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世界を展望してください。

§1. 疎外

(1) 自家発電をせずに ほかから電気を買うのなら エネルギー部門を自分
の手元において運営利用しない。その点で エネルギー部門を手放している。譲
渡している。あるいは 外化している。
この外化・譲渡・手放しが 疎外である。

(2) 疎外の結果は――運営管理を他人にまかせているのだから―― たとえ
ばその品質や安全性についてはこれも 他人まかせである。つまり自分の手元か
ら離れてしまっていて 自分の自由にならないという意味での疎外でもある。


§2. 物象化

(3) たとえばこの発電事業についてみても 《資本》は 自己の価値を増殖
しようとして すでに自己運動をおこなっていく。最小の費用で最大の利益を実
現しようとする自己増殖を再生産していく自己運動である。

(4) 法人という主体(?)も その経営を任された人間も その会社に雇用
される人たちも あるいは消費者ないし顧客である人たちも さらにあるいはそ
の会社の地域住民も この愛すべき《資本》さまのお通りのために――つまりそ
のモノとしての運動ないし現象のために―― みづからの存在と意志とをささげ
るというまでに到れば それは 《人間の〔行為の〕物象化》である。

(5) 人間の行為が 資本の自己運動に従い さらにはわがたましいをもその
世界の帝王に服従しささげるに到れば 物象化とは 《お金の世の中》を言う。
人間は ムッシュー・キャピタルの前にひれ伏す。いや というよりも この王
のこころ(?)をわがこころとして 一人ひとりは 王の分身となる。


§3. 理象化(?)

(6) いや これはいかん・つまりこの疎外と物象化の世の中ではダメだと言
って今度は 人間存在にかんして《こころ あるいは 精神・理性》 これを取
り出し取り立て 女王とする。クイーン・リーズンあるいは マダム・エスプリ 
のもとにささやかに生きるという。これが 理象化なる思想なり!? お花畑と
も。

(7) キング・コギトの王国と言うのと あまり違わない。かも知れない。違
いは それでも 色濃い。理性を打ち出すというよりは ハート・こころを重ん
じるところだ。

(8) ひょっとすると この理象化の動きには 例の独我論が一役を買ってい
るかも知れない。もしそうだとすれば それは あまりたたかうということをし
ない。コミュニケーションが この世の中において人間どうしのあいだで 成り
立つとは思っていない。発信はするが受信はごめんだという半鎖国政策である。
 
(9) 《科学的認識の世界に こころなる女王のもとに ささやかに生きる》
と言う。拝金主義がダメだ 精神の充足と人間の愛が大事だ ひとをころしては
いけないと唱え続ける。


    *


☆ ご教示ください。個々の事例や問題についての診断および処方箋のあと 歴
史と社会の全体にわたる処方箋までをも。

質問者には基本的には 一人ひとりの目覚めという見通しがあるのみです。この
目覚めが どこかひとつに片寄ってはいけないというかたちでの。

人象の《人象化》のルネサンスは 成りましょうか?

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    ★ もしかしてマルクスの読み直しをなさいますか?
    ☆ そういう視点の問題も出て来ますね。

    ただし 疎外と物象化についてわたしは それらを部分的に引っ張り
    出して来ているだけでもあります。マルクスの理論体系を相手にして
    いるわけではないので わたしからは 色よいご返事が出て来ない状
    態ですね。

    もし経済活動という領域が 土台を成していて社会の他のすべての分
    野を主導すると言うとしても 政治の分野で一党独裁という制度は出
    て来ない。

    企業活動等が 民主化すれば 政治もそうなるはずですし 政治が経
    済活動の民主化を主導しなければならないと言うのであれば 唯物史
    観がちょっと違った顔を持つのではないか?

