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すでに問うた質問です。
【Q:ゴータマが生は苦だと言ったのは どういう意味ですか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9176218.html

われながら そこでのやり取りをほこらしいと思うと共に もしさらに問い求めがあるとい
う向きには それを展開してください。という趣旨です。

   *

生が苦だ・思うようにならない。とは どういうことか?

たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となっ
て どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そ
ういう意味なのだと。

ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっき
ょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを言っており そのことをわ
れわれが認めたことにほかならない。のではないか。どういうことか?


つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに苦という病いが俟っている。それを治す
薬は わたしが処方する目覚めの方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。

つまり ふだん生が苦だと思わない人が 何かのきっかけで生は苦だと思ったとき ゴータ
マなる医師のもとに行ったら そのとおりだ 生は苦だ それを治すには そもそも全体と
して根本的に生という苦をみとめることから始めるのだ。と言われた。

これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下
唯我独尊なる論理のグローバリズムである。

どういうことか?


ゴータマ病院に入ったら ゴータマ医師の診断が絶対であり その処方箋のみが有効だと言
われ それに従うよりほかに道はないということになっている。からである。そこを出るか 
それとも 患者になり実際には患者・兼・弟子と呼ばれる医師見習いになって一生を過ごす
かである。

けれども その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。

足場だけを組んで 家本体は築けなかった。幻想は 人びとのあたまの中に築けているかも
知れない。


《生は苦だ》は その苦からの解脱についてゴータマの示す中身の無いさとりをただ一つの
道とするほかに処方箋はない。――と読み取るしかないと考えますが ほかに解釈はありま
すか?

それとも 生が苦であるなどという命題は 捨てればいいのさとなりましょうか?

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    ゴータマくんは いいことを言ってるんですよ。:

    ▼ (ゴ―タマと悪魔との対話) ~~~~~
    〔* ゴータマのかつて語ったことを悪魔がそのまま引用するかたちで〕

     ――悪しき者(=悪魔)よ。わが修行僧である我が弟子どもが 賢明にして
     よく身をととのえ ことがらを確かに知っていて 学識があり 法をたもち
     法に従って行ない 正しい実践をなし 適切な行ないをなし みづから知っ
     たことおよび師から教えられたことをたもって 解脱し 説明し 知らしめ 
     確立し 開明し 分析し 闡明し 
    〔* 次が 大事です〕
     異論が起こったときには 道理によってそれをよく説き伏せて 教えを反駁
     し得ないものとして説くようにならないならば 
     その間は わたしはニルワーナに入りはしないであろう。

    (中村元訳『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980 p.69 )
    ~~~~~~~~~~~~~

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/10/11 06:20
  • good が つきました。

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/10/11 10:31
  • 《本覚思想》のことを忘れていましたね。

    《〈われはすでにブッダなり〉と言う》につなげたい。

    わたしはいま質問枠いっぱいなので だれか質問に取り上げてくれませんかね。

      補足日時:2017/10/21 06:05
  • ◆ 質問に回答がついてから三日たちました。
    ☆ の知らせが現われました。このあと 一方的に閉められる
    ことになります。

    という情況であることを確認します。

      補足日時:2017/10/29 19:08
  • ゴータマくんは いいことを言ってるんですよ。:

    ▼ (ゴ―タマと悪魔との対話) ~~~~~
    〔* ゴータマのかつて語ったことを悪魔がそのまま引用するかたちで〕

     ――悪しき者(=悪魔)よ。わが修行僧である我が弟子どもが 賢明にして
     よく身をととのえ ことがらを確かに知っていて 学識があり 法をたもち
     法に従って行ない 正しい実践をなし 適切な行ないをなし みづから知っ
     たことおよび師から教えられたことをたもって 解脱し 説明し 知らしめ 
     確立し 開明し 分析し 闡明し 
    〔* 次が 大事です〕
     異論が起こったときには 道理によってそれをよく説き伏せて 教えを反駁
     し得ないものとして説くようにならないならば 
     その間は わたしはニルワーナに入りはしないであろう。

