すでに問うた質問です。
【Q:ゴータマが生は苦だと言ったのは どういう意味ですか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9176218.html
われながら そこでのやり取りをほこらしいと思うと共に もしさらに問い求めがあるとい
う向きには それを展開してください。という趣旨です。
*
生が苦だ・思うようにならない。とは どういうことか?
たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となっ
て どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そ
ういう意味なのだと。
ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっき
ょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを言っており そのことをわ
れわれが認めたことにほかならない。のではないか。どういうことか?
つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに苦という病いが俟っている。それを治す
薬は わたしが処方する目覚めの方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。
つまり ふだん生が苦だと思わない人が 何かのきっかけで生は苦だと思ったとき ゴータ
マなる医師のもとに行ったら そのとおりだ 生は苦だ それを治すには そもそも全体と
して根本的に生という苦をみとめることから始めるのだ。と言われた。
これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下
唯我独尊なる論理のグローバリズムである。
どういうことか?
ゴータマ病院に入ったら ゴータマ医師の診断が絶対であり その処方箋のみが有効だと言
われ それに従うよりほかに道はないということになっている。からである。そこを出るか
それとも 患者になり実際には患者・兼・弟子と呼ばれる医師見習いになって一生を過ごす
かである。
けれども その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。
足場だけを組んで 家本体は築けなかった。幻想は 人びとのあたまの中に築けているかも
知れない。
《生は苦だ》は その苦からの解脱についてゴータマの示す中身の無いさとりをただ一つの
道とするほかに処方箋はない。――と読み取るしかないと考えますが ほかに解釈はありま
すか?
それとも 生が苦であるなどという命題は 捨てればいいのさとなりましょうか?
A 回答 (40件中1~10件)
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No.40
- 回答日時:
なんらかの災害(あるいは戦争)が起きて、多くの人が苦しむさまが報道されて、それを見た人々が心を痛めている状態を、明らかにしたい(見てみたい、目指したい)と言っているのであれば、どうかしていると思います。
仏界所具の九界、仏界所具の十界なのであれば、仏界所具の地獄界も含むのだろうなと理解していただけるものと思っていたのですが。
ご回答をありがとうございます。
★ 仏界所具の九界、仏界所具の十界なのであれば、仏界所具の地獄界も
含むのだろうなと理解していただけるものと思っていたのですが。
☆ この場合の仏界は 法身としてのブッダではなく 人間の存在にそな
わった仏性のことだと捉えます。
ですから 人間であれば 十界のすべてを含むのでしょうし その人間が
仏界の状態にある場合にも 地獄界などの九界をも合わせ持つ。――こう
いうことだと理解します。
その確認をお願いしました。
あとのことは わたしは言っていないはずです。
No.37
- 回答日時:
一体何様のつもりなんだか。
草も生えんな。願い求めることのない境地。それが私の考える覚りの境地である。
これが諸々のブッダ達の見解と一致するのか私には分からない。
ブッダ達は所謂実力者である。その智慧のあるのが分らぬ者は、その言葉を聞いて居ないか、その者に聞く耳がないか、時期尚早であるかいずれかだろう。
言ってやりたいことはまだまだあったが、今回の質疑に関して私はもう十分に尽くした。わけは言わずもがなであろう。
あなたに期待して、あなた個人と話したくて話をしたわけではない。かようの質問があったから、答えた。それだけのことである。あなた個人に関わる事柄をこれ以上言うのはせんなきことである。
ご回答をありがとうございます。
★ 願い求めることのない境地。それが私の考える覚りの境地である。
☆ そんな人は いない。植物人間くらいです。
アイスクリーム売りを老境に成るまでやって来た人も 何か夢を持つ
といった意味で:
★ 願い求めること
☆ は 持っている。口に出さなくても持っている。しかも 果たせ
ぬ夢であったとしても ほこりを持ってその仕事をやっている。
この・ほこりを持てるかどうか これは さとりを測るひとつの物指
しになるかも知れない。
そんなところでしょう。
★ これが諸々のブッダ達の見解と一致するのか私には分からない。
☆ という人間が どうして次のような判断を下せるのか?
