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すでに問うた質問です。
【Q:ゴータマが生は苦だと言ったのは どういう意味ですか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9176218.html

われながら そこでのやり取りをほこらしいと思うと共に もしさらに問い求めがあるとい
う向きには それを展開してください。という趣旨です。

   *

生が苦だ・思うようにならない。とは どういうことか?

たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となっ
て どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そ
ういう意味なのだと。

ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっき
ょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを言っており そのことをわ
れわれが認めたことにほかならない。のではないか。どういうことか?


つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに苦という病いが俟っている。それを治す
薬は わたしが処方する目覚めの方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。

つまり ふだん生が苦だと思わない人が 何かのきっかけで生は苦だと思ったとき ゴータ
マなる医師のもとに行ったら そのとおりだ 生は苦だ それを治すには そもそも全体と
して根本的に生という苦をみとめることから始めるのだ。と言われた。

これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下
唯我独尊なる論理のグローバリズムである。

どういうことか?


ゴータマ病院に入ったら ゴータマ医師の診断が絶対であり その処方箋のみが有効だと言
われ それに従うよりほかに道はないということになっている。からである。そこを出るか 
それとも 患者になり実際には患者・兼・弟子と呼ばれる医師見習いになって一生を過ごす
かである。

けれども その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。

足場だけを組んで 家本体は築けなかった。幻想は 人びとのあたまの中に築けているかも
知れない。


《生は苦だ》は その苦からの解脱についてゴータマの示す中身の無いさとりをただ一つの
道とするほかに処方箋はない。――と読み取るしかないと考えますが ほかに解釈はありま
すか?

それとも 生が苦であるなどという命題は 捨てればいいのさとなりましょうか?

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    ゴータマくんは いいことを言ってるんですよ。:

    ▼ (ゴ―タマと悪魔との対話) ~~~~~
    〔* ゴータマのかつて語ったことを悪魔がそのまま引用するかたちで〕

     ――悪しき者(=悪魔)よ。わが修行僧である我が弟子どもが 賢明にして
     よく身をととのえ ことがらを確かに知っていて 学識があり 法をたもち
     法に従って行ない 正しい実践をなし 適切な行ないをなし みづから知っ
     たことおよび師から教えられたことをたもって 解脱し 説明し 知らしめ 
     確立し 開明し 分析し 闡明し 
    〔* 次が 大事です〕
     異論が起こったときには 道理によってそれをよく説き伏せて 教えを反駁
     し得ないものとして説くようにならないならば 
     その間は わたしはニルワーナに入りはしないであろう。

    (中村元訳『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980 p.69 )
    ~~~~~~~~~~~~~

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/10/11 06:20
  • good が つきました。

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/10/11 10:31
  • 《本覚思想》のことを忘れていましたね。

    《〈われはすでにブッダなり〉と言う》につなげたい。

    わたしはいま質問枠いっぱいなので だれか質問に取り上げてくれませんかね。

      補足日時:2017/10/21 06:05
  • ◆ 質問に回答がついてから三日たちました。
    ☆ の知らせが現われました。このあと 一方的に閉められる
    ことになります。

    という情況であることを確認します。

      補足日時:2017/10/29 19:08
  • ゴータマくんは いいことを言ってるんですよ。:

    ▼ (ゴ―タマと悪魔との対話) ~~~~~
    〔* ゴータマのかつて語ったことを悪魔がそのまま引用するかたちで〕

     ――悪しき者(=悪魔)よ。わが修行僧である我が弟子どもが 賢明にして
     よく身をととのえ ことがらを確かに知っていて 学識があり 法をたもち
     法に従って行ない 正しい実践をなし 適切な行ないをなし みづから知っ
     たことおよび師から教えられたことをたもって 解脱し 説明し 知らしめ 
     確立し 開明し 分析し 闡明し 
    〔* 次が 大事です〕
     異論が起こったときには 道理によってそれをよく説き伏せて 教えを反駁
     し得ないものとして説くようにならないならば 
     その間は わたしはニルワーナに入りはしないであろう。

    (中村元訳『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980 p.69 )
    ~~~~~~~~~~~~~

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/05 19:10

A 回答 (40件中21~30件)

