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「正論」を辞書で引いてみると、「道理にかなう理論・主張のこと」とあります。

また、「道理」を辞書で引きますと、「物事の正しい道筋・人として行うべき正しい道」
とあります。

「道理」とは哲学・思想のことになります。現代においてはこの部分は混とんとしていると
言っていいと思います。
もはや、真摯な議論など成り立たないほどに。

となりますと、「正論」とは何か?ということになり、牽強付会(こじつけ)、詭弁との区別
がつかなくなるだろうと、いや、なっているだろうと思います。

1、現代において「正論」とはなんでしょうか?

2、その根拠となる「倫理」「道徳」をどう考えたらよいと思いますか?

A 回答 (14件中1~10件)

「1、現代において「正論」とはなんでしょうか?」


⇒会話において、”それは正論だよ”という場合がありますね。
その意味は、その会話の中の事例に対して具体性がないいい方ということです。

例えば
戦争のない平和な世界の会話をしている時に、”どの国も武器を廃棄し、軍隊を解散すればいい”という人がいれば、”それは正論だよ”と云われます。
つまり、実現性のない建前を正論という場合がありますね。

「2、その根拠となる「倫理」「道徳」をどう考えたらよいと思いますか?」
⇒これは最終的には、教育にたどり着きます。
その教育とは学校教育に限りません。
最も重要な家庭教育、そして社会教育など広範囲の教育でしょうね。

特に、幼少期に「倫理」や「道徳」の基本となる人間性を教育されていないと、人間性の大切さを理解できない大人になってしまいますね。
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この回答へのお礼

「それは正論だけど」という言い方は私もしたことがありますが、
人による、とも言えないでしょうか?

まるで人ごとのように、当たり前のことを言って悦に入っているよ
うな人もいれば、「何か根拠がありそうだ」という感じの人もいる。

私の疑問は、「論理的整合性」というのは一体何と整合しているの
かということです。
「道理」ということになるのでしょうが、それは人それぞれ異なる
わけです。

異なる哲学・思想がぶつかった場合、議論という方法で結論が出る
ものなのか?
仮に、自分の間違いを素直に認める人ばかりだった場合、やり方に
よって決着がつくものなのか?

こう言い換えてもいいでしょう。


「倫理・道徳」は不要なものであるという考え方が現代において少
なくないと思います。
「道理」とは、「物事の正しい道筋・人として行うべき正しい道」
つまり、倫理・道徳のことだと思います。

哲学・思想の骨髄は「道理」だと思うのです。
倫理・道徳を無視するということは、哲学・思想の背骨を抜くよう
なものだと思うのですが、どうでしょうか?という質問でした。

相変わらず、分かりにくい質問文でした、いやはや。

お礼日時:2017/08/21 03:46

No.1です。



「「倫理・道徳」は不要なものであるという考え方が現代において少なくないと思います」
⇒その通りですね。

その理由は、何事もお金で解決しようとする現代の風潮です。
つまり、日々の楽しみである趣味やスポーツ、旅行、飲食などがお金で解決しているからです。
それは若者だけでなく、40代から60代でも同じ風潮ですね。
それらは特に都市社会で顕著です。

「哲学・思想の骨髄は「道理」だと思うのです。倫理・道徳を無視するということは、哲学・思想の背骨を抜くようなものだと思うのですが、どうでしょうか?という質問でした。相変わらず、分かりにくい質問文でした、いやはや」
⇒大丈夫です。David_Rossiさんの云いたいことは十分伝わっていますよ。

「道理ということになるのでしょうが、それは人それぞれ異なるわけです」
⇒その通りだと思います。
幼少の頃から両親の影響はとても大きいです。
親の価値観(道理)が子供の心の中に一生残ります。
ですから、親の違いが道理の違いとなって議論がかみ合わないことになるでしょうね。
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この回答へのお礼

人それぞれで細かい違いはあるけれども、現代人は概ね、

宗教・哲学は廃棄、倫理・道徳は無視、一度きりの限られた人生を
「細々と」楽しむーこれが人間の生き方であり「道理」であると考
えているのではないでしょうか?

