こんばんは。
隠しても仕方がないので、種明かしをしますGrass_Rootsです。
さて、最近フェイスブックで、偶然日本のアート・サークルというもののメンバーになりました。
わたしは2007~8年にOkwaveを退いてからずっと海外拠点のSNS-ブログをやってきて、そこでは(広い意味での)アートがお互いのコミニュケーションの手段でした。(わたしと同じ程度の英語力しかないヨーロッパの人も多いので)
今回そのサークルで、「美術館に子供を連れてゆく際のマナー」、あるいは「美術作品についての知識はどこまで必要か?」といったことが議論されていました。
先ず第一に感じたのは、「美」を観る際にはたして「ガイド」は必要か?ということです。
個人的にはひとつの作品に虚心坦懐に対峙すること、そこで自分が何を感じたかを反芻してみること、
それでいいのではないかという気持ちがあります。
更に美術館内での作品鑑賞の際のマナーについても、日本と海外の違いがあるように思います。
以前SNSの友達だった帰国子女の女性は、「外国では生活とアートが地続きになっている」
と言っていました。たしかに日本人のアートに対するスタンスは随分アカデミックな気がしています。
またわたしの乏しい経験から、日本人は作品を分析的に批評することには長けているけれども、
外国の人が絵や写真を観ると、(無論彼らは専門家ではありませんが)表現力が豊かだなと感じることがしばしばです。例えば、港の桟橋のベンチにうなだれているホームレスの男性のモノクロ写真を観て、
「きっとこの人は語ることをたくさん持っているでしょうね」というような言い方をします。
一枚の絵からもうひとつの絵(物語)を作ることに長けているという印象を受けます。
そこで質問としては
(アートを含む広い意味での)美を鑑賞するには、ガイドー予備知識は必要か? 必要であるとすればそれはなぜか?またどういう知識を指すのか?
美術館での作品鑑賞の際のマナーはあるのか?「他の鑑賞者に迷惑をかけない」という際の「迷惑」の線引きは何処にあって誰がするのか?
そのような「美術」、「アート」に関する話をお聞きしたいと思います。今回は多少「形而下的な」(?)おはなしかもしれません。
下の絵は目の不自由な人がゴッホのひまわりの3Dプリンターのレプリカを触っているところですが、
作品との「接触」「接近」についてもご意見をお聞かせください。
https://www.facebook.com/VanGoghMuseum/photos/a. …
No.32
- 回答日時:
お礼を頂きありがとうございます。
どうしても避けられないのは、文字のみのやり取りにおける「誤解」ですね。
特に最近は、夜中に「早く寝なくては」という焦りの中で書いているので下手
な文章が余計主観的になっているようです。
私は「修行僧」でありたいと思っているので「自己否定」は強く持とうとして
います。これを失ったら成長できませんので大事にしています。「いい年をし
てなんだ?」と人は思うでしょうが、これは私の人生観による一つの結論です。
ですから、「中途半端」というのは自分に向って言ったこと、それから一般論
として言ったことです。
「美は見る者のこころにある」についてですが、これは「理」においては正し
いと思います。
「美」を枠の中に嵌めることは全く愚かな行為だと思います。
しかし、現実においては、あなたが言ったように「コツコツと自分の内面を掘
り下げてゆく努力」している人がどれだけいるだろうかとの危惧があります。
時代を見れば、「美」をデジタル的に理解をし、「それでよし」とする人々が
増えてゆくだろうと思います。
どなたかが言っていましたが芸術が「なんでもOK」ということになりつつある
のではないかと感じています。
だから、芸術の世界にも、社会における「倫理・道徳」的な存在が必要だと考え
たわけです。それが、「作者の意図」です。作者の意図など所詮は分からないで
すから「型にはめる」ことにはならないはずです。
「これでよし」とせずに、芸術いうものに「敬意」を持つことが大事なことでは
ないでしょうか?
