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次の文章は 読むに堪えますか?

▲ (ニーチェ:《猛禽と仔羊》) ~~~~~~~~~~~~~~~
――だがわれわれは引き返そう。《よい( Gut )》のもう一つの起源の
問題 すなわち《反感( Ressentiment )》をもった人間が考え出した
《よい》の問題がその解決を待っているから。

――仔羊どもが大きな猛禽を恨むのは異とするに足りないことだ。しか
しそれは 大きな猛禽が小さな仔羊を捉えることを咎め立てる理由には
ならない。

また仔羊どもが 《あの猛禽は〈悪い( Böse)》 従って 猛禽になる
べく遠いもの むしろその反対物が すなわち仔羊が――〈善い( Gut )〉
というわけではないか》と互いの間で言い合うとしても この理想の樹立
にはいささかの難ずべき点もない。

もっとも 猛禽の方ではこれに幾らか嘲笑的な眼を向けながら 《俺たち
は奴らを あの善良な仔羊どもをちっとも恨んでなんかいない。俺たちは
奴らを愛してさえいるのだ。柔らかい仔羊より旨いものはないから》とお
そらく独り言を言うであろう。 

――強さに対してそれが強さとして現われないことを要求し 暴圧欲・圧
服欲・敵対欲・抵抗欲・祝勝欲でないことを要求するのは 弱さに対して
それが弱さとして現われないことを要求するのと全く同様に不合理である。

ある量の力とは それと同量の衝動・意志・活動の謂いである――という
よりはむしろ まさにその衝動作用・意志作用・活動作用そのものにほか
ならない。それがそうでなく見えるのは ただ すべての作用を作用者に
よって すなわち《主体》によって制約されたものと理解し かつ誤解す
るあの言語の誘惑(および言語のうちで化石となった理性の根本的誤謬)
に引きずられるからにすぎない。

[・・・(力とその作用 あるいはつまり逆に言って 作用と作用者=主体
とを分けて捉えるのは 例の《イデア》論にそそのかされたアヤマチだと
論じている。省略します)・・・]

作用が一切なのだ。



[・・・(今度は チカラにも《原因としてのチカラと作用としてのチカラ
とがある》といったあやまった見方をすることがあると論じている。省き
ます。ただしこのような言葉=観念の誘惑にみちびかれることからの派生
的なあやまちだというものが 次に挙げられている。)・・・]

内攻して蔭で燃え続けている復讐と憎悪の感情が 強者は自由に弱者にな
れるし 猛禽は自由に仔羊になれるというこの信仰を自分のために利用し 
その上この信仰を他のあらゆる信仰にもまして熱心に保持するとしても 
それは別に異とすべきことではない。――実にこの信仰によってこそ彼ら
は 猛禽に対して猛禽であることの責めを負わせる権利を獲得するのだ・
・・。

抑圧された者 蹂躙された者 圧服された者が 無力の執念深い奸計から 
《われわれは悪人とは別なものに すなわち善人になろうではないか。そ
してその善人とは 暴圧を加えない者 何人(なんぴと)をも傷つけない
者 攻撃しない者 返報しない者 復讐を神にゆだねる者 われわれのよ
うに隠遁している者 あらゆる邪悪を避け およそ人生に求むるところ少
ない者の謂(い)いであって われわれと同じく 辛抱強い者 謙遜な者 
公正な者のことだ》――と言って自らを宥(なだ)めるとき この言葉が
冷静に かつ先入見に囚われることなしに聴かれたとしても それは本当
は 《われわれ弱者は何といっても弱いのだ。われわれはわれわれの力に
余ることは何一つしないから善人なのだ》というより以上の意味はもって
いない。

[・・・(長くなるのでもう省略に従います。書かれていることは このよ
うに《仔羊》たることに甘んじる《弱者》たちは その何もしない方針を 
信仰としての主体・つまりその魂の成せるわざだと言って 《自己欺瞞》
に落ち入っているという批判である。そのくだりで この断章は終えられ
ている。)・・・]

(ニーチェ / 木場深定訳:『道徳の系譜』 第一論文 《善と悪》・《よ
いとわるい》 十三 (訳:1940/1964改版))
 
・独文:http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/GM
・英訳:http://nietzsche.holtof.com/Nietzsche_on_the_gen …

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ここで ニーチェは 次のように言っていますか?

(あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。

(い) 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世
界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を
言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサ
ンチマンのなせるわざであるに過ぎない。

質問者からの補足コメント

  • №6お礼欄からのつづき(1)

    《求道者》なる主体存在を 弱い者がただでっち上げたまぼろしの観念
    だと言おうとしていたのでは?

    ★ (ニーチェにしたら、自分の書いた事を鵜呑みにするようでは駄目
    だと思っていたんじゃないですかね?)
    ☆ 鵜呑みにしては駄目だと言っていても ニーチェ自身が 文体とし
    ては 鵜呑みにしていると思われますが?

    ★ ニーチェ自身の弱さは、自分がわからない事でも、何かが存在する
    と思っていた事です。(超人は、そのような概念です)
    ☆ ここでも 超人なる《行為のみ》があると思い込んでいたのでは?

    ★ そういう意味では、ニーチェ自身も、プラトンの「イデア」や、カ
    ントの「物そのもの」と同じように、見えない到達点があると想定した
    と言う事です。(それを、人間の価値基準にゆだねたと言う事です)
    ☆ それが 《猛禽にあこがれつつこれを仮面として着つつ・・・

    つづく

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/16 06:31
  • №6つづき(2)

    ☆ それが 《猛禽にあこがれつつこれを仮面として着つつ 仔羊のパ
    クリしか出来ない文体》なのでは?

    ブーメラン問題です。:
    ★☆ それは、ニーチェがプラトンやカントを批判した目で、自身も批
    判されると言う事です。(考え方は、違っても、やはり、何かを「信仰」
    していたと言う事になります)

    ★ ハイデガー流に言えば、ニーチェは、観念論と形而上学の最後の完
    成者と言う事なのでしょう。
    ☆ 観念論は ヘーゲルで完成。
    そして《現実の行為》に寄って行き観念論を解きほぐそうとし解きほぐ
    し過ぎたマルクスと
    世界精神を何とか現実のものとしたかった(けれど 神学のパクリとモ
    ドキしか書けなかった)ニーチェ。では?

    ★ (全体性は無目的であり、その価値は、人間の「生」そのものにあ
    ると断じたと言う事です)
    ☆ 前者が目指された。後者は まぼろしに終わったのでは?

