ショボ短歌会

1. 《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》――これが 
じんるいのさとりである。

2. ところが この命題(ひとの判断)は 《わたし》のその時・
その場の自己表現であるに過ぎないという特徴=限界をもっている。

3. 言いかえると 《わたし》の一面のみを語っている。

4. わたしは 《わたしがわたしであるわたし》に逆らってものご
とを考え さらにそのことを実行に移すこともある。《わたしがわた
ししていない》わたしも起きる。


5. それでも この命題は 活きる。《わたしに逆らうわたし》も
内にふくむと見れば足りる。

6. 語ったのは――つまりこの命題は―― つねにわたしの一部で
あると言える。

7. これが じんるいのさとりである。


☆ コメントをどうぞ。




8. 例証をひとつ挙げます。いぢめという事態は 相手を――それ
と同時に自分自身を――ほかから区別し その固定化と特別視とで差
別をおこなうことに始まる。

9. ですから・つまり そのとき《わたし》の一面を捉え その時
その場の自分の命題としている。

10. つまり そういう《わたし》の一部分が起きている。と見る
ことが出来る。

11. かくて すべての事象は 《わたし》論なる命題におさまる。

A 回答 (3件)

哲学は逃げである。


それは、すべてに理由をつけその理由のせいにして行動する。
大事なのは自分で考え、責任持って行動すること。
自分の問題を他者に責任転換する事は出来ない。

その通り、すべての事象は自分問題に収まる。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ その通り、すべての事象は自分問題に収まる。
☆ なるほど。と言いましょうか 賛同を得られました。

★ ~~~~~~~
哲学は逃げである。
それは、すべてに理由をつけその理由のせいにして行動する。
大事なのは自分で考え、責任持って行動すること。
自分の問題を他者に責任転換する事は出来ない。
~~~~~~~~
☆ そうですね。いくつかの見方が出されるでしょうが いかに《わたし
はわたしである》と確信しているときにも その自己表現は わたしの一
部である――わたしの一面しか表わし得ないことがほとんどである――の
だけれど それでも:
★ 大事なのは自分で考え、責任持って行動すること
☆ が出来るということ。が 大きいでしょう。

それこそ《逃げ》になるかも知れませんが わたしの自己表現は わたし
の一部分なのであると よい意味でも開き直るならば その発言や行動の
責任を――誰もが 一人ひとり自由に・そして 互いに対する態度として
――取りやすくなる。

つねにそのつど 誰もが 未来志向になってよいということが受け容れら
れるようになる。・・・かも分かりません。

どうでしょうか。

お礼日時:2017/08/14 22:23

哲学して行動すること、ですか。



人は川の流れに身を任せて何も考えようとしないので、思うようにならないと苦しんでいる。それは、まるで決定論の世界であります。
「自由意志」があれば苦は無くなる、というのが悟りでした。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 哲学して行動すること、ですか。
☆ そのようにさとったのですか?

★ 人は川の流れに身を任せて何も考えようとしないので、思うよう
にならないと苦しんでいる。それは、まるで決定論の世界であります。
「自由意志」があれば苦は無くなる、というのが悟りでした。
☆ たしかに運命論ないし決定論では 埒が明かないでしょうね。

たぶん――こう言っては何ですが―― 自由意志も万能ではないかも
分かりません。

ですが うまく行ったのでしたら それは 難局を突破できたのでし
ょうね。

お礼日時:2017/08/13 20:30

そんなに孤独なのですか?

    • good
    • 1
この回答へのお礼

《わが固有の時》――こんな時間が 持てませんか?

お礼日時:2017/08/13 10:00

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!