★ ブッダ達は所謂実力者である。その智慧のあるのが分らぬ者は、
その言葉を聞いて居ないか、その者に聞く耳がないか、時期尚早であ
るかいずれかだろう。
☆ これは ただのファシズムである。
ブッダの帝国に逆らう者は ヒコクミンだ。従え。と。
論理は ゲシュタポと変わりない。連行して行かないだけだ。
あとは ゴータマ・マジックに罹ったイカレポンチの吐いたみみずの
たわごとである。
相手するこちらが 恥づかしくなる。
No.36
- 回答日時:
日蓮大聖人の御書、観心本尊抄がよいと思います。
「欲令衆生開仏知見」
ここが十界互具を明かすところのようです。
開く鍵は、「質直柔軟」ではないでしょうか。
ご回答をありがとうございます。
▲ 衆生をして仏知見を開かしめんと欲す
☆ 六道にもそれぞれ仏界がある。ですね。
▼ 諸の有ゆる功徳を修し 柔和質直なる者
☆ これは 仏界〔にある者〕が 六道の地獄界などを持つと
言っていますか?
No.35
- 回答日時:
(a)、(b)の話はちょっとよくわからないですね。
子供に喩えた通りの意味です。大人が根性で子供じみたことをしないのではないですし、子供も根性で大人になるのではありませんね。仏は覚りの境地を世に示現し、その境地がいかなるものであるかを説きます。そこで無我も説かれたのではないでしょうか。
十界互具論については、読んでないので何とも言えません。
伝わってきたことを、聴くも聴かないも、また更に伝えるも伝えまいも、その人が決めることであり、他の人が強制できる事柄ではありませんね。また、正しく聴くも、正しく伝えるも、聴き損ねるのも、伝え損ねるのも、本人次第です。世の中には偽経も多く出回っていますが、それを判じ切れる人がどれほどいるのかなあ。それもまた本人次第であり、誰かが手助けしてくれるものではないです。ある人はたとえブッダに出会っても、彼がブッダであると知ることはできないかもしれない。またある人は、人に出会っても、そこに高貴なる一瞬の化身仏(=善知識)を見出して解脱するかもしれない。
全ては各自の事柄であります。自分を信じて行くしか無いですし、それが自分の望みでもあるのです。
ご回答をありがとうございます。
★ 大人が根性で子供じみたことをしないのではないですし、子供も
根性で大人になるのではありませんね。
☆ ですから わたしのほうが こう結論づけています。:
☆☆(№34お礼欄) 《執るに対する離れる》という説明は 用を
成しません。
☆ 《おれが》という我を執らないなら もうその我から《離れる》
と言う必要はなく 《子供じみたことをしない大人になっている》。
オシヘにおける《我執》という概念を《執らず また離れる》という
場合には そのための意志行為が必要です。
我執の誘惑は つよいようで それを離れるためには 根性が要りま
す。信念と言ってもいいですが それとしての意識的な意志行為が要
ります。
これは オシヘが離れなさいと説く我執ではなくても 広く人間の努
力としての意志行為であり 我執であると見なされましょう。
言いかえると オシヘの中の我執としての《我》とは別の《われ》が
あるはずです。その我を執るわけです。
魂の問題として《超える》のではなく 何かよくないことを《離れる》
という場合には 根性が要ります。:
★★(回答№34) 子供がすっかり大人になるには、子供の頃に十
分遊び、学んでいる必要があります。その上で、子供じみたことを離
れる、超えるのです。
☆ そうでははく ふつう一般に成人するというのは 或る日ふと魂
の中で われは子どもであることを超えたという気づきがあるという
ことです。
《離れる》のではないでしょう。
★ 仏は覚りの境地を世に示現し、その境地がいかなるものであるか
を説きます。そこで無我も説かれたのではないでしょうか。
☆ 何を言っても自由ですが 中身のないことは 困ります。
しかしそんなことを 今さらどうして持ち出すのですか。前置きであ
り効能書きであることを 二千年言い続けているに過ぎないと言って
るぢゃありませんか。
★ 十界互具論については、読んでないので何とも言えません。
★ 伝わってきたことを、聴くも聴かないも、また更に伝えるも伝え
まいも、その人が決めることであり、他の人が強制できる事柄ではあ
りませんね。
☆ と――批判に対して――言っておけば 答えなくてもよいという
ことですか?
