三国志を読んでいて、疑問に思ったのですが、
諸葛孔明は、姓を諸葛。名を亮。字を明なんですよね?
で、普通によく使われる名称って、諸葛孔明じゃないですか。
最初はなんで諸葛亮って言わないのか疑問だったのですが、
劉備玄徳も玄徳が字だし、名を言わないで、姓と字をいうものなのでしょうか?
では、劉備の名はなんなのでしょうか?
劉が姓で名が備なのですか?教えてください!

A 回答 (3件)

 歴史に登場する中国人の名前で、「名」とは生まれたときにつける本名、「字(あざな)」とは成長してから自分で付ける名前です。

一般的に「名」だけで呼ぶのはごく親しい間柄か、目上の者が目下の者を呼ぶ場合に限られます。あまり親しくないのに、本人が成人後に名乗っている「字」でなく、子供の頃からの「名」を呼ぶのは場合によっては失礼にあたるわけです。
 従って、姓+名+字で呼べば諸葛亮孔明、劉備玄徳ですし、姓+字で呼べば諸葛孔明、劉玄徳ですね。(劉玄徳とはあまり言いませんが)
 >劉が姓で名が備なのですか?
 その通りです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
結局、劉備玄徳という言い方と、諸葛孔明という言い方は基本的に違うけれど、なぜかそういう風に呼ぶようになっているということでしょうか?

お礼日時:2001/07/02 15:50

中国では通常、名と字は同時に呼ぶ慣習はありません。

彼を呼ぶ際には「劉備」もしくは「劉玄徳」、あるいは、名「備」か字「玄徳」だけ呼びます。(姓に肩書きつけて、ということもありますね。)
使い方の区別として、名を使う場合は、礼儀を守る関係にあるとき、字を使う場合には、くだけた関係のときとなっているようです。
また、「玄徳」のように字だけを呼ぶ場合は、総じて、特に親しみをこめて呼びたい場合か、「罵り」として使う場合に限られるようです。
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 劉備の場合は「姓は劉、名は備、字(あざな)は玄徳」


 諸葛孔明は「姓は諸葛、名は亮、字(あざな)は孔明」ですね。
 当時は姓+字で呼ぶのが普通ですが小説の場合は大体使われている名前使うので
劉玄徳、諸葛孔明で呼ばれるのが普通ですが、小説の場合は知られてる名前で統一
しちゃってますね。
 
 大体、姓+字なんて知ってる人少ないもんだから、徐公明、荀文若、夏侯妙才
って小説で書かれてもわかんないでしょ?^^;
#ちなみに、それぞれ徐晃、荀彧、夏侯惇

 そうそう、名前を呼ぶときは姓+名か姓+字なんで、劉備玄徳なんて呼び方は絶対
にしません
 

 
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Qここは諸葛孔明の質問は禁止なの?

先日歴史カテとアンケートカテに諸葛孔明に関する質問をしました…しかし質問が反映された瞬間に
運営から削除メールが…別に普通に質問したし規約に触れるようなことは無いと思うのですが
もしかしてここのサイトは「諸葛孔明」は規約違反なのですか?
むだとしたらこの質問も消えるかも…

Aベストアンサー

http://oshiete.goo.ne.jp/search_goo/result/?MT=%E5%AD%94%E6%98%8E&article_type=qa&code=utf8&from=&qatype=qa&st=all&sr=norm



いいえ、
もう一度、質問文読み直して
書き直してチャレンジ(^-^)/


zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz

Q劉備に迎えられる前の諸葛孔明

こんばんわ
諸葛孔明についての質問です。
この人は「三顧の礼」で劉備に迎えられたと聞いておりますが、それまで何をしていたのですか。フリーター?
学を究めた人と想像していますが、独学だったんでしょうか。