    (中村元訳『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980 p.69 )
    ~~~~~~~~~~~~~

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/05 19:10

A 回答 (40件中31~40件)

申し訳ないが、商売と言う語が出てくるくだりの説明が理解出来ませんでした。

中身がなくても理解出来なくは無い、と言う意味が分かりません。

説かれた理法に智慧を見るか見ないかで分かれている様であるが、あなたはそんなものは無い、中身はすっからかんだの一点張りで、中身が無いことの証明をしていない。そこら辺が私には腑に落ちない。
理法はそのままで意味も意義もあると私は見るのだが。つまり中身があるか無いかなど論じるまでも無いことと思うのだが。
何故覚りに中身が無いとあなたは言うのですか?(もしや自分が意味や意義を感じないから、と言うのではあるまい)
覚りもまた空寂であるからとか、そう言うことでしょうか。

人生が苦を基軸としていると、仏が言っているのでしょうか。何かここに違和感を覚えます。何故なら、賢者は楽しみとともに世間を渡ると言われるからです。
一切は苦しみであるけれど、欲望に執着しない人は苦しまない、と言う事では。苦は確かに仏教の扱う主題の一つですので、これは大事に議論するのが良いと思いました。表面的には楽しんでいる様に見える人も、実は皆苦しんでいる、と言うのは仏の見方だと思われます。何故仏はその様な見方をするのかと言うと、仏とはやさしさの究極の相を現しているから、と言うことかと思います。つまり、衆生には要らぬおせっかいと見える様な事であっても、仏にとってはそれは大事に見えると言うことなのでは無いでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 商売と言う語が出てくるくだりの説明が理解出来ませんでした。
中身がなくても理解出来なくは無い、と言う意味が分かりません。
★★ (回答№6) 自分が理解できないからと言って、その教えに
中身が無いと言うのはちょっと理解できません。
☆ ゆえに こちらから見るなら 《中身がなくても 理解できなく
はない》ということになります。

《中身》は まだ明らかにされていないのですから。

ならば その《理解できたこと》を商売のタネにすることができるの
では?


★ 中身が無いことの証明をしていない。
☆ さとりの中身は 何ですか?

★ 何故覚りに中身が無いとあなたは言うのですか?
☆ さとりとは 苦から解脱した状態だ。苦とは さとりを得ていな
い状態である。――という説明しか聞いていないゆえ。

★ 人生が苦を基軸としていると、仏が言っているのでしょうか。
☆ 四諦が 苦とその滅の問題である。苦とは四苦八苦のことで ほ
とんど人生の基本的なことすべてに当てはまる。

無明・煩悩・渇愛などは 苦のことである。

★ 一切は苦しみであるけれど、欲望に執着しない人は苦しまない、
☆ ならば ゴータマは そのように説明していてよかった。シャー
リプトラに。

★ 表面的には楽しんでいる様に見える人も、実は皆苦しんでいる、
と言うのは仏の見方だと思われます。何故仏はその様な見方をするの
かと言うと、仏とはやさしさの究極の相を現しているから、と言うこ
とかと思います。つまり、衆生には要らぬおせっかいと見える様な事
であっても、仏にとってはそれは大事に見えると言うことなのでは無
いでしょうか。
☆ そのようにゴータマは 説明しているべきでした。

でも 《やさしさから見れば 人びとの心はみな苦しんでいる》とい
うのは 論証がないし そんなことを言われたら 大きなお世話だと
言われるのが関の山です。


【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8314264.html
【Q:ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8333275.html

お礼日時:2017/10/10 23:50

商売の話などしていませんよ。

私の回答を聴いて、とこからそうなったのか。
理法も理法で中身がありますが、あなたは中身が無いと言う。本当に理法や経典などを読んだ事があるのだろうか、疑問です。
あるいは単に、自分は覚りを目指してないというだけで、覚りについて否定したくなる心を持っているのか。
覚りには答えが無いと、覚っていないあなたが言えるのは何故だろう。

