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学校の行事の一環で、一年ほどかけて決まった地域の事柄を調べるというのがあるのですが、(たとえば長崎ならビードロ等。)
その行事で、自分は平賀源内の長崎遊学について調べたいと思い、Google等で調べても遊学に行ったということしか書いていなく、なかなか長崎遊学について突っ込んだ事を教えてくれるようなサイトがありません。
長崎で平賀源内が訪れたところなど、平賀源内の長崎遊学について詳しいことを教えてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

源内が長崎に再遊したときは唐通事の彭城の食客となっていたようです。

その場所は現在の鳴滝高校、シーボルト記念館の近くです。
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○「長崎新聞」の本を、あたってみてください。

当方、CHECKしてませんが、やはり地元、いろいろと参考になる文献も、あると思います。
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源内と長崎との関係は


1752(宝暦2)平賀源内、高松藩主松平頼恭の命により来崎、蘭語および西洋技術を学ぶ。25歳(初の長崎遊学で、翌年帰国する。)
1765(明和2)阿蘭陀大通詞吉雄耕牛、甲比丹とともに江戸参府した際平賀源内に蘭学を指導する。
1768(明和5)田沼意次の命をうけて再び来崎、大通詞吉雄幸左衛門(耕牛)宅に泊まり、その指導により「トドネウス草木誌」の翻訳に従事する(1770明和7年帰る)。平賀源内の長崎再遊について、太田南畝(蜀山人)の増訂一話一言巻二、平賀鳩渓の条に「明年7年庚寅のころ長崎に赴く、大通詞吉雄幸左衛門が家を主とす。阿蘭陀本草を学び、エレキテルセイリティトといえる奇器をつくる事を学び得て帰り、専ら蜜学をなす」とあります。
このように阿蘭陀通詞吉雄耕牛とは深いかかわりがあったようです。
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○なかなか長崎遊学について突っ込んだ事を教えてくれるようなサイトがありません。



これは、チャンスです。「長崎遊学」は、江戸期にさまざまな人物がいってます。が、その中身・・・・どこで、どういう風に学んだかは、なかなかわかりません。出島の長崎通司と懇意になり、資料を見せてもらう、話を聞く、酒を飲みながらの雑談、珍品、逸品などの紹介、・・・このなかに、源内なら、寒暖計・エレキテル・ビードロ(?)・油絵・などのことのようですが、その成果に相当するものが、えられたのか、となると心許ない。ずばり、趣味的な情報以上のもの(史料、資料)は、ないのではないか、と思います。
わたしもかつて、「源内」に興味をもち、高松の志度などへも行きましたが、残念ながら「長崎」へは行ってません。しかし、このあたり「地元ならではの」資料があるのかもしれません。頑張ってください。かれの多種な発想の元は、「長崎」にあり、です。
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この回答へのお礼

お礼が後れてしまい本当に申し訳ありません!
そうですか、資料が少ないのですか…。
そうしたら、学校の先生や友人と相談し、
長崎の観光業者市に直接電話をして聞いてみたいと思います。
ありがとうございました!

お礼日時:2004/09/03 23:29

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