№4で私が言ったことをお忘れなのか…



仏教の世界は、様々な経典があり、広いです。
それぞれの宗派の依経となる経典の文言にとらわれて、そこに閉じこもっているのが
仏教界の実態であったといえるでしょう。

あなたのこれまでの主張を聞いて私は、ご自分の「悟り」を正当化する理論を作り、
その枠内に仏教を押し込めて否定しようとしている、と理解しています。

あなたにとって都合のいい仏教に関する説は即取り入れて、都合の悪い部分はなんだ
かんだと否定をする。

つまり、仏教というものに関して真摯にその本質を追求しようという姿勢があるかな
いかということについては、信用がないのです。
それもあって、あなたの質問には回答する気がなくなったのです。

しかし、まあ、気まぐれということでしょうね、訊いてみたくなりました。

天台という人間の仏教解釈に関する膨大な理論体系をご存じなのか?
ご存じならば、どう評価されているのか?
また、法華経をどのくらいご存じなのか?

教えていただけないものでしょうか?ダメですか?


それから、今回の質問の「ゴータマが生は苦だと言ったのは」という部分ですが、どの
経典に説かれているのですか?


追伸

「中身が勝負」なのはどんな分野でも、誰でもそうであって、あなただけではないです、よ。

もひとつ、例の創価学会に対する質問の回答についてはご納得できていないようですから、
それならば私が出来る限りお答えいたしましょう。

また、あなたへのブロックは一旦解除しましたので、どうぞおいで下さい。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 仏教の世界は、様々な経典があり、広いです。
☆ その前提の上で この質問です。


★ あなた・・・は、ご自分の「悟り」を正当化する理論を作り、その
枠内に仏教を押し込めて否定しようとしている
☆ そのご批判も 大歓迎です。

問題は 結論だけをかかげて 批判をおこないましたという場合です。
その意味は お分かりでしょう。

わたしが 自分の《さとり》説を示しその中にブディズム全体を:
★ 押し込めて否定しようとしている。
☆ という最終の判断について それをどのように考えてみちびいたの
か? その推論を明らかにして 異なるものであっても互いにその知見
を深めて行くのが この質疑応答の場です。




★ あなたにとって都合のいい仏教に関する説は即取り入れて、都合の
悪い部分はなんだかんだと否定をする。
☆ 賛成・反対は おのおのの見解にもとづき 自由です。

肯定・否定に当たっては きちんと理由を述べています。その用いた推
論をめぐって 相い対立する立ち場どうしであっても さらにより良い
哲学の思考をすすめて行こうというのが 誰しも願うところです。


焦点をしぼって問うていますから その焦点から外れることなく 議論
をすすめてください。


★ つまり、仏教というものに関して真摯にその本質を追求しようとい
う姿勢があるかないかということについては、信用がないのです。
☆ わたしは いくつかの主題を取り上げ 具体的な論点をめぐって批
判をおこない 結論として ゴータマ・ブッダは阿呆であると言ってい
ます。

この全否定の立ち場が気にくわないというだけのことです。大人げない。




★ 天台という人間の仏教解釈に関する膨大な理論体系をご存じなのか?
☆ いまのこの主題と論点に どうかかわるのか? そこが問題です。

それとも 天台や法華経についての知識の多寡を競い合おうという趣旨
なのですか?


★ 今回の質問・・・〔は〕 どの経典に説かれているのですか?
☆ 生老病死の四苦および八苦あるいは 四諦が苦とその滅を基軸とし
ている等々のことです。

★ 「中身が勝負」なのは・・・あなただけではないです、よ。
☆ 実行して欲しいです。

お礼日時:2017/10/12 09:10

大パリニッバーナ経など、あなたが引用をし根拠とする経典は、大抵私の記憶では


法華経以前の南伝仏教の経典(どなたかの解説書)であると思います。

天台の「五時」によれば法華経が最高の教えと言う解釈になり、以前の教えは「方便」
になります。

もちろん天台の解釈が絶対とは言いませんが、ご存じのとおり仏教哲学の世界では厳た
る存在であります。

ここで訊きたいのは、あなたは天台の教えをご存知ですか?ご存じならばどのように評
価しておられますか?

仏教を論ずるならば法華経を繙かねばならないはずですが、あなたは法華経をご存じな
んですか?
知らないで「中身が空っぽ」と連呼することはどう考えてもおかしいですよ、ね。


ちょっと調べてみましたが、確かに創価学会の「南無妙法蓮華経」について質問を立て
ていますね。
あの方は回答しているではないですか?