しかし、仏教は哲学ではありませんから、哲学的に求めても答えには行き着かないことも事実としてあるでしょう。
ですから、仏教について哲学的に求めたこと自体が間違っていると言えばそうです。
スジャータがお釈迦さんに善知識を与えたという事については、あなたは信じられないのだという事で納得はできます。
哲学的と称する求め方で仏教について問い求め、答えを得られないのも納得できます。
では何故あなたは仏教に興味を示したのか、その由来は私には推測できませんが、何かを求めてのことだったのか、ただ批判の対象が欲しかったのか、何か知りたかったのか、他の何かか、その理由に応じたアプローチが必要とされるでしょう。
ただ単にお釈迦さん憎し?で批判するのは、批判の為の批判であり、それは無意味という事になるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 商売の話などしていませんよ。私の回答を聴いて、とこから
そうなったのか。
★★ (回答№6) 自分が理解できないからと言って、その教
えに中身が無いと言うのはちょっと理解できません。そこにある
のは自分が理解出来ていないと言う事実だけであるからです。
☆ 《中身がなくても 理解できなくはない》ということですか
ら その《理論》にもとづき 生業を成り立たせている――商売
が出来ている――場合があるとなります。

★ 覚りには答えが無いと、覚っていないあなたが言えるのは何
故だろう。
☆ そのときブディストの採る態度は ふたつです。

度し難い凡夫だが 答えをおしえてさしあげようとするか。
または 見捨てるか。

なぜさとりに中身がないと言うのか? という問いはあり得ませ
ん。

★ 仏教は哲学ではありませんから、
☆ 哲学カテには入ります。

★ ですから、仏教について哲学的に求めたこと自体が間違って
いると言えばそうです。
☆ いっさい説明無しのご議論です。

★ スジャータがお釈迦さんに善知識を与えたという事について
は、あなたは信じられないのだという事で納得はできます。
☆ 栄養をあたえた。

★ 哲学的と称する求め方で仏教について問い求め、答えを得ら
れないのも納得できます。
☆ そういう問題ではないです。

さとりの中身を説明するか。

なぜ人生が苦を基軸としていると見るのか? を説明するか。


★ では何故あなたは仏教に興味を示したのか、・・・
☆ 話題のズラシ戦術です。

それが 分かったら 答えを明らかにしますと言ったことになる
んですよ? ペテン師でないのならば。

★ ただ単にお釈迦さん憎し?で批判するのは、批判の為の批判
であり、それは無意味という事になるでしょう。
☆ ペテン師を憎まないほうが おかしい。

お礼日時:2017/10/10 21:37

>ただし わたしは この種の説明では 哲学としてのさとり論にはならな


いと考えています。


難しことではありません。
ゴータマの生まれ育った場所は現在のインドです。
インドでは現在でも大多数の庶民はカーストのもとに虐げられ苦しんでおります。
ゴータマは人生とはもともとそのよーなものだと説いたのです。
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この回答へのお礼

▲ (ヰキぺ:カースト) ~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC …
§ 4 歴史
§§ 4.2 他宗教とのかかわり
仏教