今さら何を言ってるんですか。さとりとは何か? 早く示しなさい。
No.34
- 回答日時:
離れるというのは、執るに対する離れるですね。
子供がすっかり大人になるには、子供の頃に十分遊び、学んでいる必要があります。その上で、子供じみたことを離れる、超えるのです。離れると超えるの違いは何か?というのは枝葉末節であり話の本旨ではありません。
アンアートマンが何のことかわかりませんが、無我のことと考えると、これもすでに言いましたでしょうか、ある人が子供心からすっかり脱して、子供じみた心から卒業した、子供ではなくなった、というようなことです。衆生には確かに我が見られるが、仏にはそういうものはない、無我ということです。仏には仏の心、菩提心があるのです。大人には、子供心に対して、言うなれば大人の心がちゃんとあるようなものです。
言葉の表層の形に囚われている間は迷妄を超える事ができません。言わんとしていることの意味を捉えて欲しいところです。
子供が毎日、遊び学び、そして眠りにつき、今日も色々あったけど、明日もまた楽しい1日であれば良いなと願う。子供達にはそんな健全な子供時代を過ごして欲しいと私ならば思うが、それは永遠には続かない。そしてそれが続かない事こそが、大人達が、真に望んでいる事なのです。即ち子供が成長し大人になるという事をです。
仏も同じで、衆生がいつかは仏になると信じて疑わない。
この事に、別に何の問題も見出せない。
ご回答をありがとうございます。
★ 離れるというのは、執るに対する離れるですね。
☆ 《執る・離れる》という概念とその次元は ふたつの場合があります。
《おれが》という場合の《我》を《執る・執らない(その意味で 離れる
?)》という次元( a )と すでに《我執・愛執》という概念認識を持っ
ているときに この概念内容の良し悪しを判断して《我執を執らないし離
れる》と言うという次元( b )です。
ところが ( a )はけっきょく 《執らない》のであってわざわざ《離れ
る》という必要はありません。
( b )の次元というのは 詰まるところ 観念の操作です。そのあと 行
動に移すことはありますが よく考えると その行動にしても 頭の中で
せいぜい強い信念として持ち続けるといった内容です。
その信念が効果を発揮することがありますが 問題は 必ずしも《魂》の
問題にならず 煮詰めて言うとその中身というのは 《われは頑張る》と
いう或る種の根性です。
つまりは 広義の《我執》なのです。
《執るに対する離れる》という説明は 用を成しません。と考えますが
いかがでしょう。
★ 子供じみたことを離れる、超えるのです。離れると超えるの違いは何
か? というのは枝葉末節であり話の本旨ではありません。
☆ そうですか。
★ アンアートマン:無我のことと考えると、・・・ある人が子供心から
すっかり脱して、子供じみた心から卒業した、子供ではなくなった、とい
うようなことです。
☆ 大人は 無我に成ったということのようですから わざわざアートマ
ンを《離れる》こともないですね? なぜ アン ‐ アートマンを説いたの
でしょう?
世の中には 子どもを卒業していない人間がいるよと言いたかった?
★ 仏は 無我ということです。仏には仏の心、菩提心があるのです。
☆ 十界互具論では 地獄界に仏界があり 仏界に地獄界があるのでは?
★☆ 言葉の表層の形に囚われている間は迷妄を超える事ができません。
言わんとしていることの意味を捉えて欲しいところです。
★ 仏も同じで、衆生がいつかは仏になると信じて疑わない。この事に、
別に何の問題も見出せない。
☆ それは 《仏》の話ですよね? 仏がそう言っているから われわれ
凡夫は その聞いた話をコピペ―し続けよということですか?
No.33
- 回答日時:
お釈迦さんがブラフマニズムを下敷きにして修業したというのは考えにくいですね。
原始経典にも、過去の言い伝えや知識による学問に依るのではなく、と述べられていますし、そもそも道は自ら見出して歩むものですから。若かりし頃、何人かのバラモンに弟子入りしたそうですが、間もなく弟子であることをやめていますね。お釈迦さんはバラモン教に光を見出さなかったのでしょう。次の、
「《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは
存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも
のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。」
(『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)
という龍樹の言は解しがたいですね。龍樹がブッダなのかどうか、龍樹の書籍を読んでいないのでわかりませんが、これが理法なのかどうか、私には疑問が残りますね。自我意識という言葉がどうして出てきたのか、我執や愛執という言葉の意味を勘違いしているのかもしれません。
我ありという思い(我執)と、我がものという思い(愛執)を離れた境地というのはあるでしょうね。この龍樹の言が一体どういう意味なのか、説明してもらえますか?