つまり、私が回答をしていないことを責めているんですね?
私が回答をしなかった理由は簡単です。
一年数か月前の私は超初心者で回答できる知識がなかったということです。

今なら少しはお相手できるかも知れません。(うんざりするまでは 笑)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ここで訊きたいのは、あなたは天台の教えをご存知ですか? ご存じ
ならばどのように評価しておられますか?
☆ ゴータマ・ブッダまたはそのオシヘについてどう思うか? というよ
うな主題ならば 何とか自分の考えを述べることも出来ましょうが その
ひとまとまりの中で どの宗派についてはどうか? という問いにかんし
ては 具体的な思想を挙げて問い求めるのでなければ 話は始まらないと
考えています。

言いかえると 中身で勝負です。

★ 天台の教え
☆ というように取り上げるときには ゴータマ・ブッダが 批判の対象
となる場合であっても 前提となっています。

★ 仏教を論ずるならば法華経を繙かねばならないはずですが、あなたは
法華経をご存じなんですか?
☆ これは 或る程度具体的な論点を持つ主題ですが なおまだ広いです
ね。

ひとつこちらからの注意点を述べるなら 法華経の思想は何か? を考え
るときに ブディズムの前提は早く言うなら 取り払って欲しい。哲学一
般の立ち場から 議論をすすめて欲しい。



あるいは 逆に:
★ 知らないで「中身が空っぽ」と連呼することはどう考えてもおかしい
ですよ、ね。
☆ というとき これは ここでは主題をきちんと絞っています。《さと
り》とは何か? であり その中で《苦》の問題 これの扱い方がおかし
いのではないか? といったかたちを採っています。

だから その論点について 中身がないといった判断は成り立つはずです。
それに対しては その同じ論点・同じ主題で――宗派や学説の派に関係な
く―― 自己の見解を述べるべきです。

この方式が 哲学〔カテ〕として 建設的な問い求めになると思っていま
す。



★ 創価学会の「南無妙法蓮華経」について〔の〕質問。・・・あの方は
回答しているではないですか?
☆ その今は 解明する能力がないという回答です。

★ つまり、私が回答をしていないことを責めているんですね?
☆ 過去にさかのぼって 未回答ではないかとやじる趣味はありません。


★ 今なら少しはお相手できるかも知れません。(うんざりするまでは 笑)
☆ ですから 主題をさだめて互いの見解を提出するといったかたちがよ
いと考えます。いまは この質問です。

お礼日時:2017/10/11 23:46

まだ書ける時間があったので、少し。



では、先ず私の経歴の概略を述べましょうか。
幼い頃、私はイエスと神を信仰していて、毎晩お祈りをしてから眠りについていました。キリスト教会が家の近くにあり、時々そこの礼拝などに参加していました。小学高学年になる頃、私は神やイエスから自立せねばと言う思いから、祈る内容やその願いも変わって行き、段々と祈り自体が内面化され、遂には祈らなくなりました。
仏教に興味を持ち始めたのは中学頃からです。経典の句を抜粋した簡単な詩集などを読んだり、日本の僧の言葉などが書いたものを読んでいました。高校になった頃には、新訳聖書を読んだり、プラトンの書いたソクラテスに惹かれたりしていました。そして、仏教にも相変わらず触れていました。
そして19歳の秋頃、私は忽然と大悟しました。のちに分かったことですが、それは禅僧などが求めるそれでした。しかしこれは継続するものではなく、本当の解脱ではありませんでした。
25歳の頃、私は一人の生き身の仏(如来)と思しき人を見つけました。彼の言葉を聞いて、私は本物だと思いました。以後、彼の言葉を聞くに従い自分が覚っていないことを確かに知り、覚りの境地を求めつつ、完全に疑義が消え去ることもなく、今に至っておるのです。

ではまず、アナンダがお釈迦さんに入滅しないでくれるよう頼まなかったことを叱られた事について気になっていると言う事で、私の思うところを述べようと思います。
取り敢えず、その文章をあげて下さい。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。わたしのほうが 休憩の時間をたっぷり
いただいたようです。



★ アナンダがお釈迦さんに入滅しないでくれるよう頼まなかったことを
叱られた事
☆ これは №16お礼欄に引用したところで足りると思います。

すなわち アーナンダは ゴータマに対して長寿を懇請しなかったことは
《おまえの過失であり罪である》とゴータマから言われた。そのあと ア
ーナンダは ただちに長寿を懇請しています。