以前も言いましたが、私はここではおもしろい「与太話」に興味はなく、つまら
ない本質的な話、具体的な話に興味があります。
何故、G.Rさん、いやユーリさんの質問に参加するかと言えば、あなたの思考力
と丁寧な対応に興味があるからです。
「考えること,学ぶことは何らかの具体的な行動に結びつかなければ無意味なのか」
等、お話したいことはいくらでもあります。
無理強いなどしませんよ。あなたは病をお持ちでもあるし。
こんばんは、ニャンポコさん。
なるほど、そうでしたね、ニャンポコさんは「おもしろい与太話」には興味がないと言われていましたね。
これも面白いですね。わたしは「つまらない」とダメですね(苦笑)
芸術作品に敬意を持つこと、それが芸術鑑賞のある種のモラルだということでしょうか。
それは同感です。
ただそれは芸術作品に限ったことではなく、「手造り」のものに敬意を払うということは何に対しても大事ではないかと思います。
きれいな水をいつでも飲めること、食べ物に困っていないこと、寝場所があること、
そういう当たり前のことが、世界の多くの国で当たり前なんかじゃないという意識を持ち続けることも必要でしょう。平和であることも当たり前じゃない。
日常が「鈍感」「楽観」「無関心」によって維持されている時代ではない。
『そこに「事実」があると思ってしまえば、そこはひとつの「想像力の墓場」になる』という、プリーモ・レーヴィの言葉が好きなんですが、いま目の前の事実の在り方を、想像力を駆使して検証してみるということが必要だと思います。
例によってピント外れかも知れませんが。
ご回答をありがとうございます。
No.30
- 回答日時:
>こういう問いの醍醐味というか、おもしろさってどこら辺にあると思いますか?
いやー。全部じゃないですか。なかなか贅沢なことですよ。見知らぬ人とのんびり、ただおしゃべりしている。そういう自由が、まず面白い。そして美について話そうって言っても、なかなか話に乗ってくれる人っていないでしょう。学術でこれをやるとエライことになります。相手はたぶんガチガチに理論を汲んで登場するはずです。私だって負けないぞと理論武装して行きます(笑)。「そもそも美の歴史とは……」とか、「◯◯によると」と大家の名前を口にして見取り図を作ってから話します。いや、堅苦しい。面白いように話さないと損です。
GSさんは、少しお考え過ぎなんじゃないかな。まず嫌なことは、はっきり言っていいと思いますよ。相手もそれは尊重するはずだと、敢えて甘えておく。すると、話せば話すほど、自分のことを相手が理解してくれる楽しさが生まれると思います。あまり深入りしませんが、例の方々は、「嫌だ」と言っても(様々な理由を付けて)尊重しない方でした。ただ、あれらの方は特殊な方です。
GSさんは面白い方ですよ。例えばデュシャン。作品には批判的なのに、デュシャンの言葉はよくご存知でいらっしゃる。境界上にあるものって、実はたくさんおありになるのではないですか。こういうのが「引出し」がたくさんあるっていうことですね。
>野生(オリジナル)イン ミュージアム
これは文脈上、絶妙で笑ってしまいました。Bruno Bozzettoも面白かったです。GSさんの美は、事によったら、ユーモアが大切な要素の一つなのかなと思いました。つまり美においては笑いを一切排するべきだと考える芸術家もいたわけです。崇高美なんて、畏怖させるものです。私は当初、エディ・ヒンギスがなぜダメなんだろうと腑に落ちませんでした。でもユーモアが好きな方だと考えたら、エディ・ヒンギスはスタイルにこだわり過ぎて冷たい感じがするように最初は思えるかな、と感じました。
サイコロさん、エディ・ヒギンズではなくビル・エヴァンスです(笑)
エディ・ヒギンズを知ったのは随分あとでした。スムース・ジャズというのかな、スコット・ハミルトンなどと一緒で、なんというかジャズの泥臭さがなく聴きやすくて、こういう感じも好きです。
当時アルバイトの先輩に、レコード・プレーヤーを処分するからといってジャズの名盤を10数枚もらいました。その中にはモンクも、ハービー・ハンコックも入っていましたが、結局それは全部売ってしまって、残ったのが『ポートレート・イン・ジャズ』とコルトレーンの『スタンダード』でした。