    つづく

      補足日時:2017/09/16 06:42
  • つづき(3)

    ★ 「ツァラトゥストラはかく語りき」において、終章でツァラトス
    トラは、坂をおりて、大地の人間に戻っていきます。
    ☆ すでに《超人》は 《大地・大河》のことだったのでは?

    ★ それは、創世記における楽園追放のオマージュであり、原罪によ
    り大地に向かうアダムとイブでは無く、1人の人間として、楽園を後
    にする人間を意味しているのでしょう。
    ☆ その種のオマージュと言えば すでにピコ・デラ・ミランドラが
    『人間の尊厳について』を著わしていますね。

    ★ それは、原罪を背負った駱駝でも無く、強者である獅子でも無く、
    人間と言う幼子への回帰です。
    ☆ ピコは 人間が自由意志をつうじて何でも好きなことが出来ると
    いう内容を 神が語ったという構成にしているのは 微妙ですが。

    《悪事に対して幼子になり 考え方においては 大人になれ》。ある
    いは 《鳩の心 蛇の頭》。

    つづく

      補足日時:2017/09/16 06:56
  • つづき(4)

    ★☆ (「ツァラトゥストラはかく語りき」自体が、新約聖書
    (福音書)のパロディーとの解釈もあるようです)

    ★ 皮肉なのは、ブルジョアのような浪費生活していた、ユダ
    ヤ人のマルクスが「資本論」を書いた事と、ほとんど弱者同然
    だったプロテスタントの牧師の息子のニーチェが「アンチ・ク
    ライスト」を書いた事ですね。
    ☆ いや 世界観はむしろ支配階級の立ち場に立って構築され
    るとは考えます。

    『アンチ・クリスト』は シリメツレツです。例証なしですが。

    ★ これは、逆にそのような生活をしていたから、それぞれが、
    欺瞞性をきちんと認識できたのでは?と言う見識もあります。
    ☆ これは 生活の実態について知らないわたしには 承って
    おきたいと思います。

    つづく

      補足日時:2017/09/16 07:03
  • つづき(5)

    ★ (ニーチェもどちらかというと、ユダヤ教やカトリックのような
    戒律・律法主義よりも、プロテスタントの精神主義の方が根が深いと
    考えていたような感じはします)
    ☆ ここは わたしにははっきりとした読み取りの像を結びません。

    ユダヤ教イエス派は パウロをとおしてのキリスト論として すでに
    律法主義から自由です。律法は 結果的には 罪のあることをおしえ
    るためにだけある。

    プロテスタントにしても けっきょく集団ないし組織から自由ではな
    い。
    万人司祭というのは なおまだ司祭と平信徒というヒエラルキアが残
    っています。(《弟子を持たず 同朋のみ》と比べ得ます。のちに組
    織が復活しましたが)。

    《信仰(非思考)と宗教(思考)とは峻別すべし》なる旗をかかげま
    す。

    お門違いでなければ。

      補足日時:2017/09/16 07:15
  • 補足のおぎないです。

    ☆☆ №6つづき(2) ~~~
     ★ ハイデガー流に言えば、ニーチェは、観念論と形而上学の最後の
     完成者と言う事なのでしょう。
     ☆ 観念論は ヘーゲルで完成。・・・
     世界精神を何とか現実のものとしたかった(けれど 神学のパクリと
     モドキしか書けなかった)ニーチェ。
    ~~~~~~
    ☆ ですが 《神は死んだ》と言ったのは ヘーゲルだったのでは?

    とひと言つけ添えます。(出典をいま出せないでいるわたしですが)。

      補足日時:2017/09/16 08:11
  • №10お礼欄よりつづき

    ★ キリスト教自身が持つ矛盾と言えます。
    ☆ 相対世界における矛盾をかかえつつ矛盾を超えた絶対性の問題を 
    イエスが 思想(生活態度)として議論しました。

    ★ 「愛」
    ☆ も この非知ないし非思考の庭におさまります。思考の緑野では愛
    憎が入り混じり ルサンチマンがあり得ます。

    非思考の庭に:
    ★ 欺瞞も排他性
    ☆ もあり得ません。ハカリゴトがないのですから。

    ★ ニーチェの立場は、普遍などは認めず
    ☆ 思考としての普遍(それに付随する排他性)ではなく 非思考とし
    ての普遍神が キモです。

    ★ ゾロアスター教では、「善神」、「悪神」は単なる対立概念であり
    ☆ いえ。最終的に悪神がほろぼされるまでは(:おかしな設定ですが) 
    対立する両者の二元論です。

    非知の次元における想定としての二元論は 無効です。互いに相い容れ
    ない善神と悪神とを想定するからです。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/16 12:41
  • №13です。

    うけたまわりました。

    お礼欄は 予備のスペースとして取っておきます。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/16 14:02
  • ニーチェについては どうしても言いたいことがあります。

    ディオニュソス崇拝を言っているとしたら それは バッコスの信女
    たちが――そして 殺されることになるペンテウスのその母親までが
    ――復讐のためなら ペンテウスを殺してもよいし 一般に人殺しを
    やってもよい・・・と言ったことになるはずです。

    つまり ルサンチマンに浸りこれにもとづき復讐の鬼と化すことを勧
    めている・・・というのが 実際です。

    ルサンチマンは それを抱くことを畜群とも呼ぶべき弱者のくせだと
    して 口を酸っぱくして 貶めていると言うのに。

    『悲劇の誕生』は 若気の至りで 失敗作だと言っていたかとも思い
    ますが。

    つまり ディオニュソス賛歌は どこから見ても いただけません。

    アポロンに対して 光と影といった対照では済まない間違いです。特
    殊な例外的な狂気=狂喜を持ち出したのです。

      補足日時:2017/09/17 20:06
  • 回答№22へのコメントです。

    ★ 独善
    ☆ と開き直っているかぎり 理論として批判し切ることは きわめてむ
    つかしい。そう思います。

    なぜか 京都派――梅原猛・河合隼雄・山折哲雄・・・――にそういった文
    体が多いです。

    ということは ニーチェ・スクールの論客を相手にして 批判を展開する。
    この方法が 考えられます。

    No.22の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/18 15:05

A 回答 (30件中11~20件)