ところが ゴータマからは:
▲ いまはお止めなさい。修行完成者には懇請してはいけない。いまは修
行完成者に懇請すべき時ではない。
☆ と答え返されています。

そうしてこのような押し問答が何度にもわたって繰り返されつつ そのお
しまいのところでは 《これは お前の罪である。お前の過失である》と
同じ指摘がそのつど 告げられています。





ご経歴については 議論としては端折ります。いまは次のくだりについて 
お尋ねするのみです。
★ 25歳の頃、私は一人の生き身の仏(如来)と思しき人を見つけました。
彼の言葉を聞いて、私は本物だと思いました。
☆ その内容を 哲学の命題や理論として表現しうるところを みなさん
に披露してもらいたいと思います。

問い求めが すすみます。

お礼日時:2017/10/11 20:27

覚りの中身を見てもいない、聞いてもいない、知ってもいないのに、空っぽだと断言する事については未だ腑に落ちませんが、あなたのさとり観(これは暫定的であり則ち正しいとは言えないが、ご自分の経験から知っている事として述べたと言う事にとどめ置いたもの)を更に聞き、また私の体験した事や、聞き知った覚りの境地について尋ねられたなら、それに応えたい。

答えられるものは答え、分からない事については分からないと言いましょう。

ここのところ詰めて返事をしていましたが、少し返事の間隔が延びます。ご容赦下さい。
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この回答へのお礼

では Take your time. とお返ししましょう。



★ 私の体験した事や、聞き知った覚りの境地について尋ねられ
たなら、それに応えたい。
☆ を要請いたします。



なお 《ブッダがアーナンダを責めた》事例についてどう捉える
か――分かり切ったことですが―― 明示的に確認してすすむの
が ふつうのやり取りであるかと思います。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/10/11 15:57

お礼ありがとうございます。


あなたは今、自分の考えるさとりについて明言しました。
あなたはさとりとは何かを明言したと言う事は、さとりについて知っていると言う事を宣言したに他ならない。
もう一度問いますが、あなたは覚ったのですか?あなたがひらがなでさとりと言い、覚りと区別しているのはなぜでしょう?
さとりと、覚りは違うのですか?あなたの言において、これら二つは同じと受け止めて良いのでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

もし世の中に《目覚めた者》と呼ばれるさとりの状態があるとしたら
わたしの経験して知っていることは――いまのところ――これこれで
あるというのを 求めに応じて しるしました。

それだけのことです。

ほかの人のことについては ざんねんながら そういった話を交わし
たことがないので 分からない。

そして これから わたしの中のこととしても どう成るか。これも
分からない。

細かいこと・そして具体的なことがらについては いまの段階でも
さらに述べて 分かち合いたいことはあります。

いづれにせよ 求めに応じて 取りあえずのひとまとまりとしてこ
れでよいと思われるところを 明らかにした。

宣言したとか 悟りや覚りとどう違うかとか。そういう問題が どう
つながっているかは もっとそちらの情報を得ないことには 言いが
たい。このことは 分かってもらえるはずです。




いづれにせよ 心のやわらぎとやすらぎを得ている状態にあるなら
死期を前にして 次のようなことは言わない。:

▼ (ゴータマ アーナンダを責める) ~~~~~
アーナンダよ。いかなる人であろうとも 四つの不思議な霊力を修し
・・・た人は もしも望むならば 寿命のある限りこの世に留まるで
あろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるで
あろう。
 
アーナンダよ。修行完成者がこのようにあらわにほのめかされ あら
わに明示されたけれども お前は洞察することができなくて 
  
 『尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください。幸いな
  方は寿命のある限りこの世に留まってください。
  多くの人々の利益のために 多くの人々の幸福のために ・・・』

といって修行完成者(=ブッダ)に懇請しなかった。

アーナンダよ。もしもお前が修行完成者に懇請したならば 修行完成
者はお前の二度にわたる(懇請の)ことばを退けたかもしれないが 
しかし三度まで言ったならばそれを承認したであろう。
 