話していて、「イヤだ」と感じることはないですね。わたしは言葉遣いに敏感で、内容以前に言葉遣いの粗雑さに嫌悪感を感じてしまうことがあって、このサイトで他のやり取りを見ていてもそれはしばしば感じるのですが、幸いわたしの質問では、意見の相違はあっても、不快感を感じさせるような投稿はないようです。
みながそれぞれの意見、視点の多様さを愉しんで、そこからなにかを得られればしめたものだという思いはあります。相対主義者の悩ましさ、でしょうか(苦笑)
こういうのも馴れの問題かなとも思います。
アドバイスをありがとうございます。
「ユーモア」、「笑い」というよりは、自分の中では「風刺」「皮肉」「ウィット」を重視しています。
無論わらいやユーモアのセンスが大事なのは言うまでもありません。
昨日の瀬里香さんの「フィクション」の話ではありませんが、野に咲くタンポポを額縁にいれて恭しく飾り『触れるべからず』『吹くべからず』というナンセンスの視点から見えてくるものもあるでしょう。
自分を棚に上げてという感じもありますが、あまり生真面目で興ざめというのは、冒頭のサイコロさんの言葉じゃないけれど、どうも居心地がよくありませんよね。
No.29
- 回答日時:
>一般論として、なんとなくわたしやサイコロさんが、ママチャリサイクリングをもてはやして、美術館を貶めた(それはわたし?(笑))ように聞こえて、そうではなかろうと一般論としてお話をされているのです。
いやいや。GSさん、お書きになっている通りだとすれば、十分誤解が生じていていると思います(笑)。しかし、たぶんなんですが、あほなさんは、会話の流れにお入りになりたかったんだと思います。ただ会話文の羅列ですから、全部読まないと、ちょっと分からないことも出てきます。それはしょうがない。誤解を解いておいたら、後々いいかなと思ったのでした。でも私の書き方が、少し物騒だったかな。結構気をつけたんですけれども、私の腕が悪いか(笑)。
ところで私とのやり取りの方に戻りますが。
>そういう意味では、「美」の領域は限りない広がりを持ちうるのかもしれません。そしてそれにどこまでも追随してゆく必要もないように思います。
おっしゃる通りですね。どこで線引きをするべきか、いつも考えます。GSさんはどこら辺で線を引いているのですか? もしかしたらこの線を引こうとする感覚が、個々人の美の中身なのかもしれませんね。
こんにちは。
このような文字のみのやりとりで他の非言語的な情報が一切遮断されている状態でのコミュニケーションですから、ある程度の「誤解」や「そんなつもりではない」ということは避けられないことだと思います。けれどもそれはお互いさまですからね。
ここまでのやりとりで、「美」であろうが「愛」であろうが「正義」であろうが、全会一致ということがあり得ない問いかけというものの、仕切り方の難しさを改めて感じます。極端に言えば「みなそれぞれだったら話し合う必要なんてないんじゃないの?」という意見だってあり得るのです。
ただ、美があるかないか、それが主観的なものか客観的なものかという探求よりは、出来るだけ具体的な作品に則して、それぞれの印象を批評し合うという形が望ましいかなとは思います。ただ残念ながらわたしはそういう質問のホストになるには力が及びません。木造100年さんとか、狸八さん、マシュマロさん、くさむらさんあたりのレベルでないと。
「線引き」については先にお話ししたように、モダン・ジャズはわたしの理解の範疇外にあったものです。
それが何かのきっかけで掌中の珠、というのかな、わたしの領域の中に入ってきた。ですから境界線というものは常に流動的であると考えています。自分のテイストやスタイル、スタンスは確固としてあったとしても、それはやはり暫定的なものでしかないのだという意識を持っています。
サイコロさんも上記のひとりに見做されるのですが、こういう問いの醍醐味というか、おもしろさってどこら辺にあると思いますか?