Aベストアンサー

孔明は、どうやって自分をつくったのか。後年の大活躍の「原因」は、どこにあったのか。孔明の生い立ちには諸説があるので、それらを勘案して語りたい。
 孔明は九歳くらいで母を亡くした。少年には大変なショックであった。この世から光が消えたような─。父は後妻を迎える。父は、ある郡の副知事(丞)であった。その父も、孔明が十二歳くらいで死んだ。孔明は、こうして幼くして母を失い、父を亡くした。特別の財産があるわけでもない。残されたのは、父の後妻である継母、そして孔明の兄、姉、弟であった。どう生きるべきか、一家は途方に暮れた。相談の結果、叔父の諸葛玄を頼ることになった。一家は徐州の故郷を捨て、叔父の住む荊州へ向かった。南へ、南へ。中国は広い。移動の途中、少年は多くの流民と出会った。世は乱世である。戦乱によって殺された人々。焼かれ、破壊された町々。流浪する難民の数も限りなかった。〈後漢末期。王朝は衰え、群雄が覇を競っていた〉少年は、民衆の惨状を目の当たりにした。「何ということか。人間は幸福になるために生まれてきたのではないのか?なのに、どうして人間は、こんなにも不幸なのか?」「国はどうしてこんなにも乱れているのか?」少年は悩んだにちがいない。そして、乱れた世を救う"何か"を求めていった。
 やっと叔父の家に着いた。しかし、ここにも落ち着くことはできなかった。叔父が、さらに南の揚州の知事(太守)に任命されたからである。また移転 ─ 孔明は、兄とも別れ、さらに南へ、叔父とともに移っていった。  
 
 生きた学問智慧の学問
 このように広い中国の各地を転々としながら、生命の危険を乗り越え、風雨と闘い、空腹を耐え、そのなかで孔明は勉強したのである。豊かな自宅の、きれいな机で、悠々と学んだのではない。それでは、あの「常勝将軍・孔明」は絶対にできなかったであろう。孔明の学問は「生きた学問」であった。苦しむ民衆と交わり、語り、庶民の心の機微も学んだ。自分の生命を守る智慧も身につけた。精神を練った。肉体を鍛えた。渡り歩く各地の風土・地理・人情・風俗を調べ、鋭い目で観察し、自分のものとしていった。また各地の様子から指導者の善しあしを見抜いた。「我れ以外、皆我が師」 ─ 作家・吉川英治氏の言葉の通りであった。そのなかで、彼は「書物」を学んだ。書物の教えを、体験を通して、ひとつひとつ身につけていった。「知識」を「智慧」に変えていった。ここが偉大である。   
 しかも彼の「学び」は、目的がはっきりしていた。この乱れた世の中をどう救うか。未来をどうすれば一番よいか ─ ここに焦点があった。目的が明確だったゆえに、学んだことが何ひとつ無駄にならなかった。こうして苦労が全部、孔明の成長の「こやし」となったのである。
 孔明は、叔父とともに、叔父の任地・揚州についた。しかし、そこには思いもかけぬ事件が待っていた。他の実力者から任命された別の「知事」がやってきたのだ。「私こそ本当の知事だ」「いや私こそ」.…。そのころ国の命令系統が乱れ、こうした混乱が少なくなかった。
 "二人の知事"が争うことになった。戦争が始まった。実力で決着をつける以外になかった。しかし叔父は敗れた。追放されてしまった。孔明は敗戦の惨めさを骨身に徹して知った。
 彼は敗れた兵隊たちとともに、命からがら逃げ回った。叔父も逃走中に殺されたという説もある。「よし!」。孔明は誓った。血涙にまみれて、我が身に言い聞かせた。「二度と負けてはならない。絶対に勝たねばならない。負ければ、これ以上の不幸はない」
 孔明は再び、流浪の身になった。その時、十七歳と言われる。荊州に戻り、その後、十年間、晴耕雨読の生活で、弟妹を養いながら、自分を鍛えに鍛え、「一剣」を磨きに磨いた。「不敗」「常勝」の智慧と力を養った。立ち上がる「その時」を目指して、苦労し、勉強し、あらゆるものを吸収した。そういう彼を知るものは、例えば村の長者は娘と結婚させ、親友徐庶は、劉備に、彼の登用を薦めた。ついに「その時」が訪れた。二十七歳、主君となる劉備玄徳と出会う。ここから「三国志」の、あの大活躍が始まるのである。
   
 
 「鞠躬して尽力し、死して後、已む」と。身をかがめて真剣に尽力し、死ぬまで戦いをやめない、との意味であります。鞠躬─頭を下げ、礼をもって接する。偉くなればなるほど、身をかがめて、相手を敬い、力のかぎりを尽くしていく。