「われわれは平生は我欲に悩まされてい
るから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地
というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。」
この解説ですが、これも正直腑に落ちないですね。普通人々は我欲に悩まされていません。それに悩んでいないということ自体が仏教に言う苦なのであると考えられるのです。欲望があるから楽しみ、耽り、我を忘れて時を過ごし、大事を為さずに急に、或いは老いて死んでしまう。中村元氏の言う我欲とは何のことを言っているのか、私にはよくわかりません。ただ真実を知りたいと思うのであって、我欲を離れたいとは、私はあまり思ったことはないですね。
▲ (スッタニパータ 第一 蛇の章 一 蛇 一)蛇の毒が(身体に)ひ
ろがるのを薬で制するように 怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は
この世とかの世とをともに捨てる。あたかも蛇が旧い皮を脱皮して捨てるよ
うなものである。
☆ つまり 《怒りを制する》わざが たましいにかかわっていると。
この蛇のたとえ話は、解脱を喩えたものですね。外的な姿は変わりないが、すっかりと古いもの(輪廻とその願望)を脱ぎ去っているということです。輪廻するものとしての魂が語られているわけではないと思います。怒りはおそらく我執に関わっています。我執は、我こそここにありという強固な思いで、自己をいろいろと妄想する元のものです。卑近な例を取れば、自分には隠れた才能があるんだとか、逆に自分は全然ダメなやつなんだとか、あるいはかかる地位にあるこれが私だとか、また、小難しい人は肉体が私だとか、精神が私だとか、そしてそれにも増して、他人よりも自分を優先させたいという抗いがたい我執に人は生きていて、人はあれこれと自己を妄想するわけです。そしてその妄想にこだわると、これが妄執に転じて人を生まれさせると言われるところのものとなるのかもしれません。人はこの妄想を害されると怒りを感じますし、直接に自分をないがしろにされると怒ります。それで、怒りを制する者は我執を離れて生まれの素因を滅することになるということでしょうか。
▲ (ヰキぺ:維摩経) 不二法門:世間と出世間は もともと二つに分か
れたものではなく、一つのものであるという。
不二の法門の章は、並び立つ菩薩どもがそれぞれに不二の法門とはなにかを説いた後に、文殊が説き、最後に維摩が黙するという維摩経の有名なシーンですね。世間と出世間を絡めて不二を説くなら、相反する二つのものが存在するのが世間であり、それを超えているのが出世間である、くらいに捉えておくのがよいと思います。出世間というのは、世間と並ぶ何かの場所を示しているのではありません。人里離れた山奥に、というのでももちろんありません。衆に生きる人々の総体を世間と呼び称して、そこから離れ出ているということを出世間というのでしょう。子供が子供の世界に生きなくなったなら、彼はすでに大人になっているのと似ているでしょうか。
また、この章においてはナーラーヤナ菩薩が次のように言っていますね。
「世間と出世間は二つに対立したものです。世間がその本性上、空であるならば、すなわち出世間です。その中において、入らず、出でず、溢れず、散ぜず、これが不二の法門に入ることです。」
子供と大人はあまりにもかけ離れていて対立しません(子供と大人の間では、例えばおやつの取り合いといった子供じみた争いが起きない)が、(しかし、ここに言語上、子供と大人が対置するものとしてみるとして、)もし子供が自らの子供心を空であると観じ、実際にも空であるならば、その子供は子供心に関してはすっかり空(から)になった大人たる自分を発見するでしょう。
世間が空であると観じ、実際にも特にめぼしいものをそこに見出さなくなっているならば、彼はすなわち出世間に生き、世間の物事に関して特に執着するよすがのなくなった自分自身を発見するでしょう。
「それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。」という発言は、正しくないのではないでしょうか。
▲ (同上) 般若経典では一般に「空」思想が繰り返し説かれるが、維摩
経では「空」のような観念的なものではなく現実的な人生の機微から入って
道を窮めることを軸としている。
現実的なのは原始仏典でしょうね。維摩経はむしろ、維摩という大富豪がその智慧で無双するという、どちらかというとお話の比重が高いと私は思います。維摩が在家であるという設定だけを見て、それが現実的というのはちょっとどうかと私はおもいます。
ご回答をありがとうございます。
★ お釈迦さんがブラフマニズムを下敷きにして修業したというのは
考えにくいですね。
☆ アン‐アートマンという表現を得たのは 明らかにブラフマン=ア
ートマンへの反措定です。
★ 我ありという思い(我執)と、我がものという思い( 愛執)を離
れた境地というのはあるでしょうね。
☆ 《我執》を超えた解脱が得られるということでしょう。
ナーガールジュナの言うのは 渇愛《を離れた》という表現とその意
味が さとりに反するのだと。
★ ただ真実を知りたいと思うのであって、我欲を離れたいとは、私
はあまり思ったことはないですね。
★★(回答№32) 仏智というのは、衆生であることを正しく離れ
ることによって生じるものの様だと私は認識しています。
★ この蛇のたとえ話は、解脱を喩えたものですね。外的な姿は変わ
りないが、すっかりと古いもの(輪廻とその願望)を脱ぎ去っている
ということです。
☆ 我欲《を離れる》のか そうではなく《を超える》のか どちら
ですか?