紀元前5世紀の仏教の開祖であるゴータマ・シッダッタは、
カースト制度に強く反対して一時的に勢力をもつことが出来たが、

5世紀以後に勢力を失って行ったため、
カースト制度がさらにヒンドゥー教の教義として大きな力をつけて行き、
カースト制度は社会的に強い意味を持つようになった。
~~~~~~~~~~

お礼日時:2017/10/10 20:27

>ゴータマが生は苦だと言ったのは どういう意味ですか?



「生きることは本質的に苦しみである」ってことです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ (ヰキぺ:苦) ~~~~~~~~~
§ 4 哲学的意味の苦

「仏教では、この世は『苦』であると説く」と聞くと、日本語の“苦”を
思い浮かべてしまうのが普通である。

しかし釈迦の説く「苦」は、現代語の「苦」とは別物であることに注意
が必要である。

現代語の苦は具体的には、肉体的な苦痛と精神的な苦痛とがあるが、仏
教で説く「苦」とは例えば原始仏教では「苦しい事」の他、「虚しい事」、
「不完全である事」、「無常である事」を指すとされ、それら精神的な
側面を「苦」と表現している。

したがって、覚りを得たからといって、病気や肉体的な苦痛が無くなる
訳ではない。仏典や伝承には、肉体的な苦痛に耐える釈迦が描かれてお
り、釈迦が病死したことは間違いないとされている(大乗仏教では仏の方
便として演じたものとして教えている)。
~~~~~~~~~~~~
☆ だそうですよ。

ただし わたしは この種の説明では 哲学としてのさとり論にはならな
いと考えています。

社会になにがしか貢献し 九十歳・百歳まで生きた。あぁ この上なき成
道なり・・・というさとり論になってしまう。

お礼日時:2017/10/10 19:13

煩悩(生存の本能に基づく心の動揺)が静まることを安らぎでありしあわせとするなら、しあわせとは何かを追求することは四苦八苦から脱することにつながるのでは無いかと私は思います。

つまり、しあわせとは何かを追求するというのは、これこれのものはしあわせだと思われるが、本当にそうだろうか?と再考して行くことです。

他の質問にも問われていましたが、仏教では、人々が楽と思っている事そのままが苦であると言います。世間を生きるのは、衆生にとっては楽もあり苦もありというもので、全てが苦ではありません。しかし仏から見れば全て苦であるということなのです。どうでしょう?楽しいことが一杯あると思います。友達と談論するのは楽しい、好きな人と一緒になれるのは楽しい、子供が健やかに育つのは楽しい、美味しい食べ物、暖かい家、精のある仕事、豊富な娯楽、美しい景色、深い知識、そしてその探求が許される広大な世界、世の中には楽しい事が沢山あります。しかし仏はこれらは執着するには値しないと言っているのでは無いでしょうか。

たとえ善知識と出会っても、それを聞き逃してしまうなら解脱は起きないでしょう。それ故に修行者は気をつけていよと言われます。正法の記述箇所は自分で見つけられるならそれに越したことはありませんが、本当に知りたいと思って問うならば、知っている人は答えてくれるでしょう。事実、慧能は修行者の要請に応えて法華経の正法の箇所をズバリ指摘しています。歴史上、覚った人は少ないですが、人は覚れないと言うわけではない。覚りはあるのでしょう。ちなみに慧能は金剛般若経によって覚ったと伝えられています。この金剛般若経にも正法が記述されている故にこれは経典たり得るのですが、その正法は、

まさに住するところなくして、しかも其の心を生ずべし

だと伝えられています。この意味を真に理解できている人は仏だと言うことになるでしょう。自分が理解できないからと言って、その教えに中身が無いと言うのはちょっと理解できません。そこにあるのは自分が理解出来ていないと言う事実だけであるからです。

ところで、お釈迦さんを崇拝する宗教は沢山ありますが、宗教に興味のない修行者がいてもむしろ不思議はありません。仏は理法を説くだけで宗教を設立する事はしないからです。

無上の覚りを得たとお釈迦さんが言った。それに相応しい理法を説いた。その理法を判別出来ないのはお釈迦さんに過誤があるわけでは無いでしょう。ある人々は理法を聞いてそれが理法だと判じるからです。