それだから アーナンダよ これはお前の罪である。これはお前の過
失である。

(中村元訳:『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980  
pp.92-93 )
~~~~~~~~

ゴータマ・マジックにイカレるのはおしまいとしましょう。全世界が
めざめるときです。

お礼日時:2017/10/11 15:31

あなたが経典を読んで、それには中身が無いと判じ、釈迦はペテンであると疑い、断定し、それを吹聴することとは別に、事実は存在する。


あなたが釈迦がペテンであることを論証出来ず、にも関わらずペテンであると断定し、吹聴することとは別に、覚った人々は理法を説く。
覚りについて知らないと公言する者が、覚りなど無いとか、中身が無いとか言うこととは関わりなく、覚りの事実は存在するだろう。
本当のことを知りたいと思い、人はそれぞれのやり方で真に迫ろうとする。ある人は人伝に聞いた話をもとに考究し、ある人は自らの観察によって調べようとし、ある人は経典にあたり、ある人は偽経にあたり、ある人は感性を頼りに、ある人は師を頼りに、或いはまた自分を頼りに、他の様々な道で真に迫ろうとするが、それとはまた別に、真実は存在するだろう。

真実を知った者が誰か居たとしても、居ないとしても、それは存在するだろう。
真実を知った者が、真実を真実のままに説き、また、たとえ話や方便を用いて説き、それを理解する者が居ようが居まいが、また彼がある者にペテンだと蔑まれようがしまいが、真実は真実のままに存在するだろう。
全ては自らが真実を覚知してから分かる事である。
自らが真実を覚知して居ないのに、どうして誰かが真実を語っているか居ないが断定的にわかるだろう。
自らが真実を覚知していて、お釈迦さんは間違っている、彼の教えは虚妄であり嘘であると言うならそれは分かる。どちらが真実を語っているか、どちらかを信じるか、何方も信じないかは聞く人に委ねられている。
また、自らが真実を覚知していて、お釈迦さんの言う事は正しいと言うのも分かる。

自らが真実を覚知していないが、ブッダの言う事を信じて見ようとか、それが気になるとか、理解したいとか言うのも分かる。
自らが真実を覚知して居なかったが、ブッダの言葉を聞いてそれはその通りなのであると理解を得た、と言うのも分かる。自らが真実を覚知して居ないのに、ブッダの言葉を聞いて真実が分かった気になったと言うのも分かる。彼が分かった気になった事が、実は真の理解では無かったとしても、そう言う事があり得るのは分かる。

自らが真実を覚知していないが、ブッダの言う事を信じないとか、気にもならないとか、理解しようとも思わないと言うのも分かる。
しかし、自らが真実を覚知して居ないのに、ブッダ(覚者)は真実を語って居ない、ペテンであるとか言う者は、実は自分は真実を知っている気になっているのである。自分の信じた、或いは知っている気になっている真実とブッダの言が異なる故に、ペテンであると公言すると言う事態が生じえる。


あなたは真実を覚知していますか?
答えがイエスなら私は何も言わない。もしそうなら、逆にあなたに質問したいくらいだ。
答えがNOであるなら、あなたは自分の知らない事についてその真偽を語るという矛盾の中にある事になる。

あなたは他の質問で、私達一人一人がブッダであるとなぜ言わない、と語っている。と言う事は、自分もブッダであると言う事である。もしあなたがブッダを自称公言するならば、他のブッダだと伝えられている方々について、ウソつき呼ばわりも出来るだろう。
しかしそうでないならば、ブッダ(ここではお釈迦さん)は嘘つきではないかと思う、くらいが言える事であり、ブッダが嘘つきだと断定する事は出来ないはずです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 覚った人々は理法を説く。
☆ 《理法》というのは おそらく取り扱い説明書のような外形的な手引き
ではないかと思います。

そうでないなら すでに《さとり》そのものを言うのでしょう。――という
ことは いづれにせよ さとりの中身を説明してもらえればすべては済むわ
けです。

中 身 が な い のです。

★ 覚りの事実は存在するだろう。 / 真実は存在するだろう / 真実は真実の
ままに存在するだろう。
☆ 中 身 が 空 っ ぽ です。



★ どちらが真実を語っているか、どちらかを信じるか、何方も信じないか
は聞く人に委ねられている。
☆ それは 哲学の姿勢ではありません。経験合理性にもとづき 妥当であ
るかどうかを判定するだけのことです。

信じる・信じないは 非経験の場つまり神についての問題です。

★ ブッダの言う事を信じて見ようとか
☆ それは 信用する・信頼するの問題です。理論や思想をめぐる相対的な
妥当性についての問題です。それは 信じるものではなく 《考える》こと