お礼ありがとうございます。


行為についてですが、行為自体からは、その行為者(あるいは非行為者)の意志は認識不可能です。(何故ならば、他人の思考は表明されない限りわからないから)
したがって、その意志は行為者(あるいは非行為者)しかわかりません。(これが、行為のみからできる判断です)
対応は、仮に強者の支配があった場合は、以下のとおりです。
強者の支配→行為の内容で判断する。(支配自体が非合理なわけでは無く、支配の内容によるでしょう)
非行為者→行為が無いので、判断できない。
ニーチェの主張においては、特に社会性は問題にしていません。(ただし、他の書物では、人類の生と言うものは想定しているようです)
基本的に、ニーチェの主張に他者との対話と言う概念は無いと思います。(個人として考えろと言う事です)
ヘーゲルの全体知という全体性の概念では、全体知と言う概念においては、他者が存在しません(絶対的な全体知を想定するならば、それは完全な普遍性を持つので、他者の知と言うものは、全体性に全て包含されるので、その独立した存在自体がありえないと言う事です)
ニーチェは、そのようなものがあると言う観念は、ニヒリズムに陥った場合は、あり得ないと想定します。(まさに、普遍的なものが存在しないから、絶対的な価値と言う観念を喪失しているわけです)
これを旧約聖書のパロディーと考えれば、創世記第11章そのものでしょう。
「全地は同じ発音、同じ言葉であった。
時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。
彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。
時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。
さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。
こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。
これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。」
ニヒリズムは、まさに言葉(=イエス・キリスト)=理念(ロゴス)の共通性(普遍性)が失われた状態です。
ニヒリズムは、普遍的な理念を失わせますから、基本的には対話も社会(協働する機能)も失います。
人類は、個人に分散し、個人が自己で価値基準を持つしか無い事を示唆します。
ただし、共通概念を持ってはいけないと言う事では無い事に注意してください。
キリスト教は、ニーチェの主張では、本来持っているべきだった普遍性は、実際には持っていませんでした。(「神」は、誰かにとっては死んだわけです)
しかし、その布教が成功していたわけです。
ニーチェは、キリスト教のルサンチマンによる道徳の正当性は、単に数の大小にすぎないと断言しています。
この考えに価値をもった、キリスト教的弱者の数が、強者に対して多数だったと言う事です。
したがって、共通概念を持つには、単純に数の大小で決めるしか、合理的方法はありません。
ニーチェ自身は、それだけでは、「よい」とは判断する根拠を持っていませんが、それば、「生」を否定しないのであれば、それが「わるい」とはしていません。
問題があるとしたら、「よい」は、個人の「生」=「力への意志」が判定基準となっている事です。
これは、個人で相違する概念ですから、それをジャッジするのは、どちらが勝つかだけになってしまいます。
これは、数の大小と、力の強弱で決まると言う事です。(ある意味、明確に現代の社会の論理を予言していたとは言えます)
したがって、ニーチェは、予言者として捉えるべきで、そのように成りたくないなら、どうすれば良いかを考える必要があると言う事です。
実を言えば、「運命愛」も結果をそのまま受け入れろと言う事だけで、それによって結果が変わるわけではありません。(そういう意味では、ルサンチマンとはその思想は違いますが、結果を受け入れる点では、同じ事です)
キリスト教徒は、ルサンチマンによって、自己承認欲を満足させますが、それは欲望を失う事(禁欲)を要請します。
「運命愛」は、「生」=「力への意志」=欲望を否定しませんが、欲望がかなう事が保証されないので、結果が欲望そのものだと思い込む事を要請します。(ある意味、失敗しても気にするなと言っているだけです)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 基本的に、ニーチェの主張に他者との対話と言う概念は無いと思い
ます。(個人として考えろと言う事です)
☆ 《個人として考えろ》と思っていたとしたら そこに他者の存在あ
るいは社会性が あるはずです。

★ 他人の思考は表明されない限りわからない
☆ としても そのままに放っておくとも限りません。推測を成します。
さらには どういう意図なのか? と問います。これも 社会性です。


★ 絶対的な全体知を想定するならば、それは完全な普遍性を持つので、
他者の知と言うものは、全体性に全て包含されるので、その独立した存
在自体がありえないと言う事です
☆ 何の問題もないと思います。《全体知》の想定ゆえ 相対存在でも 
のっぺらぼうにはなりません。

【《相対個別スサノヲ - 相対普遍アマテラス》+ α(非知のナゾ)】

プラス α がないと 《顔無し》になります。

★ ニヒリズムに陥った場合
☆ にも絶対なる非知は 死にません。

《わが神 なぜわたしを見捨てたか?》と言ったときにも 《神なんか 
糞くらえ》とののしったときにも まったく同様です。

★ まさに、普遍的なものが存在しないから、絶対的な価値と言う観念
を喪失しているわけです
☆ というときにも 同じです。


▼ (創世記11) さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言
葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう
☆ これは――ひとつの解釈としてですが―― 人びとは有神論一色で
はいけない 創造性のためには多様性が必要だと思って 《有る神》派
のほかに 《無い神》派という立ち場をも 互いに同等にあるようにし
た。のではないでしょうか。

★ 人類は、個人に分散し、個人が自己で価値基準を持つしか無い事を
示唆します。
☆ この多様性は エワとアダムがへそを曲げたときから 定まってい
ます。

★ キリスト教は、ニーチェの主張では、本来持っているべきだった普
遍性は、実際には持っていませんでした。
☆ つまり 先ほどの《相対普遍アマテラス語》は 持っていたわけで
す。


★ ニヒリズムは、まさに言葉(=イエス・キリスト)=理念(ロゴス)
の共通性(普遍性)が失われた状態です。
☆ 昔は アマテラス普遍語と言ったら 神聖にして侵すべからざるも
のだったわけです。

お礼日時:2017/09/17 18:11

補足:ニーチェの主張(もしくは現象記述)としての「神は死んだ! 神は死んだままだ! 我々が神を死なせたのだ!