    あまり自信はありません。



    それにしても――自分が設問しておきながら―― こんな大きな広い
    問題群の問題を引きずり出すとは 思っていませんでした。とほほ。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/23 08:47

A 回答 (2件)

こんにちは。


もしかしてマルクスの読み直しをなさいますか? 
今と次の時代には、どんなファンタスマゴリーがあるのか、という問いにも聞こえます。

「自分の手元から離れてしまっていて 自分の自由にならない」(疎外)

いちばん重要だと考えるのはこの箇所です。
鶏も豚も飼わず、魚も釣らず、ソーセージも干物も作らず、パンツも縫わず、薬も煎じず、賃労働と商品に浸りきるような暮らしがかつて都会に始まった時から、従順な貧乏人は自分の生さえ、商品やビジネスの思惑にゆだねています。物象化は人と人同士の関係に起きたというのみならず、人の自己自身との関係にも起きております。
けれども物象化が起こる以前では、人は身近な人々と日常の作業や労務や責任をもって自己監視を可能にしていたのであり、人はどのように人であったか、ということについて考えるならば、人の自己監視のファンタスマゴリーが手段を変えていくのだというべきではないでしょうか。
なるほど、つきあいと馴れ合いの中でもやもやしていた関係が、値札の付く商品の背後の労働対価の差になってしまった、やがて、商品そのものが交換性を超えた価値を帯びるようになると、流通の主体は物から情報にかわり、その背後で人の作業対価と格差はより精鋭化かつ背景化するのです。
物象化という構図を外してみると、人の自己監視と欲望の、範囲とスピードが変わっていくということが、20世紀を踏み越えて21世紀の現在に至り、言えることではないかと思います。
疎外された自己を超越すること、つまり自由には、いろいろありますが、贅沢は自由にきわめてよく似ています。
自分の暮らしのささやかな範囲にあらゆる生産過程と身近な人々を置いて自己監視と欲望の原初形態を模倣できる人は、同時に世界規模の交換価値の流動に関わり二重の自己監視と欲望を抱えているにちがいないでしょう。
ファンタスマゴリーは、人と人の、マスの人々の、流通の範囲と速度にかかっています。ISのテロ賛同者がネットを通して拡散するのも同じ事情によります。つまりわたしが言わんとしているのはこうです、中身が商品であろうと、お金であろうと、理想であろうと、法であろうと、心であろうと、それを運ぶ荷台や通信回線が、自己監視や欲望の程度に応じて人と人の関係を決定付け、自己疎外に対抗してきたのに他ならないだろうと。精神というものもまた、運ばれる中身であって、さほど力学的な期待に応えられるものではないでしょうよと。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

これはこれは あまがっぱさん。このところ わが質問(複数です)
は 疎外(?)状態に晒されていましたので 久しぶりに考えさせら
れるご文章を得た思いです。

ご回答をありがとうございます。

信仰の立ち場を敢えて持ち出すとしますと――信仰は 非思考の問題
ですから―― 人間の社会と歴史は あくまで自然史過程です。大前
提も中前提も小前提も ≪歴史が人間のチカラでどうにか出来るとは
思うなかれ≫です。

人はそれぞれ個別に部分的に確かに持てる自由意志を行使する。その
結果 社会の全体的な縁起として決まった事態や局面を持つに到る。

その意味で 次のご見解に同意します。
★ 精神というものもまた、運ばれる中身であって、さほど力学的な
期待に応えられるものではないでしょうよと。

その内容(形式?)はと言えば:
★ 中身が商品であろうと、お金であろうと、理想であろうと、法で
あろうと、心であろうと、それを運ぶ荷台や通信回線が、自己監視や
欲望の程度に応じて人と人の関係を決定付け、自己疎外に対抗してき
たのに他ならないだろうと。
☆ これは いくつかの分野で広く研究され取り組まれて行く大きな
問題であるようです。環境問題が 企業にとっては わしゃ知らんと
いう外部経済であったのが 内部に採り入れられつつあります。

さて お礼欄の字数制限という問題もあります。課題を挙げてみてお
きましょうか。

≪荷台や通信回線≫が 法律をとおして方向づけられるという要素もあ
るかと思いますが ひとつに≪社会の形態≫という問題があるのではな
いか。つまり ≪二階建ての構造から成る国家≫についてです。

ただしその社会の制度を変えるにしても――つまり≪自己疎外に対抗す
る≫にしても―― なおこだわっているのですが それを考えるあたま
としての知性が やはり物象化してしまっているのではないか。です。

東京都議会のドンが 利益誘導などで物象化人間であったと批判して
も その批判のあとに出て来るあたらしい提案が 同じく物象化して
いまいか? 片寄りは 是正されましょうが。

★ 自己監視
☆ という言葉をあまがっぱさんからお聞きするとは 意外でしたね。
自律ですか。

それと 歴史は展望としては どうしても・いつまでも:
★ ファンタスマゴリ
☆ として形成されざるを得ないとなりましょうか?