大抵の現代人にとって、それが哲学であり、それを信じていると思
います。
私に言わせれば、これも信仰・宗教です。

お礼日時:2017/08/21 22:50

考えさせる問いですね。

ちょっと時間がかかりました。というのも、正論は、右翼の方が使う言葉になりつつあり、私はあんまり使わないです。右翼の「正論」には具体的な中身があります。次のようなことだと思っております。
・人としてどうするべきか。
・家族、国土、国家を守るべきである。
・そうした人たちに敬意を払うべきである(以下、戦犯をどうするかという話につながって行く)。
私個人は右翼的なロジックに反対しており、故に、正論という言葉を避けるようになりました。

しかしDRさんが書いてくださった意味で別途考えます。

まず1について。まずは国民の三大義務とかでしょうか。納税、勤労、教育。基本的には法律が正論だと思います。
しかし憲法の全てが認められるわけではありません。9条は賛否両論あります。
また別で非核三原則になってくると、正論と認められなくなりつつあります。私は賛成ですが、反対する人も出てきます。
ワタミとか電通のような企業の社訓だと、社内で正論ですが、はたから見ると狂っているということもあるでしょう。私も反対です。場所が変われば、「正論」は単なるローカル・ルールであり、普遍的ではなくなります。

しかし私自身は、1789年のフランス人権宣言のようなものは、普遍的に「正論」であってほしいと願っています。つまり2世紀半も前の他国でうまれたものですが、それを承知の上で、現代の日本でも有効であってほしいと思っているということです。

2は人権宣言の下支えとなる思想ということですから、フランス革命の思想ということになるでしょうか。革命それ自体に対して批判は出ているし、この人権宣言が実行されなかったとも言えます。またその後の法は、これを踏襲せず、逆行しました。フランスであっても20世紀に入るまで、この人権宣言は忘れ去られていたとか。まあ少しずつ前進してきていると思っています。
私の時代も一歩前進させたいと思っています。
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この回答へのお礼

分かりにくい質問文を理解していただき、恐縮です。

>納税、勤労、教育。基本的には法律が正論だと思います

ふうむ、これは大変興味深いお答えだと思います。
「法律」というものは、言うなれば国家が定めた、国民が遵守するべき義務だと思います。
これが正論だということは、国民は国家に従うものであるというニュアンスを多分に含んで
いると思います。

現代は大抵の人が、意識するとしないにかかわらず、そういうものだとしているように見え
ます。
昭和という時代でも、基本的には同じだったと思いますが、国民の権利・自由というものの
方が正論であるという風潮があったと思います。

何故そういう方向に向かったかといえば、「学校教育」だと見ています。つまり、霞が関の
企画する「グランドデザイン」ということなのでしょう。

我々日本人はやはり敗戦によって、背骨が抜けちゃんたのでしょうか?
哲学をしっかり考えないといけませんね。

お礼日時:2017/08/23 00:06

正しい論を語れる人は多分、賢聖くらいで、今も昔も多くはいないだろうと思います。

ただ、現代日本では、おおっぴらには賢聖を求めなくなったのかなと。でも実際には、本当のところを知りたいって言う人は少なくないと思います。
道徳や倫理が社会の一枠組みに過ぎないことが知れ渡り、人の行動指針はより多様性を増しています。だからこそ一層、内心では正論が求められていると思うのですが、それは従来の倫理や道徳に依拠したものではないと言うことです。
言うなれば、しっかりと理を明らかにしたものでなければなりません。
科学的思考が人の考えの基盤としての道徳や倫理の代替として人気?なのは、理路整然としているためだからと思います。しかし科学は哲学とは扱うモチーフが異なります。そこが歯がゆいところでしょう。
人を生物学的に解像しても、人の生きるべき指針は見出せないと思うのです。そのアプローチだと、いい飯食って人と話して、よく運動してよく寝る、くらいの答えしか見つからないのではないでしょうか。
複雑な形而上の事柄については科学は解像できないでしょう。

先程も言ったように、形而上の事柄に対しての関心は、潜在的に高いと思います。

現代の辿ってきた道として、
1.倫理や道徳は社会の一枠組みであり道具でしかない。
2.科学は物事の成り立ちを理路立てて明らかにしてくれる。
3.しかし、人生の答えは科学では見出せない。