あらゆる殺害者の中の殺害者である自分たちを、我々はどう慰めればよいのか?」の意味
ニーチェが哲学(観念論)で語っているならば、我々が超越的存在である「神」の死は認識できません。
つまり、ここで語られる「神」は、超越的存在ではあり得ません。
つまり、この「神」は、我々が勝手に想定した「神」の観念である事は自明です。
この言葉は、我々(ニーチェが主張する所の同時代の人々)が、「神」の愛、「神」による救済、「神」から与えられる道徳観、ひいては、「神」なる絶対的存在(人類の運命の審判者)や絶対的道徳観(人類が従うべきルール)、魂の不滅などの観念を消し去った(忘れた)事を意味します。(ただし、「神」は死んだままで、その理念だけが消えて、制度としてのキリスト教は残った事を示唆します)
ニーチェは、人類が共有できる、共通概念が消え去った(共有幻想の喪失)事を述べただけです。(「真理」が存在するなどの、絶対的なものに対する観念が喪失したと言う事です)
これにより、ニヒリズム(価値の喪失)に、人類は向かうと予言したわけです。(価値が消えるわけでは無く、価値の判断基準が消えるだけです)
当然ながら、超越的存在に対して、ニーチェが何かを主張しているわけではありませんから、超越的存在に関してはニーチェは無記と判断すべきでしょう。
基本的に、ニーチェは、「生」に対する価値判断としては、「生」=「力への意志」を優先すべしとしているだけで、個人の価値判断で行動せよと主張しているだけです。
神が生きている人ならば、そのように行動すれば良いだけです。(ニーチェは、キリスト教の道徳観を「生」の否定から、拒否しますが、「生」を拒否しないならば、それを妨げる理由はありません)
非知は、観念に捉えられませんから、ニーチェの主張とは矛盾しませんよ。(非知が与えるものは、観念として表現出来ないはずですから、ニーチェが主張する「神」=普遍的観念の外にあります)→ニーチェは非知の概念を持っていると思えないので、元々、その主張に含まれません。(非知と神の関係については、ニーチェは無関係です)
(備考:「神」は、キリスト教の神を意味します。 神は一般的用語としての利用ですから、その意味性は受け取る人により異なります)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ニーチェの主張(もしくは現象記述)としての「神は死んだ! ・・・」
の意味

☆ 次のご見解に同意します。:
★☆ ニーチェが哲学(観念論)で語っているならば、我々が超越的存在で
ある「神」の死は認識できません。
★☆ ここで語られる「神」は、超越的存在ではあり得ません。
★☆ この「神」は、我々が勝手に想定した「神」の観念である事は自明で
す。
★☆ この言葉は、・・・絶対的道徳観(人類が従うべきルール)・・・な
どの観念を消し去った(忘れた)事を意味します。
☆ 道徳は 律法と同じく 結果として 人に罪のあることをおしえるため
だけにあります。

★ ニーチェは、人類が共有できる、共通概念が消え去った(共有幻想の喪
失)事を述べただけです。
☆ 律法はそれを破るとすくわれなくなり 石打ちの死刑に遭いますがそう
いった《絶対的な規範》という重荷を投げ出したいと言ったのでしょう。

★ 超越的存在に対して、ニーチェが何かを主張しているわけではありませ
んから、超越的存在に関してはニーチェは無記と判断すべきでしょう。
★ 非知は、観念に捉えられませんから、ニーチェの主張とは矛盾しません
よ。
☆ アンチ・クリストのクリストは 《超越的存在》のことではなく 人び
との頭に観念として持つようになったオシヘの問題だとはっきりさせれば済
んだはずです。

その点についてニーチェは 無関係なのではなく 無知だったといまでは断
定します。

なぜなら:
★ これにより、ニヒリズム(価値の喪失)に、人類は向かうと予言したわ
けです。(価値が消えるわけでは無く、価値の判断基準が消えるだけです)
☆ 価値の喪失あるいは関係主義≒相対主義は 超越的存在について無知な
場合には ただただ誰にも顔のないのっぺらぼう史観となります。

★ 基本的に、ニーチェは、「生」に対する価値判断としては、「生」=
「力への意志」を優先すべしとしているだけで、個人の価値判断で行動せよ
と主張しているだけです。
☆ 《絶対的な相対主義》にもとづきそう主張している場合には 世の中は
無価値主義の猛禽たちの天国になります。


★ (備考:・・・神は一般的用語としての利用ですから、その意味性は受
け取る人により異なります)
☆ 《超越的存在》ならば 普遍神に絞られます。

お礼日時:2017/09/17 15:19

補足です。


ニーチェの問題提起
ルサンチマンは、行為だけで、行為主体の「意志」を勝手に推定している。
また、非行為だけで、推定出来ない非行為者の「意志」を勝手に推定している。(もしくは、キリスト教信者は、自己を「弱者」と見なし、「欲望」に打ち勝ったと、非行為を自己承認している)
この事が、認識できない「主体」(の「意志」)を想定していると判断しているのでは?と言う問いです。(ニーチェは、「自由意志」を否定しているので、行為は「生」の為の状況に対する応答とのみ判断しているのかもしれません)
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この回答へのお礼

№17お礼欄よりのつづきです。

(せ) ここで次の問いを考えてみよう。:
★ (1)、「生」(=「力への意志」=生の為の「欲望」)に対して、「善」
では無い(=「悪」)と見なしていないか?
☆ おそらくここでは 生活にとっての正負の判断は ふたつの種類に分かれる。
 
(そ) すなわち:
 ( a ) 総括的に捉えた人間の生についてそれは正だろうか負だろうかの判断
 ( b ) 個別の行為についての正負の判定

(た) ( b )から見て行こう。――個々の行為について正か負かの判断は 猛
禽≒強者と仔羊≒弱者との間で違っているように おそらく人によって違う。

(ち) ここで一気に結論を提出したい。まづ人は 互いの見解の相違をみとめ
容れつつ社会生活をいとなむことを目指す。と思われる。

(つ) 見解(もしくは 意志内容)の相違をみとめつつ それぞれが社会にお
いておのがところを得た生活を送ることが出来るようにと思う。

(て) ということは ( a )の問いについて人びとは 《人間の生は 社会生
活における共生》と捉えており 《生は 生にとって好ましい(プラス)》と思
っている。

(と) ここまで来れば ニーチェ氏の迷いは 吹っ切れるのではないか。

(な) ★ ニーチェの道徳観は以下のとおり。
基本的に、「生」=「力への意志」(=生の為の欲望)は「よい」
☆ この命題は ひとえに《社会生活》を前提にしないときに そのまま成立す
る。《見解の相違》を無視してよいという別の前提に立つときである。

(に) ★ 「生」を否定するもの(=「力への意志」=生の為の「欲望」)は
「わるい」
☆ すなわち 社会における共生は おのれの欲望としての生を否定する。ゆえ
に 互いに見解の相違をみとめあうという考え方は 《わるい》という命題が成
り立つ。らしい。