 あの「三国志」の大英雄・諸葛孔明も、名指導者の要件として、「天よりも曇りのない目をもって、人物の善悪を見極めること」を挙げていた。
 そして、国土のすみずみまで心を配りながら、公平かつ厳正な目をもってへ優秀で善良な人間を登用し、貪欲で惰性の人間は退けていくことを強調した。
 そうすれば、良き人材は雲のように集まってくるというのである。
 孔明は、恩を忘れて自分の繁栄ばかりを考え、全体のことを心配する気持ちを全く持たない人間、また、自分は何もしないくせに、威張って他の人々を非難する人間に対しては、まことに厳しかった。
 そうした人間を放置しておいたら、将来に破滅と禍をもたらしてしまうからである。厳しいようであるが、大切な歴史の教訓である。  
〈『中国古典新書続編 諸葛孔明語録』中林史朗著・明徳出版社、『諸葛孔明の兵法』守屋洋編訳、徳間書店などを参照〉

※徐庶は水鏡先生(司馬徽の翁)の弟子でしたが、孔明は
働きながら学んだ刻苦勉励の人です、偉いな(^-^)



孔明は、どうやって自分をつくったのか。後年の大活躍の「原因」は、どこにあったのか。孔明の生い立ちには諸説があるので、それらを勘案して語りたい。
 孔明は九歳くらいで母を亡くした。少年には大変なショックであった。この世から光が消えたような─。父は後妻を迎える。父は、ある郡の副知事(丞)であった。その父も、孔明が十二歳くらいで死んだ。孔明は、こうして幼くして母を失い、父を亡くした。特別の財産があるわけでもない。残されたのは、父の後妻である継母、そして孔明の兄、姉、弟であった。ど...続きを読む

Q哲学と諸葛孔明について

1、三国志と出会って、諸葛孔明を知るようになってから、いろいろと諸葛孔明のことを調べるようになり、そして、最近、なぜか哲学の方にも興味が出て来て、本など読み始めるようになって、もっともっと哲学を勉強したい!!と思い始めているのですが、どういうところから勉強を始めればいいでしょうか??
おおげさな話し哲学者になるためにはどこから一歩踏み出せばいいでしょうか?と解釈してもらっても構いません。
2、それと諸葛孔明は人生哲学やその他モロモロの哲学など、自分自身が生きる上で学んだこともあると思いますが、参考にしてたという点ではどういう人を中心にしていたのでしょうか?
1と2についての良書などあるようでしたら、どうか教えてください。
お願いします。

Aベストアンサー

とりあえず2について。

諸葛孔明は、後漢から三国時代にかけて生きた人物です。
彼の生きた時代、および人生から二つのことが読み取れます。

A.諸葛孔明は、おそらく法家思想の持ち主である。

 史実の孔明は、軍師というより政治家です。
 彼の本領は、国家の宰相として政治を整え、北伐して
 魏と戦うだけの国力を養成した手腕にあります。

 その政治は法律を整えて統治機構を整備するとともに、
 屯田制の導入で国力の増産に努めました。

 彼が法律を重視したことは、「泣いて馬謖を斬る」と
 いう言葉にもあるように、私情を廃して法の執行を優先
 する極めて厳しいものでした。


B.諸葛孔明は儒教思想の影響も強く受けている

 これは後漢時代の知識人全般に言えるのですが、後漢では
 儒教が国家に全面的に取り入れられたため、それ以前の
 時代と比べると、仁義・忠誠・孝行といった儒教の徳目
 が重視されるようになりました。

 余談ですが、黄巾の乱以後、ほとんど飾り物同然となった
 後漢の王室がなかなか滅びなかったのは、うかつに滅ぼ
 してしまうと、他の知識人から「不忠」というレッテル
 を張られ、汚名を残す恐れがあったからです。
 それで曹操は死ぬまで魏王でしたし、息子の曹丕は禅譲
 という形式で、帝位を受け継ぎます。

 諸葛孔明は忠義という点でも立派でした。
 劉備に死ぬまで仕え、劉備の死後はその子劉禅に忠誠を
 尽くします。
 彼が北伐の際に書いた出師の表は、後世に名文として名
 を残します。