お礼日時:2016/08/23 08:24

いつもの2階建て社会論から見るとすれば、2階はそれはもう、物象化していることでしょう。

しかし屋上のペントハウスまで上がれば、地球上のいくつか点々と存在するペントハウスの間柄で、ちっとも物象化していないのではないでしょうか。資本主義とは、この地点の自由のためにあるシステムなのではありませんか。

あなたの大嫌いな猪突さんが、Fondation des Treilles でシュルンベルジェ流のもてなしを受けた時のことをお書きになったことがありました。魔法の冷蔵庫付きのゲストハウスで過ごしたせいで、お金の存在を完全に忘れたことを綴っておられました。資本主義の頂上ではお金がない経験によって自由を味わえる。
そして話は続きますが、先日、映画のご質問をグラスルーツさんが挙げられていて、アニエス・ヴァルダの「冬の旅」(原題は「屋根も無く法も無く」なんですが)みたいな映画を紹介してくれとおっしゃるのです。ご覧になったことがあるでしょうか。資本主義のどん底でも、お金がない経験によって自由を味わうわけです。

わたしたちの〈経験〉の背後で、存在や出来事には拡がりや速さがありますが、狭いこと、のろいこと、うといことは、経験を資本主義の頂上に近寄せないのですね。資本主義とともにある疎外の相貌って、こういうものではないかと、わたしは思っているのです。
精神やこころがどうかという座標とは無関係に、範囲やスピードにパラメータを持たせて価値化したときに、わたしたちの〈経験〉はその価値観に引きずられてしまったのではないでしょうか。人殺しが、遅い成り行きなのか、素速い成り行きなのか。精神の充足やら愛やらが、狭い行き渡りなのか、広い行き渡りなのか、そんな違いだけが、くっきりとしているんじゃないかと思うんですけどね。
ま、やや書き殴りですので、またいずれ。
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この回答へのお礼

ふーむ。うーむ。まづは ご回答をありがとうございます。

呼び方がヘンかも知れませんが 何て言いますか 教養トークとして
聞かせますし 思索を呼び起こさせますよね。

≪冬の旅≫は しかしながら――ヰキぺ参照しただけですが―― ≪ ni
loi ≫が 無法地帯なのでしたら ≪自由≫について疑わしい気持ちにな
らせますね。

あるいはつまり ≪屋根もない≫のなら 世の中の物象化の波をもろに
かぶっているとも見られます。

そのお話は なぜか清水の次郎長一家のことを思い起こさせましたが。

片や:
★ しかし屋上のペントハウスまで上がれば、地球上のいくつか点々
と存在するペントハウスの間柄で、ちっとも物象化していないのでは
ないでしょうか。
☆ 確かに物象化の仕組みの頂点に登りつめれば お金は自由に成る。
そして お金から自由にさえ成れる。

でもそのことも  ≪お金の世の中≫なる仕組みがあったればこそかも
知れない。


人とその社会というのは もともと――潜在的に・あるいは理念的に
―― ふつうに・自然に≪人としてのいとなみたる事象・現象≫である。
つまり ≪人象≫でありすでに人象化している。

≪疎外≫は この人象を分断するも けっきょく≪分業≫であってそれは 
社会全体として≪協業≫である。

≪協業≫という結果を 資本主義のペントハウスに登りつめて 自由に
享受することが出来る人間と そしてその反対の極には 分業という仕
組みの一角をも占めることが出来ない人たちがいる。

ペントハウス組は 疎外された人象が――お金のチカラにより――取り
戻された。

≪冬の旅・さすらう女≫のクラスは 言わば≪全疎外≫に遭っている。む
しろかえって≪協業≫のおこぼれに預かっていることが出来る時間があ
る。その意味の自由へと押し流された。

それもこれも ≪屋根があり法を持つ≫いわゆる中間層の人間が 分業
=かつ協業のからくりの中でそれぞれの部分的な位置を占めて≪がんば
っている≫ゆえである。

★ 精神やこころがどうかという座標とは無関係に、範囲やスピードに
パラメータを持たせて価値化したときに、わたしたちの〈経験〉はその
価値観に引きずられてしまったのでは。
☆ ここは むつかしいですね。仕組み=からくりの中にあってあたか
も一点突破をねらって 内部活性化しようとした?

お礼日時:2016/08/24 23:00

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