です。

▲ (補足欄) 異論が起こったときには 道理によってそれをよく説き伏
せて 教えを反駁し得ないものとして説くように



★ あなたは真実を覚知していますか?
☆ さとりというのは 黙って座ればぴたりと当たるではありませんが 互
いに向き合えば その相手の人は もし解きたい悩み苦しみがあるとしたな
ら やがて自分から そのことを話すようになる。というように相手と向き
合える心の姿を言います。

そのときには おそらくおのれの心の奥なる固有の時間において わたしが
わたしであるという《ひとり満ち足りているわたし》に成り得て そこにお
いて 或るきよらかなおそれをおぼえている。

つまり さとりを得た人の心が そうであり 向き合ったその相手も すな
おに そのきよらかなおそれなるイメージのような感覚を共有したというま
ぼろしを見たということなのでしょう。

だから 心がひらいたのでしょう。これが さとりです。

おそらく 誰にもそなわるブッダター(あるいは アートマン)が そこで
はたらいたのでしょう。(これは 実証はかないません)。

お礼日時:2017/10/11 13:16

回答のご返事を頂き 良くわかりました



批判のための 批判をたのしんでいる だけのお方だと
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

わたしは いつももらった回答には good をつけているのですが

この№14の good は いくらクリックしても つきません。

どうなっているのか?



わたしの批判を受けて さらにご回答を よろしかったら どうぞ。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/10/11 10:31

私は、理法には智慧が見られるとは言いましたが、私が理法を理解しているとは言っておりません。

故に、そちらから見ても、それが理解出来なくも無いと見るのは誤りです。

覚りの中身を知らない事と、覚りの中身が空っぽであると知っていることは別です。あなたは覚りの中身を知りません。なのに空っぽで中身が無いと言っている(知っている)のは論理に矛盾があります。覚りについて聞いていないというのは、その主張を擁護する理由にはなり得ません。
覚りについて明らかな事を聞く機縁が無かったのかも知れませんが、そもそも覚りとか、解脱とか言う言葉自体に意味があるのに、それに中身が無いと言う事自体がよく分かりません。お釈迦さんとは関係のない話でさえあります。覚りとか解脱と言うものはお釈迦さんが成道する以前からあったであろうからです。

たった一つでいい、どんなに小さくてもいい、真実の苦、根本苦?を見出したならば、全ての苦の滅を見ると言われます。苦集滅道の意味はこう言うことだと思います。つまり人々は目に見えやすい苦、表面に現れた苦を見、それに苦しむが、根本の苦を見る事が出来ていないと言う事なのだと思います。根本の苦とは何か、これは結構具体的なものだと思いますが、私もまだ見切っていないのでこれ以上はなかなか言えません。煩悩苦のことかも知れませんが、煩悩苦とは何か詳しく説明出来るだけの識見がまだありません。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 理法には智慧が見られるとは言いました
☆ そこから 《中身が明らかにされていなくとも 理解が得られる》
という命題をみちびくのは 論理の問題です。

誰が理解するかにかかわりなく 誰かによる理解の可能性があるという
意味です。したがって もしそうなら 人びとに説くことも可能性が出
て来て 商売に成り得ます。

無償の講演だとしても 賽銭が得られ得ますから 生業の可能性がある。

★ 覚りの中身
☆ ほかの方の質問ですが:
【Q:釈迦の 悟り について】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9169568.html
その回答№43でわたしは 《宮元啓一:ゴータマのさとり》を掲げて
います。
▲ (宮元) 根本的な生存欲は それをしっかりと知りそれと正面か
ら向き合うことによって滅びると考えた
☆ 具体的な説明ですが 推測であり仮想であることをまぬかれません。

そして もう一つの批判点は 苦は 楽(または自然普通)という図の上
に現われる絵であるに過ぎないはずだという命題です。そうでなければ
苦なる無明が 逆転して 明知に変わるという〔縁起の逆観を説く〕気
遣いは無いはずだからです。


★ そもそも覚りとか、解脱とか言う言葉自体に意味があるのに
☆ いつも・どこまでも 推定です。おまけに 推測だけで断定してい
ます。(ブッダ擁護論は それが一般です)。


★ 覚りとか解脱と言うものはお釈迦さんが成道する以前からあったで