とりあえず2について。

諸葛孔明は、後漢から三国時代にかけて生きた人物です。
彼の生きた時代、および人生から二つのことが読み取れます。

A.諸葛孔明は、おそらく法家思想の持ち主である。

 史実の孔明は、軍師というより政治家です。
 彼の本領は、国家の宰相として政治を整え、北伐して
 魏と戦うだけの国力を養成した手腕にあります。

 その政治は法律を整えて統治機構を整備するとともに、
 屯田制の導入で国力の増産に努めました。

 彼が法律を重視したことは、「泣いて馬謖...続きを読む

Q諸葛亮と諸葛亮孔明

おはようございます。
私はこの教えて!goo(OKWave)の質問や回答に
疑問を感じています。
それはタイトルの『諸葛亮』と『諸葛亮孔明』です。
『諸葛』は中国では珍しい二文字の苗字で、
身分の高い家柄では名乗る事が出来るそうです。
『亮』は名です。 我々の名前と一緒。
英語ではファーストネームです。
『孔明』は字(あざな)です。
日本では珍しいミドルネームみたいなものです。
この『字』を使う時は、『名』は使わず『諸葛孔明』と
名乗ります。
しかしこの教えて!goo(OKWave)では
『諸葛亮孔明』と名と字を一緒する質問者・回答者が
いらっしゃいます。
このような方々はご自分の誤りに
気付いていらっしゃるのでしょうか?
皆さんからのご意見を賜りたいと思います。

Aベストアンサー

いくら皆さんからのご意見を賜っても、その回答者が気付いているかいないかはその当人しかわからないと思いますが…。

Qなんで諸葛亮じゃなくて、諸葛孔明なの?

三国志を読んでいて、疑問に思ったのですが、
諸葛孔明は、姓を諸葛。名を亮。字を明なんですよね?
で、普通によく使われる名称って、諸葛孔明じゃないですか。
最初はなんで諸葛亮って言わないのか疑問だったのですが、
劉備玄徳も玄徳が字だし、名を言わないで、姓と字をいうものなのでしょうか?
では、劉備の名はなんなのでしょうか?
劉が姓で名が備なのですか?教えてください!

Aベストアンサー

 歴史に登場する中国人の名前で、「名」とは生まれたときにつける本名、「字(あざな)」とは成長してから自分で付ける名前です。一般的に「名」だけで呼ぶのはごく親しい間柄か、目上の者が目下の者を呼ぶ場合に限られます。あまり親しくないのに、本人が成人後に名乗っている「字」でなく、子供の頃からの「名」を呼ぶのは場合によっては失礼にあたるわけです。
 従って、姓+名+字で呼べば諸葛亮孔明、劉備玄徳ですし、姓+字で呼べば諸葛孔明、劉玄徳ですね。(劉玄徳とはあまり言いませんが)
 >劉が姓で名が備なのですか?
 その通りです。

Q諸葛亮(孔明)の人材を起用する能力は低かった???

孔明よりも劉備のほうが人材を見る目や、その人材の活用術については、上であったと思いますが、いかがでしょうか?

それは劉備の周りに集まった綺羅星のごとき人材を見れば伺えます。
孔明の方はといえば、彼は意外と人事と言う最重要任務において失策が目立ちます。
1、街亭の戦いでの馬ショクの起用
2、魏延の軽視
3、魏延と楊儀との不仲の仲裁をしなかった事
4、李厳の扱い方の失敗

などなど、挙げればかなり多いです。


実は孔明の総司令官としての初陣はかなり遅くて、南蛮征伐の時期であったと言われています。
従って、戦争の現場での経験がほとんどありません。
実際、“学者である孔明”と“現場たたき上げの魏延”の意見は対立したと予想されます。
魏延にまつわる話で有名なのはやはり、「子午谷の奇謀」でしょう。
「子午谷の奇謀」は演義の創作でありますが、
史記には魏延は一か八かの作戦で長安を陥落させる作戦を提案したことが書かれています。
それに対して孔明は、魏延の作戦を軽視して、安心・安全・確実な作戦を実行していきます。
そして結果、孔明は長安を落とすことはできませんでした。

劉備は
1、魏延を能力を高く評価していおり、魏延を重視するように言っています。
2、逆に馬ショクを軽視しており、馬ショクには重要な任務を任せないように言っています。

丞相の地位にいた孔明にとって人材起用といった能力は必要不可欠なものです。
やはり孔明の人材を起用する能力は低かったと思いますか?
諸葛亮(孔明)の人材を起用する能力について、あなたの意見を聞かせて下さい。

孔明よりも劉備のほうが人材を見る目や、その人材の活用術については、上であったと思いますが、いかがでしょうか?