(ぬ) ★ 生の為の欲望による行為者(=強者)→「よい」
☆ (に)と同じ前提で おなじく成り立つ。らしい。

(の) ★ 非行為者→判断はできない。(何もしていないから)
☆ いや。《弱者》も 次のように見解(意志)を表明している。
▲ われわれはわれわれの力に余ることは何一つしない

(は) われわれは 今からでもニーチェさんのたましいの平安をねがって祈る
必要があるのかどうなのか。

☆ どうなんでしょうね。

お礼日時:2017/09/17 14:40

ひとまず、内容の整理をしてみます。


(あ)猛禽と仔羊のレトリックについて
猛禽が仔羊を捕食する理由→仔羊がおいしいから(猛禽の欲望のみで捕食される)
仔羊が猛禽を悪とする理由→仔羊が食べられるから(仔羊の自己保存がおかされる)
ニーチェの主張は、基本的に「生」=「力への意志」(欲望)によるものとしている。
キリスト教のルサンチマンは、弱者を「善」とする。(なぜならば、弱者は欲望に打ち勝つから)
上記の意味は、仔羊において、以下の論理の逆転を行う。(結果から原因を推定する)
猛禽は、欲望に打ち勝てない(仔羊を捕食する)→「善」では無い(=「悪」)
仔羊は、欲望に打ち勝つ(猛禽を捕食しない)→「善」
ニーチェは、「生」=「力への意志」(欲望)が何故、「善」で無いのかを問いています。
問題となる実際の行為→捕食、この行為自体は、生命ならば、基本的に行っている行為である。
行為自体は、非難される内容では無い。(仔羊がこの行為自体を非難するのは、仔羊の自己保存のみで成立する)
仔羊は、何故、「善」となるか?
仔羊は、「悪」を成さない→背理法により、「善」である。(これは、「善」・「悪」を排他的概念として、それ以外の状態が無いとしている)
「善」・「悪」以外の状態は無いのか?(ニーチェに言わせれば、これは「善」・「悪」の問題では無く、単なる力の差のなせる事であるとしている)
ニーチェの主張
猛禽と仔羊のたとえを、キリスト教の道徳にあてはめてみる。
キリスト教の道徳は、欲望に打ち勝つ事を「善」とするとする。
ここで、猛禽=強者、仔羊=弱者に置き換える。
強者は、欲望に打ち勝てない(弱者を支配する)→「善」では無い(=「悪」)
弱者は、欲望に打ち勝つ(強者を支配しない)→「善」
これを行為で見てみる。
強者が弱者を支配する。(強者=行為者)→行った行為による判断が必要。
弱者は、何もしない。(弱者=非行為者)→行為を行わないので、判断は出来ない。
上記より、行為の遂行のみでは、「善」・「悪」の判断は出来ない。
したがって、行為に対する「意志」で判断を行う。
強者が弱者を支配する。 原因は欲望である。→「善」では無い(=「悪」)
弱者は、何もしない。→行為をしていないので、意志も無い。 背理法により「善」と推定。
上記より、キリスト教の道徳では、強者はその行為の意志により「悪」とされる。
弱者については、行為を行わない事により、意志も存在しないと推定、したがって、背理により「善」
キリスト教の道徳を、猛禽と仔羊のたとえにあてはまめると、以下のとおり。
欲望による行為者(=強者)→「善」では無い。(=「悪」)
非行為者(=弱者)→「善」
ニーチェの道徳観は以下のとおり。
基本的に、「生」=「力への意志」(=生の為の欲望)は「よい」
「生」を否定するもの(=「力への意志」=生の為の「欲望」)は「わるい」
生の為の欲望による行為者(=強者)→「よい」
非行為者→判断はできない。(何もしていないから)
ニーチェのキリスト教の道徳感に対する批判
(1)、「生」(=「力への意志」=生の為の「欲望」)に対して、「善」では無い(=「悪」)と見なしていないか?
(2)、非行為者(=弱者)を、行為を行わない事のみで、「善」と見なしていないか?(非行為に「意志」を想定できるか?)
(3)、実行された行為から、行為主体の「意志」を勝手に推定していないか?(行為から、その「意志」を判断できるか?)
(4)、非行為者は、欲望を持たないのか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★(回答№18) (ニーチェは、「自由意志」を否定しているので、行為は
「生」の為の状況に対する応答とのみ判断しているのかもしれません)
☆ あっ これは わたしに確かではありませんでした。

ただ もしそうだとしても 次の問いを 人びとは持つと思われます。:
(お) 人間の社会における生活について 《行為とその関係があるのみ》と
決めつけてよいのか?

(か) すなわち 動物のようにすべて本能において行動すると見るにせよ・
いくらかは 本能よりほかの人間としての意志を想定するにせよ 《行為とそ
の関係について そのあとで省みることがあるのか》?

(き) 同じことで 人は《その成した行為について考え直し あらたにおこ
なう同じような内容のことについて 過去のやり方を修正することはあるか》?


(く) こうだとしますと こんどは 次の前提が問われます。:
★ (1)、「生」(=「力への意志」=生の為の「欲望」)
☆ まづ 《力への意志》とは 確かショーペンハウアーの見るように遥かに
人間のハカリゴトとしての意志を超えたナゾのチカラであり 人間は――知ら
ず知らずのうちに――それによって行動へと促されるものだとするのか?

(け) その《超意志》によって人間も けっきょく動物における《本能》の
ごとき行動形式のもとにあるのか?

(こ) けれども おそらく人間は 本能形式を多少は超えている。と見られ
る。――なぜなら こういった疑いを持って 考えることを成す限りにおいて。


(さ) だとすると:
★ (1)、「生」(=「力への意志」=生の為の「欲望」)に対して、「善」
では無い(=「悪」)と見なしていないか?
☆ なる問いをめぐっては 自分たちの行為について 《善と悪》という規定
になるかどうかを別として たとえばプラスかマイナスかといった判断を何が
しか成している。のではないか?