あろう
☆ 過去七仏の話は フィクションですから ゴータマが実質上の最初
でしょう。

次のご見解は 先ほどの宮元説に当てはまると思います。それに対する
批判も ご自身によるものがあります。:
★ たった一つでいい、どんなに小さくてもいい、真実の苦、根本苦?
を見出したならば、全ての苦の滅を見ると言われます。苦集滅道の意味
はこう言うことだと思います。つまり人々は目に見えやすい苦、表面に
現れた苦を見、それに苦しむが、根本の苦を見る事が出来ていないと言
う事なのだと思います。根本の苦とは何か、これは結構具体的なものだ
と思いますが、私もまだ見切っていないのでこれ以上はなかなか言えま
せん。煩悩苦のことかも知れませんが、煩悩苦とは何か詳しく説明出来
るだけの識見がまだありません。

お礼日時:2017/10/11 06:14

お母さんは、スプーンに食べ物を乗せて赤ちゃんの口元に近づける。



赤ちゃんはそれに口を近づけて口を開ける。

お母さんはそれを口の中に入れてやる。


あるときお母さんは小指の先ほどの梅干しを赤ちゃんにやった。

赤ちゃんはいつものように口に入れ、食べる。

しばらくすると、赤ちゃんは体をフルフルと震わせ、目をパチクリパチクリさせる。

お母さんは静かな優しい声で「すっぱいねぇ」と言う。

しばらくして赤ちゃんは「すっぱい」と言う。


すっぱいものをすっぱく感じ、すっぱいと表現できるのは無上の知恵にも思えます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ すっぱいものをすっぱく感じ、すっぱいと表現できるのは無上の
知恵にも思えます。
☆ それは 世界の――概念≒言葉による――認識という問題ですよ
ね。

その前の段階では 感性による知覚があります。

赤ちゃんは 言葉をすでにここで言い出していますが まだなお意味
を理解していない状態でしょう。

つまり 感覚をつうじて 世界に接してそれなりに受け留めた。悟性
をつうじて この感覚を 言葉≒概念にして理解する段階へとすすむ
はずです。


――といったこととして理解しましたが それ以上のことは よくは
分かりません。

お礼日時:2017/10/11 00:06

>前身の質問でのやり取りで 取りあえずにでも ことは足りている。


――というご見解だと受け取りました。

相変わらず、人のいうことは無視をして、勝手な解釈をいけしゃあしゃあと仰いますね。
そういうことをされると、人はイライラする…

そんなことはご存じないわけは…ないですよね。
つまり、わざとやっていると…いうこと…ですね?

宗教の悪口ばかり言っているあなたは、創価学会の悪口なんか特に言いたいのでしょうが、
公開質問状ですか?
そう言って言えなくもないと思いますが、世間一般では公開質問状と言えば、一定の形式を
整えて、責任ある人間に突きつけるものではないでしょうか?

ここはQ&Aサイトです。創価学会員ということを公開している方は一人いらっしゃったのは
覚えていますが、彼がもうあなたとは話したくないと思っているかもしれませんし、また答
える「義務」はないですよね?

ですから、「回答がないのは答えられないのだ!」とあなたは喧伝したいでしょうが、それは
そうとは限らないわけですよね。

以前あなたとやり取りしたときに、私はあなたが仏教のことをよく知らないのではないかと感
じました。
それから、随分前にあなたは仏教は難しくて勉強を途中でやめたと言いました。よく覚えてい
ます。

ということは、無認識の評価をしているということになります。

つまり、あなたは少なくとも仏教に関しては悪口を宣伝するために質問をしている、こう結論
しております。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ >前身の質問でのやり取りで 取りあえずにでも ことは足りている。
――というご見解だと受け取りました。
★ 相変わらず、人のいうことは無視をして、・・・
☆ わたしの受け取り・解釈について どこが違うかを言えば済むことです。



★ 宗教の悪口ばかり言っている
☆ 理論によってその欠陥を明らかにしています。

★ あなたは、創価学会の悪口なんか特に言いたいのでしょうが、公開質問
状ですか? ・・・
☆ 哲学カテでの質問です。答える意志と能力が――お仲間とともに――あ
るのならば 回答していたはずです。それだけのことです。


★ つまり、あなたは少なくとも仏教に関しては悪口を宣伝するために質問
をしている、こう結論しております。
☆ ゴータマに中身がないのと すんぶん違わず お・ん・な・じです。

お礼日時:2017/10/10 23:57

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