《超える》のなら たましいの問題です。《離れる》のなら 修行の
問題であり 人間の意志とその努力にかかわっています。
★ 出世間を生きる解脱者に、果たしてここに言う魂というものが存
在しうるのかどうか疑問です。
☆ この場合に《魂》を用いるのが そぐわないのではないかとは思
います。
▲ (ヰキぺ:維摩経) 不二法門
★ 衆に生きる人々の総体を世間と呼び称して、そこから離れ出てい
るということを出世間というのでしょう。
☆ ここでも 《超える》を主張します。《離れ出る》のなら もう
この世にはいないでしょう。
▼ 世間がその本性上、空であるならば、すなわち出世間です。その
中において、入らず、出でず、溢れず、散ぜず、これが不二の法門に
入ることです。
☆ 《出でず》がありますね。
★ 世間が空であると観じ
☆ 空というのは 色即是空が すべては移ろいゆくもの(無常)と
言い そのあと 空即是色が その無常である空なものでも 現象と
して現実を成す。です。
★ 現実的なのは原始仏典でしょうね。
▲ (スッタニパータ) 修行者(比丘)はこの世とかの世とをとも
に捨てる。
☆ といった現実離れした思想を わざと例に出しました。
No.32
- 回答日時:
仏教の観方というのは、おそらく、人と世の事実認識からスタートして、本当のところはどうなのかという観察に入っていったものと思われます。
人智を超えたところというのをはじめからありきでは想定しておらず、自ら知りえるところのものによって人と世の真実(本当のところ)を知り極めようとした、それで無理だった(諦観)結果、どういう訳か仏智に至るという摩訶不思議な経路を辿っているようなのです。ここら辺は私も詳しく説明することができません。(仏智というのは、衆生であることを正しく離れることによって生じるものの様だと私は認識しています。例えば子供が大人になろうと思って大人になるのではなく、子供であることをやめることで、かえって大人になるようなものに似ているのかなと。)
そしてこの場合、阿弥陀如来とか、普遍神、ブラフマーというものを通過する経路が仏道修行においては存在しないと考えられるのです。
☆ これら二つの側面は 同じひとりの人間においてじゅうぶん成就
し得ると考えます。自明ではないでしょうか。
これはどうでしょう。この点は私も考えたのです。魂の道と、仏道は両立するのだろうかと。世間に生き魂の道を究めるということと、仏になるということを両立できるのかどうか、魂の道にしてもそのような片手間にできるような容易なことではないと思われます。
ただ、覚ってなお世俗に生き、職能を持って仕事もする聖者のことを転輪聖王と言うと聞いたことがあります。この場合はおそらく教えを主としては説かないのではないかと思われます。また、六祖截竹図といって、慧能ブッダが竹を取る図などが描かれていますが、覚者がそういった作務をこなすことはあったとしても、ミクロレベルで木を削り出すといったようないわゆる職人技を、例えば施主から依頼を受けて覚者が行うのかどうか、分かりません。多分それはないだろうとは思います。
「時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。青春の美しさは、次第に〔われらを〕捨てて行く。死についてのこの恐ろしさに注視して、安楽をもたらす善行をなせ」と、(生きている間に)善行を為すべきであると説く神に対して、「時は過ぎ去り、昼夜は移り行く。青春の美しさは、次第にわれらを捨てていく。死についてのこの恐ろしさに注視して、世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ。」と語るような聖者が、世俗において何某か仕事を持つものだろうか、ちょっとわかりません。これは私も考え中なので今は明言を避け保留ということにしておきます。ただ私の感触としては、仏教においては、魂と仏性はおそらく別のものを言っているだろうということです。出世間を生きる解脱者に、果たしてここに言う魂というものが存在しうるのかどうか疑問です。
★ 人は成仏すると、魂の座に諸仏の請願が座った状態になるそうで
す。魂に生きるのではなくなるということです。
☆ ここは 翻訳が要ります。
魂に生きるというのは、生きがいとか、生きる道というものをその魂に依っているということです。それに対し諸仏の請願によって生きるというのは、そういった生きがいとは別の、生きる理由があるということです。諸仏の請願とは何かについては、法華経に明記されているところのそれです。
前後略、『諸仏の立てた誓願は、自分が実行した仏道を、普く生ける者達に、同じ様にこの道を得させたいというのである。』
ご回答をありがとうございます。
★ 仏教の観方というのは、おそらく、人と世の事実認識からスタートして、