苦も空である、それはそうだと私も思うのですが、苦を正面に持って来たのはお釈迦さんではなく、人間の持つ根本的悩みによるものだと思います。誰しも苦しみからは逃れたいですよね?もともと人生の正面には苦が鎮座してあって、人々はそれから目を逸らしたり誤魔化したり目を瞑ったりして、享楽の人生を楽しみたい。思慮ある人々だけが、人生の苦しみの真実と真相を知ろうとして教えを求めたのだと思います。お釈迦さんも覚る前は、その様な人だったのでは無いでしょうか。何年も自分でやってみて、苦行(当時はメジャーだった)はダメだと自分で悟り、スジャータ(善友=善知識)の言葉を聴いて覚り、しかも後に理法を説いた彼が人々の尊敬を集めるのは無理がないと私は思います。

現地にはスジャータの墓とされるどデカイ遺構もあるそうで、その大きな大きな功徳を当時の人々が大事に思っていた痕跡もあると言う事でしょう。

おそらく、そのスジャータの言葉とは何か?と言うことを知りたいのだろうと思います。しかしこれはお釈迦さんに縁のあった善知識であり、当時の彼以外が耳にしてもおそらく解脱を生じないと思います。
病気によって使われる薬も違う様なものだと思います。

また、これは知恵の輪の答えを教える様なものかも知れません。知恵の輪の答えを教えてもらっては、解いた時の感動を味わうことは出来ません。それでは知恵の輪の意味がありません。
解脱も同じ様に、静かなる大歓喜を生じて初めて解脱するのであり、他人の善知識では大歓喜を生じる事はないのでしょう。

だからペテンなのだとおそらく言いたいと思いますが、ここまで説明して、これをペテンだとするか、そう言うものだとするか、それは人によりけりでしょう。
答えを教えてもらえないのなら、そんなものは無いんだろう、と思う人が、何故そう思うのか私にはわかりません。一方、自分で答えを見出して欲しいので答えは言わないと言うのは、理解できます。
また、いや、そんな知恵の輪には別に興味が無いと言う人がいても、不思議はないのかも知れません。この世には楽しい事が沢山あり、敢えて解脱を目指そうなどと考える人はむしろ少ないのかも知れません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 煩悩・・・が静まることを安らぎであり しあわせとするなら、し
あわせとは何かを追求することは四苦八苦から脱することにつながる
☆ 反論ではありませんが:
▲ (ヰキぺ:苦)滅諦: 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、
執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地である
☆ とすれば 《苦》があくまで基軸を成しているようなのです。

つまり 次の見方については やはり苦とその滅という基軸に戻すこと
が 必要になるかも分かりません。
★ 世間を生きるのは、衆生にとっては楽もあり苦もありというもので、
全てが苦ではありません。


★ 人は覚れないと言うわけではない。
☆ 法華経でシャーリプトラがゴータマに さとりを説明して欲しいと
懇願しても 人びとが混乱してしまうから明らかにしないと言って と
うとうしまいまで解き明かしませんでした。

推測は この場合成り立たない。ですよね?


★ まさに住するところなくして、しかも其の心を生ずべし
☆ を参考に示す人・キサラギさんご本人が 説き明かさねば話は始ま
りません。


★ ところで、お釈迦さんを崇拝する宗教は沢山ありますが、・・・
☆ わたしたちは 宗教社会学ではなく ましてや ルポルタージュを
おこなうのではありません。哲学として 理論には成っていないという
問題です。



★ 無上の覚りを得たとお釈迦さんが言った。それに相応しい理法を説
いた。・・・
☆ 中身がない。取り扱い説明書のようなものはあるんですけれど 中
身は空っぽです。

★ もともと人生の正面には苦が鎮座してあって・・・
☆ 苦⇒その滅。
☆☆ これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売り
である。