それは劉備の周りに集まった綺羅星のごとき人材を見れば伺えます。
孔明の方はといえば、彼は意外と人事と言う最重要任務において失策が目立ちます。
1、街亭の戦いでの馬ショクの起用
2、魏延の軽視
3、魏延と楊儀との不仲の仲裁をしなかった事
4、李厳の扱い方の失敗

などなど、挙げればかなり多いです。


実は孔明の総司令官としての初陣はかなり遅くて、南蛮征伐の時期で...続きを読む

Aベストアンサー

 こんにちは。これは面白い問題提起ですね。

 結論から先に言うと、劉備も孔明も、人材登用能力はあったと思います。政治家としての力量も充分だった、ただ、人材がいなかった、というのが答えになります。

 なぜ、蜀の滅亡が他の国に比べて速かったのか。

 私は「天下三分の計」の時点で、蜀の運命は決っていたと思います。

 魏は、中国古来の、いわゆる「中原」といわれる土地を領土としていました。
 呉は、これも南方の、古来、中原とは異なる文化を築いてきた地域を押えていました。
 対して、蜀はどうだったでしょう。確かに肥沃な土地ですが、魏や、呉ほどの文化や歴史の充実があったか。

 これが、国力に出てしまったと思うんです。で、国力とは、人材ではない。なんていうか、人材を育てるもの、発達した経済と、厚みのある文化です。

 天下三分の計を孔明が劉備に諮ったとき、もう魏、呉はかなりの安定政権でした。それに拮抗し、起死回生の道を開く賭け、それが、望蜀だったわけです。

 実際、蜀を得てから、劉備も孔明も、殖産興業に勤めています。肥沃な土地を生かして、国力を充実させるのに努めます。
 そして劉備の死後、自分の死期をも悟った孔明が力を入れたのが、南方の安定―七擒七放―と、魏を叩いておくこと―出師の表―です。つまり、自分亡き後、しばらくは外患をなくし、国力を充実させる時間を稼いでおくことだったわけです。
 そのために、孔明は、できうる限りの人材を配置したと思います。

 ただ、正直、関羽や張飛、趙雲などの将星が次々と世を去っていくなかで、新しく参加した蜀出身の武将たちは、どうだったか。

 曹操死後も、優秀な人材が集まり、強大な軍団を保持できた魏と比べて、どうしても見劣りがしてしまうんです。
 それは、「蜀」を選んだ(選ばざるをえなかった)劉備や孔明の宿命だったように思います。
 孔明は、その宿命を知っていて、それに自らの力を賭して抗ってみようと思っていたような雰囲気さえ感じます。

 冷静に考えれば、魏、呉に蜀が拮抗できる訳がないんですね。それをおそらくは知っていて、で、孔明は劉備についたと思います。

 孔明の生涯で、自分の判断と逆の事をした―それを悔いてはいないでしょうが―最初で最後が、この、三顧之礼に続く、出廬だったと思います。

 だからこそ、この話が、人の結びつきの美しさを後世に伝えることになったんだと思います。「出師の表」が、これを読んで泣かざるは人にあらず、とまでいわれたのも、その忠義よりも悲壮さの故だったと思います。そして、秋風五丈原のくだりが、あんなに美しいのも、運命に戦いを挑んだ人の姿が、共感を呼ぶからであると思います。

 長文失礼。ご参考になれば。 

 こんにちは。これは面白い問題提起ですね。

 結論から先に言うと、劉備も孔明も、人材登用能力はあったと思います。政治家としての力量も充分だった、ただ、人材がいなかった、というのが答えになります。

 なぜ、蜀の滅亡が他の国に比べて速かったのか。

 私は「天下三分の計」の時点で、蜀の運命は決っていたと思います。

 魏は、中国古来の、いわゆる「中原」といわれる土地を領土としていました。
 呉は、これも南方の、古来、中原とは異なる文化を築いてきた地域を押えていました。
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Q諸葛孔明について子供むけの本はありますか?