(し) プラスかマイナスかの判定というのは おそらく(お)における《一
人ひとりの人間の行為が社会生活を成す》ゆえに起こる判断であろう。

(す) 社会にとって・人間関係にとって・つまりはそれぞれの人間にとって
その生活がたのしく成るかどうか その生活を嫌なもの・苦しくするものでな
いかどうか というふうに判断するものであろう。

№18へつづく

お礼日時:2017/09/17 14:14

お礼ありがとうございます。


ゾロアスター教と古代ヘブライ宗教は、拝一神教のはじまりとされているので、厳密にはユダヤ教も絶対一神教では無いようです。(どうも、ノアの7戒に矛盾しない教義の神ならば、存在自体は否定していないようです)
ちなみに、完全な唯一絶対神教となるのは、キリスト教だけのようです。(ムスリムは、必ずしも、他宗教信仰者を排除しないので、唯一絶対神教とは断定できません)
そうは、言っても、現在のキリスト教は、さすがに公にそのような立場は取っていません。(信者はそのように認識しているかもしれません)
ニーチェ自身は、その信仰において、キリスト教を信者の心に原罪と弱者信仰を埋め込む宗教として捉えています。
なお、カトリックの教会の権威自体は、それが維持されれば、悪質では無いと考えていたようです。(カトリックは、教義に従いさえすれば、救済は約束されるので、キリスト教の中では、一番楽天的だと言う意見もあります)
ユダヤ教も戒律を守れば、その精神性までは、束縛しないようなので、ニーチェにとっては、批判すべき対象ではありません。
最も悪質なのは、その教義が心を縛るキリスト教です。(この場合は、人間はキリスト教的「善」から逃れる手段を持ちません)
ニーチェ自身が、その心の呪縛から逃れようともがいていたのかもしれません。
これは、哲学とは無関係ですが、キリスト教信者には、あまりにも心を縛りすぎて、何の行動も起こせない状態に陥る人もいるようです。(これが、キリスト教のせいとは言い切れませんが、そういうドグマがそこに内包されているのも事実でしょう)
カント、ニーチェ、ヴィトゲンシュタインは、その哲学において、「神」と哲学(観念)を分離しましたが、ニーチェは別として(これは異論があるかもしれません、ニーチェは最後まで教会に通い続けたからです)、カント、ヴィトゲンシュタインは敬虔なキリスト教信者でした。(ある意味、神学が哲学と決別すべき事を実証したと言えるかもしれません)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

わたしの考えるところを率直に述べてまいります。

★ 厳密にはユダヤ教も絶対一神教では無いようです。
☆ バアル神だとか ほかの民族の神(複数)があるのを認めています。
ただし ユダヤの民よ おまえたちは われを唯一の神とせよなのだと
思います。

★ 完全な唯一絶対神教となるのは、キリスト教だけのようです。
☆ これは ローマの国教となってからの神学を伴なう宗教のことでし
ょう。

ただし イエスが指し示した神は ヤハヱ―神をユダヤのためのものか
ら外へ開いて 普遍神に揚げ ふるい神は棄てたそれです。

ヘブル書(8章)=エレミヤ書(31:31~)には あたらしい契約として
《神は人びとの罪を覚えない。忘れる》と《人びとは神を知れと言って
おしえることはなくなる》が書いてあります。



★ (ムスリムは、必ずしも、他宗教信仰者を排除しないので、唯一絶
対神教とは断定できません)
☆ ですが ウンマ(イスラーム共同体)のために税をおさめよと言っ
て 支配の手が伸びます。


★ 現在のキリスト教は
☆ もう死んだも同然です。慣性の法則で動いているだけだと思います。


★ ニーチェ自身は、その信仰において、キリスト教を信者の心に原罪
と弱者信仰を埋め込む宗教として捉えています。
☆ いっさいが無効です。《わが固有の時間としての非思考の庭》が
特殊絶対性として成り立つ――これが 信仰です――としても この信
仰ないしその神を(いかに普遍神だと言っても) ほかの人間の《非思
考の庭》へと輸出するわけには行きません。

思考に非ずなるナゾを どうして主観を超えてつながりをつけることが
出来ましょうか。もしそうしようとするなら 宗教は絶対欠陥です。



★ カトリックの教会の権威
☆ 政治的・民俗的な――慣性のもとなる――存続のみです。

★ カトリック〔の〕教義
☆ は 思考の問題です。(神秘思想とて 非思考ではありません)。


★ 最も悪質なのは、その教義が心を縛るキリスト教です。
☆ いえ。ただ聖職者も平信徒もどちらも思い込みとして みづから心
を縛っています。よいことだ・りっぱなことだとも思い込んでいるので
しょう。

その間 精神錯乱の状態です。


№13お礼欄へつづく。

お礼日時:2017/09/16 18:35

No.14で誤記がありました。


イラクアーリア→イランアーリアの間違いです。
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この回答へのお礼

ペルシャと言いますか さらにその以前のことですね。

インド(パンジャブ地方)から ひとつの部族が分裂してその
一方が イランに行ったと言うんですがねぇ。

お礼日時:2017/09/16 14:37

お礼ありがとうございます。


ご指摘どおり、ゾロアスター教では、「善」・「悪」を絶対的としていません。(あくまで、相対的な概念と言う事です)
これは、そういう宗教なので、絶対がどうとかはなんとも言えません。(ゾロアスター教は、唯一神信仰ですが、他の神を否定していません)
単純に、信仰している神を唯一信仰にしているだけで、それが善神だからと言うわけでも無いようです。(信仰者にとっては、善神なんでしょうけど、それは選択しただけです)
ちなみに、ゾロアスター教で善神とされるアスラは、ヒンズーでは悪神としてのアスラ(阿修羅)となっています。(元々は、イラクアーリアとインドアーリアで選択した神が変わったと言うか、変化したようですね)
これは、哲学とは関係無いと言えば、無い話です。
キリスト教徒の反論に関しては、特にニーチェにあててなされたものでは無いです。(いわゆる「哲学者の神」と言う言い方です)
キリスト教及び、その神学においては、「神」は観念の中には無いと言う離脱宣言です。(これ自体は、最近の神学者はやはり、そこまで突き放す必要は無いと考える人もいるようです)
スコラ哲学においては、神学との協調があったわけですから、神学に旧来の哲学的認識は多少なりとも残っているので、極端に突き放すと、自己否定につながりかねません。(あくまで、教会との関係性で、信仰的には離脱したと言う認識でしょう)
ニーチェにとって、キリスト教とその信仰は、批判対象でしかありませんから、何もわかっていなくても構わないのでは無いでしょうか?(人によっては、ニーチェが最大のキリスト教擁護者と考えている人もいるようですけどね)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ゾロアスター教では、「善」・「悪」を絶対的としていません。
・・・(ゾロアスター教は、唯一神信仰ですが、他の神を否定して
いません)
☆ 厄介です。