であるから、必要な第四のステップは、形而上的な事柄に関する需要の顕在化を引き起こすきっかけだと思います。それは、自分らしく生きるとはどう言うことか、の具現ではないでしょうか。与えられた縛りとしての道徳や倫理ではなく、自分が納得できるものとしての生き方です。それは決して無理なことではないと思うのです。

だから、
4.心から思える自分らしい生き方の発見
だと思います。
これが、現代、正論に代替するものだと思います。
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この回答へのお礼

>心から思える自分らしい生き方の発見

一人の人間として切実な最も大事な問題だと思います。
若いうちに「これだ」というものに出会える人は幸せですよね。

「人間はいかに生きるべきか」という「正論」から導かれた「個別」の部分ということが
できると思います。

ここで私の言う「正論」とは哲学のことで、そのエッセンスが「倫理・道徳」と言ってい
いと思います。従来の枠組みでいいと思います。

しかし、あなたも同じお考えだと思いますが、「正論」があっても、個々の人間の中で具現
化されなければ価値はないということになると思います。
つまり、「真善美」の「真」は価値ではない、と。

科学が現代人に信頼されているのは、証明において実に厳密なやり方をしているからだと思
います。自然科学は特にそうなのでしょう。
しかし、精神科学においても、また異なるやり方で厳密さを追求することは可能だと考えます。
尤も、この辺りはプロにお任せするしかないのですが、一般大衆の一人として色々考えてゆき
たいですね。

お礼日時:2017/08/24 00:00

ご存じでしょうが、バージニア州シャーロッツビルで、デモ隊同士が衝突し、一名の死者を出した事件の余波が続いています。



南北戦争の南軍のリー将軍の銅像を守ろう、という、趣旨で、いわゆる、”白人至上主義者”が、届を出してデモをしていたところ、無届の”人権擁護団体”がやってきて、小競り合いになり、それが、自動車でデモ隊に突っ込む、という、テロ行動を誘発しました。トランプ大統領は、”どちらにも非がある”というふうに事件を分析し、メディアは、彼のコメントを、厳しく批判しています。

(比較的中立的であるロイター通信は、白人はトランプ氏の見方に賛同し、有色人種はメディアの見方に賛同している、互いに、この問題については、どうしても譲れない。ギャップが埋まることはない、としています。)

この場合、現在の正論は、”人種差別はいけないことである。”

その倫理は、黒人奴隷を経済の基盤としていた南部の州は悪の巣窟である。
道徳は、南軍のリーダーであったリー将軍の銅像は、破壊されなくてはいけない。

私の住むテキサス州ヒューストンでは、すでに、南軍の将校さんの名前の付いた建物は、まったく歴史の香りのない名前に変えられ、先週、オースティンにあるテキサス大学では、問題が起こる前に、銅像群をどこかに運び去りました。

日本でいうと、上野の西郷さんの銅像を、撤去するのと同じことです。

歴史を、なんと心得るか?!?!歴史はそこから学ぶものであり、消してしまえばよい、というものではない、というのが、トランプ氏のメッセージでしたが、リベラルは、そんなことでは、納得しませんね。ISISがアッシリアの羽根のあるライオンの像を、片っ端から破壊したのと同じ精神構造です。自分の目の高さでしか、ものが見られない。俯瞰することができないんでしょう。

長くなりますが、二点だけ、付け加えますと、米国では、メディアとハリウッドは、ヨーロッパで差別をしまくられた、ユダヤ人に支配されているらしく、人種差別には、ことに、敏感です。アレルギーといって差し支えないです。もう一点は、オバマ元大統領は、人権擁護の弁護士として、デモを組織する仕事をしていました。今回も、頭数をそろえる仕事をしたのではないか、という、話も出ています。

正論が、本来の人間のあるべき姿であるかどうか、私には少し疑問なのです。結局、政治的に利用され、私たち一般市民は、いいように丸め込まれるような、そんな思いがあります。

