術の発達により風土に適した特産物の生産。
大名財政の行き詰まりから商業作物・特産品栽培の奨励、保護、専売化。
当然のことですが、もともと畑作地はあり、年貢も現物と金納の両方であったこと。
年貢の金納...続きを読む

Qオランダは何故、鎖国中でも貿易できたのか?

中学の時の社会科教師が、クラスのやる気の無さにキレて教えてくれなかったのですが。

江戸時代に西洋の国なのにオランダが貿易を許されていたのは何故なんでしょうか?

オランダはキリスト教の布教活動はしなかったんでしょうか?

10年ぐらい気になってます。

Aベストアンサー

本当に大まかな話なので、ひょっとすると間違いがあるかもしれませんが・・・

安土桃山時代から江戸時代にかけて日本で布教されたのはカトリック系のキリスト教でした。広めたのはイエズス会の宣教師で、フランシスコ・ザビエルが有名ですね。

また、彼らが広めたカトリックは、偶像崇拝(キリスト磔刑の十字架や聖母図を信仰の対象とし、拝むこと)をするキリスト教なので、日本人の信徒はマリア像や十字架をあがめました。
それで、幕府がキリスト教を禁じた際、信徒かどうかを確かめるために、踏み絵をさせた訳です。(カトリックの信徒にとっては十字架や聖母図は踏めませんからね)

ところが、そのころ日本に進出していたオランダ商人はプロテスタント系キリスト教(偶像崇拝を否定するキリスト教)信徒が多かった(ここ以降は多少あやふやな記憶ですので、あまり自信ありません)ために、「我々はキリスト教ではない。証拠に十字架なんぞはいくらでも踏んでみせる・・・」というようなやり取りがあって、「オランダはは邪蘇教(ヤソ教=江戸時代におけるキリスト教の呼び名です)ではない」というのが幕府の公的見解になって、出島でのみ貿易を許可された・・・という話だったと思います。

ただ、実際は、幕府もオランダが「ちょっと変わった」キリスト教であるということは知っていたようですが、鎖国しているとはいえ、世界の状況も知っておいた方が良いということで、目をつぶっていた・・・という話もあります。

長くなってしまいましたが参考になれば・・・

本当に大まかな話なので、ひょっとすると間違いがあるかもしれませんが・・・

安土桃山時代から江戸時代にかけて日本で布教されたのはカトリック系のキリスト教でした。広めたのはイエズス会の宣教師で、フランシスコ・ザビエルが有名ですね。

また、彼らが広めたカトリックは、偶像崇拝(キリスト磔刑の十字架や聖母図を信仰の対象とし、拝むこと)をするキリスト教なので、日本人の信徒はマリア像や十字架をあがめました。
それで、幕府がキリスト教を禁じた際、信徒かどうかを確かめるために、踏み絵を...続きを読む

Q質の悪い貨幣が流通すると物価が上がる理由

こんばんは。
今日日本史の勉強をしていたら、江戸時代末期の開国後の日本で『金が国外に流出し、質の悪い貨幣が流通した結果、物価の上昇を招いた』というような記述があったのですが、まず質の悪い貨幣とはどういうものですか、またなぜ質の悪い貨幣が流通すると物価が上がるのでしょうか??
よくわからないので、どなたか教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

貨幣の元を理解すれば簡単です。現在の貨幣で考えていては理解出来ません。
昔の貨幣は金や銀そのもを形にしたものでした。従ってとの価値はその金属の価値と同じです。
ところが、政府が悪知恵を出して質の悪い貨幣を作りました。即ち今まで1枚1万円の金属で作っていた1万円小判に他の金属を混ぜて5000円の価値しかない小判をつくったとします。これが流通すると、質感その他が違うし、価値が異なると誰もが気づき、良い小判は溜め込むでしょうし、質の悪い小判は手元に置いて置きたくないので、使おうとします。だけど受け取る人は、質の悪い小判だったら2枚じゃないと1万円の価値のあるものと交換しないよ、と言うでしょうね。
だから額面上の物価があがるのです。
もうひとつのことわざ、悪貨が良貨を駆逐する。
理由はお分かりですよね。
因みに今の紙幣も昔は兌換紙幣と言って、例えば1万円(当然当時の額面は銭の単位でしょうけれど)の紙幣を日銀に持っていけば1万円分の金と交換してくれました。現在は不換紙幣なので交換してもらえません。兌換紙幣の時はインフレは起こりませんよね。
これは質問と関係ありませんでしたね。

貨幣の元を理解すれば簡単です。現在の貨幣で考えていては理解出来ません。
昔の貨幣は金や銀そのもを形にしたものでした。従ってとの価値はその金属の価値と同じです。
ところが、政府が悪知恵を出して質の悪い貨幣を作りました。即ち今まで1枚1万円の金属で作っていた1万円小判に他の金属を混ぜて5000円の価値しかない小判をつくったとします。これが流通すると、質感その他が違うし、価値が異なると誰もが気づき、良い小判は溜め込むでしょうし、質の悪い小判は手元に置いて置きたくないので、使おうとします...続きを読む

Q江戸時代、座と株仲間の違いについて教えてください

今江戸時代の復習をしていたのですが、
わからないコトがでてきました。

三大改革のトコロで、田沼時代のことです。
田沼は、運上・冥加の増収のための株仲間の奨励と
幕府専売制の導入のために座を設けましたよね。
座と株仲間、違いが分かりません。
用語集を見る限りでは、違いは
座が寺社などに属するもので、株仲間は幕府(直轄?)だということです。
大きな問題ではないのですが、教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