★ スジャータ
☆ は 粥か牛乳か何かをあたえただけですよ。


★ 知恵の輪
☆ は 答えがあるのです。さとりは 答えがない。看板だけを掲げて
いるという批判です。狗肉すらも何も出て来ません。

二千年の空洞。(親鸞のみ 例外でしょう)。

★ だからペテンなのだとおそらく言いたいと思いますが、・・・
☆ それ以外の結論は 逆さにしても出て来ません。

ここは 哲学として問い求める場です。商売は商売でやっていけばよい
ではないかという向きは お呼びではないのです。

お礼日時:2017/10/10 18:58

全ては思い通りにならない、と言う事だそうですが、全ては思い通りにならない事が、なぜ苦になるのかと言う事を少し考えたいと思いました。

全てが思い通りになればそれはしあわせなのか?と言う疑問もあります。思いは、これを志向とすると、仰るように生存の欲求は大きな部分を占めると思います。年を取りたくないとか、病気になりたくないとか、事故に遭いたくないとか、良いもの食べたいとか、良いところに住みたいとか、チヤホヤされたいとか、素敵な異性と仲良くなりたいとか、良い仲間に巡り会いたいとか、一角の人物になりたいとか、数えればまだまだありそうですが、こう言った表面的な志向が、この世では全てままならないその事を、苦と感じる人々、と言う事だと思いました。しかしこれは、しあわせとは何か?と言う事を追求する事によって、この苦は離れられるように思います。列挙したような事は、本当にしあわせと言えるかと言うと、私の場合には疑問が生じます。ではしあわせとは何かというと、うまく言葉にはできないのですが。
お釈迦さんは導師ですから、ただ自分の達した知見を湛えて居れば良いと言う訳ではなく、求める人にはそれぞれに分かりやすく説く必要性があったと思います。先ほど列挙したような事柄をしあわせだと思う人々も大勢いた筈です。彼ら人々に対して、常に適切な教えを説いた事により、様々な教えの有様が生まれる事になったのだと。一切皆苦=全ては思い通りにならないと聞けば、いやいや、一部は思い通りになるよ、なんて事も言えるのかもしれませんが、本当にそうだろうかと考えれば、一時は思い通りになるかもしれないがそれが永続する事はありませんから、それを思い通りになると言うのは憚られたりもします。
自ら生じた思いに振り回されていると言うのが多くの人々の実態で、堅実に、地に足ついて生きている人は少ないのでは無いか。だから、お釈迦さんの説く事も、全ての人々を益するようにと考えたならば、そうやって苦しんでいる人々に向かって説かれたものとなっているのかなと思います。

目覚めの方法は、様々な経典の中に正法として、十数文字から数十文字程度の記述として残されており、それ(法の句)を真に理解したなら解脱が起きると言われています。法の句はごく平易な言葉で人(善知識)の口から発せられるもので、滅多に世に現れる事はないそうですが、各人の人生において2、3回はありそうだと聞きましたが、私も詳しくは知りません。

ゴータマ病院が不安なら、セカンドオピニオン、サードオピニオンを受けるのも良いと思います。

仏は数少ないですがお釈迦さんだけが仏というわけではありませんし、そもそも仏教自体を訝しく思うのであれば他も当たってみたりできる事ですし。いや、そもそも俺は医者になどかからないとか、そもそも俺は病気などでは無いと言う方もおられると思います。お釈迦さんから縁遠い人も少なからずいるでしょう。仏教から縁遠い人もいるでしょう。縁をよるかどうかは私には分からない事ですが、仏教においても自灯明、法灯明と言います。自身を拠り所にし、また法を拠り所にするなら、お釈迦さんと言う具体的な仏に縁遠いとしても、問題は無いように思います。
そして、法とは何か、それを見出すのが修行のように思います。

少し初めの題から離れたところに着地してしまったでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ この世では全てままならないその事を苦と感じる・・・しかしこれは、
しあわせとは何か?と言う事を追求する事によって、この苦は離れられる
ように思います。
☆ 微妙だと思いますね。つまり 四苦八苦として 規定されているから
です。

生老病死の四苦。あるいは 八苦の中では: 
▲ (ヰキぺ) 五蘊盛苦:五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままになら
ないこと
☆ を持ち出せば たいていは 苦だということになるようです。幸福論
とは 併存してもよいかたちで 別建てであるように思われます。