本当に、長くなりまして、申し訳ありませんでした。
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この回答へのお礼

人種差別は私も大反対ですが、それを象徴するような銅像とか名前を「消し去る」
という発想は、皮相的でデジタル的に思えます。

>自分の目の高さでしか、ものが見られない、俯瞰することができない

ということになると思います。

日本の東北の被災地でも、震災の遺構を税金を使って保全するべきか否かという議論
がありましたが、これも同様に皮相的な発想であり、今後予想される大震災の被害を
できるだけ軽減させるという目的にとって、「どうでもいい」話だと思います。

何故このような皮相的な言動が多くなったかといいますと、「手柄根性」が強くなっ
たのではないかと思っています。
全体観なく、自分の獲物にしか興味がないという精神状態のことです。

「正論」を「正義」と言い換えてもいいと思いますが、仰る通り、「正義」は全体観
の無い権力者によって利用され、一般大衆は「犠牲」になってきたと思います。

民主化が進む現在、そして未来において我々一般大衆が全体観の無い状態では、元も
子もない、といえるでしょう。哲学すべきです。

お礼日時:2017/08/25 07:03

>国民の権利・自由というものの方が正論であるという風潮があったと思います。



うーん。まあそうなんですけれどもね。人権宣言が権利や自由を謳っているので、私の回答内ではこちらの方に比重をかけることで、バランスをとっているということです。それに「正論」というのは、相手に諭されて納得せざるを得ないものというニュアンスを含んでいると私は感じており、この意味で、義務の方に目線が行くわけです。自分で「私が唱えている権利は正論です」とは言わないのではないでしょうか。自分で自分を正しいということに躊躇いがあるわけで、そこから「正論」の意味が絞られてくると感じるのです。
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この回答へのお礼

私は、以前にもお話したように、反体制的な革命家達の伝記等を読んで、
それに感激をして、さらに大人になってもそれを捨てないという、稀有な
ある意味「危険な」人間ですから、変わり者だのキチガイだの言われてき
たわけです。

こういう人間ばかりであったなら、社会は成り立たないのでしょう。です
から、ほんの少数でいいのでしょう、こういう人種は。
基本的に大衆は「正義」に従い、義務を履行することにより社会を成り立
たせているのですから、この大衆の働きは命の源のようなものだと思いま
すし、私だってこうあるべきと思っています。

しかし、正義が間違っていると思った時に「変えたい」と思う訳です。
人体で言えば「免疫細胞」のようなものでしょうか?但し、自分のやるこ
とが正しいという保証がないのですが…

お礼日時:2017/08/25 07:29

正論とは、相手の期待を脆くも砕き散らす様な正しい論理なんじゃよ〜。

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この回答へのお礼

正論によって、脆くも粉砕されるような期待を持った者達に告げよう。

「おぬしら、悪(ワル)よの~」

お礼日時:2017/08/25 07:38

話は変わるかもしれませんが、正義は複数あったらダメなんですか?

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この回答へのお礼

シンプルな返し、こういうの好きですね。

哲学・思想を突き詰めると、根本的な部分に至ると思います。
歴史に名を残すような哲学者は、その根本を探し求め結論に至ったのでしょう。
大変な労力であったと思いますし、尊敬に値します。
また、そこから様々な思想を展開しようとしたのだと思います。
私としましては結論もさることながら、その思考のプロセスに興味があります。

ともあれ、素人の私の考えていることは至ってシンプルです。

私の根本の哲学は、生命が最高に尊い、ことに人間が尊いということです。
人間を殺しては絶対にならないのはもちろん、基本的人権を絶対守らねばならない
し、地球環境は守らねばならないし、殺生は必要最小限にしなければならない、等。

この根本の哲学から、社会の中でのしきたりなどの「道徳」や「倫理」が生まれ、
さらに政治、法律、経済などの様々な分野に「思想」が生まれてくる。
根本の「正義」を違うことがなければ、生まれてくる新しいものも「正義」と言え
ると思います。

全く当たり前のことを言っているとお思いでしょうが、現実では、根本が何か混と
んとしているし、様々なこじつけ、詭弁により思想界というものは混乱の極みにあ
ると見ています。