一義的な答えが出ないことを当然の前提としてあれこれ言い合うこと、みながひとつの答えを求めていないこと、自分の意見を常に相対化して話を進めること、そのようなことを切れ切れに思うのです。
No.28
- 回答日時:
お礼を拝読しまして、今回は、ただの雑記ですので、お読み捨てください。
美しいもの、は、確実に存在します。鑑賞者の有無には関係ありません。私には、”それは、天国を想起させるもの”としか、表現できません。美しいものを、正しく、美しいと認識するのには、まがい物を切り捨ててゆく修行が必要だと、考えます。佳いものを鑑賞し続けること、横道にそれないこと、それだけでよいのです。簡単ですが、時間がかかります。
芸術と呼ばれるものは、”生の肯定”につながってほしいのです。
季節によって移ろうものは、死を感じさせます。ご紹介くださった、徒然草の鳥野辺のくだりにもありました。私は、もう、夏の夕暮れの段階で、寂しさに満ち溢れ、ヒグラシの鳴き声に、深い哀しみを感じました。毎年、娘を黄泉の国に返す、母の心持です。
マナーについて:プライベートで、幼い子供たちを、美術館や、絵の展覧会に連れて行ったことは、一度もありませんでした。そういえば、展覧会で子供を見かけたことは、ないですね。動物園や博物館のほうが、子供たちも喜びますし、美術館は、”猫に小判”なので。小・中学生なら、家に何冊か画集を置いておけば、それで良いのではないでしょうか。
”見ておかなくてはならない作品”といえば、NHKの教育番組で特集をしたときに、取り上げられて、”実物が見てみたい”というふうに、思わせられる作品、あるいは、美術の教科書に出ていた作品。。。あの時は、二階の一つ目の部屋に、ミケランジェロの”聖家族”、お隣に、ボッティチェリの”ビーナス誕生”、ダ・ヴィンチで、未完成の、”東方三博士の礼拝”、と盛りだくさんでした。
知り合いの方の多くは、美術館など、興味もなく、立派に生きています。旅行に行っても、ゴルフや観劇やコンサートが目的で、私のように、美術館に直行するほうが、ごく珍しいと思います。でも、何か、人類の遺産になるような作品なら、ちょっとだけなら、時間をとってもいい、というのが、大半の方でしょう。ピサの斜塔とダビデ像なら、ピサの斜塔を、迷わず選択するのが、大半のアメリカ人です。
現代美術について。最近は、意識して、近代美術館に足を運ぶようにしています。建物は、なかなか素晴らしいところが多いです。ただ、中身の展示品が、外側に匹敵することが珍しいように、私も感じます。ピカソという大きな山を、どうしても、越えられない感があります。ローマあたりの美術学校に期待したいところです。あとは、そうですね。日本のアニメからも、何か、とんでもないものが飛び出すかもしれない、と、期待しています。
以上、完全なる無駄話でした。
>以上、完全なる無駄話でした。
いえいえ、こういう「独り言です」「無駄話です」という方法はなかなかうまいなあとへんに感心してしまいました。「こうなんです」というよりはずっといいですし、自分の意見の表明にも成り得ています。
ciaopolpo2さんにとって美、美的体験とはより宗教的体験に近いのですね。美はあたかも天国が確かに存在しているようにあるものである。また「美しいもの」「正しいもの」と「まがいもの」と言われているように、ここにも、確固とした客観的基準が存在するのでしょう。自分の内面に確固とした美意識、審美眼が備わっていて、対象に白黒つけてゆくことについては、是非の議論を超えてわたしにも同じところがあります。もっともわたしの場合はその対象は主に「環境」ですけれど。
わたしはなんというか、「人類の一員」として存在しているという意識が極めて希薄です。
ですから観ておくべき作品より観ておきたい作品になってしまうし、「人類の遺産」にさほど関心も持てないのです。わたしという主体・主観・個体がどう感じるかが源です。
ご意見をお聞かせくださってありがとうございました。
日本のアニメの話とイタリアの話が出ましたので、イタリアのアニメーター、ブルーノ・ボツェットのアニメを貼っておきます。
No.27
- 回答日時:
私の大好きな絵の画像がたまたま見つかったので投稿します。
この絵の芸術的価値は、女性の表情なかんずく眼差しだと思います。
作者の心に刻まれた女性の精神性というものがどういうものなのかを
観ることが「美の鑑賞」だと思います。
「モナリザの微笑み」は、私にはいまだにピンときません。まったく
捉えどころがないのですね。
人それぞれだからと言って、それでよしとしたのでは芸術の意味がな
いと、私は言ってしまいます。
中途半端はあくまで中途半端です。まあ、それをいちいち指摘などし
ても仕方がないですが。
また、周辺の知識は、その作品の額縁であったり、美術館の環境であ
ったりすると思いますので,あるにこしたことはないでしょう。
こんにちは、ニャンポコさん。
イワン・クラムスコイの『忘れ得ぬ人』ですね。タイトル通り「印象的」な肖像画です。
わたし自身以前にも問いましたし、Okwaveのころから「哲学」のコーナーでは繰り返し「美」について問われ続けています。ニャンポコさんにも「美について」の質問がありましたね。
美、或いはアートというものを何らかの客観的な枠組みの中で捉えようとする人。
またはわたしのように、「美は見る者のこころにある」と思う者。
わたしの質問は大抵そうですが、多様な意見がひとつに収斂されることを目指してはいません。
例えばyy8さんの「ピカソが美であるならどんなものでも美だ!」という意見も理解できるのです。
そしてこういう意見は貴重だと思います。
一方で、「これは美じゃない」ということには強い抵抗があります。
ニャンポコさんから見ればいつもながら中途半端だなあと思われるかもしれませんが、相手を否定することはイコール自分が否定されることを認めるということだという思いを持っています。
もちろんわたしにも好き嫌いはあるし、「敵」もいれば「憎しみ」もあります。到底理解できない「美」や「アート」があります。しかしそれらに対し、具体的にどのように対峙してゆけばいいのか?それはまだわかりません。ひとつを選ぶということは他のすべてを放棄するということです。わたしは何についてもその確信が持てません。
考えること、学ぶことは何らかの具体的な行動に結びつかなければ無意味なのか?