あるいは 四諦も 苦集滅道ということであり 苦が基軸を成しているよ
うに見られます。



★ お釈迦さんの説く事も、全ての人々を益するようにと考えたならば、
そうやって苦しんでいる人々に向かって説かれたものとなっているのかな
と思います。
☆ わたしの考えでは 世間の生きづらさは 当たり前だということ。そ
して オシヘというのなら 善因善果(楽果)とも言うからには 苦は
空であり ただの現象に過ぎない だから 苦を人生の正面には持って来
るのではないということ。――こう言いたいです。


★ それ(法の句)を真に理解したなら解脱が起きると言われています。
☆ 二千数百年 この広告ないし予告編が言われ続いています。本編は?

次の宣伝文句も おなじだと思います。:
★ 仏教においても自灯明、法灯明と言います。自身を拠り所にし、また
法を拠り所にするなら、お釈迦さんと言う具体的な仏に縁遠いとしても、
問題は無いように思います。



★ ゴータマ病院が不安なら、セカンドオピニオン・・・を受ける
☆ もちろんそうするのですが 問題は 《この上なくとうとい知恵のさ
とり》を得たと豪語したわけですから そのわけを説明せよと言っていま
す。

ゴータマ氏が答えられないとすれば ゴータマ・ブディストは 答えなく
てはいけません。

答えられないのなら ひっそりと修行し ぶっきょうのブの字をつぶやい
ていて欲しい。

人びとは 新興宗教には きびしいようですが ゴータマ・ブディズムに
は 甘いと思いますよ。

お礼日時:2017/10/10 16:32

あなたが私へのブロックを解除し、仏教批判キャンペーン的質問を連打するときは、


これまでもそうであったように、私から投稿をさせようという意図があると推測して
います。

あなた自身の精神のバランスを取ろうとしているのか何か分かりませんが…
ま、それはいいんです。

ただ、あなたの質問には、とても恣意的なものを感じます。それが、あなたの人間的
臭みであり、あなたの質問に答える馬鹿々々しさなのです。あなたを知っている回答
者は皆同じ思いだと思いますよ。

どういうことかと少し説明させていただければ、今回の質問の題名ですね…

>ゴータマが生は苦だと言ったのは どういう意味ですか?

これは質問文としては全くなっていないと思います。

これは、「釈尊はこれこれの仏典の中でこういう言葉を遺していて、自分はこういう
風に解釈をしていますが、これについては、どのような議論があるでしょうか?」

と言う風に省略しないで質問を立てるべきだと思います。
そうでなくて、あなたの書いた質問文では、回答者があなたのねちっこさに辟易を
して途中で回答をやめた場合、あなたの言っていることが正しいという印象を読者に
与えかねない、正当な議論なしに。そう思います。

私はもちろん立派な見解など持ち合わせておりませんが、この辺りをキチンとしてい
ただき「宣伝根性」を引っ込めていただかないと回答する気になりませんよ。
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この回答へのお礼

ご投稿をありがとうございます。

前身の質問でのやり取りで 取りあえずにでも ことは足りている。
――というご見解だと受け取りました。






ブロックは たいていは 一たんおこなったあと しばらくして解除
するようにしています。

タコツボくんの場合は そう言えば 例外です。



あっ そう言えば 過去が思い出されますが 創価学会への公開質問
状なるわたしの質問に 誰か助け手を得てでも回答することが出来な
いというところから 渋滞しているという感じを持ちます。

お礼日時:2017/10/10 16:07

お分かりだとは思いますが


仏法の成立にあたって 其の出発点によこたわっている
様々な苦しみに直面する人々に どう向き合うか がテーマでした

生まれる・・・生きる事です
何があろうと、生きぬかなければならない。
あらゆる悩みを乗り越え 、あらゆる苦難を乗り越え と言う事だと

生まれる苦しみは 生を荘厳にするためにも必要と思われます
生を受け入れ 死を受け入れる と言う事では
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 仏法の成立にあたって 其の出発点によこたわっている
様々な苦しみに直面する人々に どう向き合うか がテーマでした
☆ このテーマは 《仏法》だけのものでしたか?