お礼日時:2017/08/25 15:37

>私の根本の哲学は、生命が最高に尊い、ことに人間が尊いということです。



ここのところは私も大賛成です。学問もまた人間に奉仕するものだと思います。
しかしここから二つのタイプの意見が出てくるようです。
・一つは、人間を律するために学問を利用しようとする意見。
・もう一つは、人間の権利の拡大に奉仕しようとする意見。
同じことを目的にしているんだけれども、出てくる結論は全く逆なわけです。

前者の方について先に言うと、学問が精神を律した人間というのが、国家とか、神とか、王様だとかにいいように利用されてしまう傾向にあるようです。つまり組織に役立つ人材を輩出することに、結果的になっていくようです。

一方で、私は後者を支持しています。これは一見、何をやっているのかわからない。
なぜかと言うと、人間というのは、非常に気まぐれで、型にはまらないものだからです。こういうものに奉仕するってことは、アルゴスの眼のように、いろんな方向を向いていないとならないわけです。
ただ、そういう型にはまらない考えが「革命・革新」を起こしていくとも言われています。
私の周囲だと、ちょっとした流行になっていますね。

一般向けの話をする時によく引き合いに出されるのは、アップルの成功です。i-phoneっていうのは、音楽再生装置でもあれば、電話でもあり、パソコンでもある。既存の価値観だと、なんだかよくわからないジャンルのものです。でもこれは人間の欲望に奉仕した結果生まれたもので、これが誕生したことで、コミュニケーションは劇的に進歩した、というわけです。
学問もこんな風に、既成の枠をぶっ壊し、人間に奉仕しようではないか、なんて檄を飛ばす人もいます。

DRさんから見ると、学問が人間に奉仕するということはどのようなことでしょうか?
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この回答へのお礼

学問は言うなれば人間の下僕であり、人間に奉仕をする存在だと私も思います。

「二つのタイプの意見」という話を聞いて、つい最近聞いた話と重ね合わせるこ
とができると思いました。

即ち、「教わる人間」と「学び取る人間」の対比です。

>学問が精神を律した人間

というのは、先生から学問を教えてもらった人間、ということになるのかなと考
えました。
ここには、学問や大学などに権威があり、それに従うという精神性が感じられま
す。
つまり、学問のほうが偉いということですね。
その学問の威を借りて一般大衆に対し威張りたい人間がこの意見に賛同することが
多いとは言えないでしょうか?


あらゆる学問は人間のために生まれ存在していると思います。これはシンプルであ
りますが極めて重要な「道理」であると思います。
学問も政治も経済も法律も国家も宗教も、これらが権威を持ち人間より上になって
しまった時にこそ悲劇が生まれると言っていいと思うからです。

>学問が人間に奉仕する

ということはどういうことになるかと言いますと、それぞれの学問の神髄から人間
のためになることを、学び取るということであると思います。
そして、現実の諸問題の解決ということを目的の一つにするということであると思
います。

お礼日時:2017/08/26 23:24

>学問も政治も経済も法律も国家も宗教も、これらが権威を持ち人間より上になってしまった時にこそ悲劇が生まれると言っていいと思うからです。



ありがとうございます。いや、まさにおっしゃる通りだと思います。
話を戻しますと、正論っていうのは、こういうことなんじゃないでしょうか。つまり人間のためになるのかどうかを根本から問い直すような問題提起が、正論ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

>人間のためになるのかどうかを根本から問い直すような問題提起

より実践的な定義と言えると思います。
いずれにしても、この点について合意に達したようです。

意見の違いは興味深いことですが、合意するということはやはり、
嬉しいことです。

また、意見の違いをよくよく洞察し、違いの原因を探ってゆくことが
正式な議論ということになると思います。
信頼と敬意が存在するときにはじめてお互いの思想をより深く変革す
ることが可能になってくると思います。
相手の論理をまぜっかえすだけなんてのは、幼稚と言わざるを得ませ
ん。

尤も私の場合は素人ですので、議論と言うよりも対話、より価値的な
対話ができるように努力しているつもりです。

お礼日時:2017/08/28 07:47

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