本当のところはどうなのかという観察に入っていった。
☆ ううーん。だって 世に出たら ブラフマニズムが優勢だったわけです
。宇宙の主宰神ブラフマンそしてアートマン。
★ 仏智というのは、衆生であることを正しく離れることによって生じるも
のの様だと私は認識しています。
☆ あいにくですが 次の知見を得ています。
▲ (中村元:『龍樹』pp.225-226)~~~
《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは
存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも
のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。
(『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)
という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされてい
るから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地
というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。
~~~~~
★ 世間に生き魂の道を究めるということと、仏になるということを両立で
きるのかどうか
☆ 職人技を究めることとしては それなりに捉えられますが 《魂》のこ
とは 仏道でも問われているというのが ふつうではないですか?
▲ (スッタニパータ 第一 蛇の章 一 蛇 一)蛇の毒が(身体に)ひ
ろがるのを薬で制するように 怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は
この世とかの世とをともに捨てる。あたかも蛇が旧い皮を脱皮して捨てるよ
うなものである。
☆ つまり 《怒りを制する》わざが たましいにかかわっていると。
★ 仏教においては、魂と仏性はおそらく別のものを言っているだろう・・
・出世間を生きる解脱者に、果たしてここに言う魂というものが存在しうる
のか
▲ (ヰキぺ:維摩経) 不二法門:世間と出世間は もともと二つに分か
れたものではなく、一つのものであるという。
★ 魂に生きるというのは、生きがいとか、生きる道というものをその魂に
依っているということです。
▲ (同上) 般若経典では一般に「空」思想が繰り返し説かれるが、維摩
経では「空」のような観念的なものではなく現実的な人生の機微から入って
道を窮めることを軸としている。
No.31
- 回答日時:
仏性というのは想定ではなく、実在であると思われます。
アートマンは魂のことですが、仏性というのはそれとは異なるのではないでしょうか。
人の究極の相が仏であり、魂の究極の相は神々であると聞いたことがあります。
仏性とアートマンは分けて考える必要があるかもしれません。
仏性は人々に分け隔てなく、同じく存在していると思われますが、アートマン(魂)には個性があり、人それぞれに固有のものが備わっていると考えられます。
仏性においては人々は異なるところがなく、平等でありますが、アートマンにおいては人々は異なり、それぞれに色形が存在するのではないでしょうか。
もし、このアートマン(魂)を、普遍神の分身のように考え、人それぞれに異なるところはないのだと観た場合は、仏教とは全く異なる世界観が語られることになり、その世界観をとるか、仏教の観るところをとるかで論じる事柄も変わると思われます。
人は成仏すると、魂の座に諸仏の請願が座った状態になるそうです。魂に生きるのではなくなるということです。
例えば、ここで言う魂に生きるとは、人ぞれぞれに固有の人生を歩み、ある者は漁師、ある者は陶工、ある者はメカニック、ある者はプログラマ、ある者は消防士、ある者は冒険家、ある者は医者、ある者はアーティスト、などという風に、ありとあらゆる生き方を魂に生きることによって実現するわけです。それを極めれば、例えば職人技の中でも神業とか、神がかり的などと称されるにいたります。ここでは神々とは、異次元のレベルに達した人の生き方をする者ということになるでしょう。
そして、かかるような生き方をせずに、ただ人としての究極の相を生きる、それが仏だと考えられるわけです。それが特別ではないというのは、誰しもがいかな魂を持っていようとも、人としては平等に仏性があり、それを発揮して生きることができ得るという事です。何の特別な才能も知能も容姿も運勢もいらず、ただ人として生まれたならばその道が存在するのです。
普遍神を想定せずとも、このような生き方は実現できるゆえに、お釈迦さんはアートマンを語らなかったし、普遍神を想定しなかったのだろうと思われます。