小学校3年生の男の子に諸葛孔明についての本を読ませてあげたいと思っています。
彼の名前は亮くんといって、父親が諸葛孔明にちなんで名づけたらしいのですがどういう人物か知らないらしいので本を贈ってあげたいと思っています。

三国志等も考えましたが、なにぶん小学生なので短くてわかりやすい本がよいと思っています。
どなたかご存じのかたいらっしゃいましたらアドバイスをお願いします。

Aベストアンサー

以下のような子供用の伝記ものはいかがでしょう。
(まだ、他にもあるかもしれませんが)

講談社 火の鳥伝記文庫〈80〉
諸葛孔明―「三国志」の名軍師
ISBN:4061475800
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9920387274


あと、子供用の文学全集ものの中を探すのもひとつの方法かもしれません。
ご参考までに。

「子どものための世界文学の森   26  三国志 」
http://www.trc.co.jp/trc/book/book.idc?JLA=95010898

Q三国志:だれが好きですか?劉備玄徳の人生をどのように思いますか?

宜しくお願いします。
日本の三国志だと、やはり吉川英治氏の影響か、三国志は劉備玄徳が主人公に感じると思うのですが、皆さんは誰を主人公にして読んでいますか?

劉備玄徳人生をどう思いますか?

人徳に厚く、部下もきちんと評価する、大変人望厚い人物のように書かれていますが、たった一度だけ、関羽が殺された時だけ激情しただけなのにそれがきっかけで国の死に結びつくとはかなり残酷な気がします。

皆さんは三国志を読む時誰を主人公によみますか?

また、どのような感想を持つのでしょうか?

色々教えてください
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

私の場合、横山光輝の三国志から入りました。
そのせいか、劉備玄徳は、優柔不断で頼りに出来ない人物としか思えません。
また、横山三国志以降、色々と読んだので、「たった一度だけ、関羽が殺された時だけ激情しただけなのに」というのは、違うと思います。
群臣が諌めたにも拘らず、劉備は暴走したのです。
それに引き換え、最後まで養父に真を貫いて処刑された劉封こそ、哀れです。
その点、曹操のほうが柔軟性があり、読んでいて、大敗する場面でさえ、爽快感を感じます。
私は誰が主人公、とは考えず読みました。
横山三国志で、関雲長が死ぬ場面では、読んでから一晩眠れませんでした。
原書に近い本も読んで、日本人と中国人の考え方、捉え方等をつくづく考えさせられました。

Q諸葛孔明

諸葛孔明と言う方のすばらしい所を教えていただけませんか?

Aベストアンサー

諸葛孔明は、一国の最高権力者であったにもかかわらず、彼の死後 彼の個人的財産は、無に等しかったそうです。 その事だけを取り上げても彼がいかに国に尽くし義に生き義に死んでいったか推測されます。
>諸葛孔明と言う方のすばらしい所を教えていただけませんか?
必賞必罰を実践した。
数々の発明品を世に出した事
大きな志を持ちそして義に生き義を貫きとうし死んでいった事
以上の三点がすばらしいと思います。 個人的に!

Q劉備玄徳の人肉接待について

三国志の劉備玄徳が、戦に敗れて逃走中にかつて面倒を見た人の家に泊まった時に、その人は自分の妻を殺して料理し劉備に食べさせたという話があります。

一般的な日本人の感覚では、到底受け入れられないですが、中国の史書では立派な行いと称賛してるものも多いそうです。

三国志演義に見える話とのことですが、翻訳した人が「この部分は日本では無理だろう」と判断して、訳書からカットすることが多いとのこと。さもありなんと思います。

ネットで見ると、中国では古くから人肉を食する習慣があるらしいです。まあ、中国に限らず今ほど食糧事情がよくなかった時代は、世界でも割とあったことのようですが。日本でも、天明の大飢饉のときなどに同種のことがあったのは有名ですね。

ただ、気になったのは、日本では特殊な時期しかこの種の話はないけど中国ではかなりの頻度であるようだし、それを主君に報いる行いと称える記述もあります。少なくとも日本では、やむにやまれずやったという感じがしています。しかし、天明の飢饉の絵図を見ると、まさに地獄絵図ですね。

質問ですが

(1) いろいろ見ると、中国で昔からカニバリズムがあるという証拠はない。三国志演義の記述もそれが当時としても極めて珍しいことなのでわざわざ書き残されている。これをもって、昔から一般的な習慣だったとはいえない・・・という意見があります。私も、そう思います。というか、そう思いたいです。
だって4000年の歴史を持ち、日本がまだ弥生時代で卑弥呼がでるかでないかの時代にすでに魏・蜀・呉の三国がせめぎあい、日本に漢字をはじめ様々な高度な文化を伝えてくれた国ですから。
詳しいかたにお聞きしたいのですが、上記のことはやはり事実なのでしょうか。それとも、ネガティブキャンペーンの一つという意味合いもあるのでしょうか。