★ 生まれる・・・生きる事です
☆ つながっていましょうが 同じではないでしょう。

★ 何があろうと、生きぬかなければならない。
☆ 誰が そんなに必死になれと?


★ あらゆる悩みを乗り越え 、あらゆる苦難を乗り越え と言う事だと
☆ 誰か その問題をまぬかれていたとでも?

★ 生まれる苦しみは 生を荘厳にするためにも必要と思われます
☆ 生れてくる苦しみは ひとは知りません。

★ 生を受け入れ 死を受け入れる と言う事では
☆ 誰もがそうしています。

お礼日時:2017/10/10 12:41

それはともかく紀元前1000年から紀元前300年にかけて哲学、宗教、神が出てくるのは、面白いですね。

ギルガメシュ叙事詩の神と人間、ギリシャ哲学の素、インド哲学や今は名前だけのバラモン教。考えた人間の意図は時代背景は、等々
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この回答へのお礼

つづいてですね。

★ それはともかく紀元前1000年から紀元前300年にかけて哲学、宗教、
神が出てくるのは、面白いですね。
☆ そうですね。いまこの質問にかかわらせるならば ゴータマ・ブッダ
は 哲学にあたいしないのではないか? という問いかけをしています。

★ ギルガメシュ叙事詩の神と人間、ギリシャ哲学の素、インド哲学や今
は名前だけのバラモン教。考えた人間の意図は時代背景は、等々
☆ ギリシャでは 経験合理性を問い求め これをとおして世界の認識を
合理的にすすめるという歴史が始まったと思います。

ギルガメシュは 想像力のおもむくにまかせたお話でしょうね。

ブラフマニズムでは 梵我一如なる《信仰の基本形》は 神論としての哲
学にあたいすると考えます。

その多神論・汎神論は すべてブラフマン神の分身として捉えるなら 普
遍神を指し示す哲学になっていると考えます。

ヒンドゥイズム(インド教)は いまでもナラハシですね。

ゴータマ・《ブッダ》はペテン師だと論証したいと考えています。

お礼日時:2017/10/10 10:57

その問題は個人の解釈だと思いますが、紀元前約600年前後の教えなので、泣きながら生まれ、生きる事には苦痛が伴い、病死(太古のインド)に苦しみながら無情にも死んで行く。

これを私的に解釈するのですが、苦があるからこそ人生を考え充実して見れる。
もし人生に何の苦もなくば考える事を止める。人間は(考えない葦にである)
ガウダマシタルーダは苦行したが悟りをえられず。
日常生活こそ修行と思ったのではないのでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 紀元前約600年前後の教えなので、泣きながら生まれ、生きる事
には苦痛が伴い、病死(太古のインド)に苦しみながら無情にも死ん
で行く。
☆ その見方は ただの悲観主義ではないのですか? 


★ 苦があるからこそ人生を考え充実して見れる。もし人生に何の苦
もなくば考える事を止める。人間は(考えない葦にである)
☆ たとえば――次の説に賛成ではありませんが――善因善果(楽果)
と悪因悪果(苦果)という因果応報説が 示されました。

もし先ほどの悲観主義が人生を覆ってしまっていたなら こういった
楽観の指向などは 微塵も見られないということではないでしょうか?



★ ガウダマシタルーダは苦行したが悟りをえられず。日常生活こそ
修行と思ったのではないのでしょうか?
☆ 普通一般ですね その考え方は。

でも オシヘとして説いたんですよ? さとり――この上なき知恵の
さとり――だと うそぶいたんです。

そこんところを どう受け留めるか? になると思います。

お礼日時:2017/10/10 10:48
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