ただし マニケ―イズムは はっきりと二元論のようですし ある
いは 何とも扱いにくいグノーシス主義も二元論っぽいです。
(このザラトゥーシュトラの《二元論》の影響だと言われます)。


一元の神は 善悪を超えた非知(なぞ)だと言ってよいでしょう。

互いに相対的な善神と悪神が出て来る場合は ただの二項対立とし
て善悪を経験世界の中に配置しようとしたに過ぎないと言ってよい
と思います。

そこをあいまいにしたまま展開した神論は 哲学としてお呼びでは
ないはずです。


★ 「神」は観念の中には無いと言う離脱宣言
☆ これも 何とも歯がゆい思いになりますね。

経験事象(観念と成り得る)と非経験の場(観念を超えている)と
を区別すれば済むことです。


★ ニーチェにとって、キリスト教とその信仰は、批判対象でしか
ありませんから、何もわかっていなくても構わないのでは無いでし
ょうか?
☆ いや 批判する対象を キリスト教として捉えただけで あと
は突っ走る。ということですよね。

批判が的を射ているかどうかも おぼつかない代物です。《みんな
がそう言っているが それは 違うぢゃないか》という批判(?)
のみです。

その批判がことごとく不発だったのですから ひょっとすると人び
とは そうか キリスト教は そこまで批判を受けても ビクとも
しない・・・と思うかも知れない。よって:
★ ニーチェが最大のキリスト教擁護者と考えている人もいるよう
です

お礼日時:2017/09/16 14:34

お礼ありがとうございます。


誤解を与えて申し訳ありません。 猛禽と仔羊に関しては、私がDPRKに当てはめる場合は、そこに他意が無いと言う意味で、ニーチェは明確にキリスト教徒に例えています。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

№16お礼欄よりつづき

★ ニーチェ自身が、その心の呪縛から逃れようともがいていたのかも
しれません。
☆ 日本人にとっては 社会や情況や組織におけるクウキによる呪縛で
す。

西欧人にとっては どうなんでしょう。神学ないし倫理規範が むしろ
個人の自律のため幾何学の精神のごとくみづからを呪縛していたかも分
かりません。

社会にある人間として 〔階級や仕事・生活じょうの〕意識どうしの対
峙の中に入って行くと その意識どうしの均衡か対立か あるいは そ
の対立の乗り越えかで 幾何学の精神ないし理性は ひっきりなしには
たらく・・・のでしょうか。



★ カント、ニーチェ、ヴィトゲンシュタインは、その哲学において、
「神」と哲学(観念)を分離しましたが
☆ 《わが主観》は その信仰が神観を築き この一神観が 一般性を
持つと 共同化されて 哲学としての神論となります。

それとは別にもともと オシヘから導き出した神学が著わされました。
たいていは 護教論です。

神学は 《われらが(?)信仰》を〔守ることを〕大前提としています。

神観は できるならば宗教から自由な《わが信仰》を説明するために自
己表現したものです。

わが信仰が 普遍神をいだく普遍的ないとなみであったなら その神観
は 哲学としてりっぱな神論を成します。

こういった三者――神学・神観・神論――の関係になるかと。

お礼日時:2017/09/16 18:44

補足ありがとうございます。


ゾロアスター教とヒンズー教に関しては、二元論ですが、そのどちらかを絶対的なものとしていなくて、選択するのは信仰者なんです。(善・悪は、その観念において、対等だと言う事です)
言い方は変ですが、選んだ方を善と呼べば、相手が悪になると言う事です。(ここには、どちらが勝つと言う確証はありません)
つまり、単なる力の相対的な結果となります。(強いて言えば、力が正義だと言う事になってしまうのかもしれません)
非知に関しては、質問の趣旨とは異なると思うので、別の質問を立てた方が良いと思います。(個人的には、非知は、非知として理論を組み立てて、他と比較しない方が良いと思います)
下手をすると、ニーチェを単純に非知によって、独断で切り捨てていると思われてしまいます。
ニーチェが想定していないもので、ニーチェを批判しても、あまり意味が無いです。(批判とは、その論理的構造の帰結の誤謬や整合性の無さを指摘すべきだと思います)
前提が違うもので批判したら、最初から論理が合っていないので、切り捨てるしか方法が無くなります。
ニーチェを批判するならば、ニーチェが納得する方法で批判しなければいけません。(ニーチェは、死んでいるから、それは無理ですから、ニーチェの論理をトレースして、その中の誤謬や整合性を明らかにするのが、批判でしょう)
キリスト教徒からの単純な批判は、イエス・キリストは受肉して、現存していたから、観念の中のものでは無いと言う言い方は出来ます。(それは、それで、何故イエス・キリストが、神の御子であり、三位一体の神格を持つと確信したのかが問われるのは、必然でしょう)
神学の場合は、哲学者の考える観念と「神」は違うと言う、本質論の相違で、その議論からは離脱しているとは言えます。
非知の場合は、さらに難しいですから、ニーチェが納得するでしょうか?
質問は、あくまで、ニーチェの道徳観ですよね?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ゾロアスター教とヒンズー教に関しては、二元論ですが、そのどちら
かを絶対的なものとしていなくて、選択するのは信仰者なんです。
☆ 大勢に変わりないのでは? 選ばなかったもう一方の神は そのとき
どうなりますか?

つまり 二元の《元》は 絶対性を意味するはずです。矛盾です。

★ (善・悪は、その観念において、対等だと言う事です)
☆ それは 相対世界での問題です。絶対性なる神については 明らかな
矛盾です。

★ (強いて言えば、力が正義だと言う事になってしまうのかもしれませ
ん)
☆ 相対世界ではですね。



★ ニーチェが想定していないもので、ニーチェを批判しても、あまり意
味が無いです。(批判とは、その論理的構造の帰結の誤謬や整合性の無さ
を指摘すべきだと思います)
☆ 哲学も構築されていなければ 神論も成っていないということを 非
知まで出して言おうとしました。


★ 前提が違うもので批判したら、最初から論理が合っていないので、切
り捨てるしか方法が無くなります。
☆ たしかにわたしは 取り上げるに足りないと言おうとしています。


★ ニーチェの論理をトレースして、その中の誤謬や整合性を明らかにす
るのが、批判でしょう)
☆ しかるに 《論理》は無い。と言おうとしています。

★ 何故イエス・キリストが、神の御子であり、三位一体の神格を持つと
確信したのかが問われるのは、必然でしょう)
☆ ニーチェにおいては その前提ないし基礎理論は かすってもいない
と捉えています。