(2) もし事実だったら、そうなった原因はどのへんにあるのでしょうか。私見では、古くから小国
分立で争いが絶えなかったため、残虐性が高くなったのかなとか思いますが。

三国志の劉備玄徳が、戦に敗れて逃走中にかつて面倒を見た人の家に泊まった時に、その人は自分の妻を殺して料理し劉備に食べさせたという話があります。

一般的な日本人の感覚では、到底受け入れられないですが、中国の史書では立派な行いと称賛してるものも多いそうです。

三国志演義に見える話とのことですが、翻訳した人が「この部分は日本では無理だろう」と判断して、訳書からカットすることが多いとのこと。さもありなんと思います。

ネットで見ると、中国では古くから人肉を食する習慣があるらしいです...続きを読む

Aベストアンサー

今手元に正史の『三国志』も小説の『三国志演義』もちょうどないので、記憶の中だけの話ですが、確か劉備が呂布に敗れた時、猟師の劉安の家に泊まって、劉安が妻を殺して「狼の肉です」と言ってもてなした話ですね。

このエピソードは正史にはありません。裴松之が付した注にもありません。
『三国志平話』および『三国志演義』の中にのみある話です。どちらもあくまでも小説です。



むろん中国でも、人肉食は極限状態です。
ただ、全くなかったということでもないみたいですね。

たとえば春秋時代の斉の桓公といえば、誰もが春秋五覇の筆頭に挙げる人ですが、管仲に馘首された厨宰(宮廷料理人)の易牙を、管仲の死後に再任用します。
易牙がクビになった理由は、桓公が「ワシは人間を食ったことがない」と言った際に、自分の息子を蒸し焼き料理にして献上したという無茶なものですが、管仲は「息子を料理にして殺すなんて、易牙は親子の情が薄い」と言っており、カニバリズムそのものを罪としてあげつらっているわけではいません。

『演義』の中には、董卓が死んだ際に董卓に苦しめられた人々が、恨みを晴らすために董卓の肉を食いちぎるという場面もありましたね。

また、正史だけでなく『資治通鑑』など比較的評価の高い史書の中にも飢餓における食人の話題は出てきます。むろんそのすべてを「本当にあったこと」として鵜呑みにすることはできませんが、「食人」という話題が史書に挙げられるということは、「あってはならないことではあるが、決して起こりえない話ではない」ということでもあることが分かります。(ちなみに「評価が高い」というのは、資料的価値ではなく文学的価値です)。


さて、高島俊男の『水滸伝の世界』では、「人を食った話」という一章を設けて、水滸伝の中にあらわれる食人の表現について言及をしています。
まず高島氏は桑原隲藏氏の「支那人間に於ける食人肉の風習」という論文を引いて、中国における食人の目的を、
(1)飢餓時の食料    (2)戦時の糧食が尽きた時の食料
(3)復讐        (4)嗜好品(美食)
(5)医薬品
と分類し、そのうえで「肉食が食の中に普通にある中国」と「食っても魚か鳥が関の山だった日本」との、肉食文化の彼我の違いを挙げています。

これらのことを総合して考えると、劉備の話は(劉備にとっても劉安にとっても)極限状態だったという場面における「美徳ではあるが悲劇」という演出でしょうね。


余談ながら、興味深いサイトを見つけました。日中両国における食人に関する話題です。
http://trushnote.exblog.jp/7602405/
http://trushnote.exblog.jp/7876738/

今手元に正史の『三国志』も小説の『三国志演義』もちょうどないので、記憶の中だけの話ですが、確か劉備が呂布に敗れた時、猟師の劉安の家に泊まって、劉安が妻を殺して「狼の肉です」と言ってもてなした話ですね。

このエピソードは正史にはありません。裴松之が付した注にもありません。
『三国志平話』および『三国志演義』の中にのみある話です。どちらもあくまでも小説です。



むろん中国でも、人肉食は極限状態です。
ただ、全くなかったということでもないみたいですね。

たとえば春秋時代の斉の桓公...続きを読む


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