その辺りのご意見、批判も伺いたいと思っています。
「黒い瞳」ダーク・アイズ、いいですねえ。
https://www.youtube.com/watch?v=C1DxgDgpsn0
ご回答をありがとうございます。
No.26
- 回答日時:
No21のあほなさん、
>>映画の方は原体験の複製であり、チャリの方は原体験である、故に映画の方がチャリよりも体験としては劣っている、とは言えない
>>美術館で得られる体験も、それはそれとして価値のあるものであり、例えばヨットに乗って太平洋を横断した時に見たブルーと、様々な絵画を通して見たブルーとの間には、価値の差は無いのであると私は思います。
うーむ、「劣っている」と誰かが言っているかのような書き方になっているけれども、もしかしたら、オリジナルの話をしていた私ですか? だとしたら、誤解を解いておかないと。
まずGSさんとのやり取りで出て来たオリジナルと複製の話は、複製技術が美の観念を変化させたというお話を念頭に置いていたつもりでした。変化が問題なので、優劣とは別次元なのでした。デュシャンなんかのお話が出ていて、これ、レディ・メイドと言って、もうオリジナルも複製もない次元なのです。
またもう一つの比較です。私はニュートラルさんが「頭が空っぽだからかもしれません」とおっしゃるので、「それは卑下し過ぎです。美術館だってそんなに大したことありませんよ。得難い体験で、よかったじゃないですか」と色を付けて言っただけなんです。
文脈で場当たり的に出て来たお話だから、そこに整合性をつけられてしまうと、(もし私だとすれば)誤解が深まるので、お伝えしておこうと思いました。
ただ一方で、「オリジナル>複製」「野性>美術館」という構図をさらに推し進めて、「オリジナル=野性>複製=美術館」という考え方もありうるでしょうね。それもそれで検討してみれば面白いかもしれません。
いやいや、あほなさんは別にサイコロさんの言葉尻を捉えてどうこう言っているのではありません。
一般論として、なんとなくわたしやサイコロさんが、ママチャリサイクリングをもてはやして、美術館を貶めた(それはわたし?(笑))ように聞こえて、そうではなかろうと一般論としてお話をされているのです。
>「オリジナル=野性>複製=美術館」
例えば、日本でも外国でも、どこかきもちのいい草原や山の上から美しい景色を堪能すること、それは当然、空気の冷たさ、草のにおい、小鳥や虫の声、五感すべてで感じることでもあるのですが、
それと美術館で一枚の絵の前に立ち尽くしてそれに魅入られるとうことも、異質であって等価の体験だと思うのです。現実にはなかなか難しいことですが、自然の美に生物として触れることも、作品に人間として触れることも、次元は違えど共に野生ではないかと思います。
No.25
- 回答日時:
こんばんは。
yy8さん。いつも真剣に追及するのですね。するどいツッコミいつも考えさせられます。【美】という言葉、【愛】という言葉には、指紋と同じぐらい種類があるのだと思いますよ。
少し視点が異なるようですが、参考として10ヶ月前の【芸術について】の質問を載せておきますね。質問者はyy8さん。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9199391.html
blueさん、またまたお邪魔しました。
No.24
- 回答日時:
GSさん、お借りします。
No23のyy8さん、美がなんなのか分からないとのこと、言葉が不適切とのこと、いい線だと思います。でもこれは皆が間違っているわけではないんです。英語のbeautyは仏語が元で、さらにもとはラテン語ですが、まあ、日本語のお話なので、西欧語は脇に置いておきましょう。漢字を分解して見てください。
「美」とは「羊が大きい」と書くのです。漢字を研究している人の想像力を交えたエッセイによると、大きい羊が美しいものの象徴となる理由は、次のようなことだというんですね。古代の遊牧民には、羊を屠って皆で分け合う習慣があったらしいのです。この際に、羊が小さいと、配分で争いが起きてしまう。ところが大きな羊だと諍いが起きない、この平和状態・和気あいあいと御馳走を分け合う雰囲気が美なのだということでした。