何にも知らないですよ。かれは。

★ 非知の場合は、さらに難しいですから、ニーチェが納得するでしょう
か? / 質問は、あくまで、ニーチェの道徳観ですよね?
☆ せつないですね。

お礼日時:2017/09/16 13:34

お礼ありがとうございます。


基本的にニーチェは、既成の哲学自体を無意味と断じていますから、既成の哲学では無いわけです。
つまり、哲学として、ニーチェを批判しても、「釈迦に説法」です。(ニーチェはそのような批判に対しては、その考え自体が誤謬だと言うでしょう)
ニーチェ的には、哲学などと言うものも、単なる観念の遊びです。(ニーチェ自身は、哲学で哲学を破壊しようとしています)
そういう意味では、カント、ニーチェ、ヴィトゲンシュタインは、哲学で哲学を破壊(世界認識において無意味なものとしたと言う事です)したんです。
カントにとって、哲学的(理性的)なのは、「純粋理性批判」です。
ニーチェにおいては、「善悪の彼岸」と「道徳の系譜(学)」、ヴィトゲンシュタインにおいては、「論理哲学論考」です。
これらの書物の結論は、人間の観念(理性)では、完全な世界認識は不可能だと言う事です。
したがって、カントにおいては、「実践理性批判」、「判断力批判」、ヴィトゲンシュタインにおいては、「哲学探究」、ニーチェにおいては、「ツァラトストラはかく語りき」において、理性とは別の次元で世界認識を得ようと試みたと言う事です。
作用もしくは、現象が全てと言う事は、起きた事実は変更できない事を意味します。
人間が、いくら因果性で原因を想定して、その原因に善・悪をあてはめても、その結果はくつがえりません。
ニーチェが言っているのは、その事実だけです。
いくら、猛禽が悪だと言っても、仔羊が食べられた事実は変わらないと言う事を言っているだけだと思いますよ。
後段で、論じているのも同じ事です。
そのような分析をどう捉えるかは、読者に委ねられているわけです。
ニーチェを哲学学として、分析するのは、哲学学者の自由でしょう。
それが、悪であるかどうかは、それを論じる人の視点でしかありません。
ニーチェの考えが駄目だと言っても良いし、一理あると考えてもかまわないわけです。
正当に批判されると言う事は、批判すべき対象として捉えられていると言う事でしょう。
いくらでも、批判すべきだし、本当に意味が無い理論だと思えば、批判する価値も無いとして、捨て置けば良いだけです。
ニーチェに権威があるとは思えないですが、批判する意味があると言う人にとっては、批判に値する価値があると言う事では無いですか?
カント、ニーチェ、ヴィトゲンシュタインは、単純に確証を得る為には、自分で考えるか、考える事をあきらめるしかないと言っているだけだと思いますよ。
ニーチェの道徳観に関しては、個人的に評価のしようがありません。(独断で言えば、良い面も悪い面もあると言えますが、哲学的に評価する指標は無いでしょう)
DPRKの行動に関しては、DPRK自体が認めない以上、何とも断定できません。(少なくとも、日本にとっては、悪質である事は確かですね)
DPRKとアメリカに関しては、自主防衛手段として行っているならば、哲学的には同じ穴のむじなです。(どちらも、それぞれが、正当だと思っているでしょう)
猛禽と仔羊は、それ自体の比喩と考えてください。(猛禽と仔羊は単なる力の大小のオマージュでしかなく、キリスト教徒とかにたとえているわけでは無いです)
仮に、DPRKとアメリカのどちらが、猛禽でどちらが仔羊だとするならば、力の大小で言えば、DPRKが仔羊で、アメリカが猛禽だと言う事です。(ただし、両国共、実力行使は行っていませんから、想定でしかありません)
アメリカが、DPRKを襲うかどうかはわからないですが、襲ったとしても、自己防衛でしょう。
DPRKがアメリカを襲うとしても、同様の自己防衛です。
これは、善・悪と捉える事では無いでしょう。(あくまで、2国間の問題としてですけどね)
国際的には、平和を侵す罪としての戦争は犯罪ですが、お互いに相手国が平和を侵したと言えば、水掛け論です。
けんか両成敗としか言いようがありません。
日本の場合は、自国民が一方的に被害を受けているならば、人道的な非難は出来ますが、それを防止する方法が無ければ、やはり意味が無いんじゃないですかね?(これは、哲学では無く、政治学の問題でしょう)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 正当に批判されると言う事は、批判すべき対象として捉えられ
ていると言う事でしょう。
☆ 話がここまで来たのでしたら――と言っても 初めからのわた
しの姿勢ですが―― 《何やらおもしろいことを(ということは
哲学としてという意味なのでしょう) こいつは言っている》とい
う見方が 多い。それで わざわざ取り上げているというのが ほ
んとうです。

放っておいてもよいのですが 哲学カテでやり取りするとき しば
しばニーチェが話題になり いちいち批判しなければならなくなり
ます。

だったら 正面からやり玉に挙げて批判し終えておく必要がある。
という態度です。

《読むに堪えない》と決めつけています わたし自身は。




★ ニーチェの道徳観に関しては、個人的に評価のしようがあり
ません。(独断で言えば、良い面も悪い面もあると言えますが、
哲学的に評価する指標は無いでしょう)
☆ 何とも切ない評価ですね。




★ DPRKの行動に関しては、DPRK自体が認めない以上、何とも
断定できません。
☆ いちど裏切りましたね。核廃棄の合意を反故にしました。

★ (猛禽と仔羊は単なる力の大小のオマージュでしかなく、キ
リスト教徒とかにたとえているわけでは無いです)
☆ 救済の欺瞞だとか ルサンチマンはキリスト教徒こそが内に
かこっていると言っているのではないですか?


★ 日本の場合は、自国民が一方的に被害を受けているならば、
人道的な非難は出来ますが、それを防止する方法が無ければ、や
はり意味が無いんじゃないですかね?(これは、哲学では無く、
政治学の問題でしょう)
☆ 政治学の問題について 哲学から人間性の問題としての見方
を挟むのだと思います。

《核で列島を海に沈めてやる》という自己表現は もう――人間
性の問題として――ふるい。と言ってやることが出来ると考えま
す。

そういう思索と行動をないがしろにする――あるいは 考慮に初
めから入っていない――というのが 《哲学を廃棄するという法
螺吹き》くんです。

お礼日時:2017/09/16 13:20

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