つまり、仏教はかかるようにとても現実に即した見方をしていると思われるのです。
普遍神を想定する見方は、非常に形而上的でもあり、かつ実際に経験できる事柄からは離れています。そこはただ精神作用によってのみ歩くことのできる世界です。(あなたの信論も、それを一つの精神作用というならば)
一方、お釈迦さんの見方(仏教)は、むしろ現実的であり、実際に経験できる事柄を語っているのではないでしょうか。それは何も突飛な話ではないが、人々がむしろ突飛な話に惹かれる性質を持っているゆえに、かえって仏教が突飛なもののように人々の目には映ってしまった可能性はあります。
ご回答をありがとうございます。
★ 仏性というのは想定ではなく、実在であると思われます。
アートマンは魂のことですが、仏性というのはそれとは異なるのでは
ないでしょうか。
☆ このあとのご説明を割愛しますが これは 仏性やアートマンを
経験事象として捉えた場合ではないでしょうか。
○ 神と人間 ~~~~~~~~
非経験の場:ブラフマン(梵)神
⇅
非思考の庭:アートマン(霊我):ヒラメキ 良心
↓ ↓
思考の緑野:コギト :思 想 ↓
感性の原野:センスス・コムニス: やましさ反応
~~~~~~~~~~
☆ 人知を超えたところからのハタラキカケがあり得る。とすると
仏性やアートマンが 経験事象としても捉え得るかに思われるという
ことが起きます。
その経験的なものごととして 仏性やアートマンを捉えたときの見方
だと。
ブラフマンのところに アミターバ・ブッダが来て アートマンのと
ころにブッダター(仏性)が来る。という定義でよいと思うのですが。
★ 人は成仏すると、魂の座に諸仏の請願が座った状態になるそうで
す。魂に生きるのではなくなるということです。
☆ ここは 翻訳が要ります。次ですね。
★ 魂に生きる:ありとあらゆる生き方を魂に生きることによって実
現する
★ ただ人としての究極の相を生きる(それが仏)
☆ これら二つの側面は 同じひとりの人間においてじゅうぶん成就
し得ると考えます。自明ではないでしょうか。
普遍神を想定するなら よけいに分かりやすいと思います。きわめて
現実的だと思います。
(復唱を大幅にはぶいています)。
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ゴータマくんは いいことを言ってるんですよ。:
▼ (ゴ―タマと悪魔との対話) ~~~~~
〔* ゴータマのかつて語ったことを悪魔がそのまま引用するかたちで〕
――悪しき者(=悪魔)よ。わが修行僧である我が弟子どもが 賢明にして
よく身をととのえ ことがらを確かに知っていて 学識があり 法をたもち
法に従って行ない 正しい実践をなし 適切な行ないをなし みづから知っ
たことおよび師から教えられたことをたもって 解脱し 説明し 知らしめ
確立し 開明し 分析し 闡明し
〔* 次が 大事です〕
異論が起こったときには 道理によってそれをよく説き伏せて 教えを反駁
し得ないものとして説くようにならないならば
その間は わたしはニルワーナに入りはしないであろう。
(中村元訳『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980 p.69 )
~~~~~~~~~~~~~
good が つきました。
《本覚思想》のことを忘れていましたね。
《〈われはすでにブッダなり〉と言う》につなげたい。
わたしはいま質問枠いっぱいなので だれか質問に取り上げてくれませんかね。
◆ 質問に回答がついてから三日たちました。
☆ の知らせが現われました。このあと 一方的に閉められる
ことになります。
という情況であることを確認します。
ゴータマくんは いいことを言ってるんですよ。:
▼ (ゴ―タマと悪魔との対話) ~~~~~
〔* ゴータマのかつて語ったことを悪魔がそのまま引用するかたちで〕
――悪しき者(=悪魔)よ。わが修行僧である我が弟子どもが 賢明にして
よく身をととのえ ことがらを確かに知っていて 学識があり 法をたもち
法に従って行ない 正しい実践をなし 適切な行ないをなし みづから知っ
たことおよび師から教えられたことをたもって 解脱し 説明し 知らしめ
確立し 開明し 分析し 闡明し
〔* 次が 大事です〕
異論が起こったときには 道理によってそれをよく説き伏せて 教えを反駁
し得ないものとして説くようにならないならば
その間は わたしはニルワーナに入りはしないであろう。
(中村元訳『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980 p.69 )
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