でも羊を分け合う習慣がなくなっても言葉は残っています。そして美が意味するものは他に多くあります。漢字っていうのは、拡張されて用いられていくものです。こうした時に、語源に遡って、あれは間違いだ、これはあっていると言い出しても、残念ながら、あまり生産的にはならないんです。もう一例あげてみます。
例えば「康」なんて言うのは、誰でも使う言葉ですが、面白い。真ん中にあるものは、実は糸巻き車の象形文字だそうです。家の中に糸巻き車があって、くるくると正確にまわっている様子だそうです。糸巻き車の動きに「健康」であることを象徴させたというのです。言葉が生まれた古代としては、糸巻き車はハイテクの機械だったのでしょう。でももう誰も糸巻き車を使わなくなったのに、言葉は残っています。
結局のところ、言葉は器でしかありません。その器にどういう中身が盛られているのか。器が間違っているから交換せよ、という発想ではなくて、今ある器に何を盛りつけるか。こんな風に考えると、もっと面白くなって来ると思うのですけれどもね。
質問者としては、そもそも前提が間違っているんじゃないか?という疑問も歓迎します。
ただ牛でもマグロでも部分によって値段や味が違うように、大きな羊でも分け方は大変だろうなとどうでもいいことを考えてしまいました(笑)
No.23
- 回答日時:
少しばかり勉強しました。
『美』の定義は確定、できていないんですね。
いまだに流動的なんだな、と思いました。
だとすれば曖昧模糊としたこの『美』と云う言葉を、皆さんは何を持って信用し、使っているのでしょう。
そう思ってみると皆さんは、ただ単なる日本語の『美』と云う言葉に対して、これに潜む魔力"魅力的な雰囲気"に犯されて使用しているように思えました。
『美』と云う表現を使ってみたその時の気持ちは、本当に『美』美しいと云う表現が適切だったのでしょうか。
もっと他に適切な言葉、表現があったのではないでしょうか。
でも、その時はそのような疑問は 起きなかったのですよね。
なぜならば、『美』と云う言葉に潜む魔力に犯されているから。
辞書を見ると分かります。
日本人の言葉への感覚の鋭さ、繊細さを。
なのに様々な感想、であるはずの事柄に皆さまは「美しい」の一言で済まして、それで満足してしまっているように思います。
そのことが不満です。
また、このように使われる『美』を訳す時、一律的にbeaytyと訳して、それで通用しているのでしょうか。
これも知りたいです。
いま私は「愛」という単語に付いての質問を出していますが、真意は「美」なのです。
こんばんは、yy8さん。
今質問されている「愛」という言葉は万能か?ということ、あれはなんとなくこの質問のやり取りから派生したものかなと感じていました。
「美」であれ「愛」であれ、その定義を一義的に下すことはできないのです。ワイルドの言うように「定義することは限界を設けること」だからです。何にしても自分の理解できないもの、理解を超えているものを否定し、排除してしまうことだけではなにも生まれてはこない。
美はBeauty ですが、「これ・それ」" It" と同じです。美なる実体があるわけではない。「この花」がうつくしく、「あの木の枝が」繊細でこころを打つ。つまり対象(It)のないところに美は存在しないのです。
ですから「美」「うつくしい」ということばをいくらためつすがめつしたところで美とは無縁です。
It は「仮主語」ですから主たるものはその対象です。だから極端なはなし「び」であろうが「ば」であろうが「ぶ」であろうが構わないのです。
yy8さんのこの疑問は、「何故花を花と呼ぶのか?」ということとおなじではありませんか?
ソムリエの如き表現力の豊かさ、語彙の豊富さと、うつくしく感じるものをうつくしいということに齟齬はないと思います。結局行きつくところは「美味い!」「おいしい!」になるのではありませんか?
ご回答をありがとうございます。
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