株仲間とは、同業者の組合で幕府の公認をうけて、全国の生産から流通までを支配して物価を安定させるために、
幕府から取引の特権を与えられていました。
その見返りに、幕府や大名に冥加金(現代の税金)をおさめて営業独占の保護を受けたのです。

座は、幕府直営の銅座・人参座・鉄座・真鍮座等を設けて、幕府による製造・販売を独占する制度で、今で云う専売制です。

参考URL:http://www.mainichi.co.jp/edu/maichu/momoko/2002/0511.html

Qオランダが鎖国中にも貿易ができた理由

鎖国中には清とオランダが出島に限って貿易を許されましたが(他に朝鮮通信使や琉球慶賀使などはありましたが…)オランダ船来航が禁止されなかったのはキリスト教布教に熱心ではなかったということを聞いたことがありますがこの理解で正しいでしょうか?

Aベストアンサー

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。

キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
独占出来ればこんなにオイシイ話はないので、表から裏からアレコレと頑張っていたようです。
(以前NHKで見た歴史番組によれば、そもそも、ポルトガルとスペインは布教目的で来日するから追い出したほうがいい、と進言したのもオランダだった、という話です)

幕府としては、キリスト教に関係の無い国となら貿易しても構わなかったのですが、それぞれいろんな事情があって、「皆そろって長崎で交易」というわけではありませんでした。
逆に言えば、長崎を通して交易していなかったからと言って、日本と交流が全く無かったわけではない、ということです。
以下、知っている限りで並べておきます。

●朝鮮王国●琉球王国●アイヌ諸族●
>>>>>それぞれ対馬藩、薩摩藩、松前藩が専門に担当。
これらの藩は、江戸時代以前からの交易相手であり、財政も交易の上りで成り立っていました。
他藩に横入りされると死活問題なので、江戸幕府成立前後は硬軟様々な手段を講じ、「対XX交易のエキスパート」という地位を獲得しました。

これら3つについては、幕府直轄の長崎を通していなかった、というだけで、日本全体で見た場合は“交易があった”と言えます。
(通信使や慶賀使は国家同士の公式の使節のやりとり。
 商売はまた別に、各藩の港でやってます)

●明→清帝国●
正式の国交は無し。民間の貿易商のみ往来。

●東南アジア諸国●
実は江戸前期には数回来た記録が残っています。
しかし、遠い上に、対日交易を独占したいオランダが妨害工作することもあって、いつの間にか来なくなってしまいました。

東南アジア諸国の物産はオランダや清の民間商人が持ってきてくれるので、日本人は別に困ることもなく放っておいたと思われます。

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。

キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
独占出来ればこん...続きを読む

Q江戸幕府の財政悪化~享保の改革前~

享保の改革において吉宗の最大の課題は財政再建でしたが、どのような経緯で幕府財政は悪化していたのでしょう。商品作物栽培の進展から貨幣経済が農村にも浸透していき、「米価安の諸色高」という状況になり、それまで年貢米を中心に徴収していた幕藩領主が困窮したということなのでしょうか?それは、享保の改革の最中に現出した状況であって、享保の改革前に幕府・藩の財政が悪化していたという理由としては適切でないとも思ったりしてます。それとも、上記の状況は享保の改革以前から始まっていたのでしょうか?それならば、納得がいくんですが。ご存知の方、どうでしょう?

Aベストアンサー

徳川幕府の税金は、原則として 検地による石高に基づく米での現物納付です、この米は大阪等の市場で相場で売り渡され、幕府や藩の資金とされました
他の回答にもあるように「米価安の諸色高」のため充分な資金を得ることは困難でした

そのうえ
米以外には、ほとんど課税されず、石高は、江戸初期のままで、農業技術が進歩し、収量が増えても、そのまま据え置かれました

ですから、江戸初期に4公6民でも、収量が3割増えれば、4公9民となり、実質税率40%が31%になり
米以外の割合が増えますから、実質税率はさらに下がります、ある資料によると農業収入の1~2割だそうです

結果として、幕府や藩の収入は江戸初期からほとんど変わらないのに、武士以外の収入は漸次増加して行き、生活レベルが向上してきました
社会全般のレベルが向上し、費用が余計にかかるようになっても 幕府・藩には増収の手立てがありません
これが根本的な原因です

商工業にも課税しようとした田沼意次のような為政者もいましたが、大勢の賛同を得られませんでした、

縮小均衡を図ろうとする吉宗のような為政者が賛同されたため、財政は悪化の一途をたどってしまったわけです

徳川幕府の税金は、原則として 検地による石高に基づく米での現物納付です、この米は大阪等の市場で相場で売り渡され、幕府や藩の資金とされました
他の回答にもあるように「米価安の諸色高」のため充分な資金を得ることは困難でした

そのうえ
米以外には、ほとんど課税されず、石高は、江戸初期のままで、農業技術が進歩し、収量が増えても、そのまま据え置かれました

ですから、江戸初期に4公6民でも、収量が3割増えれば、4公9民となり、実質税率40%が31%になり
米以外の割合が増えますから、実質税...続きを読む


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